言論の圧迫と暴力の使用を難ず
昨今の政界に於て、言論の圧迫と腕力の使用とが政治の目的を達する為めに行はれるやうになつたと云ふので、『中央公論』は頗る之を憂ひ、之が憲政の発達に及ぼす禍について、諸家の意見を徴する事となり、予も亦其一人に数へられた。格別纏つた意見は無いが、平素考へて居る一二の点を簡略に述べる。
言論の圧迫は官辺の方から来る事もあれば、又民間の方から来る事もある。或る一の意見に対して、之と反対の意見が如何に猛烈に説かれても、そは互に言論を戦はすのだから問題にはならないが、一度び一方が不法の暴力を以て相手方を脅かすといふやうになれば、茲に所謂言論の社会的圧迫といふ現象が現はれる。之は言論の国家的圧迫と共に、人文の進歩を遮ぐる事大なるものであるが故に、本来国家は此の如き不法の圧迫をば十分に取締らなければならないのである。之れ即ち近代国家が履む一つの重要なる任務として言論自由の保障を十分ならしめざるべからずとせられて居る所以である。従つて言論の社会的圧迫の、若し少しでも行はるゝ事ありとすれば、そは取りも直さず国家が言論自由の保障といふ重大なる任務を怠るものと云はなければならない。此点に於て我々は今日の政府に多少の不満はあるけれども、併し此方面ではまだそれほど大きな失態を暴露して居ない。
けれども更に進んで政府それ自身の積極的言論圧迫追の問題になると、数ふべき失態が頗る多い。政府が自己の計画を批評さるゝ事を厭ひ、又は自家の計画と反対の意見の発表を煩はしとするの傾向あるは、現在の政府に限らず、歴代の政府に通有の現象と思ふ。批評を面倒がるが故に何か新提案をしようと云ふと、いよ/\発表するといふ間際まで秘密にする。又例へば八八艦隊の完成に政府が苦心して居る最中だと、之と反対な意見でも述ぶる者があると、無理に之を押し潰さうとする。殊に政府部内にさういふ態度の人でもあると、直ぐに之を処分する。水野大佐の如きは恐らくかういふ考の犠牲となつたものではあるまいか。政府部内に統一はつくけれども、如何にすれば真に国家の為になるかの深い研究は斯くして全然阻止される。反対だらうが何だらうが、無遠慮な意見がどん/\発表さるゝやうにならなければ、国の進歩が出来ない。何時でも人真似をする事になる。世間で余り気が附かないが、斯う云ふ種類の言論圧迫の弊害は、従来頗る著しかつたと思ふ。
右は歴代の政府に通有の現象であるが、特に現政府に対して予輩の甚だ遺憾とするのは、政友会の立場に反対なる意見に対していろ/\の圧迫が加へられて居るといふ事である。之は何も政府の方針に出づる者でないかも知れない。出先の役人が政府に忠勤を抜んでんとして私意を以てやつた事かも知れない。が、何れにしても政友会の見て以て不利益とするやうな人々の言論の発表に対しては、間接に一種の力強い圧迫があるといふ事は、予自身多少経験した事もあるし、又友人からも屡々聴いた事もある。併し之も露骨にやるのではないから、大目に見て置いていゝ。只此処に何うしても大目に見て置くわけに行かないのは思想問題に関する政府最近の言論圧迫である。殊に社会国家に対する評論に至ると、政府の取締りの手は頗る辛辣を極めて居る。之が我国人文の進歩の上に何れ丈け遮げをなして居るか分らない。
此問題に関する政府筋の表面の立場は極めて明白だ。即ち彼等は最近の思想界の新傾向を以て国家社会の為め極めて危険なりとする深い確信を以て行動して居るからである。確信があるから露骨に圧迫するのであらう。又利害によるにあらず確信に基くのだから、それ丈け同じ圧迫でも誠意の存する処を諒とする丈けの値打はある。併しながら一度び裏面に入つて実際の情況を察すると、我々は言論の取締りに任ずる役人に決してそれ程の誠意を許す事は出来ない。何故か。
取締りの任に当る役人の内には、自分に確信があるのではない、命令の儘にやつて居るのもあるが、少くとも斯くする事が上官の意思だらうと忖度して決行するものもある。中には貴族院とか枢密院とか、あの辺から問題の起るを予想して、之を防がんが為めにわざ/\取締るといふものもある。自分自身に真に取締を必要とするや否やの何等の信念が無くしてやつて居る者の多い事は、予輩の深く信じて疑はざる所である。其証拠に貴族院辺で何か問題が起ると、何時でも政府当局は御説御尤と裏書して、何れ調査の上で処分しますなどゝ云つて居るではないか。曾て問題の事柄が処分に値するものなるや否やの点を実質的に研究して、応答した事がない。実際の事情が何うだらうが、兎に角問題になると直ぐに蹴るといふやうな事は稀れでない。多くの場合はそれでその儘泣寝入になるけれども、時として其処分が余りに軽卒だと云ふので却つて面倒な問題を惹き起す事もある。水戸の菊池校長の事件などは即ち之れだ。責任ある政府の高官が已に此態度である。属僚が一々上官の鼻息を覗つて取締をやるといふのも略ぼ想像される。
先頃電車の中で一二年前に大学の法科を出た一青年に会つた。随分成績が劣等なので卒業後いろ/\就職口を捜してやつたけれども無い。さぞ困る事だらうと大いに同情して居つたが電車の中で久闊振りで会つたので、昨今何を為て居るかと聞いたら、某役所に勤める事になつたと云ふ。何の方面を担任して居るかと開いたら、思想問題の取締りをやつて居ますと云ふ。失礼だが昨今の思想界の事が分るかと聞いたら、実はさつぱり分りませんと云ふのが彼の偽はらざる答であつた。此役所の取締方針は右の青年によつて決せられるのではないのだけれども、お役所の思想取締りの大任を扱つて居る者の中には、斯う云ふ人もあると云ふ事を予輩は責任を以て断言して置く。
然し是等の前後左右の鼻息を覗つて事を為るやうな者は、姑く問題以外に置いて可い。是等を外にして最も真面目なる連中を取つて見ると、即ち其大多数は心から誠実に思想界最近の傾向を国家社会の為めに危険なりとする人々である。そしてその憂国の至情から厳重な取締りをやるのだから、其誠意は寔に之を諒とするけれども、予輩が此等の人々に一言したいのは、願はくば自分の意見丈けが唯一の真理だとする信念を去られん事である或有名な西洋の学者は、若し此の世の中に間違のない事がありとすれば、そは自分の考へが唯一の真理なりと信ずる事が大間違だと云ふ事であると云つた。自分は斯う考へるが、併し事によつたら間違ひではないかと謙遜な態度を執る処に、自己を向上発展せしむる機会がある。今日の政治家が自己の化石した考を唯一の真理と確信し、且つ之を社会に強制せんとするの態度は、啻に自分自身の考を自ら阻止するのみからず、又或一種の偏見を特に社会に横行せしめると云ふ事から、世の中の全体の進歩をも大いに遮げるものである。斯ういふ点に於て予輩は切に検察官並に警察当局の反省を促したい。
政治家が其目的を達する為めに腕力を用ひると云ふ事は、いろ/\の形であらはれる。在野党が国民大会などゝ称して殺気立つた会合を催すのも其一の例であるが、殊に最近著しく我々の耳に触れるのは、国粋会とか民労会とか云ふ政府の隠然たる庇護の下に成立つた団体が、反対党の言論を圧追する為めに跋扈すると云ふ説である。国粋会、民労会が果して此非難のやうな行動をして居るか何うかは知らない。けれども縦令(たとえ)事実に反するにしろ、右のやうな風評が行はれると云ふ事が已に甚だ憂ふべき現象であると考へる。何故ならば之れが為めに民間には政府が已に斯くして我々を圧迫するなら、我々も亦反対の結束を作つて、自らを防衛しようと云ふ事になり、結局血で血を洗ふといふ恐るべき事に至らないとは限らない。政治家乃至民衆が興奮の余り其目的を達せんが為めに、時に常軌を逸した集団的行動に出づるといふ事は、固より嘉すべき事ではないが、勢ひ之を堰(せ)き難い場合がある。けれども斯くの如きは政府の力で十分に取締りが出来る。只政府の取締りについては、往々不法、過度の干渉なりといふ非難を伴ひ勝ちなので、臆病な政府は思ふ存分の態度に出で得ない事もある。併し乍ら若し政府が反対党から加へらるゝ非難を避けんとして、表面からの取締の手を弛め、而して裏面から特殊の集団を造つて反対党の圧迫に当らしむるやうな事があるなら、それこそ大変だ。諸国の革命史などを見ると、何処でも斯う云ふ事が天下擾乱の基となつて居る。即ち政府が何々会といふものを作つて、例へば社会主義者の圧迫に当らしめたとする。さうすると社会主義者も亦大いに奮激して之に対抗する方策を講ずる。斯くして殺伐なる争闘が始まる。一度気が立つて来ると後から制(おさ)めようたつて制まらない。結局天下大いに擾(みだ)れて、政府はもはや如何ともする事は出来ない。斯う考へて来ると、昨今の風説が若し果して真実だとすると、実に恐るべき出来事と云はなければならない。よしんば幸にしてさういふ恐ろしい結果にならないまでも、斯くして物事を合法的に取扱つて行かうといふ考の段々薄らいで来る事丈けは疑を容れない。さらでだに昨今我国民衆の間には直接行動論は可なり勢力を待つつある。此の秋に方つて政府筋が若し噂のやうな計画に少しでも力を入れて居るとせば、其志は多少諒とする事が出来ても、実際の結果は薪に油を注ぐものに外ならない。
以上与へられたる二つの問題について平素考へて居る事を述べたが、更に之を憲政の運用といふ事に引宛てゝ考へると、言論の圧追は、即ち憲政運用の根本たる民衆知徳の発展を削げるものであり、暴力の使用は今日の代議制度を根柢から破壊し去るものである。今日の憲政は政府を議会が監督し、更に其議会を人民が監督するといふ仕組みであり、更に其監督の功を完うせしむる為めにそれ/"\定められたる法律上の約束がある。此約束の基礎の上に社会の進歩を円満確実に遂げしめんとして居るのに、暴力の使用は即ち此法律上の約束を全然無視せんとするのだから堪らない。我々は余程用心して恐るべき風潮の流行を喰ひ止めねばならないと思ふ。
偖(さ)て之が喰ひ止め得たとして、次に問題になるのは、最後の監督者たる人民がほんやりして居ては何にもならない。凡て政治には監督が要る。公の制度の公の監督(パブリック・コントロール・オブ・パブリック・インスティチューション)は憲政運用に於ける第一の標語である。併し単にこれ丈けでは政権の運用に於ける弊害を喰ひ止め得るといふ消極的効果を奏する丈けに過ぎない。更に人民が最後の監督者であるといふ事が国家の利益になるのだといふ積極的効果を挙げしむる為めには、人民の開発といふ事がなければならない。而して現代憲政の理想とする所は、憲政組織の運用の結果、又当然に人民の開発を期待する事が出来るのである。何故なれば憲政の運用は政治家を人民が監督するといふ点に重きを置くの結果として、一面に於て又此両者の精神的連絡を密接ならしむるからである。而して両者の精神的連絡を理想通り密接ならしむる為めには言論の自由が無ければならない。言論の自由あつて人民は初めて各種の意見を聴き、其間大いに開発せらるゝ事になる。いろ/\の意見を聞けば却つて頭が混乱して分らなくなるなどと云ふのは、目前一時の現象に拘泥しての観察に過ぎない。
以上の意味に於て昨今行はれて居る二大禍悪は憲政を遮ぐる事甚だ大なるものあるが、其他憲政の進歩の為めに改革せねばならぬ点は尚ほ多々ある。之は尚ほ他の機会に於て述ぶる事にしよう。唯一つ昨今行はるゝ弊害の中で案外人の気付かない事で尚ほ且つ最も大いなるものは各政党の地盤政策である。此事は曾つて本誌時評欄に於いて述べたこともあるから、先には繰返さない。唯当今の時勢に於いて非常に重大な事と信ずるから、此処に之を一言付け加へて置くのである。
〔『中央公論』一九二一年四月〕