国家と教会

 本誌前号の「新人の一群より」欄内に、前々号所載の僕の論文〔本巻所収前掲〕に関する山本君の感想が載つて
居る。其中に国家と教会との関係に就いて、同君の忌悍なき意見の発表もあるが、これから暗示せ得て、僕は又
                                          ばか
国家と教会との関係、他の言葉を以てすれば我々の宗教生活と政治生活との関係に就いて、少し許り考へさせら
れた。我々は国家の一員として生活して居ると共に、又教会の一員として、或は広く神の国の一員として生活し
て居る。此の両方の生活は、何れも我々に取つて非常に大事なもので、一方の為めに他方を犠牲にするといふこ
とは出来ない。が、又其の間に時々矛盾衝突もあつて大に悩まされる。これは我々一人許りでなく、多くの兄弟
                                                   つか
姉妹方の共に常に経験せられる所であると思ふ。随つて又此の問題に関して、我々が動かない確信を攫むといふ
ことは、極めて必要のこと、思ふ。山本君に対しては勿論の事、外の多くの友人に向つても、此の問題に関して
は十分の講究を重ねられたく、而して其の腹蔵無き意見の発表を試みられんことを希望する。此等の問題に関す
 ま じ め
る真面目なる意見の発表の為めには、本誌は喜んで余白を割愛するであらう。
     二
人類の目的或は共の活動の目標が何であるかは、人々の間に議論のある所であるから、これが批ぐ分らないと
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しても、兎に角我々は何かを追ふて努力奮闘して居ることは疑ひない。而して其の努力奮闘によつて何等かの目
的を達せんとする其の我々の生活の過程が、我々の団体生活と密接に結んで居ることも亦疑ひを容れない、即ち
我々の生活は、或る一面に於ては団体の生活である。団体を離れて我々の生活を想像することが出来ない0それ
                       もつと
程団体生活は我々に取つて大事なのである。尤も理窟をいへば、共の団体生活といふのも、実は一個人〈の目
                                                      いわゆる
的を達する為めの必要なる手段であつて、絶対的意義を有するものは、何処までも個人の生活であると観る所謂
個人主義的見解もある。又之に反して、個人は大きな団体の為めにあるものであつて、団体其のものが絶対的実
                                         土
在だと観る団体主義、或は之を今日の世の中に宛て貯めて見れば、国家主義ともいへるが、さういふ見方もある0
これもどの見方が正しいかといふことを争ふならば、色々の意見はあるだらうが、これも姑く別問題として、我
                                                      よ
々は只だ何れにしても、相互の間に密接なる有機的関係があるといふことを承認すれば宜い。そこで深い根本の
議論は之を哲学者に任すとして、我々の常識では、一方に於ては個人としての我々の生活の完成を図り、又他の
一方に於ては、団体の一員として我々の団体生活の完成を図り、而して団体其のものを向上発展せしむれば宜い○
之を我々の義務といふ点から見れば、我々の独立の一人格としての為すべき義務がある、又社会の一員として為
すべさ義務がある。
 斯ういへば、事は甚だ簡単であるけれども、併しながら我々の実際生活に於ては、独立の一人格としての為す
べきこと、団体の一員殊に国家の盲として為すべきこと、の間に、時々矛盾衝突価ある。個人といふ立場から
観ると、我々は何処までも自由を主張する。国家といふ立場から我々の常に感ずる所は、幾多の拘束である0自
由と拘束とは、本来相一致すべきものでない。けれども又他の一面から観ると、我々の自由は我々の国家生活を
離れて存し得ない。そこで我々は一方には、色々不便なる拘束や束縛を受けつ\自分の自由の開発を掬つて唇
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国家と教会
る矛唇の状態にあるやうに見える。併しながら何故我々は国家生活に於て、色々の拘束を受けねばならないかは、
尚ほ後になつて説明するが、唯だ此の問題となるのは、一方に我々は個人の生活に於ける自由を拡張し、他のノ
方には国家生活に於ける色々の拘束組織を完成する、此の互ひに相容れない矛盾した方面に我々の努力を向ける
ことによつて、我々の人格の完成を図ると云ふことは、一見両立し得ない矛盾した話ではないかといふ間選であ
           かつ                                                                          ゅぇん
る。是れ即ち嘗ては国家の強大は個人の自由とは相容れず、随つて国家は必要なる禍害だなどゝ云はれた所以で
                              やや
あつて、個人本位の政治主義と国家本位の政治主義とが、動もすれば相矛盾するが如く見られた所以である。宗
教生活と国家生活との矛盾衝突といふことも、亦其の一種に外ならない。併しながらこれと同じやうなことは、
我々の日常生活にも幾らもある。例へば胃が悪いといつて胃の薬を飲むと、脳が悪くなる。そこで脳の薬を飲む
と胃を悪くする。丁度此の脳の薬は胃に悪く、胃の薬は必ず脳を害するといふ所から、一遍胃か脳かを害したも
のは、永久に健康の回復が出来ない訳だ。即ち胃が良くなれば脳が悪くなり、脳を良くすれば胃を害するからで
                                  ゆる               じゆうりん
ある。我々の生活に於ても、個人の自由を発展すれば国家の強制組織が弛み、国のカが張れば個人の力が揉潤せ
られる。而して我々の生活全体としては、何れを抑へて何れを揚げるといふことは出来ない。丁度胃さへ良くな
                                        」めた
れば脳が悪くなつても宜い、脳さへ良くなれば胃が悪くなつても宜いといふ能はざると同一であるから、完全円
満の我々の生活全体の発展は到底期せられないやうに見えるけれども、不思儀に我々の身体は胃の薬を飲んだり
脳の薬を飲んで居る間に、何時の間にやら健康を回復して、脳の薬を飲んでも胃が悪くならなくなり、胃の薬を
飲んでも脳が格別悪くならないやうになる。理想的の健康状態に回復することは出来ないとしても、兎も角も段
々〈に健康を回復して行くことだけは疑ひない。我々の国家生活も亦同様であつて、理窟をいへば、一方が良
くなれば他方が悪くなり、円満完全の発達が出来ないやうであつて、実は一方が強くなれば他も亦強くなるとい
179

MLL」上
ふ風に、段々〈よくなつてゆく。然らばこれはどういふ点に其の原因があるのかといへば、我々は三白にして
之を此に答へて宜い、我々の生命のカが実に此の如くならしめるのである。若しも人間の身体が一個の機械であ
       てんげん
るならば、丁度天秤のやうなもので、右が下れば左が上がり、左が下がれば右が上がる、両方下つたり両方上つ
たりすることはない。けれども人間の身体は一個の生命力の宿る所であるから、右と左と上つたり下つたりして
                        そろばん          ひ
居る間に、自然と全体が高まつて相平均するといふ普通の算盤で説明の出来ない現象を若き起す。国家も亦同様
で、我々の団体は一個の活物であるが故に、普通の道理を逸したる特別の作用がある。

      三

 従来の社会学や政治学は、兎角人間の作る所の団体を活物として取扱はなかつた。だから例へば国家の政策を
極めるに際しても、斯うすればあゝいふ弊害があるだらう、あ、すれば斯ういふ弊害があるだらうといつて、議
論紛々として極まらない。人間は社会を機械と見る以上は、どんな完全なる方法を持つて行つても、治まりのつ
くものでない。我々は我々の生活を見るに当つて、之を活物として観るといふことを忘れてはならない。生命の
カが真に一切の矛盾衝突を解決して行くものであることを忘れてはならない。随つて又我々の生活に於ては、此
の生命力の滴養を怠つてはならない。真に身体の健康を回復するものは胃病、脳病の薬ではなくして、滋渕たる
生命其のものである。人生を救ふものは医学よりも寧ろ衛生学であると謂はねばならない。
 人間を一個の生命と観る時に、我々は当然に其の無限の活動無限の発達を予想しなければならない。生命は限
りなく発展して止まざるものであるからである。随つて我々は人類の性能が無限に発達するの可能性を有するも
のであるといふことを疑はない。我々の生活の無限に発達した状態とは如何なるものであるかといふことは、今
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国家と教会
日之を見るが如く目の前に示すことは出来ない。けれども唯だ我々の団体的生活に関して言ひ得ることは、栽.々
の性能の▲無限に発達したる時代に於ては、我々は完全に自由にして、而も何等の矛盾衝突を感じない状葱であら
         よ
ねばならない。能く人はいふ、自分で自由を主張するならば、同時に他人の自由も尊重しなければいけない。是
に於て他人の自由を尊重するの義務を生ずる。即ち一種の拘束を甘んじなければならない。併しながら自分の自
由を尊重するが故に、他人の自由を尊重すべしといふのは分るけれども、他人の自由を尊重するが故に、自分の
自由は之を制限しなければならないといふ理窟は分らない。他人の自由にして尊重すべくんば、亦自分の自由も
同様に尊重すべさであるからである。けれども今日の我々の性能の発展の不完全なる状能心に於ては、自分の自由
                                          ▲や
と他人の自由との間には矛盾がある。けれども我々は理想として有つて居る所の無限に発達を遂げた最高絶対の
世界に於ては、我々は自由に活動して而して他人の自由と衝突しないやうにな?て1居なければならない。自分の
自由の活動が他人の自由と相犯すやうであるならば、それは即ち完全の状琴であるといふことは出来ない。即ち
総ての人が自由勝手に振舞つて、而も社会の間には立派に秩序が立つて居るやうな状態でなければならない。即
ち社会に二疋の秩序を立てる為めに、換言すれば社会にこ疋の秩序を立て、以て我々の生活を適当に規律するが
為めに、強ひて人の自由を束縛するやうな組織が必要でない。此の状態に於ては、総ての人が何等他から強制せ
らるこ」となくして、個人としての生活も又団体の一員としての生活も、完うし得るものでなければならない、
即ち強制の必要の無い状能伽である、即ち政治組織の必要の無い状能似である。此の意味に於て我々の社会的理想は、
一種の無政府的状態であるといふことは云へる。但しこれは我々の無限に、努力して獲得し得べき境地である。
他の方面からすれば、永久に到達することの出来ない遠い〈先きの理想的目標に外ならない。随つて現実に於
て我々は不完全なる総ての人の自由勝手に任せては、社会的秩序が維持せられない。総ての人の自由に任せて置
181

けば、彼等は自ら自由を得んとして自由を失ひつゝあるから、そこで社会的秩序を強制的に立てる必要がある0
是れ即ち今日の不完全なる世の中に於ては、一種の強制組織を必要とする所以である。
 現実の立場から観ると、我々の理想郷といふものは永久に達せられないのであるが、到底これは一片の空想に
止まると諦めて叶いかといふに、さうではない。我々は此の理想郷に何処までも熱情を以て之を獲得せんが為め
に努力しなければならない。併し到底実現せられないものに努力するのは、馬鹿気て居るではないかといふ人も
あらうが、理窟を考へて見れば、成桂馬鹿気て居る。けれどもどうしても之を目標として努力奮闘しなければな
らないといふ熱情が、我々人類の精神の奥底にある。而して是れ実に神の俄々に先天的に与へ給ふ所にして、即
ち人格建設の宗教的理想が是れである。一方から観れば、無駄のものに対する憧がれである。けれども此の無駄
のものに対する憧がれが、どれだけ人生を高めるものであるか分らない。これが無いと、一時旦別のもの、色々
社会に害を残すことがある。刑を維持せんが為めに、刑無きを以て刑の理想とするといふことがあるが、刑罰を
行ふものが、結局世の中には刑罰に触れるものが一人も無くなれば宜いといふ考を以て之を取扱ふ場合に、大に
意味があるけれども、之を忘れて刑罰の為めに刑罰を行ふといふことになれば、無益に人を刑して顧みないとい
ふことになる。どうせ刑罰に触れるものは一人も無くなるといふやうな世の中になりやうが無いといつて、刑無
からしめんが為めの努力を無駄といふのは、医者が一人も病人の多からんことを欲し、琴王が一人でも死者の多
                                                    さhじ
からんことを望むと同じやうに、余りに目前の利害に極限したる見解である。医者も匙を投げて命旦夕に追つて
                                       い しや
居る病人に対しても其の親たり子たるものが無駄と知りつ\余の目も触れず慰藷と看護とに心を砕くやうな、
一種の熱情を社会向上の理想に持つといふことは、我々に植ゑつけられた高尚なる性格として、之を何処までも
尊重しなければならない。
182
国家と教会
 之と反h村に、又到底現実に出来もしない理想的状態を目前に出・釆ると妄信するのも、亦誤りである。人一間が総
て他から強制せられないで、而して立派な理想的社会を造り得るとするのは、永久に達することの出来ない而も
我々の努力の直接の目標たる所の理想郷である。之を近き将来に実現が出来るやうに考へるのは、一種のユート
ピアンである。又之が今日でも実現の出来るものであるが、それが実現の出来ないのは、色々之を妨げて居る原
因があり、此の原因を取り除きさへすれば何時でも実現が出来ると考へるのは一種の革命主義者又は彼の無政府
主義者である。此等も亦我々は排斥しなければならない誤つた思想である。
 要するに我々は、一種の無政府的状能仙といふものを健全に実現し得べきものとする考は理に於ては飽くまで排
                                                     ひつきよう
斥しなければならない。けれども情に於て之に一種の熱情を持ち、今日の強制組織今日の政治生活も、亦畢尭
此の最後の目的に達する為めに必要の手段であるといふ見地を忘れてはならないゃ・
 無強制の俵では社会の秩序を維持せらる、といふ理想的状態が永久に達せられない以上、而も社会には一定の
秩序を律するの必要ある以上、今日進歩発展の途中に於て、我々には即ち未だ理想的状態にまで達しない不完全
なる我々に取つては、社会の一員としては我々の生活を規律する為めに、此にどうしても国家的規範が要る。而
して国家的規範の重もなるものは、道徳、風俗、習慣、其の他色々のものがあるが、其の外に我々の団体生活を
外部的統制する一つの仕組みが必要である、即ち強制組織が必要である。此の我々の団体生活が強制組織に依つ
て統制せらるゝ方面を、即ち国家生活といふのである。政治とは畢克此の統制の現象をいふに外ならない。
 斯う考へて見れば、我々の団体生活の理想は即ち最後の理想は、無強制の状態である。けれども現実の団体生
18う

てrrRT
活に於ては、どうしても強制が必要である。そこで我々の国家生活又は政治生活は、無強制の状能だ至らんが為
めの我々の努力に無限に附き纏ふものであつて、言はゞ此の国家生活又は政治生活の無限の継続の上に、我々は
無強制の状態を求めなければならない。故に理想的の意味に於ては、我々の国家生活は第二次的のものである0
けれども現実の生活に於ては、我々の国家生活は第一次的のものと謂つて宜い。此の関係を適当に了解せずして、
唯だ今日の強制組織が必要だといふ方面のみを取れば、即ち偏狭なる国家主義となる。国家が大事だ、統制組織
が大事だ、否な統制組織其のものが総てだといふ処からして、其の統制組織其のもの、為めに、一切万事を切り
盛りする所から、丁度医者が病人の多からんことを望み、琴王が死人の多からんことを欲すると同一の状態を来
たす。例へば軍隊は何の為めに要るか、畢貴社会の平和の為めに要る。之を忘れて軍隊が必要だといふことのみ
を考ふれば、軍隊の為めに社会の利益を犠牲に供し、時には軍隊精神の鼓舞作興と林して、無益に社会の平和を
揉欄せんとするに至ることもある。我々は現実に於て国家的強制組織の必要を此処まで高調されないけれども、
それは我々の理想から云へば、畢克第二次的のものであつて、さういふ統制組織とかいふものが、全然必要の無
いやうになるのが我々の終局の理想であると謂はねばならない。此の点に於て所謂無政府主義者の説く所には、
亦一面の真理あることを忘れてはならない。唯だ従来の所謂無政府主義は、此の畢克理想を語る所のものをば、
            ま
我々の生活の中に面のあたり実現が出来ると考へた点に重大な誤謬がある。

      五

 我々の宗教生活は、信仰に於て絶対と一になるものであるから、其の間に外部的強制を容るる余地が無い。我
々は神に絶対に服従する。けれども我々は同時に自ら神となるのである。此の境地に於ける我々の頓体生活は、
184
国家と教会
又無強制の生活でなければならない。此の生活に於て我々は矢張り神を崇める。けれども神を我々の支配者とし
て見るのではない。何故なれば、此の絶対的状態に於ては支配服従の関係を認めないからである。併しながら支
                          なみ
配服従の関係を認めないといふことは、決して神を蔑すといふことではない、神が我々の生活の中心であるとい
ふことは固より言ふまでもない。
         ヤ ソ
 斯ういふ考は、耶蘇教の発達に於ても昔は分らなかつた。即ち旧約の時代に於ては、神を正義の神となし、正
義に依つて我々を支配し我々を命令する、所謂万軍の主である。即ち旧約時代に於ては、万軍を指揮する大将軍
                                    キ‖ノスト
を想像して神を考へ、極端なる命令服従である、専制主義である。けれども基督出づるに及んで、神は即ち愛の
神となつた、万軍の主でない、カイゼルでもない、即ち我等の人情の源である所の父となつた。新約時代に於て
                                       き
は最早エホバとは云はない、アバ父よと神を呼ぶ。即ち暴きの命令者は今や父繋じで、之を愛慕するといふこと
に変つた。これが実に又我々の国家生活の理想を示すものではあるまいか。
        しば
 外の国のことは且らく之を措く。少くとも我が日本帝国に就いて之を考ふるに、我が国に於ても無論現実の聞
                                                    きよ・つこ
題としては、飽くまで天皇の主権に依つて社会を統制するといふことは必要だ。最も箪固なる強制組織を陛下の
周囲に打立て、我々は絶対に之に服従するといふことは必要である。けれども帝国の永遠の理想としては、斯う
いふ強制組織が無くなつても、即ち命令服従の関係が無くなつても、日本といふ国が立ち行くといふことに置か
ねばならない。即ち帝国の永遠なる理想に於ては、命令、服従の関係強制組織といふもの、非認でなければなら
ない。之を今日に非認するといふのなら、危険此の上もない思想であるけれども、これが無くても済むやうに国
民を導くが為め命令、強制が必要だといふ見地は、何処までも取つて行きたい。そこで将来の遠い理想郷に於て
は、命令服従の関係が無くなるとすれば、主権者たる天皇はどうなるかと疑ふ人もあるだらうが、それが即ち耶
18う

蘇教の歴史で示されてある通り、命令の君が一転して愛慕の君となることである。万軍の主が一転してアバ父よ
と呼ばるこしとに依つて、人類に対する神の関係が猶ほ一層深くなつた如く、命令者主権者としての天皇は、本
当の意味に於て我々の愛慕の焦点となるならばこれ程国の為めに幸福のことはない。我々は我が国の皇室をして、
将来命令者主権者として望むの必要なからしめんが為めに、主権者命令者として之を今日に尊崇したい。斯く考
ふることに依つて、我々の国家生活と宗教生活との間に立派なる調和が成立ち得ると考へる。即ち我々の宗教生
活は、或る意味に於ては我々の国家生活の理想の暗示であらねばならない。

                                             〔『新人』一九一九年九月〕
186
廃家生活の一新