「極右」「極左」共に謬想




   *

 社会思想の議論に「右」だの「左」だのと云ふ冠詞を附するは如何いふ意味かと云ふに、細かく云へば極めて曖昧なものだ。只大体の傾向に就て分類するに、現状維持に執着して改善をあまり喜ばぬを「右」とし、此傾向の強い弱いに依て「極右」だの微温的の「右」だのの細別を生じ、之に反して現状破壊に急にして破壊の実際に及ぼす結果などを深く顧みぬを「左」とし、之に亦強弱の細別あることは「右」と異る所はない。
 現状に満足せず多かれ少かれ之に改善を加ふるの必要を認むるに於て、今日の人間は誰しも異論のない所であらう。此点に於て現代人は概して左的傾向に立つと謂つていゝ。併し乍ら過去の経験にも採るべさものがある、之に若干の弊害がこびり付いて居るからとて、後先の考もなく全然之を棄てる訳にも行かない。斯う考へると苟くも人として現実の生を営む以上彼は亦必ず右的傾向の一面を離るゝことが出来ぬ。「左」の一面に執着するは「右」の一面に執着すると同じく誤である。此点に於て極左的社会思想は、極右的社会思想と共に排斥せらるべき運命に在ることを免れない。
 只実際問題として現代は大に改造を要する時代だ。改造の急要に迫られて居る時代だ。それ丈改造を主張する側の議論は大に強く力説するを必要とせられ又現に幾分誇張せられても居る。而して之と同じ必要はまた右的議論の横行に対して警戒すべきを我々に教へる。そは理に於て正しい右的議論でも、実際に於ては左的議論の鋒先を不当に鈍らす目的に利用さるゝことがあるからである。斯う云ふ事情を考量の中に入れると、我々は幾分右的傾向に峻厳にして幾分左的傾向に寛大であつても差支ないやうに思ふ。但し之は政略の問題だ。純粋の学問上の問題としては、何処までも我々は過ぎたるを過ぎたりとして、中正の途の何れに在るを正直に指示すべきである。況んや昨今行はるゝ極右極左の議論には、往々また許す可らざる謬想を根本に於て伴ふものあるに於てをや。


   *

 人間の社会に「進歩」といふ事あるを肯定する限り、絶対に現状を固執す可らざるは言ふまでもない。然るに世上には今日仍ほ不思議に現状の維持を社会経営の金科玉条とするものが少く無い。而して此種の保守主義者を細かに観察して見ると大体三つの種類がある様に思ふ。第一は「現状」の過分の保護に浴し、其の変革に依て喪ふべき恩恵に恋々たる所より自ら保守的立場を取る利己主義者である。貴族・官僚・富豪・寵商等の間に意識して此の立場を執る者を少からず見るが、無意識的に自家階級の利害と国家全般の休戚とを混同する連中も亦皆此仲間だと謂つていゝ。第二は今なほ封建時代の伝統的陋習より脱し切らず過去の経験の踏襲を処世の第一義と心得る連中である。徳川時代の様に日本が則ち世界の全部であつた世の中であれば、所謂祖宗の遺法に遵拠して夢の様な泰平を楽まうといふにも無理はない。「新儀停止」が治安維持の第一義、普通の民家でも兎角先祖の残した家法に背かぬ様にと只管につとむる。而かも因循姑息の積弊が、如何に国際競争の新舞台に必要とさるゝ活動力の本源を涸らして居るかに気附かない。今日でも先輩の老識者の間などに淳風美俗がどうの、昔ながらの国風がどうのと、気の弱い輩を威す者の多いのには驚く。第三は改善更革の必要を多少認めつゝも其の実際の効果に対して甚だ自信のない連中である。今の儘では可かぬ、何とかせでは立ち往かぬが、併し、一部の人の云ふ様に改正したからとて果して良くなるだらうか、と疑ひ思ひ迷うて、遂に元通り現状に安定するのである。如何して改善の前途に自信を有ち得ぬかと云ふに、其由て来る所にも亦自ら三様の種類がある様だ。最も普通なるは、世上の突飛な改革論に度胆を抜かれ、あれでは困ると安価に自分の立場をきめる人々である。改善の必要あるを認めても、如何(どう)改むべきやを自ら研究するの労を惜む横着者の間に、此種の連中を多く見る。次には改善の結果を社会一般の人々が適当に味ふや否やに付き、猜疑の念を深うして移り難い人々である。貧乏人に金をやれといへば金をやつたつてうまく之を利用するかどうか分らぬといふ。労働者の這の正当な要求を聴いたらどうかといへば、一歩譲れば其後どんな飽くなき要求を提出するやら分らないと躊躇(ためら)ふ。要するに物の道理の分つたのは自分丈けで、一般民衆などは自ら何を求むべきやを知らず一且求めて得たりと味を占めると、其先図に乗つて何を云ひ出すか分らぬと決め込むのである。人を疑ふに慣れて、全く人を信ずることを知らぬ人々である。もう一つは、改善後の社会に於ける新なる道徳的責任に盲目なことである。例へば自分の子供にしたところが、馬鹿で終らしたくないとすれば教育を授けねばなるまい。教育を加へればそれ丈彼の開発に伴うてまた一層面倒な監督と指導とが必要になる。相手方の境遇を改善したからとて、それで放任していゝといふのではない。社会改善の問題になると、どう云ものか世人は不思議に此点を看却する。普通選挙が実行されるとする。之を喜ぶべしとする所以は畢竟吾人の遺徳的努力が此制度の下に於て一層よく酬(こた)えられるからだ。新しい形勢の上に於て新に為すべき吾人の責任を等閑に附して軽々に社会改革の効果を是非してはいけない。将来に対する道徳的責任につき深き決心と情熱とを欠く者、往々現状満足の姑息主義に堕するのは当然の事ながら甚だ憂ふべきことである。
 所謂極右的思想は右の如き誤つた根拠に立つの故を以て我々は理に於て之を斥ける。而して其の流行は種々の形に於て右述ぶるが如き謬想を横行せしむるが故に、我々は亦儼として之を排すべき実際の必要をも認めるものである。


   *

 現状維持にこだわつてはいけぬ、時に応じて改革せねばならぬと云つても、無暗に之に反対するものがあれば、勢不祥なる破壊運動の起るは已むを得ぬ。併し吾人の常に忘る可らざるは破壊そのものには本来何等文化的意義あるに非ることである。破壊は一面に創造的精神の必然的発露たるの本質を具有する時に於てのみ吾人の真剣なる努力に値する。是れ社会改造運動が理想主義を背景とし又理想的条件に拘束されざる可らずとする所以である。然るに世上には只専ら破壊その事に終始する思想並に行動の可なり盛に行はるゝを見るは何ぞや。吾人は其の由て来る所をたづねてまた三つの根源を発見した。一は頑迷なる保守的態度に対する単純なる反抗である。露西亜帝政時代に於ける虚無党の如きを其適例とし、我国に於ても官辺の過当の圧迫に悩む所謂主義者等の間に亦此部類に属する者を見出すに昔まない。境遇の所産として我々は其間大に諒とすべきものあるを認むるも、現状破壊の事業が多く此種の人々に依て取りまかなはるゝことは、決して人生の幸福ではない。二は社会組織さへ改むれば問題は徹底的に解決するとする唯物史観論者である。文化価値を生むものは結局に於て人間の魂だとする説を採らず凡ゆる禍害の源は一に外的環境に存すと為し、悪制の改善は直に人生を慶事する所以だと信ずるのである。社会組織さへ改むれば一躍して黄金世界を現出すべしとするのだから、此見解を執る者は概して社会の改造に手段を択ばない。此点に於てこの立場の極左論は、境遇の変らざる間人間は碌な事の出来る者ではないときめてかゝる夫の極右論と、魂の権威を蔑にする点に於て彼此一脈相通ずるものがあると思ふ。官権財力に対して極左的改革の方針を強調する労働運動家に、時々其部内に於て極右的専制主義を実行するに勇なる者を見るは、怪むに足らない。第三には斯くあれかしと冀ふ所のものを無条件に現出せしめんと欲して、動もすると理想を実現すべき地盤の顧慮を忘るゝ観念論者である。思慮浅き教育家の中には、教育学の教説を直に実現せんとするに急ぎ、相手の児童の心理等を全然無視することありとか。之と同じく彼等は現実の地盤を離れて幻想的に理想の実際的発展を妄信するのである。畢竟彼等は改革に専心するのあまり、頓と何を改革すべきかを忘れるのである。鹿を追ふ者山を見ずとは正に之れだ。望む所意の如く運ばずとて遂に厭世的態度に転ずる者もとかく此種の連中に多い。抑も改革の仕事は取も直さず過去の経験の修整だ。果して然らば吾人は望む所の完全なる実現よりも寧ろ過去の経験の蓄積の上に新しき生命の宿れる事に、本当の満足を感ずべきではないか。
 所謂極左的思想は、往々以上の如き先入の謬見に根拠するものなるが故に、吾人は之に与みしない。而して其の流行はまた、種々の形に於て之等の謬想を流布せしむるの怖ありと思ふが故に、我々は亦大に之に警戒すべきを叫ばざるを得ぬ。

                      〔『中央公論』一九二三年四月〕