地方長官公選論

 公選論主張の理由 最近政界の一角に知事公選論が唱へられて居るといふ。その利害得失は慎重なる攻究に値すること勿論だが、当の主張者のあぐる所の理由に至ては甚だ浅薄を極めて居る、日く民意尊重の今日の時代最も人民に接近せる府県知事の公選は当然だと。民意の尊重すべき所以には一義の疑もない。併し之と地方長官の公選とは何の拘はりもない。公選でなくツたツて民意尊重の趣旨は貫き得る。
 公選反対論の愚蒙 公選論に対して去る官界大官の反対説なるものも新聞に報道された。公選の主張は官吏任免に関する君主の大権を犯すものだと。例に依て旧式固陋の憲法論である。此説の愚昧は今更之を詳説するまでもあるまい。只こゝには選挙に依て任命せらる、官吏の現に外にもあることを一言して置くにとゞめる。
 公選是非の判断の標準 元来公選論の是非は全然実際の結果に依て判断せらるべきものである。実際の結果如何に拘らず初めより公選を可とすといふ様な理窟は絶対にない。此点に関しては世上に相当誤解が多いやうだ。一言之を弁明するも無駄ではあるまい。
 誤解の根本は民衆自ら直接政治に与るのが民主々義の本領だと考ふる点にある。民衆自ら政治に与るべきだから現実の執行者を仲間中から公選する、即ち府県知事の如き最も公選たらざる可らずといふのだ。併し之は十八世紀から十九世紀にかけての民主々義に外ならぬ。当時は前代の貴族主義に抗し一切の権力を自家の掌裡に収めんことに急ぎ、一応万事は自分で出来ると考へた。けれども実際の経験を積むに従て、善良なる政治は矢張り特別の専門家に托するに依てのみ可能だといふことが明になつた。更に歩を進めて彼等は遂に斯う云ふ結論にまで到達した。政治に特別の専門家を要するのは今も昔も変りはない。昔は一部特権階級と専門家と結托して作れる組織のうちより善良なる政治は行はれ得ると考へたが、今は民衆と専門家との協同に成る組織より最良の政治の行はれることを知るに至つた。何れにしても民衆の要求や利害やを離れて善良なる政治は絶対にあり得ない。が、また民衆自身は如何にしてその要求その利害を善良なる政治に具現すべきやを知らない。そこで政治は何処までも特別の専門家に托するを要するのだ。たゞその専門家は全然民衆を離れてしまつてはいけない。彼は常に民衆的組織の中に生育するのでなければならぬ。何となれば彼は斯くして民衆の要求利害をよく善良なる政治に具現することが出来るから。斯う云ふ組織がうまく行はれるのを我々は民主々義の政治といふのである。即ち民衆自ら政治に与るのではない、民衆の要求利害が十分に政治に現はれるといふのが眼目なのだ。斯く論ずれぼ、府県会なども設けられある今日、知事の公選まで行かなければ民主々義が通らぬとする理窟のないことは明であらう。
 斯くいへばとて公選はわるいときまつた訣ではない。公選であらうが公選でなからうが、そは要するに民意尊重の近代的大勢には毫も関係はないのである。然らば公選の是非得失は如上の根本論から判断せらるべきものではなくして、全然実際的見地より解決せらるべき問題であるといふことになる。
 公選の実際の結果 然らば公選にしたら実際の結果はどうだらう。此点になると私は一言以て直截なる答弁を与ふるに苦まない。曰く極めてわるいと。其理由は頗る簡単だ。第一は地方行政に就いて民衆は、国政に於けると同じく、施政監督の実を握て居ぬ。彼等は依然府県会議員等の操縦に甘んじて居る。故に所謂府県知事の公選は、民意を重からしむる結果とはならずして其実〔府〕県会議員の専恣横暴を甚しからしむるに止まるだらう。第二に今日でも府県知事は議員の我儘に苦しめられて居る。従つて府県知事としての仕事の大部分は今や民衆の福利の増進よりも議員との空疎煩瑛な折衝の方に費されて居る。若し公選となつたら此弊更に一層甚しくなるだらう。斯くて今日の状況を基礎として論ずるに、公選論は百害ありて一利なしと私は信ずるものである。
 公選論に伴ふ地方行政組織の改正 前述の如く私は知事公選論には反対だ。併し仮りに若し強て公選を実行するとなら、地方行政組織の上に次の様な改正を加へて貰ひたいと思ふ。此希望は現に公選長官を戴くの組織になつて居る市町制に対する吾人の改革意見とも観られ得る。地方制度攻究に志ある諸君の特別なる考量を煩したい。
 第一は地方行政機関をして国家の委任事務より大に解放せしむることである。公選任官の方法は特殊の才能の要求せらるゝ場所には不適当だ。府県庁は地方自治機関たると共に又中央政府の出張所見たやうなものであるから、それ丈け其長官の公選を不適当とする理由に富むが、町村役場の如き基礎的自治機関に向て今日の制度は余りに中央よりの委任事務が多過ぎる。だから役場は村の寄合相談所ではなくなつて、矢張り厳めしい公けの役所といつた様なものになつてしまつた。是れ自治制の根本をみだるのみならず、首長を公選に採る制度とは絶対に両立せぬものである。
 第二に人を公選に採る以上その権限は極度に拡張せらるべきである。官選の長官なら議員をして常時監督せしむるに相当の理由もあるが、公選である以上は、一定の任期が即ち唯一の監督であつて、任期中は其の施設に絶対の自由を有せしむること亜米利加(アメリカ)の如くすべきである。亜米利加は民衆的監督と専門智識とを最も巧に調和せる組織に富む国であるが、最近は市政を挙げて一定の期間之を一人の<amagerに托した処さへあると聞く。こゝまで行かなくとも、責任ある首長に相当自由手腕を振ふ余地を与へなくては業蹟の挙るものではない。公選論の実行に依て議員の専恣横行の甚しかるべきを憂ふる我国に於て此点最も参考として聴くの必要はあらう。
                             〔『中央公論』一九二五年十二月〕