現今労働運動に対する私の立場



 三月初めの大阪毎日新聞は報じていふ。関西労働同盟とやらでは、普通選挙運動に活躍せるの故を以て賀川久留の両氏を除名すべしと。右の労働同盟は、普選に反対ではないが、該運動に参加するは却て労働運動本来の進歩の妨げとなると認める。依て昨年すでに普選運動打切りを決議したのだが、之にも拘らず同盟の首脳者たる両氏が、この決議を無視して普選運動の陣頭に立つのは甚だ不都合である。今後も反省する所なく同様の態度を続くるに於ては、来る四月二日の大会で両氏の除名を決議しやうといふのださうだ。この報道には多少の誤伝があるかも知れぬが、夫れはどうでもいゝ。
 私は右の考へ方を分析して之に理論的批判を加へやうとは思はない。況して普選運動と労働運動との本来の関係をこゝで事新らしく説かうとも思はない。けれども、斯うした議論の起る裏面には、我が国労働運動の中にかゝる議論を生ぜしむるやうな或る特種の流れの存在することを、読者と共に能く注意して置きたいと思ふ。夫れが何れ丈けの強さを有つて居るかは能く分らない。又其の強さとても実は時々刻々に変り得るものでもある。何れにしても之は大に注意するの必要がある。何となれば這(こ)の流れの盛衰如何は実に労働運動の文化的使命の上に至大の交渉があるからである。


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 予め断つて置きたいことは、普選問題に対する労働運動者の態度の甚だ煮え切らぬことである。そも/\我国労働運動発達の歴史からいふと、当初普選問題はこの運動の最も一重要なる綱領の一つであつた。今日普選一問題に絶対的の反対を表して居る某氏の如きも、曾ては熱心に代議士候補として運動したこともある。日本に於て最初の普選運動は実に彼等から起されたのだ。が、彼等は途中別に観る所あり、新に代議政治は本質的に労働階級の拠るべきものに非ずとの見解を取つて、今や普選の要求をば諦めよくサラリと棄てゝ仕舞つた。斯くて詳しく云へば我国今日の労働運動には、普選を重要綱領の一とするものと絶対に之を排斥するものとの二潮流があると謂はなければならぬ。けれども、大勢から云へば後者の勢力はなほ未だ極めて微々たるもので、前者独り労働界の大宗たるの概がある。
 併し乍ら、此の二三年来其初め微々たるものであつた普選排斥派は段々頭を擡げ初めた。之は西洋のサンヂカリズムや更に続いては露西亜で革命に成功したボルセヴイズム等に刺激せられたものたるは疑ない。西洋でも最近に於ける政治否認論の擡頭は目覚しいものである。其余波といつては勿体ない程の優勢を、我国に於ても普選否認派は示して居る。とはいへ、数に於ても質に於ても、此派の勢力はまだ/\労働界の覇権を握る程までには至つて居ない。
 然らば残る所の労働界の大宗たる連中は、依然普選問題を重要綱領の一として維持して居るかと云ふに、さうでない。彼等は少数派の側面攻撃や、其の巧妙なる勧説や、果てはその冷嘲熱罵に攪乱されて、今や在来の確信をしかと把持し切れなくなつた。去ればと云つて全然之を捨て去るといふ程の見極めも付かない。誰れ彼れの一人々々に就ていへば、夫れ/"\徹底した見解を有つて居る者も居る様だが、全体として彼等はきまりが悪くて贅沢も出来ないが、さりとて全然貧乏人の真似も出来ぬといふ金持ちの様に、極めて曖昧な態度を取る様になつた。
 かくて彼等はいふ。吾人は普通選挙に必しも反対ではない。けれども労働運動の本来の進歩に対する一大障害なるが故に、之に参加するを禁ずると。個人として之に参加し、而かも従来労働運動の本来の発達に最もよく貢献せる賀川久留両氏の如きを、単に此の理由に基いて除名せねばならぬ程邪魔になる普選運動を、必しも反対でないとは筋が通らぬではないか。理窟をいへば筋が通らないといふことになるが、之を若し在来の運動を続けて一歩一歩履み進めやうとする見地と、中間的改革を一切否認して最後の目標に盲滅法に突進せんとする立場との競合と見れば、事情は極めて明白だ。
 私が労働運動者の態度の曖昧になつたことに特別の注意を払へといふたのは、此処のことだ。二つの立場の競合が、将来どう成り行くかは、吾々の軽々に看過す可らざる大問題である。


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 西洋でどういふ事情の許にサンヂカリズムやボルセヴイズムが起つたかは、今あらためて之を説くの必要はあるまい。資本主義の極度の発達、労働者階級の高度の自覚、代議政治の永年に亘る実験、目的は手段を潔(きよ)むとの根強きゼズイツト的な思想、之等を予想して始めて前記の過激思想の現代に於ける優勢を理解することが出来る。が、之を日本に移すとなると、吾々は丸で畑の違ふことを知らなければならぬ。熱帯植物を寒帯地方に繁殖せしめんとするの非科学的なるが如く、日本の政府が外来思想の輸入伝播を馬鹿に恐るゝなどは、全然理窟がないことを序ながら申し添へて置く。
 但だ畑の違つた処でも、政府が何や彼や干渉圧迫が嵩じると、兎角人間は好奇心に富むものと見へて、一寸之に手を触れて見たくなる。僕の見る所では、日本に於ける直接行動の主張の多少の流行は、其の唯一の原因を這般の政府の苛酷なる取締に有すると信ずるのである。
 一旦之が流行し出すと、躁急なる労働運動者に取つて之れ程いゝ武器はない。一切の中間的改革を排し、最後の目的に驀進せよといへば、第一に士気を鼓舞し、第二に多数を結束するに苦まない。一歩一歩履みかためよとか手段の撰択が目的の価値に影響するとか云つて居ては、気勢が挫かれる。勝ちさへすればいゝのだ。斯うなつては正々堂々たるべき文化戦争も、昨今の議会の政戦の様に、醜穢極るものとなるのは怪むに足らない。而して国家社会の経営を百年の大計と観る者は固より這の立場を断乎として承認しない。 目的の為には手段を択ばないとする此派の好んで執る所の方策は、異論に対する極度の圧迫である。冷静なる思索上多少の道理があるものにしろ、異論は単に異論であるといふ丈で、全体の目的の到達に現実の障害を与ふるからである。斯くて彼等は低級卑近なる概念を掲げて、之に反対する凡ゆるものを排斥する。その概念の前には他の一切の価値を認めない。而かも背反に対する制裁は頗る峻厳を極むるを常とする。之が甚しくなると夫の所謂恐怖時代が現出するのだ。仏蘭西革命は、ロベスビールを喪ふまでに、幾何の聖者賢哲をこの過誤の為に殺したか分らない。賀川久留両君の如きも或は此種の犠牲者と観るべきではなからうか。
 遮莫(さもあらばあれ)、昨今わが労働界に普選排斥といふ一種の概念崇拝が流行して居ることは疑ひない。普選がいゝものかどうかは暫く別問題とする。単に普選を説くの故を以て、人格を根本的に否認してかゝるといふ態度其ものは、可なり重大な問題だと思ふ。
 思想は芸術である。人格を離れて概念其ものに何の価値があるか。甲は酒飲むべからずと云つた。甲といふ人格と併せて其の主張にも力がある。乙は酒飲むべしと云つた。乙といふ人格と併せ観て其の主張に亦一種の味を覚へる。要は人格である。酒を飲むなとか飲めとかの形式的概念を標準として、機械製品を仕様書に依て鑑別するかの如く、人物の善悪を濫りに彙類されては堪つたものでない。
 説は変り得る。変り得るものを唯一の標準とするが故に、昨日の憲政の神今日は民衆漫罵の的となるといふ現象も起る。之がつらいとて強て在来の主張を固執すると、人間も小さくなり、運動も遂に時勢に落伍するの恐がある。時勢は動く。人間は活き物だ。主義主張の変るは免れない。夫よりも変らざる人格其ものに信認の基礎を置かうではないか。然らずんば労働運動に到底本当の力は出て来ない。但し人格の信認を看板にして自家不純の変節を蔽はんとするが如き者に警戒を要するは言ふを待たない。
 労働界ばかりではない。近頃の青年の間には一種の概念崇拝の風が可なり根強く流行して居る様にも思ふ。私は屡々学校の卒業生を会社などに周旋することがある。其場合重役が其の青年の大に労働問題に尽さんとせるを諒としなかつたとする。するとやがて彼は重役が自分の提説を容れなかつたとて怒つて来る。又は重役の主張が自分達の立場と両立しないとて訴へて来る。事実重役に労働問題の理解ない場合が多いのではあるが、併し未だ曾て説が違ふも重役が自分を信認して呉れるから居れるとか、又は重役が尊敬すべき人格だから其下に安心して働けるとかいふ風に云つて来たものはない。人格よりも其奉ずる概念を見て貰いたいと云ふのであらうか。


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 斯う云つて来ると、斯んな説は実は彼等躁急運動家には非常に邪魔になるので、彼等は用意周到にも、かねがね能く仲間の労働者に教へて居る。人格だの、人道だの、理想だの、道徳だのといふ者に警戒せよと。斯んな事をいふのは皆敵方の廻し者だ。我々はこんな陥穽に踏み迷ふことなく、資本主義撲滅に突進せねばならぬと。所謂資本主義者が労働者の鋒先を鈍らす為に宗教道徳を利用したといふ事実はある。けれども羮に懲りて膾を吹くは愚人の常とやら。況んや羮に懲りたる者に故意に膾を吹かしめんと努むるをや。西洋でも、斯んな筋合から、苟くも労働運動に献身せんと欲する程の者は、先づ無神論を唱へて教会に面を背けざる可からずと考へた時代がある。社会主義運動と唯物的人生観とは本質的に相関連するものではないけれども、丁度美術学校や音楽学校の生徒が妙にきまつて頭の髪を長くすると同じ様に、久しい間の流行として二者は密接に相結んで居つた。之れが日本にも知らず識らず流れて居ると思ふ。
一つの標本をこゝに出さう。『鉱山労働者』の三月号の巻頭標語に斯んなのがある。

 曰ク人道主義、人類愛、無抵抗主義、正義…資本家等ハ是等ノ言葉ハ一番嫌イデナケレバナラヌ筈ダ。処ガ驚ク事ニハ資本家共ハソロイモソロツテ是等ノ言葉ガ大好キトキテ居ル…労働者ガコンナトリトメモナイ夢ノ様ナ言葉ニ酔ツテゴマカサレテヰル間ハ、労働者ハホントノ喧嘩腰ニナレズ、口先バカリ達者ニナツテ、結局資本主義城壁ハ万々歳ダカラダ…世ノ中ハ力ダ。力ノ外二虐ゲラレテヰル者ガ解キ放タレル道ハ何処ニモナイ。

 『鉱山労働者』の同人の多くは私の親友だ。概して尊敬すべき人格の持ち主である。彼等をして斯かふ悲痛の叫びを発せしめた事情に就ては、私は満腔の同情を禁ぜざる所である。只之を文字通りに解すると、私は此標語には徹頭徹尾反対するものである。
 無論今日の労働運動に於て、資本主義との苦がき戦を勇敢に継続する為には、あの位の決心は必要かも知れない。弱い者を鞭撻する言葉としては、百里の道は九十九里を以て中ばとすといふことさへある。五十里が丁度半分だといふ様な微温い態度では、先きの見込が心配になる。嘘も方便と云ふこともあるが、併しいかに元気を鼓舞する必要があるからとはいへ、半分で停るべきを強いて九十九里の所まで突進せしめなくともよからう。目的の貫徹のためには飽くまで戦ふ、併しまた自ら留るべき所を忘れぬといふ所に、本当の勇気の湧く源はあるのではあるまいか。
 私は時々武士道と労働運動とを対照して考へることがある。武士の本職は戦である。戦は勝てばいゝのだ。勝つが為には、凡ゆる手段を用ひて遅疑する所ある可らざる訳だが、我国の武士道は其処に一つの理想主義の混入するを拒まなかつた。否、我々国民の古来の伝統は、寧ろ武士の情といふことに限りなき憧憬をさへ注いで居る。芝居を見ても分る。封建時代の観客は必ず武士の典型として理想主義者と目的突進主義者とを相並べたものだ。松王丸に春藤玄蕃、重忠に岩永、駒沢次郎左衛門に岩代多喜太…、数へ挙げれば限りもないが、我々は未だ曾て一人の後種の物力一点張りの武士に団扇を挙げたものあるを聞かない。蓋し我々は目前の勝負よりも其以上に貴い或る物を認めて居るからである。現在目前の問題を理想的に始末すること夫れ自身に、重大な意義あることを認めたからである。之を微温と観、取りとめもない夢の様な嘘言と観るのは、情も涙もなき岩永流の立場に外ならぬ。労働運動をして我国文化の発達の上に意義あらしむる為には、断じて斯の浅薄低劣な立場を執らしめてはいけないと思ふ。況んや斯の如き立場は一面に於て労働者の教養を疎かならしむる恐あるをや。又況んや文化創造の本当の力は実は斯かる立場からは決して生じ来るものに非るに於てをや。(大正十一年三月八日)

                   〔『文化生活』一九二二年四月〕