独逸反動革命の観察

 三月央(なかば)、独逸の平民政府が保守派乃至帝政派の反動革命によつて転覆を余儀なくされたといふ報道は、前々から社会党内閣の失政と之に対する国民的不安の風評が高かつたとは云へ、少からず我々を驚かした。我国に於ても、急進的傾向を取る者は、為めに多大の失望を感じ、之に反して反動的傾向を取る者は私かに意外の痛快を感じたやうに見えた。併し乍ら、バウエル内閣に代つてカップ内閣の出来たといふ事は、果して独逸社会主義(必ずしも社会党と言はず)の失政と云ふ事が出来るか。或は保守的帝政派の潜勢力の偉大なる事を証明することが出来ると云ふ事が出来るか。果せる哉此反動革命は過日を出でずして失敗に終つたらしい。其所謂成功の日と雖も、新政府の威力の及ぶ所は僅かに伯林の附近に止るやうであるが、何れにしても我々は未だ独逸の共和制の基礎を左程薄弱なりと観ることは出来ないやうだ。保守派帝政派の勢力も素よりまだ十分に侮り難いには相違ない。さればと云つて今後の独逸が事に依ると帝政派の乗つ取る所となるべしとまでは考へられない。今度の反動革命が皇帝引渡問題によつて激成せられたる民心の興奮によると云ふも、斯う云ふ傾向が彼等の考の主たる流をなすものと観るのは恐らく事実ではあるまい。

 反動革命の行きさつは之から段々詳細の報道が新聞にあらはるゝにつれて、明かになるであらう。今の所まだ報道が断片的で纏つた観察を下すことが出来ないけれども、只大体の輪廓丈けから云ふなら、近世歴史上にあらはれた定型と著しく異るものではないやうだ。近世の政治的諸革命は殆んど符節を合するが如く次の五つの階段から成つて居る。各階段の時期に長短の別はある。長かれ短かゝれ、之れ丈けの階段を経て結局革命が其趣旨を貫くに至ることは同じである(全然失敗に帰したものは別として)。第一は新精神勃興時代である。姑(しばら)く仏蘭西大革命を例にとつて云ふなら、十八世紀の後半、ヴォルテール、ルソー、モンテスキューなどの活躍した時代は即ち之れである。古き桎梏の下に苦みながらも、民衆に希望を抱かしめ、踴躍止む能はざる熱情を感ぜしめたのは即ち此時代である。革命の力はこゝに養はれた。第二は旧物破壊時代である。新精神に燃えた民衆の熱情は遂に爆発した。只勢の趨く所其止るべき所に止ること能はずして極端に流るゝことを常とする。斯くして清新純真な革命家は往々にして排けられて、躁急狂暴の弥次馬が跋扈する。其結果事実は当初の理想に悖り、所謂革命の効果は革命の精神に裏切ることゝなる。そこで当然に第三の失望時代が来らざるを得ない。失望するものは啻に穏健な識者ばかりではない。躁急狂暴の煽動家に雷同した民衆彼自身も亦実物教訓の前に遂に頭を垂れて彼等自身の先達に怨嗟の情を寄するやうになる。社会はやがて乱雑に厭きて秩序を思ふ。而して新しき試みに失敗した多数平凡の徒の常に陥る所は旧い経験に逆戻りすることである。更に第二第三の新しき試みに苦心する先輩者もないではないが、多くの場合に於て彼等は容れられない。斯くて一時現実に失望した民衆は昔時圧制の苦痛を忘れて旧き経験に未練の情を寄する。茲に反動政治家は乗ずべき絶好の機会を見出すのである。此第二第三の時代は千七百九十三、四年より九十八九年頃の仏蘭西の状態が最も鮮かに示して居る所のものである。さうして其次に来るものは第四の反動時代であることは云ふを俟たない。新しき試みに失敗した仏蘭西の民衆は千七百九十年前後、あれ程突飛な改革を断行してより未だ十年ならずして、絶代の専制君主那翁一世を迎へたではないか。彼の専制政治に謳歌すること十有余年、其外勢によつて没落を余儀なくさるゝや彼等の更に迎へたものはルイ十八世である。反動時代の継続斯くも長きに亙れるは、考へて観れば不思議と云はざるを得ない。只此時に当つて我々の特に注意せざるべからざるは、如何に失望の極、復古的精神を旺ならしめたとはいへ、此時代の民衆は革命以前の民衆にあらず、兎も角も一度新しき風潮の中に呼吸したものであると云ふ事である。故に彼等は意識的には旧政の復活を計つても、無意識的に自らその間何等かの新味を加へざるを得なかつた。こゝに全然旧きものに満足することの出来ないと云ふ新時代の精神の伏在するを認めなければならない。否、復古的風潮は一時の反動的現象に過ぎずして、彼等はまた早晩純乎たる新精神に覚醒せざるを得ない。是に於て最後に来るものは整理時代である。即ち一旦旧制にたよつた事の結果、出来上つた諸々の関係を新らしき精神に合するやうに整理すると云ふ時代である。而して反動時代に於て再び時を得た特権階級が容易に新精神に順応するを拒む時に、整理時代は往々にしてまた革命の形を取ることがある。仏蘭西の七月革命、二月革命の如ぎは畢竟此意味のものに外ならない。斯くして辛(ようや)く革命の効は其緒に就き、更に改むべきもの戦ふべきものゝ数多く存することは云ふ迄もないが、先づ新しき精神が新しき時代を築き上げつゝ順当に其歩武を進めると云ふ事になる。之れ丈けの順序を踏み損つて革命に其効を全うせず、国家社会も支離滅裂ならしめたものもないではないが、今日文化を以て鳴つて居る国の多数は先づ此れ丈けの順序を経て居ること丈けは疑を容れない。
 斯う云ふ型を標本として独逸今次の反動革命を観察すると、我々は其由来を研め、其将来を忖度するに多少諒解する所あるを思ふ。講和以前一両年間の思想動揺は、他の交戦国に於けると同じく、新精神勃興時代と観ることが出来る。只旧物破壊時代が他の国に於けるが如く著しくないのと、又長くないのとが独逸の特色で、従つて失望時代も普通の例に観るが如く深刻ではないやうだが、最近社会党政府の施政に対する不満の声や、都鄙を通じて秩序弛緩し、民衆が生活上著しく不安を感ずるに至つた事なぞを観れば、矢張り程度を異にするの差はあれ、此二つの時代が矢張りこゝにもあらはれたと云はなければならない。して見れば反動時代の来るのは当然であつて、それは強ち帝政派が兼々此隠謀をたくらんで居つたとか、前独逸皇帝が遥かにアーメロンゲンから糸を引いて居つたとか、皇帝引渡問題について民衆の敵愾心が一時に激発したとか云ふ事のみに依るものと云ふ事は出来ない。けれども第二第三の時代がそれ程深刻なものでなかつた丈け、第四の反動時代も左程の働きを見せないで忽ち屏息するに至つたのも亦怪むに足らない。して見れば之からの独逸はこゝに初めて整理時代に入つたもので前途如何になるやは略ぼ之を想像するに難くないやうな気がする。
 斯く考へて観ると独逸革命の経過は只其中間に位する各時期の長短の差こそあれ、大体の形は普通の定型に著しく異るものではないと云つていゝ。

 以上の観察にして誤なしとせば、我々は第一、革命後最近までの社会党政府に失政の非難あり、又民間に不平の声が高かつたとしても、之は革命の進行に通有の現象にして、寧ろ当然の話と云つていゝ事である。之によつて独逸の社会党が駄目だの、独逸の革命は結局失敗に畢るだの、又は独逸の民衆が決して革命を悦ぶものでないなどゝ観るのは恐らく謬りであらう。独逸の社会党政府に真に許すべからざる失態ありしや否やは別問題として、兎角斯う云ふ新しい時代には、第二流第三流の弥次馬が飛び出して一旦事を謬るを常とし、否らざるも兎角世間の非難を蒙り勝ちなものである。第二に注意すべきことは独逸革命後の経過が他の革命の場合に比し極めて穏健なる進行を見た事である。之れ畢竟過去の政状が他国の如く酷烈でなかつた結果であらう。帝政時代の独逸は其形式を専制にして実際可なり民主的なものであつた。治者階級の誠実と民衆の訓練が革命的混乱の時期を斯くも短縮するものであると云ふ事は我々の大いに注意を要する点であると思ふ。第三に独逸に今日尚所謂帝政派の勢力が相当に強いからとて其優勢を過信してはいけないと云ふ事である。革命はいはゞ大洪水のやうなもので一切の旧いものを掃蕩するとはいひながら、何所の国でも旧勢力の残党が相当永い間社会の煩を為したものである。殊に独逸の革命は頗る穏やかに行はれた丈け、旧勢力は殆んど其儘存在を許されて居る。仏蘭西が那翁三世の帝政に終りを告げしめた時、新しき議会を作るべく選ばれた議員の三分の二は王党であつた。而かも時勢の要求は終に共和政体として結局固まらざるを得なかつた。我国など、国情を異にする西洋に於ては、蓋し当然の事であらう。何れにしても所謂旧勢力は畢竟するに旧勢力に過ぎない。之が一時反動の潮流に乗じて頭を擡げるのは歴史上から観て当然の話であつて、之によつて新時代に於ける彼等の復活と権力とを想像するならば大いなる謬りであらう。先頃予は独逸の友人から手紙を貰つた。彼はもとプロシヤの士官で生粋の帝政派である。而かも彼は書面の中に革命後の独逸に軍事視察の為め多数の軍人を派遣する日本政府の時代錯誤を罵倒して居つた。之によつて観ても独逸の落ちつく先が分る。
 之を好むと好まざるとに拘らず、今や新らしき時代の舞台は鮮かに吾人の眼前に展開しつゝある。劇中の小波瀾に眩惑して、大勢の進行を看謬つてはならない。

                           〔『中央公論』一九二〇年四月〕