独逸強盛の原因を説いて我国の識者に訴ふ  『新人』一九一五年一二月

 独逸は吾々の敵国であるにも拘らず、我国には独逸を賞める者が少くない。何故に多くの人が独逸を覚めるかと云ふに、其原因を考へて見ると一には独逸が此の三四十年来各方面に於て盛なる勃興をなした事に感心すると云ふ点もある。又一には英国に対する誤解もあるやうである。不思議にも我国には同盟国たる英国に好感を有せざる者が尠くない。其反動として却つて敵国たる独逸を賞むると云ふ事になる。猶其外に独逸が英仏露の強敵を向ふに廻はして孤軍大奮闘してをる武者振りに同情すると云ふ点もある。不利益な地位にあるものに同情すると云ふ事は由来日本人の天性である。是等の種々なる要素が加はつて独逸を賞むるのであるが、併し独逸を讃歎する者の最も主として着眼する所は彼が非常に戦争に強いと云ふ点である。独逸が軍事的に非常に強盛であると云ふ点が吾国の多くの人々をして彼に感服せざるを得ざらしむる最も主要なる点であるからして、我国に於ては独逸の強盛なるに心酔し、はては之れに傚(なら)はんとするものを生ずるに至つたのである。
 独逸の強盛に感服するは素より差閊へないけれども、是に傚はんとする世人の態度に就ては大に論究を尽すの必要がある。独逸の欧洲の戦場に於ける強盛なる武者振は恰も国技館に於ける太刀山の武者振の如きものである。太刀山の膂力の絶倫なるを見て、吾も亦後が如く強壮ならんと欲するのは差閊ない。此意味に於て吾々が独逸に学ばんと欲するのは素より正当である。けれども日本国民を悪く太刀山の如くならしめんと欲するものあらば、吾々は俄かに之れに賛同する事は出来ない。何となれば吾々は太刀山が彼が如く偉大なる体力を養ふために、彼は他の多くの、人間として極めて尊重すべき能力の発達を犠牲としたと云ふことを忘れてはならないからである。吾々は腕力の競争をなすが為めに此世に存して居るものではない。体力の強壮は素より切に希ふ所であるけれども、其外に猶多くの養はねばならぬ方面がある。独逸は独り其の軍事的方面に於て強盛なるのみでなく、他の方面に於ても素より多くの学ぶべきものを持て居るが、今吾々が独逸の物力の強盛なるに驚歎して唯是れを傚はん事のみに熱中し、国民の精神的発達の必要を看過するが如き傾向を呈するならば、之れ我国の将来に取りて由々しき大事である。吾々は戦争に勝つことをのみ思つて国民の能事終れりとなすべきでない。戦争には無論負けてはならぬ。併し戦争に勝つても平和の競争に負けては何にもならぬではないか。
 本年九月の半頃政府では青年団に関する訓令を発した。あの訓令の主旨は表向は如何様にあつても、其目的とする所は義務教育を終つてから徴兵適齢に至るまでの間の青年子弟に、軍事的予備教育を与へんとするにある事は公知の事実である。在郷軍人を指導に仰いで野外演習や体操などをやつて、以て青年の修養を図ると当局者は云つてをる。青年を集めて野外演習をやると云ふ事夫れ自身は至極結構である。青年の体力を之れによつて練る事も出来る。けれども之れを以て青年修養の全部となし若くは少くとも青年が修養のために割くべき時間の全部を之れがため捧げて、他の精神的の修養をなすべき余裕なからしむるが如き事あらば、為めに青年の蒙むる損害は少からざるものであると思ふ。之れなどもやり様によつては国民全体を太刀山たらしめんとする妄策の一つであると云はねばならぬ。独逸心酔者は動もすると斯う云ふ極端に走るから困る。勿論我輩は独逸は全然学ぶべからずと云ふのではない。独逸には全体として我日本国民の学ぶべきものが極めて多いのである。併し先に忘れてならぬことは此意味に於て吾々は英国や仏国にも亦多くの学ぶべきものを持つて居る事である。然るに世人の英仏を論ずるもの動もすれば唯物力の方面よりのみ此両国を批評して、一方盛に独逸を賞める丈け夫れ丈け盛に英仏を罵倒するのである。青年団問題の発頭人と認めらるゝ参謀次長田中中将の如きは此思想の最も明白なる代表者である。中将は本年十一月発行の『義勇青年』第二号に於て「青年団の組織に就て」と題する一文を掲げ、其中に

 一、英国には中流社会なく上流と下流とのみである。
 二、上流社会は学校教育を受けてをるから人間も高尚であり、且つ愛国心も強い。従つて益々向上発展する。
 三、下流社会には学校教育を受けないのと家庭教育がないのと、自由思想の中毒との為めに全然放任されて居る。従つて体力も弱く道徳的観念もなく愛国心もない。
 四、其の結果英国では同盟罷工が流行し、軍務に従事する事を厭ひ、農業も非常に廃頽し、今回の如き大国難に際してすら徴兵制度を行ふことが出来ない。

と云つて暗に是等の下流民に何等かの社会教育を施せばよい、即ち青年団のやうなものは此種類の人民に精神身体の発達を与へ、愛国心を抱かしむる必要なるものなりとの意をほのめかしてをる。
 英国に中流社会がないとか、或は下流人民は極めて劣等な品性を持つて居るとか云ふのは全然事実に反するが、其中一般人民が軍務に従事する事を拒み、今日の如き大国難に際しても徴兵制度すら行はれないと云ふ事を以て放逸極まる堕落国民であると云ふのは、最も明白に短見なる軍人一流の推論の好模範を示して居る。無論今日の如き国難に際して徴兵制度を布かないと云ふ所に吾々も亦英国の不用意を認める。而して之れ亦自由思想の一面の弊害である事を争はない。けれども英国が斯くまで個人的自由を尊重して最後まで其年来の主義を改めざらんとする所に、吾人は寧ろ英国人の偉大を認めざるを得ない。勿論吾々は此点に於て英国を学ぶべしと云ふのではないが、唯だ此英国の短所を通して其奥に潜む彼の長所を味ひ大に参考に供する事は出来ると思ふ。要するに吾々は英国にしても独逸にしても、或は其商工業の盛なる所以、或は其陸海軍の強盛なる所以を皮相的に観察してはいけない。是等の国民は共に夫れぐ偉らい或物をもつて居る。吾々は其偉らい所を根本的に研究して之れに則るべき方策を立てる事が肝要である。羅馬は一日にして成らず、国家の強盛は其が物質的にしろ精神的にしろ其に由つて来る所遠い。一朝一夕の模傚にて之れに到達し得べしと思ふのは大なる誤りである。余は独逸の軍事的に強盛なる点を以て非常に尊いものとは思はない。我国の最先きに学ばねばならぬ第一義なりとは素より思はない。唯だ吾々は智識道徳に秀でても身体薄弱であつては致し方ないと云ふ意味に於て独逸の強盛を欽羨し、且つ之れに学ばんと欲する。其外に尚多くのより重要なる方面をも同時に心掛けねばならぬのは勿論である。而して単に此軍事的強盛と云ふ方面のみに取つて之れを論ずるも、実は之れ亦深き根柢を有し、独逸は一朝一夕にして之れを贏ち得たるものでないと云ふ事を認めざるを得ない。世人は往々にして独逸の強盛を其軍国主義の形式に帰し、或は其形式を模傚し或は此主義の価値を我国民に盲信せしめんとするけれども、斯くして独逸の強盛は我国に之れを移すことが出来やうか。先に於てか吾々は単に其軍事的方面のみを見るも、独逸強盛の原因は決して然かく表面のみに存するものではないと云ふ事を認むるものである。


   二

 独逸強盛の原因として普通に人の挙ぐる所のものは四つある。第一軍国主義が社会組織の各方面に行き渡つてをる事。第二軍隊の組織統一がよろしきを得てをる事。第三国民の気風剛健にしてよく国難に耐へ、一身を公に捧げて顧みざる事。第四学術技芸極めて発達し、且つ学理を実地に応用する方面も亦極めて発達してをる事。而して之等の原因を更に深く考究して見ると、其由て来る所のものが極めて遠く、且つ深い事を発見するのである。
 第一軍国主義の精神が社会の各方面に行渡つて居る事は独逸が今回の戦争に於て最も熱心に挙国一致の実を挙げて居る事に表はれて居る。一遍戦争と決すれば国民が全部同じ方向に志を向ける。国民の歩調が極めてよく一致してをる。すべての階級の国民は皆軍国の目的の到達の上に夫れ/"\貢献する処あらん事を力めてをる。斯の如きは他の交戦国に於て見る能はざる所である。元来感情的に敵愾心に熱すると云ふ現象は開けない国民には珍しい事ではない。昔の耶蘇教徒は聖地回復と云ふ抽象的名義に動いて十字軍を起した。今日でも支那人朝鮮人ならば愛国と云ふ空名に駆られて一時熱狂すると云ふことはある。けれども多少開明に進んだ国民は容易に抽象的空名には動かない。人あり忠君愛国の名を以て煽動し来るものあれば彼等は如何にする事が君に忠に国を愛する所以なりやと反問する。彼等は抽象的名辞に内容の添付を求め夫によつて態度を決せんとする。茲に於て開明国民と云ふものは容易に他の煽動に乗るものでない。英仏の労働者が政府のなす戦争に対して思ふ存分力を入れないのも此点にある。此点に於ては独逸も同一であるべき筈である。何となれば今日開明の程度に於て独逸国民は決して英仏国民に劣るものでないからである。加之本来独逸は英仏と異つて更に国論の一致を纏め難い事情がある。人種の関係宗教の関係、聯邦各国間の嫉視、特に普露西に対する猜疑等は平素頗る国民の歩調を乱してをる。夫れにも拘らず独逸国民が今度の戦争に於て最もよく挙国一致の実をあげて居るのは抑も如何なる理由によるか。斯う云ふ風に考へて其の根本的原因を探究すれば一には之れを制度に帰せねばならぬ。今一つは当局者の非凡の才能に帰せねばならぬ。独逸に於て政治界に人を挙ぐるに当りては我国などの如く情実の加はるを見ない。唯だ其人の能不能が任免黜陟(ちゅっちょく)の唯一の標準である。従て常識に外れた廻り遠い手続なぞで人民を苦しめ、人民の反感を買ふ様な事はない。
 けれども之れ等の二つの点に優つて最も重要なるものは一国の主脳たる君主が実に偉らい人物であると云ふことである。独逸は国情が複雑である丈け、特に制度の力を以て之れを統一するを必要と認め、我国などの如く君主を政治上の実際的責任の上に置かず、現実に君主の独断を以て万機を決すると云ふ主義を取てをる。故に不幸にして君主其人を得ざれば、例令(たとえ)ば十九世紀当初の西班牙の如く国は非常に乱れるけれども、若し幸にして君主に其人を得れば、国家の機関は最も敏活に運用せられ、一人の意志が最よく国家の八方に徹底する。君主専制政治と云ふものは君主其人を得る場合に於て、最もよく其効用を発揮するものであるが独逸は正さに此の好適例を示してをる。現皇帝は素より兎角の非難はある、完全なる人物ではあるまい。けれども彼が現代に於て最も偉大なる人物の一人なる事は敵も味方も之を争はぬ所である。此点に於て独逸人は真に幸福なる国民であると云はねばならぬ。独り独逸では現皇帝のみが偉らいばかりでなく、昔から今日に至るまで代々名君を輩出せしめたといふ事が抑も独逸帝室の誇りである。現に十八世紀の初め、始めてプロシア王号を称したフレデリック一世から一代を置いてフレデリック大王となり、夫れからづつと降つて独逸帝国の始祖たるウイリアム一世に至るまで、其間一人として凡庸の名を冠すべき君主はない。ウイリアム一世が稀代の名君たることは云はずもがな、其子にして現皇帝の父たるフレデリツク三世にしても不幸にして早く死したかなれども、皇太子の時代より国民の信望を一身に集めてをつた。斯の如くフオヘンツオルレン家は歴代引続き名君を輩出して居るが、世人は将来に於ても同様の期待を置いてをる。現在の皇太子、皇太孫皆其の聡明をたゝへられ国民の敬愛を博してをる。斯く皇帝に立派な人物が多いと云ふ事が如何ばかり独逸の強味であるか分らない。凡そ高位に居る人が一度其道を過つて信を国民に失へば急転直下の勢を以て国民の反抗が加はるものであるが、之れに反して少しでも国民の敬愛を受くると非常な勢を以て国民の心服が加はるものである。善かれ悪しかれ国君の言動の影響は、国民の上に非常に大なる働きをなすものである。されば独逸に於ては影でこそ或は国家の専制的政治組織を詛ひ、或は国王の多弁饒舌を詈(ののし)るものがあるけれども、いざとなれば彼等は心から此偉大なる人物を上に頂くことを吾々外人に誇らんとするの傾向を有する。従て独逸国民は全体として英雄崇拝主義者である。然も彼等は理論として英雄を崇拝すべしと云ふのではなく、常に崇拝すべき英雄を有するが故に英雄崇拝主義者である。斯くして独逸に於ては国君の意志が容易に行はれる。従ていろ/\の方面に於て纏りがつきやすい。之れ今日上の一令が汎ねく全国に行渡る所以である。
 然らば吾々は此処に問はざるを得ない。何故に独逸の皇室は代々明君を輩出してをるかと。茲に至つて予は独逸の帝室の常に、子弟の教育に最も熱心に骨折られたと云ふことを思はざるを得ない。而して子弟の教育に真面目に熱注すると云ふ根柢には、皇帝家庭の純潔と云ふことが伏在してをると云ふごとを忘れてはならぬ。而して更に進んで其の奥に実に天地の公道と相通ずる宗教的情感が汪溢してをると云ふ事を注意せざるを得ない。現在の独逸皇帝が宗教的に見て立派な人物であるや否やは暫く之れを措く。唯だフオヘンツオルレン家が独逸新教の保護者として、多年真宗教の味方たらんことを家憲の一として来たと云ふ事は我々の記憶に止むるを要する点である。此の根柢なくしては独逸に明君の輩出を見る事は出来なかつた。従て此の根柢なくしては独に軍国主義は行はれなかつたであらうと思ふ。軍国主義は国民を圧制的に統率することによりては成功しない。国民から云はゞ盲目的に尊崇さるるやうな中心的人物の継続的輩出を第一の条件とするのである。


     三

 第二 軍隊の組織統一の宜しきを得てをると云ふ事。之れも根本的に立ち入つて原因を考へて見れば、先づ第一には当初の軍隊組織者の考へが間違はなかつたと云ふ事を数へねばならぬ。乍併制度がよろしいと云ふばかりでは活きた人間より成る所の軍隊はうまく活動するものではない。そこで独逸の軍隊の卓越して居ると云ふことに就て他に一の大なる原因の存在すると云ふことを認めなければならぬ。其一は将校が兵卒の統率よろしきを得て居ると云ふ事。第二には一般人民が軍役に服することを以て名誉とし、且つ満足とすると云ふ事である。独逸では一般に非常に軍人を尊敬する。将校ばかりでない。一般の兵卒でも社会は余程之れに対して尊敬を払つてをる。其上に独逸では兵役に服したものが出来る丈け服役終了後生活に困つて軍人の体面を汚すやうな事のない様に骨折て居る。例へば兵役を終つたものでなければ郵便鉄道の吏員になれないとか、又一定の義務年限を終つて更に一定の年限をつとめた者は郵便鉄道等の判任官に採用するとか、其他法律を以ていろ/\退役後の軍人の生活を保証するの道を講じて居る。故に国民は軍役に服することを喜んで居り、父兄も亦之れを喜んでをる。斯くの如く兵役が国民の喜んで之れに就かんと欲すると云ふ事が、軍隊の働きがうまく行く所以の根本原因である。日本の如く国民一般が軍務に服する事を苦痛とし、父兄は又退役後の生活を国家が見てくれないので、二三年兵役を務めて帰つて来たものは却つて家業に就く事を嫌ひ、人間が生意気になつて郷党の厄介者となると云ふやうな処から、其子弟の兵役を免れん事を心密かに希望する。若し夫れ貴族富豪にありては其子弟を外国に送つて兵役を免れしめると云ふ悪風がある。斯う云ふ様では国民が喜んで軍務に服すると云ふ訳には行かない。夫れ故に我国では軍隊精神と称して無暗に上官に対する盲目的服従を要求する。其結果随分悲惨な出来事が軍隊内に起るやうであるが、之れ一には将校其人に見識が無いからである。
 然るに独逸では将校が実に偉らい。何故将校が偉いかと云へば、独逸では概ね貴族が将校になるからである。貴族が将校になると云へば将校に無能なものが多い様に聞ゆるけれども、貴族の子弟に偉いものがないと云ふのは日本独特の現象であつて西洋では貴族の子弟は皆偉い。特に独逸に於て最も然りである。一体軍人に限つたことではないが、独逸では社会の各方面に於ける高等の地位は皆貴族で占めてをる。之れは社会の習慣として平民がそこに行けないと云ふのではない。平民がどんなに奮発しても、貴族が平民に劣らずどん/\進歩するから、平民の子弟が高い地位に上る余地がない。故に実業界でも政治界でも軍人でも錚々たる地位は皆貴族によつて占められて居る。之れが独逸の偉らい所である。平民がいけないときまつて仕舞へば社会の進歩は停滞する。けれども門戸は何人にも開放せられて居ながら、自由競争上到底平民が貴族に及ばないと云ふ所に独逸の特色がある。同じことを云ふても平民が云ふよりも貴族が云へば夫れ丈け重きをなす、何となれば貴族は伝説的に一種の社会的権威をもつてをるからである。其貴族が自由競争上平民に優り、而して夫れ等のものが社会を指導する階級に居るのだから、独逸は専制政治でも治まりがついてをるのである。而して中にも軍人には貴族にして地方の富豪、之れを我国に例ふれば封建時代の大小の段様の子孫に当るものが多い。昔の大名の子孫は夫れ自身に於て非常な権威を持つてをるのに夫れが学問もあり徳望もあり、又非凡な才能を懐いて兵卒に臨むから、兵卒が心から服するのも当然である。故に独逸に於ける将校兵士の関係は、我国と同様絶対的服従ではあるけれども、彼にありては心服、我にあつては盲従と云はねばならぬ傾向がある。此点が実に独逸の軍隊の著しい強味であると思ふ。
 然らば茲に吾々は問はざるを得ない。何故独逸の貴族の子弟が斯くの如く偉いのであるか。我国では貴族富豪の子弟と云へば大抵馬鹿ときまつてをる。我国では馬鹿を出し彼国では穎才を出すと云ふ、其両極端の現象を来す根本的原因は、矢張り之れを其家庭生活の源泉に宗教が存すると存しないとの差であるとせねばならぬ。宗教の有無と云へば話が廻りくどくなるが、一口に云へば父兄が子弟の教育に就て根本的の考へを持てをると否とに帰する。若し父兄が子弟の教育に就て普通当然の考へをもつて居るならば、名望あり財産あり其他有ゆる便宜を有する貴族の子弟が、競争上多くのハンディキャップのついてをる平民の子弟に負ける道理はない。新式の器械を据ゑ付け豊富なる石炭を積み込んで居る汽船が、和船と競争して負けると云ふのは不思議な現象である。我国の貴族富家の子弟が悉く競争上平民に敗を取てをるのは、つまり彼等は亀と競争した兎のやうに虚驕の心掛をするからである。而して子弟をして如斯境遇に放任して居るのは父兄に於て子弟の教育に関する責任を感じないからである。畢竟人生に対する義務責任の意に乏しいからである。而して斯くの如くなる所以の者は宇宙人生に関する信念の欠乏に原因するのである。独逸の貴族は遉がに此点に於ては優れたものだ。父兄が其子弟の教育に熱中するばかりでない。政府も皇帝も此事には非常に骨折つて居る。彼の独逸の諸大学に於て学生は夫れ/"\古い歴史を有する団体に加盟して此処に於て一種の精神的訓練を受けて居るのであるが、此学生の団体に対して社会並に政府の尊敬を払ふて居る事は実に吾々の予想の外である。皇帝すら此団体に向つては多大の敬を払つてをる。最も皇帝とても学生時代には此中のある団体の一員であつた。予は独逸滞在中皇帝が此学生団を非常に尊敬したと云ふ適切な実例を見た事があつた。当時皇帝がアルサスの首府ストラスブルグにお出でになつて或儀式を行つた時に、皇帝は同地大学の学生団に一番よい位地に立つて、此儀式に列するの光栄を与へられた。然るに当日に至り同地の総督は何かの都合で学生団の地位を少し不便な所に移した。すると学生団は隊を組んで一旦其場所まで行たのであるが、場所の変更を聞いて吾々を侮辱するものと称し、直に踵をめぐらして大学に引上げた。而して大学から皇帝に向つて祝意を表するの電報を発し、且つ会場を退席したる理由を述べたのである。ストラスブルグ大学は同地の離宮と恰度河を隔てゝ相対して居る。学生は云はゞ離宮の前を退いて遥かに大学の楼上から其式場を睥睨した形になつてをる。然るに皇帝は此学生団の祝電を甘受し、翌日改めて団の総代に謁見を給ひ、之れに慰撫奨励の訓戒を与へられたのであつた。斯う云ふ風に教育と云ふ事には国家挙つて真面目に心を傾けて居る。是等の点が実に独逸の国民をして甘んじて英雄の統率の下に服せしめて居る所以である。
 第三 貴族が偉いと云ふことは必ずしも人民が偉くないと云ふ事を意味しない。独逸の人民は又却て健全にして常識に富んでをる。総ゆる方面の生活に於て少しも浮薄の点がないと云ふ事が其特色である。最も一般人民の健実であると云ふ事は何も独逸人に限つた事ではない。之れは仏蘭西人も英人も皆同様であるが、独逸は特に著しいと云ふ事は出来やう。彼等は健実なるが故に生活に余裕がある。田舎にはいつて見ても農村の疲弊と云ふやうな現象は割合に少ない。斯う云ふ健実なる国民が国家の基礎をなして居るのだから独逸の強盛なるも亦敢て怪しむに足らないのである。然らば何によつて独逸の一般国民はかく健実なりやと云に就ては、最も明かに宗教の力である。若し宗教だけに其原因を帰するを欲せざるならば宗教と教育の力、具体的に云へば各地方々々に於ける牧師と小学校教師のカである。独逸は小学校の教師と教会の牧師とに適当な人物を得、且つ彼等の待遇をよくして、永く一郷の師表たるの体面を維持する事を得せしめ、又引続き其知徳を修養するを得しむるために、最も適当なる手段を講じてをる。殊に教会の牧師は其給与も潤沢であるが、多くは大学の優等の卒業生にして其知識の点から云ても、其品格の点から云つても、国内最良の人物が其任に当つてをる。之れが一郷一村の中堅となつて精神的指導の任務に当つて居るのだから、其下に生活して居る国民は健実ならざらんとするも得ないのである。最も伯林其の他の大都会又は商工業の盛なる地方に於ては破壊的自由思想もなか/\盛になつて居るが、然し一般には牧師の勢力は遥かに地方の名望家を凌いでをる。現に市長か村長とか或は議員とか云ふ様なものでも、牧師の鼻息を覗つて居るやうな有様である。牧師は斯の如き大勢力を持つて居るから、若しも之れを濫用するならば非常なる弊害を生ぜんも幸にして其任に当るものが殆んど常に智徳二つながら備つてをる相当の人物であるから、其の成績は上るばかりである。斯う云ふ設備があつて初めて国民の健実なる気風と云ふものが養成されるものである。勤倹は之れを云ふにはやすいけれども、之れを国民の気風として植ゑ付ける事は一朝一夕の事業ではない。而して独逸に於ては数百年此方の宗教が実に此任を尽してをる事を思ふ時に、吾々は又顧みて大に反省するものなきを得ない。


     五

 第四 終りに工芸の発達の事であるが、之れも由来する所は遠いのである。独逸に於ては貴族は主として政治社会、軍事社会に入り、一般下民は各其郷村に止まつて父祖の事業を継続する。而して教育界は主として中流社会の秀才が此処に集まると云ふ傾向がある。けれども独逸の学術技芸が非常に発達して居ると云ふ事の根本の原因は、同国が大学教育と云ものを非常に重んじたと云ふ点に存する。大学教育を重んずるの結果、独逸は精神的にも物質的にも極めて学者を優遇する。此優遇あるが故に天下の人才は喜んで学界に身を投ずるのである。而して彼等は物質的の優遇によつて安んじて研究に従事し、又精神的の優遇を利用して其研究の結果を社会の実用に供する。故に学問の研究は益々盛大となり、其研究の結果は直ちに社会人生の実用に応用せらるゝのである。かう云ふ設備が多年存在してをつたから、戦争になつて食糧に困るとか軍器弾薬の供給に困難するとか云ふ様になれば、学者は直ちに独特の技量を発揮し、新規の発明に腐心する。四十二吋の大砲とか、毒瓦斯の応用とか、其他各種の驚くべき新発明を以て学者が軍国の急務に応じてをると云ふ事も、独逸を除いて他国には多く其例を見ざる所である。而して其の根本的原因は何かと云ふに、独逸の識者が国運隆興の真の要件は教育の振興にありと云ふ事を真面目に意識して居つたからである。唯だ口に云ふ丈けならば日本の政治家も之れを云ふ。乍併真に其意味を味ひ且つ之れを実施すると云ふことは、遠大なる理想を以て居る政治家にして初めて之れをよくする事が出来るのである。独逸の宗教は実に斯の如く遠大なる政治家を作つた。学芸の発達は俄かに理化学研究所を立てるとか、国産の奨励を法律できめるとか云ふ様な事で、急速に之れを達し得るものでないのである。之れを要するに独逸強盛の原因は単に其軍事的方面のみを見るも其の由つて来る所は極めて遠い。独逸に心服して之れを学ばんと欲するものは、須らく此の根本的原因を明白にして以て我国将来の指導を誤らざらんことを切望する。(十一月廿日記)


                           〔『新人』一九一五年一二月〕