狂乱せる支那膺懲論
近頃、学者、軍人、記者等の一部の間に、外務当局を鞭撻して武断的対支外交の措置に出づべきを、頻りに説き廻る連中があるといふ噂を耳にする。
顔触れを見ると、又あの連中かと真面目に相手にする気にもなれぬが、念の為に其主張する所を聞くに、曰く暴慢なる支那の排日的行動を膺懲すべし。曰く之等運動の黒幕たる米国をも序に敵として一泡吹かしてやるべし。曰く英国は印度が恐いから中立を守るに相違なく、爾余の国々は口では何と云つても当分東洋にまで手が出せまいから、やるならば今が実に絶好の機会だと。
斯んな無謀な企ての、到底実現さるべき筋のものでないことは言ふまでもなく、之を説く連中だつて本気の沙汰かどうかは分らない。只物価の高い今日、態々御腹をすかして騒ぎ廻るに就ては、他に何等かの思惑があるに相違ないと観るのも一つの解釈である。想像を逞うすれば次の様な事でもあらうか。
曰く斯くして兎に角戦争気分を民間に深め、動もすれば起らんとする軍備縮少論の鋒先を挫かんとするに在り。曰く排米熱を民間に高め、之を転じて親米的
― 彼等の斯く看做す所の ― 民本主義者の社会的圧迫に利用せんとするに在り。又曰く排日運動の膺懲論をば巧に転用して、支那政府の自ら為す所の武断的取締を援助すべしとの国民的輿論を作り、原内閣の方針をマンマと切り崩して、再び寺内時代の援段政策に帰らんとするに在りと。
何れにしても、国民の疑惑の眼は直に軍閥方面へ飛ぶ。飛んだ迷惑だと彼等の知らぬ気の顔が想ひやられる。
噂の火元の孰れに在りやは暫く措く。只斯んな無謀な運動の少しでも娑婆に存在を許さるゝのは、畢竟多数国民の頭の中に、「あんな場合には癖になるから十分威圧を加へなければならぬ」との考が潜んで居るからである。我々は第一に此謬想より醒めねばならぬ。
去ればとて、支那人の暴行に対する自衛の策は決して等閑に附してはならぬ。我の正当なる利権の飽くまで擁護に努むべきは言ふまでもない。
〔『中央公論』一九一九年七月〕