外交に於ける国民的示威運動の価値



 華府会議に於て支那の言ひ分が十分に通されないと云ふので北京上海を初め各都市に於て例の国民的示威運動が始まつて居るやうである。あゝ云ふ運動は今日の外交上の懸引きの上にどれ丈けの値打ちがあるものだらうか。
 同じ様な事を日本でやつた者もある。海軍比率の七割六割の問題について、何とか云ふ会が国民大会の名に於て電報を米国に送つたが如き、即ち之れである。斯くする事が我国の全権を督励し、併せて他の外国の全権使臣の感情を動し、以て問題の解決を我が有利に導き得べしと思ふならば、そは大なる誤りである。
 尤も斯うした方法が全然無効だと云ふのではない。けれども斯うした運動の最も有力に効果を奏したのは旧い時代の事だ。凡べて国際会議と云ふものが骨董の商売のやうに、双方の懸引の上手下手で安くもなれば高くもなると云ふのなれば、味方危しと見た時に後から大々的に輿論の声援を与ふるも可い。然し今は国際問題を懸引きによつて定める時代は過ぎた。商売で云ふなら誰が見ても相当とする正札でなければ通らない時代だ。全然懸引が無いとは云はないが、兎に角昨今の国際問題処理の標準は、凡べての国に通ずる道理である。道理は声援によつて枉ぐる事は出来ない。此点に於て国民大会の示威運動の如きは、一円の正札の物を五十銭に買はうとして、妻子眷属がぞろ/\主人公の後に随いて三越に押懸けるやうなものである。
 が予輩の之を此処に説くのは、国民的示威運動が無駄だと云(いう)の点に主点を置くのではない。之を無駄だとするに至つた時代の変遷に読者の注意を喚起したいのである。兎に角今日は相当に道理が幅を利かす世の中だ。力無き正義は役に立たないと云つたのは戦前の事で、今日は道理を内容とせざる力の誇示は反感を挑発せずんば、少くとも物笑ひの種となるに過ぎない。示威運動其物は馬鹿気て居ると云ふのではない。やるならば理を極め義に仗(よ)つて正々堂々とやるが可い。軽挙妄動は寧ろ事の成功に遮(さまた)げになる。

                               〔『中央公論』一九二二年一月〕