アツツ島を憶ふ          横光利一


、南の海に戦果が拡がるにつれ、その方に人々の瞳の向
いたことは自然であつたが、その盛事の中に、北を守る
人々の姿が口数少くときどき見えたのは、私に忍苦の仕
ヘビころの重さがここにも忍んでゐるやうに思はれ、襟
をひき締めるのが習ひであつた。このやうな所があつて
こそ南の檜舞台の大展開も出来るのだと思つたのは、恐
らく人々も同様だつたにちがひない。何かの教訓がいつ
もひそかに匂つて来るもののあるところが、静静として
ゐればゐるほど、意味もまた深まり、表情も暗示に富
み、時とともに厳しさも増して来るものだが、北の海は
いつむ私にそのやうな感銘を与へてゐた。五月の下旬に
なつて、果然、南方に集つた人々の視線が北に転じた。
そして、三十一日の朝起きて新聞を眼にすると、アツツ
島には、私らの関心を集めセゐた人々が、もうこの世に
一人もゐない有様が載つてゐた。見事な戦闘の結果だと
分つても、そこだけ急に支へのなくなつた一点となつ
 て、鋭く寒風が吹き襲つて来るのを覚えた。文字通りの
玉砕といふべき果敢壮烈な死であればこそ、日ごろ然黙
 として私らを励ました、静粛な日の忍苦が一層強く胸を
 突いた0新聞の報道の簡略さがまた、凄愴な最後の叫び
 の消えゆくさまを言外に伝へ、余韻を残して思ひを深め
 るばかりであつた0誰かその場に生き残つたものの伝へ
 て来る報道の多い中に、この度のものだけは、誰も見た
 もののない、波浪を越して幽かに聞えて来る声を、その
 ままに誌されたものであるところに、雲をへだて空をへ
 だてた、生死の間の神秘な音信となつて脈挿のやうに流
 れてゐる0しかも、どのやうな角度から浮んで来る想像
 も濁りなく立派である0澄み切つた、半琵の月のやうな
 準えた光りで、すべてが地1から放れてしまつてゐる後
 を、ただ私らは追ふばかりの想像より出来ないが、しか
 し、それでも私らの頭に浮ぶどのやうなことも、みな荘
 厳森厳な美しさに見えることが、想像を絶したこの戦闘
 の明朗凄絶な姿である。日本人はすべ
てカくあれかしと望みたいよりも、こ
 れが日本人だと領かしめる、強力明快
 な典型を人々の頭に彫刻した戦闘の余
 韻 − すべて過ぎ去り無くなつたこと
 に拘らず、なほ次第に鮮明に鳴り込も
 つて来る力を、人々に与へてやまぬ空
 前の浸透力をもつて追つて来るのは、
 これを日本的性格の象徴性ともいふべ
 きか、ただ今は私は言葉を慎しみたい
 ばかりである。


  アツツ島に関するさまざまな記事
 を、その日から私は眼にしたが、風景
 の浮び出て来る文を見たのはただ一度
 であつた。読売新聞のある日の欄で、
 福林正之といふ人のアツツ島回想の一
 文は、活き活きと私にこの島の光景を
 知らしてくれた殆ど唯一のものと言つ
 て・艮い。
                  あをぐろ
 「岸を噛むベーリング海の波涛、勒
 んだ岩肌、樹木一本なき枯革の丘陵、
霧の光る山山、それらを渡るつめたい凧、霧 − 私にと
 つては厩に十年の昔に焼きつけられた映像ではあるが、
それがいま実に鮮明に蘇つて来るのである。(中略)暮る
るに遅いアリューシャンの初夏、丁度今ごろの時候に私
もアツツ島にゐたのである。一面の花野原と化した丘の
草に寝て、ベーリング海に戯れる鯨の群を眺めてゐるう
ちにふと空腹を感じて腕時計を見たら、既に十時であつ
た。漸く落日が山の端にかかつてゐる。私は驚いて立上
り、それからシカゴフ湾の衆落までの道 − 勿論、道と
てない革の野である − を急いだのであるが、さすがに
とつぷりと暮れて海潮の蒼白く光るのが、何故かしみじ
みと故国からの距離感を掻き立てたのである。そのとき
の風の冷たさ、凰の匂ひを今でもふと思ひ出す、Lとがあ
る.」
 ここと同じ場所の丘の上に集結してゐる勇士たちの、
最後の夜をこの人は想像し、涙を落してゐる美しい感慨
でこの文章が終つてゐるが、濃霧の中に僅に射し入れて
くれたこの風景は、私にその夜の戦闘の光景を知らしめ
る何よりの扶けとなつた。すでに敵襲を受ける以前の任
務が私らへの教訓であり、流星のやうに光を放つて滅し
てゆく姿に国民への反省と、無限の勇気と覚悟とを与へ
てゐるとはいへ、またこの島の風景も勲を後世に偲ばし

むるよすがとなること、たとへば旅順に於ける樹のない
山肌の流れと同じである0旅順の戦闘も直接私は眼で見
たわけではないが、かの地に行つた十年前、秋の日の下
を屈曲した静かな半島の山容を一望したとき、昨日も一
万、今日も一万と、日を数へるごとに戦死者の増してい
つた小丘の愁ひも、足もとに拡がるなだらかな革の根に
今も泌むことだらうと、云ひがたい感動を覚えて去りが
たかつた0この度の大東亜戦争も、当時のこの流血の野
の草に泌む心の呼び声に応じて起つてゐること、多多あ
るを思ふとき、遠くベーリング海の花の野に散つた戦士
の思ひも、歴史を支へ貫く希ひ極まつた突撃だつたにち
がひない01どのやうな姿で還らうとも遺骨だと思ふな。
死んだと思ふな0」家を発つときの山崎大佐のこんな門
出の言葉も、潮騒のやうに島根を捲いて響き残つてゆく
ことであらうが、永世報国の膜ひはも早や日本人にとつ
ては思想ではなく、肉頗ともいふべき身に具つた犯すべ
 からざる品位であらう0それも、悪人が地上に充れば満
ちるほど筆固になり、拭き継がうとする信念であれば、
 これに増して完備した生への訣別はどこにもない。

 アツツ島に散華した戦士の内地に於ける日常の生活
 は、どんなであつたかと思ふことは、愚かなことかもし
れない0私らの歩く街路で擦れ違つた人々の中にも、あ
るひは混つてゐたかもしれない人々の婆であつただら
う0しかし、それらはただ単なる人々であつたと思ひ得
られることが、今は私には喜ばしい。野や山で、また、
街街で摸する人々の姿の中に、そのやうな完備した念力
 がひそんでをり、機を見て咲き開く菅を、一つづつ裡に
抱いて歩行してゐると思ふことは、いかにも頼母しい想
 像であるが、これは必らず的中してゆく事実であらう。
 私がそのやうな空想をするのも、アツツ島の勇士たちの
 行ひとはまつたく相反した、しかもどこかに似たところ
 の感じられる、ある話を思ひ出したからである。
 日露戦争の最中のころのこと、島根県の浜田附近の浜
 べにある日、一般のロシヤの戦艦が近づいて釆た。附近
 の住民は敵艦と知つて、婦女子を山の奥にひそませ、男
 は討死を覚悟でことごとく渚に出、竹槍、小銃、刀剣を
 持ち出して待ち構へた0すると、敵艦から降ろされたボ
ートに艦上のものらが乗り移つて、浜べに向つて進んで
 来るその途中、ボートの中のロシヤ人たちは、それぞれ
 ピストルや小銃を一度空に向け、それから、これを見よ
 と云ひたげに一つづつ海中へ投げ込んだ。そして、再び
 近よつて釆たのであるが、その様子が解しがたく、浜べ
 のものらは何事かと見詰めてゐると、ますます近よつて
 来たボートの中のものたちは、誰もみな頻は蒼白で幽霊
 のやうに憎然とした瀕死の者たちばかりだつた。もう浜
 べのものらは、討死どころの騒ぎではない.今度はこれ
 を救ふのに多忙を極めた。極度の疲労に襲はれ冷えきつ
 てゐるボートの中のものたちに、直ちに火を焚いて曖を
 与へては、死を与へることと同じだつた。そこで一人づ
 つ適度の体温で温めてやるために、それぞれ自分の裸体
 を故人の肌に押しあてて抱きかかへ、みなこれを無事に
 救つた。
 私はこの話の事実かどうかは初めは知らなかつたが、
 去年、偶然に浜田へ銃後講演に回つたとき、この話を冒頭
 に話してから、今日は自分は今さら銃後講演などこの地
 でする要を感じないことを述べ、ここだけ簡略にして壇
 を下つた。翌朝この地の有力者の一人が、私らをつれ浜
 田の名所見物に行くとき、ふと私を振り返り、「あなたが
 昨夜話されたあの折の出来事は、後から老人に訊ねて見
 ましたら、それは本当のことでこの対岸の浜であつたこ
 とださうです.」と云つて、連つた岩間に蒼く光る秋の
 海の対ふを指差した。
 討死を覚悟の野や山の人々が、生存のさいには、この
 やうな、おほらかな愛燐の情をいだくといふことについ
 て、ただこれを美談と認めるだけではすまされぬ、高貴
 な血の素質の問題として、人間は一度は開き知るべきこ
 との一つかと思ふ.そして、これらの山野の人々が一度
 び戦ひの野に立てば、七生報国を厳つてやまむ、死への
 責任を、生の場合とともどもに美しく完ふするといふこ
 とについても、 − このやうなことが世界の人間にも知
 られず、良い効果を与へることも出来ずにゐるといふこ
 とは、いかにさまざまな多忙さが地上に拡つてゐるかと
 いふことを示してゐる証拠でもあらう.自分の国を賞す
 ることを自己讃美といふ。私もそのやうなことに気附か
 ぬわけではないが、私も自己讃美をせざるを得ない。病
 院船を襲ふアメリカさベI、「アツツ島には日本人の捕虜
 が一人もゐなかつた。これは世界戦史上かつてなかつた
 ことである。」と報じてゐる。敵国さへ感動す逆心、か
 ういふ精神の美しさは弾丸にも籠るのは自然であらう。
                        『改造L十八年七月号