学園の自由と臨検捜査



 今度の事件に関連して学園の自由といふ事が問題になつて居る様だ。併し研究室を臨検捜索したといふに就て
司法官憲を責むべき理由はないやうに僕は思ふ。其のやり方が乱暴に過ぎるといふ様な点で攻撃サるのなら格別、
                                     ちつ
只臨検捜査したといふ丈なら、研究室だからとて遠慮せねばならぬ理由は些ともない。寧ろそんな点に余計な気
兼ねをせずにドン〈敏速に目的を達すべき筋のものと考へる。










 若し学園の自由といふ見地から責めらるべき者がありとすれば、そは早稲田大学の当局者でなければならぬ。
必要があつて許されたる職権内で官憲の学園に立ち入るのは当然の議だが、之を当然として指をくはえて傍観す
         たしか
る学枚当局者は、憶に神聖なる学園の自由に泥を塗つた答を免るこ」とは出来ぬ。
 何故か。
 学校は教授講師の人格識量を信頼して講釈と研鋸とを托し、其為に研究室を提供して居るのだ。従つて学校と
教師との間には密接なる信頼敬重の関係が成立つて居る筈だ。官憲が不幸にして之等教師の一二に重大なる刑事
事件の嫌疑をかけしとせば、その為めの臨検捜査は已むを得ぬとして、一応は必要なる措置を自らの責任の下に
取る丈の決心が学校当局者に無くてはな.るまいではないか。例へば暫く司法当局の直接に手を下すを猶予して貰
                                      おもむ
ひ、其代りに研究室は封印をした〔と〕同様に一時何人も其中に入らしめず、徐ろに嫌疑の的とされる教師を招ぎ
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本人をして堂々と其筋の質問に答へしめることも出来やうではないか。学校側から熱心に之を乞うて、官憲の耳
傾けぬこともあるまい。不幸にして耳傾けなかつたら、始めて学園自由の躁欄を叫んでもいゝ。兎に角、教師そ
の人の人格を相当に重んずる丈の手続を尽した上でこそ、官憲の意の俵にまかすべきであつて、其の要求に遇ふ
                 ただ
ゃ直に一も二もなく之に応ずるは、膏に教師共人に対する非礼であるのみならず、又自ら侮るの甚しきものでは
なからうか。狼狽か、意気地のないのか、早稲田大学当局の措置は余りに醜態を極めて居る様に見へる。
 昨今伝ふる所に依れば、高田総長は急に維持貝会とかを召集して、学園の権威の為に場合に依ては当局を札弾
                      と一王どい
すべきの決議をしたとやら。彼等は「体何を戸惑して居るのであらう。学園の権威の為に鎗玉に上げらるべきは、
唯一つ学校当局者であつて、断じて司法官憲ではない。世人はこの点を見誤つてはならぬ。
 もつと
 尤も事件の一切が明白になつた後、臨検捜査する程の事でなかつたことが分つて、その上で別に司法官憲の軽
                                                      たち
卒を問題にするのは妨げないが、之れなら何も学校に対する場合に限ることではない。殊に今度の様な質の事件
に就ては、概して我国官憲に斯の弊がある。併し之は一般の問題として取扱ふべきもので、之を挙げて特に学園
の自由を傷けた問題だとすることは出来まい。
                                       いたず
 要するに学園の自由は学園自ら守るべきものだ。学園自ら擁護の道を誤つて、ひとり徒らに他を責むるは、飛
んでeない見当違ひだ○司法当局に対しては学園の要求あらば相当穏便の処置に出でられんことを希望するが、
何の要求もなかつたのなら、普通一般の方法でドン〈捜索の手を進めて少しも不都合はないのである。
 特殊の問題、特殊の相手、といふことに拘泥せず、冷静公平に物を観る人は、必ずや僕のこの見解に異議はな
からうと信ずる。
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 そんなら司法当局に全然責むべき余地はないかと云ふに、さうではない。臨検その事に異議はないが、事件を
                       いささ
臨検捜査に催する重大事と観たその見識に研か疑問がある。
                                             つまぴらか
 尤も之は事件の真相が分つた上でないと容易に速断は出来ぬ。どんな事を企てたのか、之を詳にせずしては
何ともいへぬのである。只僕の感ずるが儀をいへばかうだ。(一)問題となつて居る人々、殊に早稲田大学関係の
学者達は、そんな大それた事を企らむ様な人々ではないと思ふ。官憲は彼等の計割と称せらるゝものと彼等の平
素の人格とを結びつけて能く考へたであらうか。(二)外国から多少の運動費を得たとか又は外国の同志と何等か
の連絡あるとかいふが仮りに事実として、さて斯かる事柄を官憲は非常に怖しいものの様に考へてゐるのではあ
るまいか。斯かる事実が実際にどれ丈の災を我国に加へ得るものかを、彼等は冷静に考へたことがあるだらうか。
(三)共産主義といふ名と又内密に同志を連繋するといふ計割とを、何等か怖しい陰謀でゞもあるかの様に妄想し
て居るのではなからうか。こんなものは無い方がいゝに相違ない、有つたにしても大したものではないと思ふの
に、此辺の観方が我々と官憲の諸君子とは大部違ふ様だ。そこで我々が屁でもないと思ふ事に、官憲が飛んでも
ない大げさなカ癌の入れ方をするのであるまいか。馬鹿々々しいと思ふが、併しさう信じてゐられるのなら仕方
がない。而してさう信じてゐる以上、些細のことにも気を廻して、やれ臨検だやれ捜索だと騒ぐのも亦己むを得
ないとする。故にいふ。臨検捜索その事には罪はない。只之を臨検捜査に値する重大事だと信じたその低級な見
識に文句をつければつけられると思ふのである。
 仮りにたとへば共産党結社に関する重要書類が研虜重から発見されたとせば如何。それでも僕の前述の立場は
変らない。官憲の見識の低いこと、早稲田大学当局の意気地ないことに変りはないからである。只此場合に別に
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問題となるのは当該教師の態度そのものでなければならぬ。
                                           あすか
 教師が学術の研錆以外実際運動に干与するの是非は別に論ずるの余地あるが、仮りに実際運動に与るとして、
研究室を其の策動の一根拠地とするは、学園の期待を無視するの甚しきものである。研究室を設備する学校の目
的はもと決して無条件ではない。換言すれば提供を受けた教師は研究室を何に使つてもいいといふのではない。
だからこそ、研究室は神聖なりとせらるるのだ。研究室といふ名に神聖なる性質があるとして、滋処を丁度いゝ
安全なる策源地とするは、卑怯でもあり又憎むべき学界の冒溝でもある。事実の如何を今僕は知らないが、若し
少しでも学術以外の証拠品が多量にここに見出されたとすれば、僕は当該教師の不謹慎を極度に責めざるを得な
い。

′ヽノ

 終りに学者の実際連動に干与する可否について僕の平素考へて居ることを三日する。
 僕は研究に忙しかるべきの理由を以て実際運動に干与すべからずとするの説を取らない。研究に忙しくして違
       いとま
動を顧慮する遥なしといふなら、それで隠遁的生活を送るもいゝ。又時に感激する所ありて無為にして居るに堪
へず上思はn、その熱情を実際運動に移すも妨げない。良心の命ずる所に忠順なる限り、どつちになつても差支
はないと思ふ。
 けれども我々は結局に於て学者として立たんとする限り、換言すれば真理の探究者として始終せんと欲する限
                                 いささか     」よ
り、如何に実際運動に熱情を覚へても、其現実の目的の達成の為に些でも所信を柾ぐるが如きは、其の能くし得
                                           そこな
ざる所でなければならぬ。世の中の実際運動には、良心に対する絶対的忠順を傷ふことなしに出来るものもある
が、又大同に合して多少の妥協に服し、場合に依つては目的の急速なる成就の為に不本意なる非義をすら歎叫過せ







・自



     てい                      しやはん
ねばならぬ底のものもある。政治運動や社会運動にはことに這般の種類のものが多い。
 だから僕は、どこまでも学者として立たんとの潔癒より、常に絶対的な批評の自由を体せんと欲して、出来る
丈け実際運動には腐れ縁を結ばぬやうにと自らを警戒して居る。尋ねらるれば意見は述ぶる。時としては進んで
助言もする。が、どんなに心やすい人のや広庫でも、実際運動には容易に没入せぬことに用心して居る。之が学
者としての当然の態度だと信ずるからである。
 さればと云つて、実際運動に干与するその事がわるいと云ふのではない。この方面に自己の使命を感ずるなら、
其方に方向を転換するがいゝ。併し其時は則ち現実の目的達成の為に従来の所信の或程度に於ける譲歩を航朝が
               も はや
許すことを意味するのだから、最早学者としての純真な生活は送り得ぬことに諦めをつけなければならぬ。さう
でなくて依然学者の衣を脱がないなら、そは取りも直さず学者の地位にかくるるものであつて、結局に於て自ら
  ゆえん            けが
保つ所以にあらず、又兼ねて学界を漬す処為だと考へる。この点に於ても或は早稲田の一二の教師は問題になる
かも知れぬ。が併し僕の知つて居る限りでは此事に就ても彼等は大抵無難な様だ。大山郁夫君の如き、随分あぶ
ない様に世間からは見られて居るが、あれで実際界には一歩も足を踏み入れて居ない様だ。だからこそあれ程思
ひ切つた評論を下し得るのであらう。いづれ事件の真相の明になるに従つて其中にはこの辺の事情もはつきりす
るだらう。

                                         〔『中央公論』一九二三年七月〕

■ヽノ
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