善政主義と政争無用論を駁す


     「一」

 今度の総選挙で主として争はるゝ問題は、政府構成の形式が如何にせねばならぬかの問題である。即ち政党内閣の主義に依るのが憲政の本義に合するか、或は超然内閣の主義でも差支無いかといふのが根本の争点である。而して此の問題に関して、予輩が政党内閣主義を執つて居ることは、是れまで屡々掲げた論文に依つて明白であらう。予輩は所謂平民政治の熱心なる主張者である。而して今日の時勢に於て平民政治でなければ立ち行かぬことは、世界の争ふべからざる勢ひである。仮りに此の制度が完全でないとしても、勢ひ之に依るに非ずんば、現代の憲政の運用は不可能である。且つ又少数専制の政治には、直接にも間接にも、色々の弊害あるのみならず、之からの国家はどうしても各分子をして国家経営の上に直接に積極的責任を負担せしめねばならない。各分子が一人一人国家を背負つて立つ丈けの義務と責任とを感ずるに由つて、始めて国家の富強を期することが出来る。此の点に於てもどうしても平民政治でなければならぬと信ずるのであるが、此の平民政治は実に政党内閣の組織に於て最も能く実現せらるゝものである。是れ予輩の政党内閣を熱心に主張する所以である。
 尤も斯く言へばとて、予輩は今日の現在の政党に十分満足を表するものではない。現在の政党が極めて不完全なる状態にあることが、実に我国識者をして往々政党政治主義に顰蹙せしむるの原因を為して居る事実に対しても、予輩は幾分之を諒とするものである。
 併しながら他の一面に於て、今日の政党の不完全なるは、政党其のものにも罪があるけれども、其の原因の大半は、従来所謂閥族官僚の徒が平民政治の徹底的施行を妨げて居つたことにあるを知らなければならないと思ふ。故に予輩は、一面に於て政党其のものに向つても反省を求め、又出来るだけ立派な人物を挙げて、政党それ自身に革新の機運を促さんと欲するものであるが、又他の一面に於て、大に政党に声援をして閥族官僚の排斥を図り、以て平民政治の徹底的施行を促し、斯くして我が国憲政の円満なる進歩発達を図らんことを希望して已まざるものである。斯くして予輩は平民政治主義の実現の前途に横はる第一の障碍は、何といつても超然内閣主義の跋扈であると確信するものである。
 超然内閣主義が憲政運用の常道に非ざることは、深く之を論ずるの必要はないが、昨今現内閣の超然主義を弁護する人々の議論の中に、如何にも尤もらしく聞へて、綿密に物事を考へない人々を惑はす所の説が二つある。一は善政主義で一は政争無用論である。言ひ換れば、政党内閣とか超然内閣とかの論争は形式の論である。政治の目的は善政を施くといふ実質的問題にある。善政をさへ施いたならば、超然内閣でも差支無いではないか。且つ又今日欧洲大戦といふ大事件を前に控へて居る際に政府構成の形式論などに就いて、国内に於て激しき政争に余力を吝まぬのは無用であるのみならず、寧ろ有害と認めねばならない。挙国一致で千載一遇の好機会を利用せねばならぬ此の際、政争は畢竟無用である。国民は全力を集中して現内閣の施政を監督し、且つ鞭撻すべきであるといふのである。一見甚だ尤もらしく聞える現内閣弁護論である。併し乍ら此説は全然誤りであるのみならず一見尤もらしく聞えるだけ、それだけ人心を蠱惑するの最も甚だしきものである。

     「二」の一

 善政を施きさへすれば、どんな内閣でも可いといふ説は、一見甚だ尤ものやうに聞えるけれども、併し少しく今日の憲政運用の実際に照して精密に考ふる時は、此の考へに対しては少くとも三つの疑問がある。第一には謂ふ所の善政といふ目的が果して超然内閣主義で達せらるゝや否やといふ問題である。第二には暫く一歩を譲つて善政する目的が達せらるゝとしても、事実上超然主義で天下の民心を率ゐて行くことが出来るか否かの問題である。第三には善政主義一点張りで、平民と没交渉に政治を行ふといふことは、人民を受動的地位に置くものにして、結局国家の根本的富強を図る所以に反くこと無きや否やの問題である。超然的専制政治が結局に於て弊害を伴ふといふことは、前の論文にも屡々之を説いた。局に当る少数の政治家をして、何等の弊害無く国家の為めに十分力を尽さしめんとすれば、どうしても平民の監督が必要であるといふことも、これまで繰返して説明した。此の理論は移して以て超然主義では結局に於て善政を施くといふ目的は達せられぬといふことの論証と為すことが出来る。無論或短期の特定の場合に於て非常の名君賢相が現はれて文字通りに善政を施くといふことはあり得る。予輩は斯かる事実の存在を争はないいけれども是れがどれだけ続くかといふことを考ふる時に、少くとも吾人は超然主義を一個の政治的制度として認むることは、国家の為めに非常に不利益であるといふことを信ぜざるを得ない。即ち超然内閣を以て善政の目的を達するといふことは、理論上特別の例外の場合に於て、或る特定の短き時を限つて纔に可能なるを得るものにして、他の一般の場合に於ては必ず深き弊害を伴ふを常とするものである。此事は古来の歴史に於ても其の憑証に乏しくない。故に真に善政を施くの目的を達する為めの制度としては、平民的監督を認むるものでなければならない。況んや平民的監督を認むるといふことは、必ずしも少数の賢者の善政施行を妨ぐるものに非ざるに於てをや。超然主義で善政の目的を達するといふことは、其の人を得る特別の場合に於てのみ纔に可能である。而かも人さへ善ければ、平民的監督ありと雖も、善政の目的を達するに妨げない。況んや平民的監督あれば、制度として多くの場合に於て各種の弊害の発生を予防し得るに於てをや。故に一般的の原則としては、吾人はどうしても所謂善政主義には反対せざるを得ないのである。

                    〔以上、一九一七年四月一四日〕


     「二」の二

 仮りに一歩を譲つて、超然内閣を以て善政の目的を達し得られるとしても、所謂善政主義は畢竟するに世話焼きの政治である。国民を自主自由の地位に置かず、政治家が国民の世話を焼き、其の利益幸福を図つてやるといふ政治である。支那の言葉の所謂依らしむべく知らしむべからざるの流儀を以てする政治である。而して今日の自主自由に目醒めたる人類が、政治上果して斯の如き消極的地位に甘んずるであらうか。貧乏して苦学するよりも、節を金持に売つて其の養子となる方が楽だなどゝいふのは、意気地の無い青年の言ふ所である。仮令貧苦に悩んでも、自分の腕で独立独行の生活を営む方が金持の養子となつて其の精神の自由を束縛せらる、よりも遥に勝れりとするのは、当今の青年の意気である。昔者(むかし)浦島太郎竜宮に客となり、暫く金殿玉楼に坐臥して山海の珍味に一切の浮世の苦痛を忘れしも、久しからずして一竿の風月に浮世を詫しく暮した以前の自由な生活に憧憬して遂に有らゆる物質的快楽を弊履の如くに棄てゝ、元の古巣に帰つたのであつた。是れ豈人にはもと自由を尊ぶの精神があるといふことを最も明白に我等に教ゆるものではないか。如何に善政でも、人から世話を焼かれる政治では満足し得ない。西洋の或政治家が自治は善政に勝さると謂たのは、中々味はひのある言葉である。此の点より見ても、予輩は所謂善政主義を以て現代人の心理を無視したる謬説であると断言するを憚らない。
 更に一歩を譲つて、現代の国民が仮りに、真に善政をさへ施いて呉れるならば満足すると云ふたとしても、斯の如き消極的又受動的地位に人民を置くといふことは、国家其のものゝ発展充実の為めに宜しくない。今日の国家は、之を組織する所の各分子一個人々々をして、積極的に国家の目的を意識せしめ、其為めに努力せしむることに依つて其の富強を図る所以とする。然るに所謂善政主義は、全然之に反し個人に向つては唯だ服従と盲目的信頼を強ゆるのみなるが故に、結局に於て各個人其のもの、完全なる発達を見ることが出来ない訳になる。此点に於て善政主義は、唯だ其の表面の成績だけを見ると、如何にも立派に国が治まつて居るやうに見えても、此れに困つて知らず/\国民の精神的発達の上に蒙る所の損害に至つては、実に測り知るべからざるものがある。善政主義の論は、一見人を恍惚たらしむる効あるも、知らず/\に人心を荼毒するの大なるは丁度之を支那人の一部に行はれる阿片飲用の習慣に比較することが出来る。吾人は其知らず/\の間に民心の上へ及ぼす弊竇の深甚なるに大に警戒せねばならない。
 元来善政主義など、いふことの、尤もらしく政界の問題になるのが抑も間違つて居る。如何なる主義に立つ政治でも、其の目的は総て皆善政である。善政を主義とするといふことは、超然内閣主義に於ても、政党政治主義に於ても、皆な同一である。善政を目的とするが故に超然内閣を可とするならば、又同じ理由を以て政党内閣をも可とせねばならない。総ての政治主義に共通する所の目的を掲げ、此れに依つて超然内閣を弁護せんとするのは、恰も病を治すのを目的とするが故に漢方医が宜からうといふが如き議論である。吾人の知らんとする問題は、彼が果して善政を施くに志ありや否やといふよりも、如何にして善政を施くの目的を達せんとするかにある。病を治すを目的とする点に於ては、漢方医も洋医も同じことであるが、只だ彼等は如何なる科学的方法に依つて治療の目的を達するかゞ問題である。即ち今日の政界に於て問題とすべきは其の共に立つる所の共通の目的如何に非ずして、其の目的を達せんが為めに各々執る所の方法如何といふ点にあらねばならぬ。随つて吾人は、政党政治主義に依ることが善政の目的を達するに適するや、或は超然内閣主義に依ることが此の同一の目的を達するに適するや、何れが適当の方法であるかといふことを深く研究せねばならない。

                   〔以上、一九一七年四月一五日〕


     「三」

 次に政争無用論に至つては、是れ亦一見如何にも尤もらしく聞えるけれども、其の根柢に於ては非常の謬見が伏在して居る。何故ならば、政争といふことは、絶対に之を非認すべからざるのみならず、又場合に依つては大いに政争を闘ふことが、憲政の進歩の為めに必要であるからである。
 立憲政治の運用に於て、政争は避くべからざるものであり、又事実必要のものでもある。何故ならば、国内に於て同一の問題に対する政治上の意見は、決して一に帰するものではない。大体に於て保守的の議論と進歩的の議論との対立があり、又更に色々複雑なる理由に由つて、種々雑多の意見が同時に存在し得る。此等の意見が互に競争して、其の間に自ら淘汰が行はれる。斯くして最も優良なる最も適切なる政見が国民の輿論として残るのである。尤も場合に依つては、二若くは三の政見が殆ど同等の力を以て相対峠し、何を以て最も多く国民の輿論の後援を受けて居る説と観るべきやを定むるに困難なることもある。而して結局之を定むるが為に多数決といふが如き機械的方法が取られる場合もある。けれども、要するに何れか一つの説を取つて、之を国民の意見とせねばならぬのであるが、其の際に政治当局者が、政争を否とするといふやうな意見からして、国内の反対意見を無視して、自分の意見のみを最良の意見なりと独り極めにすることは、正当の遣り方でもなく、且つ又適当の方法でもない。主義としては何処までも各種の意見を十分に争はしめて、所謂生存競争をやらせて、其の上に自然淘汰の行はるゝを待つべきである。是れが一番適当の方法であるとする以上、我々は政争を以て立憲政治の運用には欠くべからざるものであると認めねばならない。
 唯だ我々の注意すべきは、政争の方法の問題である。政争其のものは必要でもあり又事実避くべからざるものであるが、如何なる方法に依つて其政争が行はるゝかといふのが、憲政運用の上に大切である。昔のやうに宮廷内部の陰謀で政権の争奪をやつたり、或は党同伐異甚だしきは各々兵を擁して戦争をするといふやうなことで政権争奪をやるといふのは固より排斥すべきことでもあり、又今日実際に行はれても居ない。今日に於て慎むべきことは、公明を欠く陰険な手段で政争を行ふことである。立憲政治が従来の古い政治のやり方と異なる所は、政権争奪の形式を道徳化した点にある。従来の政権争奪は、腕力の競争に依つて極めたのであつた。今日は国民の良心の上に自家の政見を訴へ、其の判断を求むるといふことに依つて政権の争奪をやるのである。即ち公明正大に自家の見識を広く国民一般に愬へて、何れの説に多数の国民が賛成するか、其国民の道徳的判断を求むるが為めに大に努力奮励するといふのが、即ち現代式の政権争奪の方法である。斯かる公明正大なる方法で争ふといふことは、何も妨げないのみならず、却つて此に由つて国民を教育するの効あるが故に、寧ろ之を以て一挙両得の方法といつて差支無いと思ふ。此の点に於て予輩は政争無用論に全然反対する。畢竟政争は如何なる時代に於ても之を避くることが出来ない。然るに若し政争無用論などを唱へて、公然と政治家が政争をやるのを妨ぐれば其の結果として来るものは、必ずや陰密の間に陰険悪辣なる手段で政争をやるといふ事である。故に政争無用論の必然の結果は、政争の形式を昔に戻して、再び之を不道徳化することになる。此の点に於て亦予輩は所謂政争無用論に極力反対するものである。
 尤も問題の種類に依り、又時と場合に依り、政争無用論に一面の理由を認むべきこともある。例へば我が国に於て皇室の問題とか、或は又或る特別の外交上の重大なる問題とか殆ど国論の分裂を許さない問題がある。又直接に外国と戦争をして居るといふやうな場合には、暫く争ふべき問題を後日に延ばして、当面の急務の為めに一致協力するを必要とするが如き場合もある。此等に就ては此に深く論ずる必要を認めないが、唯だ此の際一言するを必要とするのは、今日我が国に於て争はれて居る問題は、今述べたやうな何れの場合にも該当しないことである。寧ろ大に論争して我が国憲政の将来の発達の為めに、徹底的解決を与へねばならぬ問題であることである。今日は実に政争無用論を説くべき場合でなくして、政争の徹底的に行はれんことを要求すべき場合であると思ふ。何となれば今日当面の問題が何れに決定せらるゝかといふことは、日本の将来の憲政の為めに、又日本の政治思想の発達其のものゝ為めに、非常に重大な関係があると思ふからである。

             〔『横浜貿易新報』一九一七年四月一四−一六日〕