政治学の立場より男女の同権を述ぶ
私は或意味に於ては男女同権論者である。どういふ根拠でかゝる立場を取つて居るかと言はるゝと、格別之ぞといふ確信を持つて居るわけではないが、たゞ私の平素専門に研究してゐる政治の学問の考の方からだん/\押しつめて、男女同権といふ様なことを考ふる様になつたのである。
政治には多数決といふ制度がある。否之は政治のみに限つたことではない。今日多数の人から組織してゐる団体に於て、何か事件を決めやうといふ時にはどこでも大抵多数決といふ制度をとつてゐる。又多数決の制度を外にして物事の決めやうは外にはないのである。而して多数決といふ制度の根拠には少くとも次の二つの事柄がある。一つは、其の決議に与る総ての人に附するに全く同一の価値を以てすることである。他の一つは、たつた一票でも多い方の意見が勝を制する。即ち百人中五十一人の意見が四十九人の意見を圧するといふことである。此の二つの事実を許した上でなければ多数決といふ制度は行はれない。
けれども考へて見ると之は如何にも不都合の様に思はれる。人には賢愚の別がある。其の他能力も違へば境遇も同一でない。即ち社会の一員としての実質的価値は決して同一ではない。それを強ひて同一と見るのは不都合ではないか、而のみならず四十九票と五十一票と言へばたつた二票の差である。たつた二票の差で四十九人の意見は全然没却せられ、五十一人の意志が堂々と闊歩するといふことは、我々の常識がどうしても之を是認することが出来ない。かういふ処から多数決といふ制度はまた盛に非難されて居る。さればと云つてまた全然此の制度をやめるわけにも行かない。そこで幾分之に附随する欠点を補ふ方法として、或は人々の政治上に於ける価値に甲乙をつけたり(金持又は高等教育を受けたものにヨリ多くの権力を与へんとする如き)又は少数者にも其の実際の勢力に比例する丈の発言権乃至代表権を認めやうとする説の如き即ち之である。後者は即ち少数代表とか或は比例代表とか言ふ思想の出づる根拠であるが、前者は即ち人類の差別的待遇論の出づる根拠である。
少数代表のことは姑く措き、人類の差別的待遇を是認すべきものとすれば、之と同じ形式の議論から婦人と男子とを別様に取り扱ふといふ議論にも亦相当の理由がある様にも思ふ。
凡そ人類には賢愚の別あり、従つて其の実質的価値が同一でないといふことは疑ひもない事実である。然しながら此の疑ひもない事実に基づいて各々に与ふる権利に差等を附すべしとするも、さて何を標準として此の区別をつけるかは容易に決め難い。人に賢愚の別ありといふことは抽象的議論としては正しいけれども誰が賢者であり誰が愚者であるか、之を区別することは実際甚だ困難である。よしんば出来たにしても其標準は必ずしも絶対的なものではない。故に之を実際の制度にあらはさうとすると、いろ/\困難もあればまたウッカリやつた為に却つていろ/\の弊害を醸さないとも限らない。であるから事実の問題として人の価値に差等をつけ、其の取扱を別様にするといふことは容易に行ひ得べき事柄ではない。
更に政治の本質から考へるに、今日の団体生活に於ては全体の意志がどこにあるかを求めねばならないのであるが、然し我々は之を求むるに当り、賢者は賢者、愚者は愚者と、雑然交錯してゐる間に探し求めるのではない。賢者愚者、相寄り相引きて一種の有機的団体に立つてゐる間に探し求めるのである。そこで社会を有機的に見るといふことになると、賢者の意見と愚者の意見と全く無交渉に対立してゐるものではない。必ずや優つた一方は然らざる他方を精神的に優圧してゐるものと見なければならない。他の言葉を以て言へば、団体全体の意見に対する団体各員といふものを見ると、全体の意見を実質的に創造する方面の役目を務めるものと、之を同化しまた之を包擁して形式的に全体の意見を完成する役目を務めるものとある。前者は賢者と言ふべくんば後者は即ち愚者である。けれども愚者の意志は団体全体の意志構成の過程に於ていつまでも愚者として与るのではない。賢者の意志に同化され、之を包擁することによつて結局賢者と同じ地平線に達する。又は達せんとしつ、之に干与するのである。従つて全体の意志の決定といふ事業に於ては、賢愚と機械的に区別をたつべきものではない。少くとも理想的の状態に於ては賢者も愚者も同等の立場にあるものと見なければならない。従つて政治の目的から言へば賢者も愚者も此点に於ては、其の本質に於て同一の価値を有するものと見るを妨げない。
かう考へて見ると政治上に於ける人類平等論は決して抽象的な空論ではない。
又之を実際的方面から観察すると、第一に若し賢愚の別によつて不同の価値をつけるといふことになると、多く価値をつけられたもの丈で大勢を動かすことが出来る。ベルギーでは普通選挙の制度をとつてゐるけれども、教育あるもの財産あるもの等に、二票三票の投票権を与へて居るので、政治は常に少数の階級によつて壟断せられて居るといふ実例を示して居る。で多く価値をつけられた少数者が大勢を支配する場合に於ては、少く価値をつけられた多数者の利害も無視されるし、又其の開発も等閑に附せられる。無視しても差支がない所から之に対して能力発揮の機会を与へない。第二に其の反対の場合を考へて見て、不同の価値をつけないとすればどうなるか、さうすると人類はすべて同じ価値である。貴族も労働者も一票の価値となれば即ち貴族と同じ様にまた労働者をも重んずる。総て之を重んずるから総ての利害が尊重され、総ての人に能力開発の充分なる機会が提供される。即ち賢愚両者の有機的精神関係が成り立つ。政治的平等論の実際上の利害も亦此点から充分に明にすることが出来る。
多数決の理論も亦之から出て来る。四十九票が五十一票に圧倒されるといふことは如何にも不当な様だけれども、然し他の半面から考へて五十一票をとつても四十九票に勝てないとすれば、誰か一生懸命努力するものがあらうか。一票でも二票でも多ければ勝つといふ制度であつてこそ初めて努力奮闘の仕甲斐がある。若し努力奮闘が盛に行はるゝといふことならば、局部的には間違つた思想が一時大勢を左右することがあつた上しても結局長い間を取つて考へれば正しい思想が天下を支配するに相違ない。故に多数決の制度は一方に於ては正義を擁護する制度であり他方に於ては結局に於て正義を勝利者たらしむる制度である。
要するに多数決の制度も或は政治的平等論の主義も、結局国内に於て最も優等なる意見が天下を支配する様になる制度に外ならぬ。専政主義は自ら国内の優等なる意見と称するものが、機械的に横行跋扈する制度である。而もそれが本当に優良なる意見かどうかは解らない。多数決の制度は何が国内最優良の意見であるかを、団体組織の有機的関係に於て自然に明ならしめ、而して之が確実に大勢を支配するに至らしむるの制度である。
さうして見ると人類平等論には非常に深い意味がある。かういふ根拠からして私は男女の間にも或意味の同権が行はれねばならないことを確信する。婦人の知能の開発と其の使命の完全な達成は、彼女を男子と同等なものと見做すことによつて初めて成し遂げられることが出来る。我は男なり、彼は女なりとの区別感を不当に拡げることは決して社会の健全なる発達を望む所以ではない。殊に知識なり道徳なりの方面の能力を開発すべき方面の仕事に、男女の性を分つが如きは、古い思想に囚はれた一つの弊風と言はなければならない。
かういふ大きな問題からずつと引きさがつて、新女界の廃刊を説くのは、あまりに飛び離れた話の様であるけれども、我々は修養談に於て男女の別を設くるの不当なるを想ひ、遂に廃刊の決意をなした様な次第である。廃刊に際して私の専門の立場から見た覚束ない男女同権論を持ち出して識者の自省を待つ矣。
〔『新女界』一九一九年二月〕