アナーキズムに対する新解釈



 我国でアナーキズムと云へば直ちに飛んでもない大それた事を計画する反逆人のやうに思ひ做さるゝを常とするが、実際此名の下に理解さるゝ思想は、必ずしもさう云つたやうな危険なもの許りでも無いのである。無論従来はアナーキズムは久しい間当面の政府乃至支配階級に対する猛烈な感情的反感に基く種々の議論を総称したもので、頗る危険な破壊的の思想であつた事は疑ひない。従つて今日でも世人動もすれば此名称の下に露西亜の虚無党などを聯想するのであるが、然し最近は段々国家の理論の発達変遷と共に、種々変つた意味がアナーキズムといふ文字に盛られ、今日では格別実際上の危険を伴はないやうな意味に解かるゝやうになつた。一部の官僚一派はアナーキズムと云へば恐るべきものと看做して之を取締り、又は斯ういふもの、名をさへ口にせしめざらんとするけれども、現に西洋では危険でも何でもない意味に此文字を使つて居り、それが自然と我国にも入つて来るやうになり、又之を成程と思ふ者もあれば、如何に政府で取締つた所が始末が着かない。それよりも寧ろアナーキズムといふ文字が今日何ういふ意味に使はるゝか、それを事実有りの儘に明かにした方が可からうと思ふ。

 歴史的に見ればアナーキズムといふ文字は、其始めに一部の官僚の今日間違つて理解して居るやうに、随分危険なものに相違なかつた。併し此時代のアナーキズムは眼前の政府国家に対する虐げられて居る者の感情的反感に基くもので、如何に鹿爪らしい説明を之に加へても、謂はゞ一種の空想的無政府主義に過ぎなかつた。社会主義に空想的なると科学的なるとあるが如く、無政府主義の発達にも空想的時代と科学的時代とある。而してアナーキズムを空想的感情論から科学的領域に移した者はクロポトキンである。此点に於て彼は社会主義に於けるマルクスの地位に等しい。而してマルクスもクロポトキンも共に仏蘭西のプルードンに負ふ所多きは面白い現象である。
 クロポトキンのアナーキズムは、現在の国家を直ちに破壊すべしといふのだから、無論危険なものに相違ない。唯其議論はもと/\感情論に基くものでなく、或る学問上の根拠に立つものだから、或る意味に於て案外話が仕易い。なぜなら感情に動くものは何と云つても容易に云ふ事を聴かないが、学問上の理論から発足する者は、理論の説破に依つて変説改論せしむる事が出来るからである。故にアナーキズムが空想的より科学的になつたといふ事は、其自身に於て大いにアナーキズムの危険性を減ずるものである。 ― 仮令クロポトキンの説其物は危険性を帯びたとしても。
 クロポトキンは現在の強制組織を以て人間自然の本性を損ふものと観た。人間は其自然の本性に一任して置くと、種々共同生活に必要なる制度を工夫し創造するものである。なまなか政府などがある為めに種々本性が損はれ、万人の幸福が侵される。斯く人間の本性を観た事は今日の学問から見て謬りではあるけれども、クロポトキンに取つては生物学上の研究に相当の根拠があつたのであつた。兎に角斯く人間の生物学的本能を推し極めて、政府を打壊しさへすれば黄金時代が直ちに来るやうに説いてある。故に彼の思想の危険なる点、即ち現在の国家組織を直ちに破るべしとする点は、感情から来て居るのではなくして、彼の生物学上の科学的確信に基いて居るのである。故に此科学上の結論を破りさへすれば、またクロポトキンは直ちに無政府的状態即時実現を断念したに違ひない。只併し乍ら彼は此点を断念しても、現在の国家なり政府なりが著るしく人類の自然の発達を損つて居るといふ見識だけは変らない。此点は何うしても所謂国家主義者とは一致しない。此処から新しいアナーキズムが発展し来る根拠がある。


 アナーキズムは一概に政府を破り、国家を否認すると云ふけれども、人類の共同生活を破壊し其秩序を否認するといふのではない。アナーキズムは吾々の共同生活から一切の秩序を取去つて混沌たる状態に陥れるものであると観るならば、そは大いに誣妄の言である。アナーキズムも感情的空想的なのは格別、少くともクロポトキン以後のそれは吾々の共同生活をより堅き基礎の上に置きたいといふ動機に出づるものである。此点は国家主義者と異なる所はない。然らば其同じ動機に立ちながら、アナーキズムと国家主義との岐るゝ所は如何と云ふに、そは次の点に在る。
 吾々は共同生活に於てのみ吾々の生存を完うする事が出来る。之は疑ひない。而して共同生活内に於て各自の生存を如何にして完うする事が出来るかと云へば、クロポトキンは之を自然に放任すれば可いと云ふたが、之は人間自然の本性を余りに楽天的に観た考へである。自然に放任しては共同生活が完うされないから、茲に種々の制度が生れて共同生活は秩序を着ける。斯くして吾々の共同生活には之を秩序着ける所の統括原理が発生した。而して其統括原理の最も顕著なるものに強制力がある。而して此強制力に依つて統括されて居るといふ方面より共同生活を見て吾々は之を国家といふ。
 そこで問題となるのは吾々の共同生活を統括する原理として強制力は唯一のものか何うかといふ事である。此処に於て国家主義と他の主義とが分れる。国家主義では強制組織を以つて社会的秩序の唯一の根源、共同生活を統括する唯一の原理とする。であるから此立場を執る人々に取つては、吾々の共同生活を完うする事は、之が唯一の統括原理たる強制組織を出来る丈け強くする事である。此処から国家至上主義が生れる。而して彼等に従へば共同生活は強制組織に依つてのみ統括されて居るのであるから、強制組織の否認は即ち共同生活其物の破壊である。故に例へばアナーキズムは強制組織を共同生活の最高の統括原理とする事を否認するもので、共同生活其物の破壊を希望するものではないなどといふ説明はノンセンスになる。
 併し乍ら強制力は果して人類の共同生活を規律する唯一の原理であらうか。最近の社会学は断じて此結論を容れない。又強制力は共同生活を統轄する最高の原理であらうか。命令服従といふやうな水臭い関係でなければ治まらないやうな社会は決して高級の共同生活と云ふ事は出来ない。日本の國體なども権力服従で説明しようなどゝいふ考は、甚だ我が国体の道徳的意義を没却するものと考へて居る。と云つて強制力なしに共同生活が維持されるとは、今日の人間の状態を以てしては考へられない。けれども若し共同生活を統括する種々の原理に上下の別を立てる事を許すなら、権力の如きは最も低級なるものと云はなければならない。只夫れ今日の場合に於ては権力が必要だ。けれども其権力が段々に道徳化して、共同生活の統括原理が命令服従の強制的関係から実質的道徳関係に進む所に社会の進歩があると忠ふ。斯ういふ見地からすれば、所謂国家至上主義は低級なる統括原理に執着するものであつて、却つて社会の進歩を妨ぐるものと云はなければならない。
 けれども強制力は将来の発達を来す必要なる段階であるから、之を否認するのは誤りである。即ち無政府的状態を直ちに実現せんとするならば大いなる誤りである。此点に於て即時実行を目的とする無政府主義は、今日の思想界に於ては成立たない。けれども強制を必要とせざる状態は、速い将来に於て吾々の到達すべき社会的理想である。此理想に到達するを目的として吾々は戦々兢々として今日の強制組織を運用すべきである。強制組織を出来る丈け鞏固にする事が決して共同生活を完うする所以ではない。そこで現在目前の事業としては、吾々は強制組織を頼む、権力を必要とする。即ち国家の必要なる所以である。けれども吾々は国家的権力を運用するに方つては、之が共同生活の唯一最高の統括原理であるとする従来の見解を棄てなければならない。此点に於て従来の旧い国家観は吾々の取る所でない。即ち遠い将来の理想としては、無強制の完全な道徳的状態を打建てるといふ事でなければならない。斯ういふ思想に如何なる名称を附すべきやは固より人の好む所によるけれども、今日の学界に於ては偶々之に矢張アナーキズムといふ名前が附けられて居る。之が学界の約束である以上、吾々も亦アナーキズムといふ名称の下に斯くの如き新理想をも諒解するのである。斯くして最近能く政治の最終の理想は無政府状態であるとか、或は社会政策の最終の理想は無強制の状態であるとか云はるゝのである。即ちアナーキズムといふ名称は斯ういふ新らしい見解を附けられて、昨今一つの社会的理想として思想界に生きつゝある。此意味のアナーキズムは是から大いに研究され、唱道されねばなるまい。只アナーキズムの名に怖れて、此と彼とを混同し、菽麦一掃、撲滅を計るといふのは謬である。

 

                           〔『中央公論』一九二〇年二月〕