婦人の政治運動


     一

 議員の選挙に婦人の立ち入ると云ふことは、従来もあつたが、今度の総選挙では最も著しく、全国を通じ婦人運動者の総数百名を越へたとの事である。於是婦人の政治運動といふことが問題となり、先月初めの新聞雑誌などでは盛に論ぜられた様である。吾人は此問題に対して如何なる態度を執るべきであるか。


      二

 この問題に対して、吾々は所謂当局者の意見なるものには全然承服することが出来ぬ。四月七日の東京日々新聞であつたと思ふが、安河内警保局長の説に依るものが載つて居る。甚だ徹底せぬ書き振りであるが(多分筆記者の責任であると思ふが)、論旨は大体次の如くであると思ふ。

(一) 婦人は須らく家庭的であるを可とすべきである。外部に出でゝ活働するは其美性を傷くる所以である。
(二) 殊に日本の婦人は、外国の婦人と違つて、何処までも家庭的であるべきである。何となれば所謂良妻賢母主義が女子教育上の大方針であるからである。然るに近来我国の婦人中、無暗と新しがるものを輩出するは甚だ憂ふべき事である。
(三) 婦人の政治運動の如きも、此悪傾向の一つである。戸別訪問の如きを平気でやつて居るやうな事は予は絶対に之を取らぬ。
(四)本来婦人をして政治の事に関係せしめぬといふが、我国法律の精神である。戸別訪問の如きを直接禁止するの明文が無いけれども、之は早晩何とか取締らねばなるまい。内務大臣もつくづく其必要を認められて居る。


斯くて氏は、「現状の儘に放任するときは、遂に欧米各国の如き女権拡張論者を誘致し、建国三千年来の國體に由々しき大問題を生ずるの虞」ありと嘆じて居らるゝ。
 大体に於て此論は愚論である。予は安河内局長が斯かる愚論を吐かれたとは信ぜぬ。筆記の誤りであらうと思ふけれども、併し斯種の愚論は随分と世間に流通して居ると思ふから、簡単に之を駁撃して置かう。

      三

 第一に、婦人は本来家庭的であるべしとの論には吾人は大体賛成である。一派の新婦人の如く、家庭の桎梏を脱して婦人の新境地を見出さんとの論には一般論としては賛成せぬ。何となれば、婦人の天性はもと男子と共に家庭を作り、男子を輔け男子に倚りて其本分を完うするに在つて、外界の社会とは云はゞ男子を通じて間接に交渉するに止るものであるからである。故に政治其他外界に対する活動は、男子に任せて宜いのである。只茲に注意せねばならぬことは、婦人に家庭的なれと求むることは、決して奴隷的なれと求むるこどではないと云ふ事である。婦人は外部の事は一切男子の活動に委し、男子の活動に自分の生命を托するのであるけれども、婦人は決して何も彼も男子に奴隷的に従属するの必要はない。婦人も亦一個の人格として対等の承認を男子に要請するは、正当の事である。不幸にして我国在来の思想は、此点を閑却した傾がある。即ち婦人に家庭的なれと求むる迄は可いが、更に一歩進めて奴隷的に男子に屈従せよと求めたのである。思ふに新しい婦人達は、此点に不満なのであらう。只不平不満の念を過度に誇張して、遂に家庭を呪ふもの往々にしてあるが為めに、新しい婦人に対しても非難があるのであらう。予はもと自覚したる婦人の側に多大の同情を有するものであるが、併し議論としては何処までも婦人は須らく家庭的たるべしと主張するものである。
 併し婦人の須らく家庭的たるべしと云ふは原則論である。此事は家庭の主婦とならざる婦人には、事実之を求め難い。結婚の機会あるのに故らに之を避けて、家庭に捉へられずなど、得々として居るのは賞めた話ではないと思ふけれども、事実之を欲しても機会の来ぬ者もありて、已むを得ず一本立で世に立たねばなちぬ婦人は近頃は段々多くなつて来た。其外色々の事情で、今後は余儀なく独立独行男子に侍らず、其生活を立て、行かねばならぬ婦人は多くなるだらう。斯ふ云ふ人には、事実上家庭的なれと求むる訳には行かぬ。斯かる人でも、婦人丈けに自ら男子に比し引つ込み主義を取るだらうとは思ふが、併し最早男子に倚りて生活するに非ず独立独行生活を立てゝ行くのだから、自ら社会の出来事に直接の利害を感ぜずには居られない。従つて公共の事務に付いても、思を傾くるやうになるのは当然である。斯う考へて来ると、家庭的たるべしとの原則論の適用し難い婦人の、今後益々多く輩出するは、事実之を制し難い。而して之等の婦人にも一概に家庭的たれと要求するのは、不都合ではあるまいか。

       四

 婦人の家庭的たるべしと云ふ原則論は、日本でも西洋でも同じ事である。只西洋の社会は早く婦人の独立独行するものを輩出せしめたから、夫れ丈け早く家庭的たれとの要求を八釜しく云はなくなつたのである。日本では、大体のところ、今日でも婦人の大多数は家庭に入るから、所謂賢母良妻主義で女子を教育しても、大して不都合は無かつたのである。去れば日本と外国と、婦人の教育上の主義を異にしたのは、ツマリ時勢の相違である。時勢が進めば、日本も西洋と同じになるべきものである。マゴ/\してゐる中に、日本も此頃段々時勢が進んで来た。既に諸方に、所謂賢母良妻主義は今後の女子教育上の主義としては時宜に適せぬとの非難も、ボツ/\見ゆるではないか。然るを一部の論者は、我国の婦人と西洋の婦人とは根本的に異つた運命を有つて居る者の如く考へ、而して我国の婦人は先天的に賢母良妻主義を以て教育すべき筈のものと極めて居る。其思想の浅薄にして取るに足らざること、固より云ふを待たない。
 賢母良妻は婦人の理想である。従つて賢母良妻主義は女子教育上の理想であらねばならぬ。理論としては此事は何人も異議はなからうと思ふ。只反対するのは、所謂賢母良妻主義の教育である。賢母良妻の美名の下に独立自主の個人格なき奴隷的婦人の養成を目的とする教育主義に反抗するものである。此点に就ても亦、予は多少の留保をなしつゝ所謂新しき婦人連の主張に無限の同情を表するものでもある。況んや今後の時勢は所謂良妻賢母主義一点張りで女子を教育するを許さゞるに於てをや。


      五

 二十世紀の婦人は自覚しつゝある。彼等は先づ総てが家庭の人たるを得ざるの時勢に在るを見、男子と同じく広く外部に活動するの必要を感得しつゝある。次に彼等は家庭の人としても、徒らに男子の意思に隷属すべきものに非ず、之と対等に家庭を経営するの主脳者たるべきを覚りつゝある。従来の婦人は余りに不当の拘束を受けて居た。於是彼等はあらゆる方面に於て解放を要求しつゝある。是れ近世婦人問題の発生する所以である。新運動の起るや、多少の弊害の之に伴ふは已むを得ぬ。併し多少の弊害が伴へばとて、新運動を全然排斥し去るは、角を矯めんとして牛を殺すの類である。吾人は日本将来の文化の発展の為めに、婦人問題の益々盛に論究せられんことを希望して已まないものである。
 婦人の自覚に伴ふて、種々の弊害の伴ふは已むを得ぬ。而して多少の弊害の起生するは、婦人の自覚全く起らざる為めに何等の弊害もなしといふ状態よりは、遥に好ましいのである。此点に於て予は、真に婦人の自覚に伴ふ多少の弊害の発生するは、他方に之を予防阻止の手段を講ずるを必要と認むるも、兎も角之を喜ぶべき現象と見做すものである。然らば今次の総選挙に現れたる婦人の戸別訪問の如さは此種の「悪傾向の一種」と見るべきやと云ふに、遺憾ながら予は斯く信ずることは出来ぬ。
 先年予が伯林に留学して居つた頃、国会議員の総選挙があつた。伯林の第一区では、進歩国民党と社会民主党と最も激烈に争つた。後に之は僅六票の差で前者の勝利に帰したのを見ても、如何に競争が烈しかつたかゞ分る。此時此区の人々は、妙齢の婦人を運動者に使つた。之は棄権者が一人でも無い様にするために、即ち自派の選挙人を一人でも多く駆り出す為めに、選挙の当日、中々出て来さうもない市民の宅へ妙齢の美人を差遣し、此婦人をして選挙人の腕を取り、選挙場まで捉へ来らしめたのである。此方法は巧みに功を奏し、棄権と決心したものも、年若い婦人に縋られて余儀なく選挙場に来たもの少くなかつたとの事である。
 併し之は婦人のために名誉な事であらうか。独逸の婦人運動の団体は、果して猛然起つて、婦人を斯かる随劣なる運動に利用せるは一大侮辱なりとて、大々的抗議を提出したのであつた。是れ固より然あるべきことであらう。最も当時此の目的に雇はれた婦人は、勧工場の売子や、又は少しく地位のいゝ職工等で、良家の子女は一人もなかつた。如何に親戚友人の為めだとて、良家の心ある子女では、斯んな愚劣な仕事には従事するを潔としまい。
 我国の婦人の戸別訪問はやゝ之と類似しては居まいか。主義も理想もない。只訳もなく男子に使はれたのである。其婦人的優美の特徴を利用されたのである。茶屋酒を飲む時の御酌には、荒くれた男よりも小綺麗な若い女の方が気持がいゝと云ふと同じ意味にて、機械としてコキ使はれたのである。之を何で婦人自覚の結果と云ふ事が出来やうか。予は心ある婦人の側から抗議の起らざりしを寧ろ奇怪に思ふ位である。
 去れば我国婦人の戸別訪問といふ新現象は、婦人問題としては極めて下らぬ問題である。否、問題とするの価値もない位のものである。真に婦人の自覚の結果として起れるものならば、其事の善いにしろ悪いにしろ、問題として論ずるの価値はある。戸別訪問といふ現象は、之とは何の係はりもない極めて下らぬ現象である。

      六

 戸別訪問を取締るとか、乃至之を禁止するとかいふ問題は、一般の選挙取締上の問題としては、議論するの余地あれども、特に男子女子に依り区別して論ずべき性質のものでない。男子に之を許して置く以上女子に之を許しても少しも差支がない。若し之を選挙廓清の上から禁止すべきものとせば、男子女子と論なく等しく之を禁止すべきである。何れにしても口角泡を飛ばして論ずる程の大問題ではない。
 只婦人をして政治に関与せしむべきや否やの根本論に至れば、自ら問題は大きくなる。現今の日本国法の精神から申せば、矢張り之は禁止すべきものであらう。従来の法律の立て前が、婦人と政治とを離すといふ事になつて居る。併し之は現在の法律を楯としての話である。現在の法律が果して適当の良法なるや否やの批評は、亦国民として吾人の自由になし得る所である。之は中々大問題で、簡単に茲処に説き尽すことが出来ぬ。他日機会を見て改めて説かう。只次の事だけは疑がない。即ち今後の社会には、事実上独立独行する婦人が殖へる、従つて現実に且つ直接に公共の事務に興味を感ずる婦人が殖へる、而して其結果政治の利害得失に傍観的態度をとつて居れぬ婦人が多くなること是である。婦人が家庭的である中は、租税が如何様に使はれ様が、外国との条約が如何様に結ばれ様が、婦人の利害は凡て男子が之れを代表して直接之等の公問題の取扱に与つて呉れる。けれども今後は独立自活の婦人が多くなるに連れ、之等の婦人亦直接に以上の問題に密接に利害関係を有する訳になる。然らば婦人の政治に没交渉であり得ざるは事実之を認めざるを得ない。予は婦人の趣味は、本来決して政治などゝ云ふ方面にはないのだらうと信ずる。従つて之を奨励した所が、婦人で政治家にならうと云ふ者は容易にあるまいとは思ふが、併し婦人を強制して全然政治に没交渉たらしめんとするは、甚だ無理な不当な仕打と信ずるものである。

      七

 婦人の社会的活動が盛になれば、我国家族制度の美風を破壊し、「建国三千年来の國體に由々しき大問題を生ずるの虞」ありと論ずるの甚だしき謬妄なるは、我が読者には余りに明白にして、今更喋々の弁明を必要とせぬであらう。一部の論者は、「現状の儘に放任するときは、遂に欧米各国の如き女権拡張論者を誘致す」るの恐ありと為すも、今日欧米各国には、婦人運動到る処に盛なるも、之が為めに真に弊害を感じて居る国は極めて少い。成る程冷評的に婦人運動を茶かす者はある。併し心から其弊害を嘆じて居る処は英国丈けであらう。而かも英国にて迷惑がられて居るのは、数多き婦人参政権団体中、パンカースト夫人を頭首とする少数の連中に止り、他は何れも社会の尊敬と同情とを博して居る。殊に地方行政に於ける婦人の活動の如き、就中救貧委員としての婦人の干与は、最も良好なる成績を示し、以て英国の輿論をして著しく婦人参政権論に傾かしめた。パンカースト夫人の団体は、其執る所の手段が乱暴極るものたるが為め、識者の顰蹙を招いて居るけれども、而かし彼等は家庭の主婦としては勿論、一個の女性としても概ね穏和にして忠実、些の間然する所なきものが多い。夫れ丈け、彼等のとる所の手段の過激なるは、一々主義に忠なるの致す所なりとて、有名なるキャメル牧師を始め、多くの識者は心私(ひそか)に彼等を尊敬して居る。今度の戦争始るや、彼等は暫く本来の運動を中止し、一転して出征軍人遺族の救護や、自耳義避難民の世話に骨折つて居る有様は、実に見上げたものである。若し夫れ他の欧米諸国に至つては、其参政権を要求するものと、婦人職業の拡張、社会上経済上の待遇の改善等を要求するものとの論なく、何れも世間より多大の同情と尊敬とを以て迎へられて居らぬものはない。彼等は真に心内の自覚に源を発して、外面の運動を為すに至つたものなるが故に、如何に外界に活動しても、決して之が為めに婦人本来の務を怠らない。婦人運動に浮き身をやつす人の家庭に限り、夫婦仲がわるく、御勝手も汚いなどゝいふ世俗の冷評は、西洋にもあるが、併し之は少数の例外であつて、一般は決して左様ではない。要するに西洋では、大体に於て、婦人の社会的活動の為めに、少しも迷惑を蒙つて居ぬと断言して差支ない。
 若し婦人運動が起る為めに、家庭の和楽を傷け、古来の美風を壊(やぶ)るの弊ありとすれば、そは必ず根底のない、皮相の婦人運動である。予は我国の所謂家族制度の動揺が、果して建国三千年来の國體に関係する程の大問題なりや否やを知らざるが、若し家族制度の動揺を防がんとせば、須らく健全なる婦人運動の勃興を奨励すべきであると思ふ。婦人運動の起るは、ドーセ自然の大勢である。人力を以て之を阻止するは、一木を以て大河の決するを支へんとするよりも困難である。然らば寧ろ婦人運動の健実なる発達を助長して、皮相的の軽薄な流行を抑止するのは急務ではあるまいか。下らない取締などをすると却て浅薄な運動の生起を促すものである。予は今日の当局者が、細末に拘泥して狼狽することをやめ、寧ろ社会の各方面に至り、大に婦人の為めに門戸を開放して、彼等の為めに真実なる自発的発展躍進の機会を与へんことを希望するものである。
                         〔『新女界』一九一五年五月〕