教育界に於ける基督教の圧迫を難ず   『新人』一九〇九年五月

 近頃東京毎日によりて伝えられたる高等師範の教授の辞職、生徒の退学なる二事実に依て、教育と宗教との関係といふ古き問題が、再び世間の注意を惹くこととなつた。実は斯んな問題は、疾うの昔に解決されて居るものであつて、今頃之を繰り返すまでも無い筈のものである。然るに、実際教育社会には猶未だ此事に就て間違つた考を抱いて居るものがあるし、基督教を圧迫して居るの事実は、右の二件の外に、東京にも、地方にも、まだ沢山あるといふ事であるから、予は先に之等の謬想を正す為めに、数言を費さうと思ふ。
 教育者並びに将来教育家たらんと欲する師範学校生が、教会に出入したり、基督教を信じたりするのは、何故悪るいか。何の理由に基いて、学校の当局者が信者たる教師を罷免し、何の理由あるに依つて教師舎監の輩が、生徒の教会に出入するを妨げ、甚しきは之に退学を命ずるか。中には何の理由もなく、単に毛嫌するといふ自分の私情より打算して、斯かる大事を決行するのもあるらしい。斯かる輩は、盲目者流として笑ふと共に、教育界の賊として厳重に排斥せざるを得ぬのであるが、其の相当の理由を有するといふ者に就て観るも、其理由たるや頗る薄弱である。今此輩の宗教排斥の理由として取る所如何を考ふるに、大体(一)基督教は我国国体と合はぬといふ説、(二)基督教は我国固有の家族制度と合はぬといふ説、(三)宗教と教育との分離は欧洲諸国にても漸次行はれて居るといふ説、(四)教育者にして基督教徒たる者は自然に頭脳未だ走らざる学生を感化して特種の信仰に偏せしむるの嫌ありとの説の、四種に分るゝやうである。予は此四種の説を簡単に批評して見やう。
 第一に、基督教が我国体と一致両立するを得ぬといふ説は今日に於て、加藤老博士の外は、何人も之を唱ふるの勇気を有たない。理論としては、此問題は既に二十年前に解決を告げた。又事実としても、基督教界の名士中より幾多の愛国者を出せることによりて、此問題は問題たらざるに至つた。予自身の意識に於ても、忠君愛国の赤誠に於て、敢て基督教徒たらざる多くの友人に劣るとは夢にも思つて居ぬ。殊に最近加藤博士の質問あつて以来、此問題は縦横無尽に十分に論じ尽されたから、今更冗言を加うるまでもない。実は、予は加藤博士の議論はまだ之を熟読して居らぬ。只夫の二大質問なるものは読んで見たが、其時、予は斯かる問題は、基督教徒のみの問題では無いと感じた。国家が不義の戦争を命ずる時吾々は如何に処置するかと云ふやうな問題は、独り基督教徒のみならず、仏教徒も報徳宗も、博士にも皇族にも共通なる、云はゞ日本国民が共同に解釈の責任を有するの道徳的大問題である。又鳥獣草木を食ふのは如何と云ふが如きも、基督教にも仏教にも共通のものであつて、殊に近代の如く慈悲博愛の精神の発達するに当りては、一部の倫理問題と云つてよい。斯んな問題を動物虐待防止会にでも向けるなら兎も角、之を我が基督教の急所を衝ける問題として掲げ来るのは、噴飯に堪えない。以て基督教反国体論の根拠なきことを想像するに足る。且つ又基督教が果して国体と相容れぬ者であるならば、基督教は単に教育界より之を排斥すべきのみならず、日本全国のあらゆる方面に於て之を禁ぜねばならぬ。日本国民に対し、国禁として基督教の信奉を差し止めねばならぬ筈である。頑迷固随なる教育家諸君、諸君は、敢て基督教国禁論を主張するの確信と気力とを有するか。
 第二に、基督教は我国固有の家族制度と合はぬといふ説を楯として、之を排斥せんとする者がある。併し基督教は、事実上果して我国固有の家族制度と合はぬものであるかどうか。仮りに事実上合はぬとしても、其固有の家族制度は、基督教を棄てゝまでも之を維持するの必要あるかどうか。我等は国粋保存論者である。併し乍ら、国粋の存在を危くする者は、何物と雖も惹く之を棄てよと主張する程、没分暁漢(わからずや)では無い。固有の家族制度は、出来るなら之を維持したい。併し之を危うするから基督教を棄てよといふならば、先づ所謂固有の家族制度なるものは、基督教よりも価値多きものなりや否やを研究せよと答ねばならぬ。之を研究せずして、基督教を一概に棄てようとするのは、角を保存する為めに牛を殺すやうなものである。我国固有の家族制度は、明治時代になりて、殊に近代に至りて、大に動揺を来して居るのは、疑ふべからざる事実である。而して其原因は、決して基督教の為めでは無い。何となれば、基督教は、不幸にして、今日未だ我国の家族制度を動す程に普及して居らぬ。尤も全然無関係とは断言するを侍るも、其主たる原因でないことは、明白である。家族制度が、数千百年来の固有の形状を、段々失はんとしつ、あるに至つたのは、実に時勢の変に基くのである。今日の社会の進歩が、斯の結果を生んだのである。故に家族制度の動揺を憂うるものは、須らく明治現代の文明を呪咀すべきである。基督教を兎や角いふのは御門違である。予は更に一歩を進めて云ふ。既に動揺しかけた家族制度にして、其紛乱を解き其放漫を収め、再び衰勢を挽回して、新なる面目を以て現代に活躍せんとせば、実に我が基督教と提携せざるを得ぬ。此辺の消息は、猶詳論を要するから、他日別に論ずるとしやう。兎に角、固有の家族制度の破壊者は、現時の文明其者である。基督教は正に其修補の任に当るべきものであることのみを断言しておく。
 第三に、宗教教育の分離は最近欧洲諸国の流行なりといふ説を唱へ、以て教育より宗教を駆逐すべき道理の事実上の証明とする者がある。併し、欧羅巴に行うた事は、何時でも我国の之に倣つてよいといふ理窟は何処にあるか。又欧羅巴で行つて正当な事が、必ず我国に行つて正当であるといふ理窟は何処にあるか。加之、欧洲諸国に於ける宗教教育の分離といふ事は、我国の宗教教育の関係とは、丸で訳が違ふ。其差別のある処をも知らずして、一概に彼此混同して議論するとは、無識にも程があると呆れざるせ得ない。欧洲に於ける宗教教育の分離といへば、先づ第一に指を英国の例に屈するが、英国に於ては、日本の様に、全然宗教的勢力を教育界より一掃せんと企てたのでは無い、教育上に於ける国教の独占的特権を剥奪し、国教も民立諸教会も、平等の地位に置かんとしたのである。英国にては、従来国民教育の全権を国教に委ねて居つた。従て国立教会は、人民の租税に依て学校を建て、僧侶(学校教師は皆僧侶なり)を養ひ、且つ之に依て国教の信仰を学生に強うることを得た、而かも之等の負担は国教信徒たると否とを問はず、苟くも人民たるもの、均しく負ふ所である。其他国立教会は、啻(ただ)に教育上のみならず、政治上にも、社会上にも、種々の特権を有つて居つた。国立教会が多くの特権を有つて居るだけ、又其特権を恣に弄するだけ、一般人民、特に民立諸教会の信徒は苦むのである。而して所謂宗教教育の分離とは、実に国民教育の事業をして、此国教の専恣より解放救済せんことを目的とするものである。決して一般の宗教と教育とを、全く絶縁せしめんとするものでは無い。次に仏国にも、先年来、政教分離問題と云ふものがある。之は教育方面のみではなく、広く一般の公社会より、宗教を排斥せんとするの企図である。之も能く研究して見ると、一般に基督教を排斥せんとするものでは無くして、羅馬旧教を社会の表通りから追ひ除けて、裏通に押込めんとするに過ぎないのである。従来羅馬旧教は、仏国の国教として公認せられ、国家より種々の特権と補助とを受け、其僧侶の如きは、政治上重要の権利を有して居つた。時としては、教会の勢力が政府を眼中に置かぬと云ふ様の事すらあつた。殊にローマ旧教では、ローマ法王を無上の主と仰ぐが故に、勢ひローマ旧教の跋扈は、仏国々家の統一を危うするの恐がある。於是、仏国の識者は、ローマ旧教の政治上の特権を剥ぎ、其の補助を止め、全然他の一般の宗教派と同じく、全然宗教的事業のみに従事せしめやうと企てた。是即ち同国に於ける政教分離問題の真相にして、之に伴つてローマ旧教は、教育界に於ても、無論其特権を失ふ訳になるが、要するに、基督教そのものを排斥するといふ主旨でないことは明白である。其他以太利(イタリア)にも西班牙にも、同様の問題は起つたが、何れも国教に対する信仰自由主義の反抗若くは勝利といふべきものであつて、基督教そのものを排斥したものは一つも無い。寧ろ彼等は、教育と宗教と密接に関係せんことを希望して居るものであつて、只国教主義の弊害に飽くまで反抗したのみである。故に、若し吾人にして彼等に対ひ、吾等は卿等の為す所に倣ひて、宗教の勢力を全然教育界より駆逐し去らんと腐心しつゝありと云はゞ、彼等は寧ろ事の意想外なるに一大喫驚を感ぜざるを得ないであらう。
 第四に基督教徒たる教師は、やゝもすれば学生を感化して、特種の信仰に偏せしむるの嫌ありとの説を唱ふる者がある。併し乍ら、教師が其人格の力を以て自づと学生を感化開導するのは、何故に厭ふべきか。教育といふことが、只機械的に物を教うるに止らざる限り、人格的感化といふことは、寧ろ最も貴むべきものではなからうか。否、寧ろ之れこそ却て教育の真髄ではあるまいか。若し人格的感化といふことを教育界が容るゝことが出来ぬとならば、有為の良教師は皆其職を去らねばなるまい。教育界は全く平凡なる教授機械を以て流さる、の外なからう。論者或は曰う。人格的感化が悪いのでは無い、人格的感化に由て、耶蘇教といふ特種の偏した信仰を抱かしむることが宜しくないと。然らば問ふ。耶蘇教といふ特種の信仰に偏することは、ナゼ悪いか。之には更に理由が無いやうだ。又仮りに数百歩譲りて、耶蘇教といふ特種の信仰に偏するが悪いとした所で、之は左まで憂ふべき事では無い。良教師を排斥してまで争ふべき程の問題ではないと思ふ。何となれば、斯くして得たる特種の信仰は、多くの場合に於て之を覆すに大なる困難は無いからである。斯んな事は基督教徒たる吾人の口より言ふを恥ぢる。併し事実だから致方がない。随分現代の青年間には、信徒は多い。然るに、之等の者の中、或は学校の迫害により、或は家庭の圧迫によ町、又卒業後社会に出で、俗界の風波にもまるゝの結果により、全然之を棄てざる迄も、甚だ基督教と遠くなるもの頗る多いのである。吾人は実に、彼等の薄志弱行を悲み、又此種の青年の多き現代の社会の為めに、長大息を禁ぜざるものであるが、是亦適「所謂特種の信仰」なるものゝ深く恐るゝに足らざる証拠である。故に地を換て教育界の諸君の側に立つて云ふならば、特種の偏信するものは、放任しておいても自ら消滅に帰するかも知れないものである。併し又多数の中には、斯かる薄志弱行者流とは全く選を異にし、一旦植えつけられたる信仰は、年と共に根帯を深くし、日に月に生長発達して行くものもあらう。若し斯種の青年が少しでもあらば、教育者諸君は、須らく自己の人格のカを以て、反対の方向に之を開導すべきである。無垢の青年学生は、人格の力には動き易いものである。若し諸君の力が基督教徒たる教師其人の人格の力よりも、強く且優等なるものであるならば、耶蘇的偏信を覆すことは、一挙手一投足の労にも値せまい。若し一度決然として起つことあらば、基督教徒たる教師其人をも、自己の信念に同化することは出来る筈である。故に現今の教育社会は、自ら無能を以て居り、人格的感化力の皆無を自白する者に非る限り、基督教徒たる教師を排斥し去るの必要は、毛頭も無いと信ずる。

(四月十七日吉野生記す)