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自然主義は窮せしや


 近頃こんな問を掲げて之を肯定する人が尠くないやうである。中には自然主義を既に勢を失墜したものと見てか、気早く他の異つたイズムを担ぎ出さうと躁つてゐる向もあるやうである。然し事実の観察と好悪の判断とを無闇に混同してはならぬ。自分とても自然主義其ものには深い不満を感じてゐる者ではあるが、少しく論壇の旗色が悪いと云つて、自然主義がさも滅亡してしまひさうに云ひたくは無い。論壇に代表者を有してゐないことと、社会的勢力として衰へたこととは別である。自分は社会的風潮として気分としての自然主義の実力を承認せざるを得ぬ者である。如何な天才も社会的感情に乗じなければ目覚しい働きは出来ぬ。痛切な自己の主観の要求に社会的感情の一波動が自覚された時に、新しいイズムの綱領を発表するも宜からう。少くとも自分は自然主義に対する漠然たる不満と此不満を医すべき反対の傾向の知識的理解との外に、まだ切実な主観の要求としての新傾向の湧いてゐない事を告白せざるを得ぬ。そして又社会の実力としての自然主義の存在の理由をも認めざるを得ない。之を要するに自分の見る所によれば自然主義は窮して居らぬ。目下の問題は僅に此自然主義の如何に経過すべきかを摸索するに止まるのである。
 自然主義が現代の科学的唯物的現実的思潮の産物たる事は云ふまでも無い。従つて自然主義将来の運命は此等現代思潮の生命の長さに懸つてゐる。或は現在の有のまゝなる姿を以て自然主義が続かぬかも知れぬが、所謂現代思潮のどうにか推移せぬ限り、自然主義的傾向は社会に跡を絶たぬであらう。
 所謂現代思潮或は近代思潮は其内容の複雑多岐なるに拘らず、一言以て之を悉せば客観を圧抑若くは征服したる思潮である。時には主観を高調して客観を罵る者も無いではないが、其叫は反抗の悶えの告白であつて勝利の凱歌では無い。現代の何処にか若々しい主観の姿が見られようぞ。客観主義は科学の精神で唯物論は其帰結である。大なる自然の前に人は虫螻と選ぶ所がない。進化論以来人の世界に於る特異の位置は許されなくなつた。此人間を自然の一片とする客観主義若くは唯物的科学的の思潮は、人間を生物視して英霊性を拒否する事によつて従来の仮想的迷信(!)から人の動物性を解放する事と、科学の結論たる宿命説によつて人の道徳的責任を解除する事とによつて、折柄生存競争に忙しくなつて自己存在の外に顧みることを欲しなくなつた時代の人心に投ずるものである。否、斯る生存競争其ものが、唯物論若くは科学的精神の人心を煽てて物質的欲望を是認し、弁護し、奨励した結果である。唯物論と其道徳たる快楽説(功利説を報含めて)と宿命説とが所謂近代的思潮の本流である。主観の侮辱も故に於て極まれりと云はねばならぬ。
 所謂自然主義なるものは、積極的に此客観主義を奉じて人間の動物性若くは獣力を誇張すると同時に、消極的に此動物的生活のわびしさ味気なさに対する倦怠の情を表白する事によつて複雑にされて居る。自然主義の文明史的意義ともいふべきものは寧ろ此消極的方面に存するのでは無からうかと云ふことは自分の曾て言つた如くである。勿論之では自然主義者が承知すまいが、尚少しく文明といふ事に就て考へて見たいと思ふ。
 古への哲人が巨人の真の戦ひと云つた如く、主観と客観との闘争は思想史の一切である。主観は其統一性を誇りとして、客観は其多面性を楯として両々常に争うて来た。客観主義が主観の貧弱な統一を打破して豊富な世界を開展する功績は、元より承認せざるを得ぬ所で、今日でも人の善い信仰や、家庭小説や、観念小説が軽侮せられるのは尤もな事である。然し人類の誇るべき光華ある文明的産物は客観主義の齎し得ざる所であつた。本来文明は人類の産物である、人類の自信を冷却せしめ、憧憬の情を阻止して能力なき自然の一塊となさしむる客観主義が偉大なる文明を産出する筈が無いのである。こんな事を云へば或人は自然主義の立場からは文明も不文明もないと云ふであらう。如何にも精神の存在を認めない自然主義者には文明も天才も何も有つたものでは無からう。彼等は切実なる現実刹那の威力に面喰つて、精神とか文明とかそんな夢のやうな話を顧みる余裕が無い、換言すればそんな暢気な不真面目(!)なことを考へる間が無いと云ふのであらう。然し刺激の直接且強烈な現実を真として、他をイリュージョンとするのは何も彼等が現実に対して真面目なからでは無い。之も科学的思潮の結果たる感覚論に陥つて現在以外のことを考ふる事に無能力になつてゐるだけの事である。無論自然主義は認識問題を取扱つてゐるのではないが、感覚論が唯物的な時代一般の認識論となつて社会的感情に漂うてゐる、それを自然主義が拾ひ上げて具体的に言ひ顕したにすぎぬ。何も自然主義者の所謂切実な現実といふ事を抽象的な学説と混同しようといふのでは無い。
 又現代の謳歌者で所謂近世文明に随喜してゐる人も客観主義が偉大なる文明を持ち来さぬといふ現に反対であらう。彼等は自然主義者と共に唯物論感覚論の信徒であるが、比較的に生存競争の逆流に関はなかつた人に多いやうである。従つて彼等には自然主義に見るやうな倦怠や疲労を感じてゐない。自然主義が都会の宗教ならば後者は貴族や富豪や田舎の人の宗教である。然し田舎にも生存競争の世知辛さは次第に浸潤して、汽車や汽船の便利に感泣した純朴な唯物論者も漸くひねくれた唯物論たる自然主義に改宗して行くやうである。此等富豪貴族と其与党の現代を讃美する人達は、主観が抑圧せられて人間が自然の一片として無能力になつたと云ふ事を信じ得無い。彼等は定義して「文明とは人が自然を征服して之を利用する活動の謂なり」なんどと楽天観を並ぺてゐる。科学の発達が宿命説になつたり、意志薄弱の結果を生じたりするなんどと云へば、彼等は喫驚して目を回すであらう。然し蒸気や電気や瓦斯を駆使して巨大なる機械を運転し、人類の能力に感心して得意の鼻を蠢かしてゐる間に、彼等の人生観が機械的になり生物学的になつて、自然律の応用が道徳にまで及んで宿命説の為めに意志薄弱に陥つて了つてゐることを知らぬのである。科学の応用は物質的享楽をカルチヱ"ェートするには功がある、然したゞ便利と云ふまでで、人の精神を昂揚せしむるインスビレーションは故に存在しない.換言すれば吾等は所謂現代文明なるものを以て、精神的文明の発展を阻害する客観主義として呪はざるを得ぬのである。
 吾等の世紀は憐むぺき世紀である。精神の昂揚を許さず、従つて天才の出現する能はざる時代である。Trivialismの横行する時代である。殊に此傾向を助けてゐるのは、長き間のオーソリチーの専横に対する反抗の情が養うたデモクラチックの精神である。吾等は天才を崇拝する謙虚の情を失つて了つて居る。又科学に対する信頻の情は今日の社会に於て殆ど不抜の鞏さを有して居る。夫に対して不信を発して居るものは極めて蓼々たるものである。尚又物質的享楽は営々として開拓せられ催進せられつゝあるではないか、今日と雖も羅馬の滅亡前の如くに、快楽に対する嫌悪の声を開かぬでもないが、羅馬人のやうな豊満の情は今日何処にも見出すことが出来ぬ。今日快楽に対して嫌悪の情を発する者は其意の如くに満たす能はざる不平から之を出すのである。こんな事でとても菩提心を起せるものでは無い。自然主義の背景は頗る堅固と云はざるを得ぬ。
 主観の自由なる活動、統一ある世界観、精神の国、理想の境、凡そ此等のものは今日幻影とせられて居る。之を幻影とする事に不服な者も、此滔々たる社会的感情に対して多少は伝染(カブ)れざるを得ぬ。徒つて其不服も徹底して居らず、頭で不服で感情で譲歩して居るものは無数であらう。非自然主義を説いて自然主義的作品を出すとの非難は、此辺に向けらるるのではあるまいかと思ふ。
 自然主義は無論結構なものではない。然し社会の実力として時代の感情生活を背景として存立してゐる取り、決して窮して居らぬ。従つて吾等の文明も亦遠い。


                    (明治四十三年五月十八日)