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やまとこヽろと獨乙拐~

                                     鹿小木員信



は し が き
 おほまかにこれを言へば、大正十五年(一九二六年)の春より、昭和四年(一九二九年)に至る満三年余り、余は、日本側において後藤新平伯爵、独逸側においてゾルフ大使及びハアバア博士を肝いりの頭領とせる日独文化交換事業に携はり、特に、独乙における――而して余の意図の存せるところは、独乙を通ふしての――日本文化の対世界宣伝のことに従ふた。詳しく言へば、大正十五年春、当時在外研究員としてベルリンにあつた余は、我が文部省の希望に随ひ、ハアバア博士の依嘱を受けて、今は、ベルリン旧城内に割拠する Japaninstitut(日本協会)創立の基礎案を作成し、而して協会の略ぼその方針の下に、大正十五年四月一日、独乙内務省、外務省、プロイセン文部省、カイゼル・ヰルヘルム・インスチツゥト、独乙学問保護協会、プロイセン学士院等の援助、後見の下に創設さるヽや、余は、メックレソブルヒ博士と共に、入りて三ケ月間これが草創の事務に携はつた。而してその基礎略ぼ成ると共に、余は、その七月、ベルリンを去つて、日本に帰り、後藤伯、文部当局、高楠博士の指導の下に、東京における日独文化協会設立の事に携はり、ついで任に九州帝国大学に赴いた。 併かも学を九州帝国大学に講ずること未だ一年ならすして、一度び余の創意を投げ込んだ日独文化交換事業発展の状勢は、再び余のベルリン行を必要ならしめた。昭和二年春四月、余はまたまた懐しき故国を去つてベルリンに至り宇野博士の後を継ぐべく余儀なくせられた。以来昭和四年四月に至る二年間、余は、ベルリン旧王城内の日本協会を根城に、その指導者とし、兼ねてまたベルリン大学学賓教授として、日本精神の闡明と宣伝とに没頭専念した。日本協会の指導、外部各方面との折衝、若き日独研究団の創立、ドイツ文雑誌『やまと』の創刊等は、その外的事業であつた。而して余の内的学問的事業は、後、DerGiestJapans『やまとこゝろ』(ライブチツヒ、VerlagderAsiaMajor社出版、一九三〇年)として結晶するに至つたベルリソ大学における二学期に亙る講義及びライプチッヒ、ミュンヘン、ボン、フランクフルト等の諸大学における講演であつた。而して余の此の事業の核心は、内外両つながら、やまとこゝろを独乙精神に伝ふるにあつた。
 しかも遺憾なくこの任務を果し得るがためには、云ふまでもなく、余は、余自ら、やまとこゝろに生くる者であるばかりでなく、尚ほその上に、これを明かに認識――それも概念的に認識せるものでなければならぬ。もとより、やまとこゝろに生くることなくしては、我等はこれを残なく認識することはできぬ。併し、やまとこゝろに生くる者、必ずしも直ちにこれを哲学的に認識把握せる者でない。かくして、余は、余の任務遂行の心要上、やまとこゝろへの哲学的沈潜、即ち日本歴史の哲学的闡明に従ふた。しかも余は無限の熱情を以てこの崇高なる勞務に服した。その結実は、即ち、眈述の”DerGeistJapans”その最後の結晶の姿を取れるベルリン大学における『日本精神史』の講義であつた。
 本書第一章の『やまとこゝろ。その現実と、その可能性』は大正十五年七月ベルリソより東京に帰りて未だ二週日と経たぬその廿三日、当時、余のために紹介の労執られたコ富蘇峯先生の所謂『未だ草鞋を脱ぐか脱がぬ有様』の下に、国民新聞社講堂において試みた講演の草稿である。そは余のやまとこゝろへの組織的、全般的、反省、沈潜の第一歩とも見るべきもの、今日これを再び通読する時、余は、その思想の未熟を痛感せぎるを得ない。此の第一章に欠くるところもの、その足らざるところのものを補ふもの、実に第二章の『やまとこゝろのおひたち』の一文である。そは曾て雑誌『大東文化』(昭和五年正月)に載せたるもの、余の日本精神発展史の綱領を、證明せず、説明せず、唯だこれを銘記すべく高く掲げんとせるもの、為めに、言、余りに簡にして、意を盡くさゞるところ多きを憂ふるものである。余は、篤志の士の、これを通読熟思数回せられんことを冀ふ。若し、それ全般を尽くし、詳細に入る日本精神史の叙述に至りては、余はこれを後日の余暇に待たねばならぬ。 余はやまとこゝろを伝へんとしてその哲学的闡明に熱注傾倒した。しかも、余のこれにやまとこゝろの眞面目を伝へ語らんとせるところのものは、西欧の文化圏内にありて、また独自一箇の面目を有する独乙精神であつた。然るに嘗てプラトンもその『プハイドロス』の中に、言つてゐるやうに、善く伝へ得るがためには、相手の心のいかなものであるか、その特色、傾向を知悉してゐなければならぬ。かくして余は言葉通りに、行住座臥、或は独乙古聖賢資、詩人の経書、詩書に、或はその議会、学校、工場、劇場、音樂堂、活動写真館に、或はそのカフェ、舞踏場等の娯樂境裡に、或は諸官庁との交渉、学友、学生との友交、研究裡に、或はその家庭生活中に、或は登山とスキーの競技の間に、独乙精神の特色とその機構とを採り尋ねた。短日月の間における余の見聞の範囲と深さとは、無論、極めて浅薄狭小だ。従つて余は独乙精神を、残りなく了解せるものなどとは、夢にも自惚れ能はぬ者である。併し、余のやまとこゝろ宣伝の意志が、熱烈であればありしほど、余の独乙精神に対する熱愛と、従つて余の独逸精神を認識せんとするの熱情は、深厚でゐつた。その結果、余は、少くも、独逸精神の扉を開く一つの小さき鍵を見出し得たかと思ふ。第三章の文章は、即ち此の小さき鍵の描き出しの試みに外ならない。そは一度び『独逸文学研究』第五輯〔昭和五年十二月)に載せたるもの、本書三章中、余の最近の文章だ。

         *   *   *

 此の書のうちにおける主張、特に、その第二、第三両章の掲ぐる思想は、無論、漫然たる主観的独断の提唱ではない。そは、実は精神史学的方法論に基ける洞察だ。しかも此等の論文そのものは、元来、学界のために、学的要求を以て書かれたるものではない。寧ろ、広く一般読者に、余の研究思案の結果を頒たんがために、一般読者のために、物されたるものである。若し此のさゝやかなる小著が、すこしにても、現代日本国の自省と鍛錬と而して飛躍に役立あらば、余の此の書に籠むる願は足る。

   昭和六年二月二日


           筑前国香准宮近き寓居において誌るす
  
                  鹿 子 木 員 信

   内 容 目 次


 は し が き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1


 第一章 やまとこゝろ − その現実とその可能性・・・・・・・・・・ 11


 第二章 やまとこゝろのおひたち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 81


 第三章 独逸精神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 101

  第一章 やまとこゝろ −  その現実とその可能性

 

  君が代は千代に八千代に

       さざれ石の

         巖となりて苔のむすまで

 

 

 

 やまとここゝろ と 
      独逸精神
              鹿子木員信著


    第 一 章

  やまとこゝろ − 
       その現実と可能性

      一

 明治維新以来今日に至るまで、日本国民は、世界史上殆んざその類例を見ぬ大いなる過渡期に立つてゐた。過渡期はやがて蝉脱の時代だ。日本国民は、此の数十年、宛かも蝉が、その生長の成る発展の階段に於いてその穀を脱ぐがごとく、若しくは蛇が或る時期に、その皮を更へ旧套を脱するがごとくに、今までのもの、在来のもの、古きものを、脱却し、打破し、無視し、蹂躙し来つた。而してその無視、打却は、必然、玉石混淆であつた。




      二

 而して此在来のもの、古きものゝ無視蹂躙の半面は、薪らしきもの、即ち今まで無
かりしもの、異なるものに対する憬仰であり、いかにしてこれを我が身に致すべきかの
執心である。かくして、自らを捨てゝ他に就かんとし、他を迎へて我たらしめんどす
る他異なるものへの趣向は遂に一世の風潮を形ち作る。併かも自らを捨てゝ他に就く
ことは、事そのものに即いて曰へば、実は、絶対には、決して行はれ得るものでは無
い。従つてかくの如き他異なるものへの徒らなる趨向は、畢克、焦燥、軽躁、狂奔に
陥り、自費の喪失に終るべき運命の下にある。而してかく自らを捨て、自らを空しう
し、自らを賤しめ、自らを蹂躙して、他に属かんとし、自己欺瞞の被覆の下に、得々
として自ら他に化し、他に成り了せたるものゝ如く思ひ倣して、併かも自らの旧習陋
風は、依然として、これを脱却し得ざる時、こゝに醜悪なる模放の陋態を生ずる。模
倣の醜悪は実に、その自己欺瞞、否、自己欺瞞と云より寧ろむしけら同然の無自覚と
浅薄と他と我との取り違へと従つて他と我との間における無自覚なる右往左往の混乱
にある。今日と成つては、果して誰か日本国民のうちその最も皮相浅薄なる層が、所
謂『流行的尖端』の言葉の下に、此の猿の物まねの醜態を演じ来り、且つ演じつゝあ
ることを否定し得やう。


         三

 そは兎もあれ、此の異常なる過度期に際して、最勿より或る一定の計劃と経綸とを
以て、この過度期を誘致せる大波を乗り切らんとした明哲の士が無いではなかつた。
その最も著しい者は、恐らく佐久間象山、吉田松陰、横井小楠の諸士であつたらう。
而して依つて以てこの難局に面接し、この大波を乗り切らんとせる精神は、最も善く、
明治維新の生んだ恐らく最高の哲人横井小楠の詩に現はれてゐる。小楠は嘗てその抱
負を一詩に吐露して曰ふた………

     明2尭舜孔子之進1    尽2西洋機械之術1
     何止2富国1何止2強兵1 布2大義四海1而已

 我等は、此の小楠の詩に現はれてゐる志に、或る雄大なるものゝ潜むを看取せざる
を得ざるものである。併かも之れを一面より観察すれば、小楠の如き哲人にありてす
ら尚ほ、依りて以てあの明治維新と云ふ日本の難局を突破せんどする方針の、要する
に古の所謂和魂漢才主義を、和漢魂欧米才主義にまで進展せしめたるものに過ぎざり
しことを窺ひ知ることができる。即ち是等の先哲は、東洋の温徳を以て西洋の機械に
対し、進んで両者を兼併せんとしたのである。併かも彼等は、未だ、その所謂西洋機
械の術が、決して単に、術に止まるものでなく、その背後に、或る一種の道……きは
めて霊妙な、活発々地の一つの精神の儼存することに気がつかなかつたものゝごとく
である。いかにも横井小楠の亜流とも見るべき日本の基督教新教主義の先達は、思を
爰に致した。西洋文明の源には基督教と云ふ一つの道の力があると考へた。而して何
らの深き吟味省察なくして結論を引いて曰ふた。是の故に我らは、西洋文明の魂の源
たる基督教を信ずべきであると。


          四

  併かも精しく之れを究むれば、西洋文明の背後に躍動する霊妙なる魂のカは、必ず
しも之れを簡単に、基督数的精神の範疇の下に包摂さるべきものではない。またたと
へ仮にこれを肯定せりとするも、文化的精神の鞍替は、決して、しかく容易に行はれ
得るものではない。否、自らの歴史、自らの伝説、従つて我れ自らを捨てゝ他の魂、
他の我れを採ることは、これを厳密に曰へば、絶対に出来ざる相談である。我等日本
の心を持つ者は、いかに仏教に帰依しても、印度の心に成り切ることは出来ぬ。いか
に基督の数を奉ずるも、西洋の魂そのものに成ることは、絶対に不可能である。然る
に我が新教主義の先達は、極めて無造作に、基督数 − それも浅薄皮相なアメリカの
新教に帰依さへすれば、直ちに西洋文明の真髄を掴むことが出来ると信じて、滔々相
率いてこれに赴いた。その結果は……その結果は、これを語るも悲惨だ。天資決し
て貧しからぎりし彼等は、相率いて自ら偽善者、去勢者、影薄き影法師に成り行いた
のである。


          五


 是等塞基督新教主義の宣伝者に対して、日本の大勢は、寧ろ、小楠の主張を固持し、
西洋文明に対立してその機械の術を探らんとした。而して此の点において日本は確か
に或る程度までは成功したと言ふことが出来る、何と曰つても機械は或る程度まで
は、外物であり、道具である。故にこれを採つて以て我が用に供せしめることは、或
る程度までは無造作である。しかもそれは、常にある程度までゞある。何となれば、
如何なる道具と雖もも、真に程よき道具は、これを使はんがために作り出せる精神の極
めて微妙、霊犀な性能に従ひ、これに適して工夫生産せられたるものである。然るに
その作者、使用者の独特微妙の性能は、具体的にこれを曰へば、常に形而上学的に且
つ歴史的に制限規定せられたるもの、従つて単に一片の外物に過ぎざる観ある機械道
具の類と雖もその根柢には、独特の歴史を背景とするきはめて複雑霊妙なる精神の躍
動するものなのである。その最も善き、何人の眼にも著しき例は、我が日本刀である。
あの魂の躍る日本刀は、やまとだましひの背景の上に始めて可能であつたのだ。従つ
て是も善き道具の使用は、或る一定の歴史、伝説、国民性を前提とする。従つてまた
多少ごも有効なる道具機械は、必ずその背後に、或る種の心構へ……その道具を考へ
出し、作り出すに至つた特殊な精神を予想し、同時にこれをその背後に曳いてゐるも
のである。



          六

 然るに明治の識者指導者のうち、果して発人かよく此の点に留意した者があつたろ
う。彼等の多くは、殆んざ何等の準備なく、たゞ目前の急に駆られて、先づ軍備、経
済、次いで政治、法律の諸制度に互りて所謂『西洋機械の術』を採用し行いたのであ
る。而して是等の明治時代の指導者も、所謂『欧米先進国』の長を採るに急に、且つ
汲々たりしがため、新教主義の宣伝者とひとしく、己を空しくすると云はんよりは、
寧ろ已を忘れ、己を忘るゝと曰はんよりは、寧ろ己に培うことを怠つた。併かも彼等
は、徳川時代に累積せるその心の旧習陋態に至つては、これを拾つるこ亡を為さず、
たゞ翕然として彼等の所謂『欧米先進国』に向つたのである。換言すれば、彼等は口
さきは兎も角、その実行においては、日本の精神、日本の個性に顧み、これに心おく
ことなく、何は兎もあれ、性急に西洋の機械と西洋の制度に向つた。かくして西洋機
械の術は、その背後に一定の心構へ、或る特殊な欧米の生活様式を随へつゝ雑然とし
て、日本に殺到し来りて、六七十年の間に、日本国中に氾濫するに至つたのである。
かくして日本国民は、いつしか彼我をさへ分つこと能はぬものとなりて、混乱、無差
別、無明、無分別は、かくして日本を支配する最も大いなる潮流となるに至つた。



         七

 我等現代に生くる日本国民は、常に此の過渡期の混乱裡に生れ、はぐゝまよれ、長じ、
且つ教育され来つた者である。従つて混乱は我等の主観に取りては、も早混乱では無
い。寧ろ我等の生活の常態である。我等は混乱病の漫性て陥りて、混乱の裡にあつて、
しかも混乱にあるを知らざるものである。此の故にまた敢て混乱と混濁を排して、整
頓、秩序を持ち来さうとしないのだ。無論、混乱若し全然、無害のものであるならば、我
等の周囲にいかに、混乱があろうとも、之れを意に介する必要は無いかも知れぬ。し
かも金の見るところを以てすれば、混濁混乱は、一般国民生活に取りてばかりでなく、
進んで我等の魂のいのちに取りて、最も恐ろしい危険の一つである。蓋し、いかなる
いのちと雖も、その健かなる発展は、長期に亘る混乱の下においては、到底望まるべ
きものではないからである。内に、甚しき混濁混乱を満して、しかも勝味を以つて他
の国々との競争若しくは戦闘状態に入ることは、先づ絶望と曰つて好い。しかも、世
界の客観的情勢は、時々刻々、我が日本を駆りて、その四隣の諸国と、武力以上の競
争闘争状態に追ひ込みつゝあるのだ。
 しかも飜つて思ふに、かくの如き混乱と混濁を誘致せる根本の原因は、実に、いか
にかして日本国の存在を完ふせんとするの熱誠に出でゝゐる。然らば、この混乱を誘
致せる動機と原因をして、その本性に完からしむるがためには、我等は一日も早くこ
の混乱を突破して、清い、明かな、澄んだ、整つた、静かな、底力のある国民的生活
をつくり出すべく努カせねばならない。




         八

 しかも現代日本の混乱を排するがためには、我等は、先づ以で、その如何に混乱に
陥つてゐるかと云ふ事に眼醒めなければならぬ。現代日本の混乱が、いかに甚しき
ものでゐるかと云ふことは、その裡に生きてゐる日本国民には、或は明瞭に映つり来
らぬかも知れぬ。併し、一度び我等にして祖国を去りて、ヨウロツパ清明の天地より、
現代日本の姿を顧みる時、その混乱は、既に著しく意識される。例を社会の鏡、社会
の縮図と云ふ新聞紙に収りても見よ。恐らくアメリカの新聞を除いては、日本の新聞
程、乱雑なるものは、世界多くその類を見まい。既にその体裁そのものが、乱雑だ。客
観的に政局の推移を報する直ぐその次段には、往々卑劣陰険な主観的罵詈が遠慮無く

12

刷られてゐる。殊に所謂三面記事に至らては、殆んざ何等の組織ビ秩序のこれを統制
 するものがない。混乱の穿国東の中に生れ、之れを呼吸して長じた我等にさへ、少し
 く間隔を置きて日本を見る時、此の混乱は著しい。此の現代日本の混乱は、始めて日
 本を見るヨクXタ.ハの持紳には、いかばかトの強さを以て印象づけられるか知れぬ。
 両三年前、成るオHスタルライヒの帝人記者が、日本を放行して物せる日本印象紀に、
 命名せる題目は、賓に外ならぬ、JP勺巳ニd筐訂已d金字訂−軋冒已3『羅列の囲、日
 本。』と云ふのであつた。日本は、組織と秩序と統一の無い囲、唯だ雑然として羅列せ
る圃である己¢而してその表抵の意匠がまた頗る奇蚊だ。一方現在東京に現出しっ1
ある五階、七階、十階のアメリカ武庫天樺を資へしめ、他方直ぐその下に、江戸時代
そのま〜の平家の小さい白壁の倉庫が措いてゐる0また一方高速電車が走つてゐるそ
の傍に、昔ながらの荷車がきしつてゐるのだ、而してこれ賓に現代H本が、不用意な
る外凶軌察者に輿ふる偽らぎる皮相Hの印象だ0その奥深き挿紳は別ビして、現代日本
の膚津は、たしかに此の梯憲敏戚なクインの筋人記者が威せるが如くkあるT『羅
列の麟、日本0』



         九


 金は頚者が、如何にそれが羞恥の苦痛を伴はうども先つ此の現代日本の混乱の事斉
 を確懲せられんこどを艇ふものである0蓋し、金は、此の混乱の革斉に、余の考察反