協商は可、同盟は不要 『中央公論』一九一五年一〇月
日露同盟論の最も盛んに唱へられたのは仏蘭西に於てゞあり、次には露西亜、最近我国に於ても之を唱ふる者がある。露西亜に於て此論の唱へらるゝ、所以は明白である。今度の戦争に於て露西亜の我国の助力を要するの切なる、自ら一般政客をして日露同盟を叫ばしむるのであらう。元来日本と露西亜とは日露戦争後段々親善の関係を恢復したけれども、而かも露国高級の政治家中には尚日本の禍心を説いて国民を警せんとする者が少くなかつた。彼のクロパトキン将軍の満蒙処分論の如きは其最も著しき例である。それにも拘らず最近此国の新聞などは一斉に日露同盟論を説くのは其動機の何れにあるか、之を想像するに難くない。若しそれ仏蘭西に於て日露同盟論の唱へらるるゝ所以に至つては、彼が露西亜をして日本の助力を得て東方の戦場に強大を増さしめんと欲するのみならず、露西亜をして専ら西欧に力を注ぎ其対独政策に全力を注がしむるには、極東に於て日本と親和せしむるを必要条件とするといふ宿論から出て居る。此等の点を考へて見れば、日露同盟論の露西亜及び仏蘭西に於て唱へらるゝ所以は極めて明白である。
然し彼国の論者の唱ふる同盟とは如何なることを意味するのか、単に日露両国の関係を開拓して尚一層の親善を加へしめんといふことは、必ずしも同盟を待たずして出来る。何となれば同盟といふ時は、従来若し相互の間に利害の衝突があれば之を悪く解決し、其間に何等の蟠(わだかま)りを残さないといふことの外に、尚其上に相互に兵力を以て援け合ふといふ積極的義務を両者の上に課するものであるからである。三国同盟にしても日英同盟にしても皆兵力を以てする相互的援助といふことが基礎になつて居る。論者の所謂日露同盟論は日露の関係を此点まで近めやうといふにあるのだらうか。同盟の外、協商といふものがある。協商は従来の利害の衝突を解決一掃するといふ消極的の約束に過ぎない。無論協商に依つて親善の関係を回復すれば、両者の間に自ら精神上並びに物質上互に援け合ふといふ関係は成立するけれども、然し之は条約上の義務ではない。所謂三国協商の如きは即ち之に属する。そこで今日露の関係を論ずるに当つても、協商関係に止めんとするのか、進んで同盟関係にまで持つて行かうとするのか。論者が日露のより親善ならんと欲するの意は明かだけれども、具体的の協約としてはどの点まで持つて行かうといふ程度が甚だ明白でない。
日露大いに親善なるべしといふ議論に対しては、吾人も固より双手を挙げて之に絶対的賛成を表する。勿論日露戦争以来此両国は旧怨を忘れ屡々約束を結んで相互の利害を協調した。風説によれば満蒙方面に於ける両国の勢力範囲に就ても、一種の密約があるといふことである。然れども此両国は亜細亜の東方に於て相接触して居るが故に、衝突とまでは行かなくとも少くとも利害の関係が錯綜して居る。単に我日本の方面より之を観るに、日本人の満蒙に於ける、更に自ら北方に発展して露西亜の勢力範囲の中に入り込んで居る。浦塩方面に於ける日本人の発展も亦又之を無視することは出来ない。故に想像をすれば日露両国の利害は尚両国の隔意なき交渉に依つて此上調和すべき余地はある。然らば日露両国は此等の現に起り或は将来起るべき問題を解決して、尚一層親善なる関係に立つの必要がある。斯くなれば露西亜も今後安心して全力を独逸方面に注ぐことが出来るし、日本も亦満蒙方面に於ける警備の手を休めることが出来る。斯くて我々両国は心を安んじて東方の平和的開発の為めに尚一層のカを尽すことが出来るのである。
日露両国は尚大いに親善の関係を増すことを必要とするが、更に進んで此両国は果して同盟の関係に入るべきや否やは一つの疑問である。私の考へに依れば、日露はあくまで親善和協すべきものであるけれども、同盟をするといふことには何等正当の基礎がないと思ふ。同盟は即ち兵力的互援を前提とする。兵力的互授は共同の敵の存在を前提とする。而して日露両国は東洋に於て、先づ何等共同の敵を有せないと見てよい。三国同盟も共同の敵を有するが故に出来た。日英同盟も共同の敵を有するが故に出来た。尤も日英同盟成立当時の共同の敵は今は敵ではない。露西亜は日本にも英国にも親善の関係を恢復した。けれども日英同盟は露西亜といふ共同の敵を失つた後も、尚東洋に於て共同の敵たるべき勢力が存在して居つたが故に其成立を継続して居つた。而して今や此敵も全く消滅したのであるが、それでも日英同盟は永く東洋に於ける外交関係の中軸たりし情勢として、今後尚暫く其存在を続け又其効用を発揮するだらう。斯くの如く同盟は共同の敵の消滅した後でも其存続を続くることはあるけれども、共同の敵存することなくして成立したといふことは殆んどない。却て三国協商の場合の如く最も恐るべき共同の敵あるに拘らず、同盟の形を避けて協商の態度で止つたことすらある。之れ兵力的援助といふことが事重大であり、且つ事柄の性質上挑戦的であるからである。斯く論ずる時は日露両国はあくまで親善和調すベしとは雖も、決して同盟すべき何等共同の基礎がないといはなければならぬ。尤も仏蘭西に於ては同盟関係を結ぶことによつて、露西亜をして権利として日本の兵力を利用せしめやうといふやうな考もあるやうであるが、然し之は虫の好すぎる話である。成程独逸は我々の共同の敵である。けれども独逸は露西亜にとつては恐るべき現実の敵、日本にとつては敵といふのも名ばかりの影法師に過ぎない。之を以て同盟の基礎とすることは出来ない。尤も差当り露西亜の日本と親善の関係を一層増すことによつて得るところの利益は、必ずしも兵力的援助ではなからう。兵力的援助以外の助力ならば、協商関係に依つて十分に得らるゝのである。故に此際日露両国に於て、何等か現状に一転進を加へんとするならば、そは協商であるべくして同盟ではあるべからずと思ふのである。
尚終りに一言したきは、世間には日英同盟に見切りをつけ、英国はも早や当てにならぬから、場合によつては英国は東洋に於ける我々の敵となるの恐れがあるから、そこで今より英国に代るべき味方を求めるの必要があるといふ立場から、日露同盟に賛成する人がある。甚だしきに至つては日独露の新同盟を締結して英国に当らんと夢想する者もある。然しながら日英同盟を呪ふのは非常の誤解なるのみならず、甚だ危険な思想であると言はねばならぬ。日英両国の利害は成程支那の一部に於ては衝突を免れない。然しながら全体に於て両国の利害は決して衝突して居ない。のみならず両国は今日まで此同盟に依つてどれ丈け利益幸福を得て居るか解らない。今は日英同盟の功徳を数ふる場合でないから悉しくは説かないけれども、兎に角日英同盟を以て其用を終つたものと観るのは誤りである。従つて日英同盟の代りに、日露同盟を策するといふ議論には賛成が出来ない。さればと言つて日露の同盟することが、必然に日英同盟に裏切ることになるといふ一部の議論も、亦正当とは思はれない。日英同盟は露西亜を共同の敵として、其初め成立したものだけれども、今日となつては必ずしも日露同盟と両立しないものではない。又日露が同盟したからと言つて、我国が日英同盟の義務に十分忠実なり得ないといふやうなこともない。日露の同盟は日本の東洋に於ける地歩を一層鞏固にするものなるが故に、却て日英同盟にとつても利益であると思ふ。日露同盟するの必要があるならば、日英同盟の存在に遠慮せねばならぬ道理はない。故に日露同盟の要不要は、日英同盟とはなれて独立に決すべき問題であると思ふ。若し夫れ日独露同盟論に至つては、之は英国が我々にとつても最も恐るべき共同の敵として、著しく我々を圧迫する場合に於てのみ起り得べき問題である。本来露独の接近は日本の利益ではない。何となれば露独相親めば、彼等は必ずや欧羅巴に於いて利害の調和を計る。露独の欧に於ける利害の調和は、即ち露西亜の東洋に於ける跳梁を意味する。現に露西亜のラムスドルフ伯は、曾て独襖と妥協して朝鮮及び満洲に跋扈した。独逸も亦欧羅巴に於ける地歩を安固ならしめんが為に、露西亜の東方経略を唆(さそ)つた。之が為めに我国はどれ丈け困難したか解らない。而して此同盟に我国が加入するといふことは、極めて不自然である。此不自然を敢てするといふには、例へば英国の如き強大なる国が、東洋に於て我々の利益を蹂躙するといふやうな、非常な場合に限るのである。今日の場合日独露の同盟を云々するが如きは全然荒唐無稽の説である。
〔『中央公論』一九一五年一〇月〕