政治家の料理に委かされた軍備制限案
総ての社会的政治的問題は、民間の輿論と云ふやうな形で思想家から取扱はれて居る場合と、それがいよ/\政治家の手に渡された場合とを区別して考ふる必要がある。殊に這の必要は我日本に於て多い。何故なれば思想家の頭と政治家の頭との隔りは、我国に於て非常に遠いからである。例へば普通選挙の問題にした所が、民間の輿論としては殆ど疑問が無くなつて居るのに、一度び政治家の手に渡されると、未だ早いとか、或は独立の生計と云ふ条件が必要だとか、いろ/\の異論があつて、其間にかなり大きな妥協を許さないと実行に一歩を進むる事が出来ない。妥協するのが可いか不可いか、それは姑く別問題として、政治家が実際上何とか之を落着けようと云ふ必要に立ち至ると、必ず妥協と云ふ事になる。之れが不都合だと真剣になつて怒れば、所謂迂儒時務を知らずと云ふ事になるのであるが、又まるで理想的要求を顧みないと云ふのでも困る。何れにしても単純な理論の問題としてはどう、実際政治の問題としてはかうと其間に区別して見るでなければ、所謂事情に通ずる者と云ふ事は出来ない。之と同じ理窟でかの軍備制限論の如きも、亦之を純理論の立場よりすればどう、又華府会議に於て実際政治家の取扱ひによればかうと、二つに分けて議論する事が必要である。純理論から云へば、どうせ平和の理想を実現しようと云ふのなら、軍備撤廃まで行かなければならぬ、と云ふ論が一番徹底的だ。けれども若し此見地から、ヒューズの制限案が甚だ理窟に合はないなどと論ずるならば、そは取りも直さず甲の立場によつて乙の立場を論ずる者である。制限に伴ふ比率の問題をそれ/"\の国の国防的見地から議論すると云ふのも、やゝ此嫌ひは無いか。どうせ華府会議の制限案は平和論の理想的要求に促されたものたるは疑が無い。然し現在の場合に於て、其理想的要求の其儘実行し難きは、丁度阿片吸飲の禁を直ちに中毒者に適用すべからざると同一である。現実に着眼する政治家の立場としては、最後の理想を着眼しつゝ、現実に一番行い易い方法を工夫するの外は無い。其処がヒューズの覗ひ処であり、又吾々の議論の標準でなければならぬ。惟ふに最近各国は共に殺伐なる武装的対立の形勢に倦んで居つた。其際限無き財政的負担に苦しんで居つたのは第一回万国平和会議以来の事である。然し如何に苦しいからとて軍備の制限は独りでは出来ない。独りでも拡張するものがあれば、如何に苦しくとも之れに伴(つ)れて自家の安全の為めに図らなければならない。それが堪え難き苦痛であるとともに、又甚だしく戦争の危険を挑発するものであるから、若し各国の間に満場一致の協定を見る事が出来るなら、皆で約束をして此苦しみを抜けやうと云ふのが、最も卑近な制限の動機だ。政治家は先づ此処に着眼する事が必要であるのみならず、又此着眼点からする制限案が一番実行し得べきものである。斯う云ふ立場から云へば、何も理窟なしに何割減と云ふ風に天引きするのが最も理想的の案だ。只此際一割引にすれば、甲に都合好く乙に都合悪しき事あり、二割引にすれば、乙に都合好く丙に都合悪しと云ふやうな事が有り得るので、出来る丈け多くの国の承認し得る程度の割合が何処に在るかを発見するのが、即ち政治家の手腕に待つ所である。若し之を純粋に理論家が理窟に合はないの、機械的に過ぐるのと云ふならば、そは甚だ政治に盲目なるの譏を免かれない。華府会議に於ける討議の模様がどうのかうのと云ふ訳ではないが、只世上の評論のうちには此理論的見地と政治的見地とを甚だ混同する者があるが故に、此処に一言せる所以である。
〔『中央公論』一九二二年一月〕