英国に於ける強制徴兵
                                                                           ●
英国に於ける陸軍の制度は、久しく世界の疑問であつた0必ずしも今度の戦争が起つてからの間苧はない。
                       イギリ ス
殊に独逸流の軍制が天下を風靡して居是勢に於て、英書利の如き生ぬるい制度を維持して居るといふことは、
横関砲や航空機の物をいふ時代に、槍長刀を磨いて居るやうなものであると、他の諸国からは警れて居つた。
                                        なぎなた


                                                     かつ
けれども英国は何等か深く信ずるところありと見えて、容易に軍制を改革せんとするの決心をなさなかつた。曾
て英仏両国は、独逸の圧迫に対抗する為めに完〇四年の協商関係を進めて攻守同盟の関係に立て直さんとした
ことがあつたが、英国の陸軍があの態では仏国の陸1の負担が徒らに多くなるばかりだといふので、立消えにな
                  ざま
つたと噂せられた事があつたが、事の真相は暫く之を追究せずとして、英国の陸軍は兎も角も英国と関係の近小
国をして常に心細く感ぜしめて居たのである0然るに今度の戦争が起つて、いよ〈英国も亦大いに大陸に陸軍
を送るの必要に迫られ、琵初めて英国自身其陸軍制度の欠陥を認めざるを得ざること、なつた0而して粘れ早
晩強制徴募の方法に出でなければなるまいとの事が、開戦当時から一部の人の開港になつて居つたが、いよ〈
       〔開〕
去年九月十四日に再会した議会に於て此問題が討議せらるゝといふことになつた。
 然しながら、英国政界に於ては強制徴兵といふ問題は、アイルランド自治問題以上の政治的暗礁である。アイ
ルランド開建で無事難関を切りぬけても、強制徴兵問題に於て見事に暗礁を乗り超へるといふことは、本来英国
に於ては殆んど不可能のこと、せられて居つた0強制徴兵に対する反感は従来英国に於ては壷の盲目的信仰で
英国に於ける強制徴兵
ある。英国は由来個人的自由を尊重するの国で、従つて出来る丈け国家の拘束を避くるといふのが多年の国是で
ぁる。英国の政治家は叫方には人類の国家的生活の必要を認めつ\尚個人的自由を尊重するの信念に囚へられ、
       ネセツサワー・イヴイル
国法を解して「必要なる禍」と称して居る。中にも兵役に強制せらる、といふことは、彼等の最も忌み嫌ふと
ころであつた。加ふるに兵員供給の主たる源泉をなすところの労働者は一つには社会主義的の思想にかぶれたと
                                                            一匂
いふ点もあらうが、又一つには其実際上の利害関係から、強制制度には最も強き反感を有つて居るものである0
されば去年九月議会再開の当時、徴兵問題の新議会に於て討議せらるべきの風説あるや、労働組合中の最も有力
なる団体たる鉄道従業員同盟は、月の十九日早くも反対の決議を発表した0独り労働者ばかりではない0政治家
                                                     かたわ
の中にも、一方には時勢の要求殊に外国の圧迫に動かされて熱心に強制制度採用を説く者続出するの側ら尚多数
                     すこぶ
の有力なる政客の間には依然として反対の考が頗る盛んである。大体に於て統一党は強制々度に傾いて居るが、
然し其中でも前首領にして現聯合内閣の海軍大臣たるバルフォアの如きは最も熱心なる反対論者である0自由党
大臣は首相アスキスを初めグレー、マツケンナdシモン、ハーコート等皆反対論者である0只ロイド・ジヨー
ヂの独り統一党の名士カルゾン、ランスダウン、チャーチル、ボナーロトチエンバレーン等と賛成者の列に伍
する者あるのみである。若し夫れ労働党出身の大臣に至つては、首領ヘンダーソンを初め固より皆反対である0
故に内閣貞の顔触を見ても賛否相半ばして居り、其間に一致点を見出すことは極めて困難である0強ゐて閏是を
若き起せば、必ずや内閣動揺の禍を見るに至るであらう○而かも戦争の形勢は時々刻々に英国の出兵増派を促し
て止まない。与国の輿論も亦之を促すこと切なるものがある。翻つて見るに募集に応ずる者は予定の如く多くは
ない。政府之が為めに如何に焦慮したかは之を察するに余りある0而して差当り強制徴兵反対論者の賛成を得て
先づ以て辛うじて実行し得たものは、去年七月五日大多数を以て衆議院を通過した国民登録法の実施であつた0
141

即ち之によれば、王国内に住する十五歳以上六十五歳以下の住民男子は、現に陸海軍に籍を有する者を除き、八
月十五日を期して次の事項を公簿に登録すべしといふのであつた。即ち姓名、住所、年齢、国籍、婚姻関係、子
供の有無、共他職業に関する細かい事実を登録するのである。之は何も兵員の募集の上に直接寄与するところは
ないのであるけれども、兎も角も之によつて国民中徴集に応じ得べき人数幾何なりやを明瞭にすることが出来た
のである0これ丈けの事に対してすら之れ徴兵制度を布くの前提ではあるまいかとの懸念から、随分世間の物議
を醸したのであつた0而して此秋に入つて露西亜は益々窮境に陥り、バルカン方面も亦思はしくない。英国の奮
励を要するの声は益々高くなつた。英国の出兵総数は約二百万と杯して居るが、去年十二月下旬首相アスキスの
言明するところによれば、十二月九日までの英軍の損害は死者十二万、負傷者三十三万九千、行衛不明六万、合
   〔二〕 なんな
計約五十三万に垂んとして居る。更にバルカン半島に於ける聯合軍の失敗は益々英国をして多数の兵員を徴集す
るの必要を感ぜしめた。是に於て彼のダルビー卿の五官万募兵計画といふものが起つた。而して此募兵計画に就
いても、予定の通り運ばなかつた時にはどうするかといふ問題を起すものがあつて、十一月初旬首相アスキスは
遂に其時には致方がない、先づ未婚者の中から強制徴集するの外はあるまいと言明するに至つたのである。而し
てダルビー卿の募集計画に対しては、適齢者と認むべき者五百万人の中応募者は二宮八十万人に過ぎなかつた。
是に於ていよ〈アスキスは約を履んで強制的手段に出でざるべからざることゝなり、十二月廿七人の両日閣議
を開いて最後の決心を表明し、滋に本年一月五日を以て陸軍法案の名の下に一つの強制徴兵法案を議会に提出す
                       つぶ
ることになつたのである。同日首相は議会に於て具さに其内容と理由とを説明したが、新案の骨子とするところ
は大体次の如きものであるといふことである。
                                やもお
 い 十八才以上四十ノ才以下の未婚者及び子供を有せざる殊夫を強制して宣誓入隊せしむること。
142
英国に於ける強制徴兵
 Q 宗教々師、宗教上武器を取ることを得ざる信徒(例へばクウエーカーの如きもの)、一家唯一の扶養者たる
  者等に対しては、事情を具申して兵役に服せざるを得せしむることO
 Q 此法律はアイルランドには適用せざること。
 求@此法律の適用は今度の戦争の継続中に限ること。
 尚アスキスは法案の説明に当つて此新法は他日一般的強制徴兵制度を施行するの前提たるものにあらずといふ
ことを繰り返し〈説明して居つた。此堅き約束の上に、強制々度の反対者も一時、応急の臨時的便法として此
法案に賛成したのである。故に内閣に著しい動揺を見ることなくして、六日の第一読会は百〇五票の反対に対す
る四〇三票の大多数で、又十二日の第二読会は三九票の反対に対する四三三示の大多数の賛成で通過した0第一
読会に於てはアイルランド党議貞は全部反対したが、第二読会に於てアイルラン.ド針適用外に置くといふことに
免じて全部賛成に転じたから、反対は著しく減じたのである0独り労働党は賛否両派に分れて居つた0併し大勢
は定つて仕舞つた。遠からず開かるべき第三読会に於ても無論多数の賛成を得て、本月の末頃までには此等はい
ょ〈具体的の法律となることであらうと察せられる。
今度の問題の意味を明かにするには、英国従来の兵制如何を知らねばならぬ○英国今日の兵制は、一九〇八年、
時の陸軍大臣ハルデン卿の立案編成せるものであつて、大体嘩フ掛ア封と朝リボァ封との二つに別れて居る0
 正規兵は文字通り平時正式の訓練を受けるもので、謂はゞ本当の兵隊である〇一部は本国にも居るが、大部分
                       ブリティッシュ・アーミI
は別れて殖民地に屯在して居る。殖民地に在る時之は口英 国 軍と呼ばるる0なぜなれば殖民地に於ては此
本国派遣の正規兵の外に、其地方〈の土民軍があるからである。例へば印度に於けるインデアン●アーミー、
ヵナダ及び南アフリカに於けるローカル・フヲアセスの如き之れである○殖民地のことは暫く措き、英本国のこ
14う

とについて言へば、前記正規兵は陸上防禦カの中心であるが、其外に専ら本国の防禦のみに用ひらるべき地方軍
といふのがある。元来正規兵の英本国に於けるものは戦時動員をしたところが約十六万五千に過ぎない。然しこ
れ以上に沢山の兵隊を養ふ事は財政も許さず其他前にも述べたるが如きいろ〈の事情があつて事実出来ないの
で、滋に地方軍を以て其欠を補はんとするのである。之は各地方〈に於て有志の青年を集めて多少の訓練を施
し、一旦有事の日に其地方の防備に充つるを目的とするもので、初めから外征には使はないとなつて居る。尤も
細かいことをいへば、戦時二万人を周って外征に用ひ得るといふ特例もあるけれども、然し全体としては其地方
の防備といふ丈けの条件で組み立てられて居るものである。然し之は軍とはいふけれども我々日本に於て想像す
るやうな、多年兵営生活をして厳格なる訓練を受けたものではない。地方軍の兵役年限は四年となつて居るけれ
ども、然し毎年兵事訓練を受けるのは、僅かに数過に止る。最初の訓練は一時間の訓練四十回以上を下るべから
ずとあるから、大したものでないことは明かである。二年目下はいくらか又減ずるのである。加ふるに志願制度
であるから、どうしても厳重な訓練は出来ない。英国人は義務の観念が強いから、一旦志願した以上は十分其訓
練に服するだらうとはいへ、人情として余り厳重に週ぐれば志願者が無くなるの傑伊ある○故に志願制度に於て
厳重怒る訓練を見るといふことは先づ困難と見なければならぬ。してみれば四年間の兵役といひながら、其訓練
の成績は恐らく我国の中学校等の兵式体操に毛の生えた位のものではあるまいか。百姓一揆や同盟罷工などの鎮
定には之れでも沢山であらうが、固より大陸の十分なる訓練を受けた兵隊との対戦に用ふべき代物ではない。故
に国際的戦争を日当として英国の陸軍を論ずる時は、正規兵のみを眼中に置かなければならぬ。而して此正規兵
は其数に限りあり、且つ雇兵の制度であるから戦時などに於て多くの兵員を得るといふことは困難である。独り
兵数を得るに困難であるばかりでなく、地方軍に於けると同じ理由で、余り厳しき訓練を与へ得ざる憂がある。
144
英国に於ける強制徴兵
十分にして完全なる訓練を与へるには、どうしても強制徴兵の制度でなければ行はれないやうに思ふ。此点に於
                    いつちゆう
て英国の兵制は確かに大陸の兵制に一義を輸する。加ふるに予定の兵員を募集するの困難は平時に於ても少から
ず苦心して居つたことは、予輩の現に彼地に於て目撃したところである。我々は英国の都会で、停車場や郵便局
や多数群衆の寄り集る場所で、入隊勧誘の引札をぶら下げて居るのを見たことがある。新聞紙半頁大の大いさの
紙へ裏表に細かいことが書いてある。例へば日給歩兵は五十銭、砲兵は六十銭やるとか、着物は一年に何枚新ら
しいのを呉れるとか、クリスマスの時には何日暇をくれ、帰郷する者には特に新らしい着物を着せるとか、恰度
我国の田舎に於ける工女募集の引札を思はしむるやうなことが書いてある。我国の新開に、今度の戦争になつて
から英書利はいろ〈な掲示をして入隊を勧誘して居ると報道して居るが、実は之は戦時に初めて起つたのでは
ない。平時に於ても兵隊の募集には随分苦んで居つたのである。
 さういふ訳であるから、英国の識者の中にも、実は従来兵制改革の急務を叫ぶところの人が少なからずあつた。
中にも最も有力なるは故ロバーツ将軍である。彼は南阿戦争等の経験に鑑み、又対岸大陸の軍事的勃興に動かさ
れ、英国国防の危機を絶叫して強制兵役制度採用の急務を説いて居つた。彼は之を以て終生の事業となし、類齢
                                                                    ナショナル・サーヴイス・リーグ
の身を以て南船北馬此主義の遊説の為めに一日として席暖まるを得なかつた。国民兵役同盟は此主義に動か
されて起り、彼は自ら其会長であつた。去年の夏大陸戦場の視察中病の為めに死んだが、彼の努力は段々朝野の
間に認められて居つたのである。然し斯くても英国には従来個人的自由の思想が盛んであつて、どうしても強制
されて兵役に就くといふ考にはならなかつたと見えて、いよ〈の場合となると矢張り強制々度の前に胃を脱が
、つとしない。
 英国が思ひ切つて大陸的の強制々度を採るといふことは、今度の戦争のやうな場合でも容易なことではない。
14う

然し従来の兵制では到底国家の急に応ずることが出来ないといふ思想は、戦争の結果段々明白にはなつたやうで
ある。尤も此考は戦争の前から一部の識者の間には段々深く考へられて居つたのではある。即ち現在の陸軍を以
てしては、英国の国防は安全でないといふ思想は、十年以来段々一部の国民の間に盛んになつて居つたのである。
尤も此種の考へを唱ふる者の中には色々の種類がある。一方には南阿戦争などの経験に鑑み、英国の目下の軍制
では帝国内の動乱を鋲むるにさへ不十分ではないかといふ見地から軍制の改革を唱ふる者があつた。此議論も固
ょり動かすべからざる真理を道破して居るものであるが、然し之れ丈けではまだ多数の国民を動かすことは出来
なかつた。そこで他方には独逸陸海軍の勃興といふ現前の一大事実を提げて警鐘を叩くものがあつた。之には多
くの国民は愕然として眼を開ひたのである。即ち独逸に於ける最近の軍事的勃興は、到底英国の軍事的覚醒を促
                 まま
さずんば止まない。今の優にして居つては、英国の国防は累卵の危きにあると説くのである。従来英国人は英国
の国防は専ら強大なる海軍によると説いて居つた。英国は島国である。海上に於て優越なる地位を占め、敵国の
軍隊をして英本国に上陸するの機会なからしめ得ば、英国は永久に安全である。海軍さへ今日の如く強ければ陸
軍の如きは全く之を顧みなくともよい。清々内乱の鎮定が出来る位の程度であれば結構であると思つて居た。さ
ぅいふ見地から、英国は海主陸従といふよりも寧ろ全力を海軍に注ぐといふ方針を採つて居つた。之は政府当局
の方針といふよりも寧ろ全英国民の信仰であつた。彼等は実は自ら陸上防禦カの極めて薄弱なることは知らぬで
は無い。今日でも万一独逸の軍隊が上陸することがあるまいかといふ想像を措いて、非常な恐怖を感じて居る。
曾てドーヴアー海峡に海底トンネルを穿ち、仏蘭西と大陸との陸上交通を計画した者があつた時に、之が偶々仏
蘭西兵の英国侵入の機会となるまいかといふ愚にもつかぬ想像を措いて、一時英仏の言論界を非常に騒がしめた
ことがある。これ皆英国人が昔から今日に至るまで常に陸上防禦力の極めて薄弱なるを自認して居る証拠である。
146
英国に於ける強制徴兵
                                 な
然し之程陸上の弱点を自認して居りながら、彼等が仇ほ陸軍制度の改革を敢てせざる所以は、一つには自由思想
の中毒といふこともあるが、主として強大なる海軍に悼むの念の頗る固き結果である。そこで政府当局も海軍丈
けには非常な精力を注いで居るし、国民も亦海軍に対しては全力を注ぐことを拒まない。此方針を継続さへすれ
ば、陸上に大いなる欠点があつても、先づ国防は安全であるといふ考である。滋に於て英国陸軍の改革を主張す
る者は、自ら所謂強盛なる海軍を以て満足するの考に向つて更に大に抗論せねばならぬ。換言すれば所謂強大な
る海軍に安ずる思想の謬妄を論証せなければならぬ。
                                                       つ
 或人は斯ういふ立場から此謬妄を論証せんと試みた。日く英国の海軍は昔は二国主義を採つた。′即ち英国に亜
ぐ最大海軍国の二つに匹敵する丈けの力を養ふといふ主義である。英国が二大海軍国を敵として優に勝ち得る丈
けの海軍力を備へて居る間は、或は国防の全責任を海軍に托して安心することが卦来たらう。けれども近年独逸
海軍の勃興は、到底二国主義を維持すること能はざらしめ、遂に英国は独逸のみを主たる仮想敵となし、十村十
六主義を以て満足せねばならぬことになつた。然し独逸の十のカに対し英国が十六の力を維持するといふことは、
成程英国の海軍を依然優勝の地位に置くものではあるけれども、然し昔の如く英国の海軍が蹴鮮頭角を抜いて居
つた時代とは、遥かに趣を異にする。独逸は謂はゞ英国海軍の塁を摩せんとしつ、あるものである。斯く観れば
万一の場合、独逸の海軍は英国海軍の警戒線を突破して英国に陸兵を上陸せしむるといふことは、最早や全然不
可能のこと、見る訳には行かない。安全なる国防計画としては、今日の形勢よりすれば、独逸陸兵の上陸を全然
計算の外に置くことは出来ないと。之も亦一応傾聴に値する議論である。更に他のものは斯ういふ立場から陸軍
の改革を説く。日く英本国の安全はいふaでもなく英国海軍の優勢に待つ。然しながら海軍の優勢なる地位は、
単に噸数の多いといふことのみにあるのではない。其海軍をして十分なる活動の自由を得せしむることが必要で
147

ある。而して海軍の活動が十分自由なるを得る為めには、陸上の防禦が相当の程度に発達して居なければならな
い。陸上の防禦力が覚束なくては、海軍は思ふ通りに活動することが出来ない。思ふ通りの活動が出来なけれ
                              〔偶〕
ば、いかに噸数が多くとも、海軍はたゞ木塀の如くに消極的地位をとるに止る。英国海軍の斯くの如き地位を取
ることは、一方には海軍の有効カを減じ、又一方には英国と外国との交通を遮断する所以である。斯くては国防
の不安といふことばかりでなく、英国は経済的に餓死するの外はあるまい。英国の海軍をして国防上十分なる責
任を果さしめる為めにも、英国は相当に強大なる陸軍を有することが必要であると。更に進んで斯ういふ立場か
                                                オランダ
ら強大なる陸軍の必要を説く者があるい日く昨今の如く独逸の独り隆々として勃興するを見ては、我々は和蘭、
ベ ルギー           デンマーク
自耳義は勿論のこと、丁抹、仏蘭西の如きと維も永久に安全なるや否やを疑はざるを得ない。若し不幸にして此
等の地方が独逸の併呑するところとならんか、又は少くとも独逸の勢力の下に帰せんか、英国は最早決して独り
安全なるを得ない。英国対岸の大陸が英国を敵とするものゝ占領に帰することは、少くとも英国をして経済的に
滅亡せしむる所以である。のみならず、之に依つて英国海軍の優越的地位は著しく危くなる。されば英国は今日
の如き形勢の下にあつては、少くとも欧洲大陸西岸の地方に無関係であることは出来ない。英国自身の安危の上
から此等の地方の運命を座視することが出来ないとすれば、英国は最早や従来の方針を改め、万一の場合には大
陸の事件に干渉するの覚悟を走むることが必要である。之には強大なる陸軍を要する。我等は国内動乱の鎮定と
いふ消極的の目的の為めのみに陸軍を養つてはいけないと。
 以上三つの説は、或は単独に或は彼此相結んで、戦前に於て唱へられた軍制改革論の大要である。其中でも最
                     しよちノどう
も盛んに唱へられ且つ最も国民の耳目を聾勤したものは、独軍上陸の説である。国民は一般に英国の海軍は兎も
角十分に沿岸を防備するに足るものであるといふことは疑はなかつた。けれども不慮の敵軍の侵入をも絶対に不
148
>【乙ぎ.r.Ei.EhE巨l
英国に於ける強制徴兵
可能ならしめ得る程度のものなトリやハ否やといふことについては、多少の掛▲念を持つて居つたやうである。之が絶
対に不可能なるものならば英国は全く陸軍は要らないではないかといふやうな極端論は暫く論外としても、最近
独逸海軍の勃興は、独軍の侵入を不可能とするの予想をして多少動揺さして居るといふことは疑ない。然らば陸
軍の整備改革を説くの説は真に国防を憂ふる者に取つては大いなる真理であり、従つて識者の間に漸次多大の共
鳴を感じつ、あつたことは之を想像するに余りある。
 斯く論ずれば英国に於ては軍制改革には一点の疑無かるべき筈である。即ち従来の制度に幾多の改善を加へ、
殊に強制徴兵制度を採用すると云ふ事は、何人にも異議無かる可き筈であるが、実際はそうでない。国民の有ら
ゆる階級の中に、非常に反対の考が強いのである。最も此制度に反対する者は、云ふ迄もなく労働者である。其
                                                                         ま
労働者が堅密なる組合を造つて常に一致協同の運動をなし、社会に於て侮る可らざふ勢力ある事は云ふを瑛たぬ
                       すく
所である。而して彼等の中には社会主義者も砂なくはない。然らざる者でも社会主義的色彩を有する考に囚はれ
                                                                ・もち
て居る者亦極めて多い。是等の者が社会主義的の立場から軍備の整頓改革に反対するのは固より怪しむを須ゐぬ。
其他社会主義思想から縁遠い者でも、労働者が一般に兵役に就く事を厭ふのは、独り英国に限つた事ではない。
何処の国でも強制制度であればこそ甘んじて兵役に服すれ、志願制度であれば容易に労働者階級より多数の応募
者を見る事能はざる事、皆英国と同一であらう。斯くして英国の労働者は、或は労働階級特有の思想より、又或
                           いとま
は労働者階級の利害の打算より、国家の急務を思ふ達もあらずして極力徴兵制度に反対して居つたのである。現
に去年の九月議会再会の際本間題の討議せらるべきの風説あるや、労働組合中の尤も有力なる鉄道従業員組合が
逸早くも反対の決議をなしたる事は前述の通りである。而して本年一月愈々此問遺の議会に現はるゝや、是に対
する態度を決する為に一月六日に開いた労働党大会は、七万八千三百余票の賛成に対する百九十九万八千余票の
149

大多数を以て、新兵制案に反対する事に決議した。されば労働党を代表して内閣に席を有つてゐたヘンダーソン
氏以下の労働党大臣は辞表を呈せねばならぬ事になつたのであつた0ヘンダーソン氏等自身は首相アスキス氏の
提案に賛成である。故に此点に於ては辞職すべき理由はないのであるけれども、彼等は元と労働党を代表するの
意味に於て入閣したものであるから、今や自己の所信が労働党の決議に相反する事を見るに至つては、其確信に
忠なる限り、労働党を代表サる訳には行かぬ。そこで辞表を捧呈したのである。尤も月の半に至て辞表は撤回し
たと云ふ報道があつたが、要するに労働党は兵制の改革には断然反対して何等譲歩の余地を示さなかつた〇一月
十五日の新開に表はれた電報に拠れば、是亦有力な労働組合の一たる坑夫組合大会も亦、三万八千百余票に対す
る六十五万三千百九十余票の大多数を以て反対の決議をしたと云ふ事である。是れもまた労働者の本間題に対す
る態度を知るの一端になる。
                    ばか
 然し徴兵制度反対の声は、独り労働者から許り来るのではない。一般資本家階級に於ても、或は財政上或は産
業上是を排斥するの考が仲々に強い。財政上と云ふのは、徴兵制度を布いて新たに大陸軍を養ふと云ふ事になれ
ば、非常に財政が膨張する。而して其財源を何処に求む可きやが一ツの難関であると云ふのである○産業上と云
ふのは、徴兵制度の施行に因て働き盛りの労働者が兵士として徴集されては、英国の産業の現在の隆盛は妨げら
る、と云ふのである。是れも亦鈍重たる英国人の深く信じて徴兵制の採用に反対するの口実となす所である。加
之英国には元来個人的自由の思想が蹴kあつて、所謂強制と云ふ事に対しては、其何れより来るものに就いても、
是に反抗するを常とする。強制せらるゝを欲せずと云ふ念は、英国の国民性に附着する感情的迷信と云ふてもよ
                       み な
い。彼等が国家的拘束を呼んで「必要なる禍」と見倣したるが如き、亦如何に個人主義自由主義に酔ふて居るか
を示すものである。此点よりして徴兵問題は従来有力な政治家中にも仲々反対が多かつた。されば最近独逸の庄
1う0
英国に於ける強制徴兵
迫に依て益々軍備整頓の急務を感じても、愈々英国が徴兵制度を執るに至るであらうと云ふ事は、到底吾々の予
想し得ざる所である。軍制改革運動の急先鋒たるロバーツ将軍の主張を見ても此事がわかる。其は彼は最も熱心
なる強制徴兵制度の主張者であつたけれども、然し彼の英国民に訴ふる所は、十八才の青年男子に兵役を三年間
強制するのであると云ふけれども、然し第一年は数ケ月、第二年第三年は数週を限て訓練すると云ふのであるか
ら、極めて軽微なる負担である。其上強制して徴集するのは本国防禦軍のみであつて、海外遠征軍は従来の通り
志願兵制度を維持すると云ふのであつたから、我が国等に行はるゝ兵役制度等に比較すれば極めて寛大なもので
ある。英国に於ける最も極端なる改革論者の主張が既に斯くの如くであるとすれば、亦以て英国民一般の兵役問
題に対する考の如何を推知すべきである。
 国内の輿論が前述の如くであるから、今度の兵制改革も、首相アスキス氏の議会に於ける言明の如く、戦争の
継続中に係る一時的の便法にして、決して之を前提として将来一般的に徴兵制度を採用するに至らざる可きは明
白である。故に今度の陸軍法案は、是を以て兵制改革間遺の根本的解決と云ふ事は出来ぬ。唯之に依て英国民は
強制制度の実地に伴ふ幾多の経験を積むであらう。此経験に基いて更に国民の考を一変し、他日改めてはんとう
に強制々度を布くやうにならぬとも限らぬ。けれども始め条件を附して定めた事を、後に絶対的無条件的なもの
に直すと云ふやうな事、例令ば戦時非常税として議会の協賛を得た織物税や通行税をば戦後に至つて之を永久税
に直すと云ふやうなペテンは、英国政治家の決して為さゞる所である。故に英国では戦争が終れば又もとの志願
兵制度に復り、兵制改革論者をして再び口角泡を飛ばして論難せしむるであらう。一部の論者の中には、斯くの
                       じょうぜん              わら
如き空前の時機に際してすら自由思想の迷夢より覚めず休然として頑迷の態度を固守するの愚を噂ふ者もあるけ
れども、英国が幾多の失敗を重ねて而かも尚ほ自由主義を捨てざらんとする事は今に始まつた事ではない。或る
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意味に於ては是れ英国国民性の欠点ではあるけれども、然し乍ら英国が戦争には負け乍ら居然として底力のある
大国民たるの態度を維持して居るのは畢克是れあるがためではないか。
右述ぶるが如く、今度の法案は戦争継続中を限る毒的の方便である、即ち戦争の急に応ずるの目的を以て立
てられた者であるが、是れが為に英国は果してどれだけの兵力を増す事が出来るかと云ふに、是れは決して予想
の如く大なるものではない0第一に仮令どれだけの数を増しても、急激に訓練をすると云ふのでは実際強大な力
とはなるまい○而かも新法に依て新に強制徴集し得べき兵数は、政府の報ずる所に依れば宙万内外との事である。
                               〔総〕
して見れば現在の兵数に加ふる所さして著しいものではない○況んや戦場に於ける彼我送兵数の全体に比較すれ
ば極めて微々たるものである0故に今度の新法は、其声のみ徒に高くして実際に加ふる所は左程大なるものでは
ないと思はるる0唯然し乍ら、今度の新法の国の内外に与ふる所の精神的効果に至ては、極めて大なるものあり
と言はざるを得ぬと思ふ0何故なれば、第一に外国に対して英国の決心の牢として抜く可らざるものある事を示
                                                           一そそ
し、又国の内部に向つては盛に各方面からの出征者を出ださしめ、以て民間に於ける対戦争の興味を吸るからで
ある0是れ迄出征するものは中流以上の壮者青年に多くして、労働者階級から出るものは案外に砂なかつた。自
分の仲間や親族故旧やが遠く戦場に出て居ると云ふでなければ、国民は戦争に熱狂しない。労働者が稀もすれば
国難を他所に見てストライキ等を敢てするのは畢克今度の戦争は彼等より観て彼等自身の為す所の戦争でないか
らである0而して強制々度は即ち戦争に対する↑層民間の風気を姦し、英国民全体をして真に挙国表せしむ
る所以となるだらう○加之英国が万難を排して此処置に出でたのは、最後迄戦争を継続せんとするの決心の堅き
を示すものであつて、是に依て敵を脅かし与国を心強く思はしむるの精神的効果は、更に計る可らざるものがあ
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ると思ふ。
〔『中央公論』−九一大年二月〕
新日露協約の真価