議会政治の刷新 『中央公論』一九二二年三月「巻頭言」
議会昨今の不仕鱈は本当に困つたものだ。併し之を以て直に一般国民の風紀類廃の象徴と観るのは早計であらう。況(ま)して之を理由として議会政治そのものを呪詛するが如きは大なる間違である。之を人体にたとへるなら、這(こ)の不仕鱈は云はゞチフスかコレラの様な特種の病菌の結果であつて、一般健康の増進と云ふ事だけで急速に根治し得る底のものではない。
無論健康が完全でないから病菌にも冒される。国民の道義観念の薄弱といふことにも一種の責任がないではないが、平素温厚篤実を以て知られてゐる人でさへ一度政争の渦中に投ずると忽ち思慮弁別を失ふといふ実例を観ても、此処には何等か特別の病源が流れて居ることを想はねばならぬ。
然らば議会政治に特有なる病根とは何か。予輩は之を求めて「政争の非道義的解決」といふ事実を発見した。現今の政争に於て、勝負の決が道義的に走らず、依然戦国乱世の当時の如く強いもの勝になつて居ることが、実に人々をして中正公平ならしめ得ないのだと信ずる。
見よ。今日我国の政界に於て何処に正しい事が通つて居るか。正しい事を主張するもの必しも多数党となるのではない。多数党の主張は何時でも通る。但だ其の内面的価値の如何は主要の問題とならない。而して多数党が多数党たる所以は、専ら其の偶々(たまたま)権要の地位を占めたるに乗じ、其地位の利用に依て獲たる金と力とを巧に散じて益々多数の味方を作つた点に在り、国民の真の信頼の有無は殆んど問ふ所でない。其事其物の本質的に要求さるゝ条件の充足は、斯くして政争の勝負と何等の関係がないとすれば、所謂顕要の地位は必しも当然之に値する人に開かれずして、而かも猫にも杓子にも其の取るに委せらるゝことになる。只腕力あるものが其の取るに委さるゝのである。而して一旦之を取れば、所謂一夫関を擁して万夫も之を抜く可らざるの勢を占むるから、反対派としては理が非でも之を覆すに手段を択ばざるに至るは亦自然の成行ではないか。
道理が勝負の最終決走者たらざる処只腕力の支配あるのみなるは、古今を通じて渝らない。今日我国の議会が喧々擾々争の為の争ひに浮身をやつし、宛(えん)として源平相関ふの乱世を想はしむるは毫も怪むに足らぬのである。政友会の幹部が無頼漢の行為にも比すべき味方をかばつたり、加藤憲政会総裁までが所謂勇敢なる闘士の元気を賞讃するを見て呆れてはならない。各種徒党の狂演乱舞場ときめて仕舞へば、今日の議会は之を対岸の火災視して見物するに誠に絶好の観物だ、国民が毎朝の新聞を待ち兼ねるのも恐らく斯うした心理からであらう。夫れかあらぬか一国の選良の中にすら昨今の此軽薄なる風潮に迎合して只管大向の喝采を博せんと心掛くる者もあるやうだ。斯くして我国の議会は今や正に国利民福を籌劃する場処ではなくなつてしまつた。
併し此の政治的疾患は考へて見れば我国特有のものではない。何処の国も大抵一度は通つた。然らば如何して之を脱し得たかゞ我々心ある者に取つて大切な研究問題になる。而して歴史の教ふる所に依ると、不思議にも先進諸国は、此禍を脱せんとする意識的努力からは其目的を達し得ずして、皆期せずして他の動機よりする一種の改革に依て偶然にも此病より恢復し得た。そは何かといふに、普通選挙の実施則(すなわち)是である。
詳しい説明は他の機会に譲る。簡短に要点だけを列挙するならば、普通選挙の実施は第一に現在各政党の地盤関係を根本的に顛覆する。為に彼等は新制度の許に於て従来の勢力を維持せんとせば全く新に努力奮闘する所なければならない。而してこの新運動に於て従来慣用の醜穢なる手段の為すなきは言ふまでもない。斯くして第二に政争に勝負を決する標準は段々国民の良心の信頼といふ道義的基礎に落ち付いて来ることになる。
さうすると、総選挙後数年の間は各政党間の勢力関係は一時固定するが如きも、政府党は常に多数党たる今日の様に、そは国民の信任を離れて固定するのではない。而して国民は絶へず判断する。其の与ふる信任も従つて絶えず動揺する。斯くて政党は始めて正しい事善い事を競ふことに依つて結局の勝負を争ふことになる。議会の言論の如き亦、目前の勝負に利するよりも寧ろ国民の判断に訴ふる意味に於て真面目に為さるゝ様になる。
尤も普通選挙制の樹立に由て政界刷新の目的を達せんには、之に伴つて改善すべき猶ほ幾多の綱目あることを忘れてはならぬ。けれども、チフス患者に対しては先づ以て其病菌の撲滅を謀つてやらなければならぬ。之をやり遂げるまでは外の手当に及び兼ねることもある。此意味に於て予輩は普通選挙制の一日も速に確立せんことを翼ふものである。只普通選挙の問題は、其の政治的根拠からばかりでなく、社会文化的立場からも、就中一般道義的基調からも、大に究明せらるゝの必要あるは言を待たない。