二〇八

    日韓合邦(抄)                   内田良平



日韓の新協約と統監府の創設

 日露戦争の結果、わが国は韓国における優越権と、満洲におけるロシアの敷設せる南満鉄道、ならぴに大連旅順の租借権、およぴ樺太半部を割譲せしめしのみにて、満洲の領土は清朝に引き渡してやった。当時もし露清間に攻守同盟の密約が存在せることを知っていたならば、決して満洲を清朝に返す必要はなかったのである。如何となれば、支那は日露開戦の責任国であり、かつロシアと攻守同盟せる敵国なれは、たとい軍事行動をなさずとするも、その不義を責め、満洲を没収すべきであった。清国は日本軍が破竹の勢をもって露軍を撃破したる威力に恐れ、中立を宣言して形勢をうかがっていたに過ぎず、もし日本軍が遼陽戦あるいは奉天戦に失敗していたならは、必ず露軍に応じ、日本攻撃に参加したに相違ない。日本の志士は、あらかじめかくのごときことあるを期し、六年前より計画するところがあったので、清国政府が露軍に参加したる場合は、ただちに革命の火蓋が切らるることになっていたのである。惜しいかな、露清密約の内容が攻守同盟なりしこといまだ世に知られず、清国政府も軍事行動に出でざりしため、孫文の挙兵計画も延期せざるべからざることとなったのである。この間の事情は後段支那革命の条に説くこととする。
 そもそも日露戦争の端は日清戦争に発し、日清戦争は朝鮮問題より起り、日露戦争もまた朝鮮に関するところ、重かつ大なるものがある。東洋発乱の禍根が常に朝鮮にありしをもって、日露媾和条約の成立するや、伊藤博文全権大使となり、三十八年十月京城にいたり、日韓新協約を締結し、韓国の外交権をわが国に収め、内政もまたわが指導に従わしむることとし、韓国統監府は創設せられ、伊藤博文は統監となって赴任することとなった。統監府は昔の任那府が三韓を統督せしごときもので、天智天皇の時代において任那府を撤退せしより、千二百余年にして祖宗の盛時に復旧したのである。伊藤統監は韓国の外交を行ない内政の指導をなし、諸政の改革に着手せられたが、教百年の積弊を除くは容易の業にあらず、韓国の内閣は主権者と指導者の二頭を戴き、この間にあって進退両難の場合少なからず、宮中の雑輩は陰謀のみを事とし、統監の指導を妨げ、頑固の徒輩を扇動して内乱を起さしむる等、奸計いたらざるなき有様であった。しかれども伊藤統監の威望は韓国の上下に重く、宮中の粛清を行ない、指導啓発に全力を注いでおられた。

日韓合邦の端緒となりし一事件

 時は明治三十九年九月、極めて小なる一事件が起った。しかもそれが日韓合邦の端緒となり、日韓一家を実現せしむる発芽となった。その事件というのは、百万人の党衆を有する韓国唯一の大政党たる一進会の領袖宋秉oなるものが、突然警務庁に拘引せられ、ついで投獄せられたことである。宋の拘引は罪人隠匿罪と称するのであって、実は投獄するにも当らないほどの関係のことであった。宋の隠匿したとする罪人は、韓国皇帝の信用厚く智謀測るべからざる怪人物として知られた李逸植であった。李逸植なるものは、かつて洪鐘宇をして日本に亡命せる金玉均を上海に誘殺せしめ、みずから朴泳孝を生擒(いけどり)して朝鮮に送らんとし、発覚して日本を追放せられ、日清戦後、ロシアの勢力を韓国に導き、これによって李完用等を頤使し、皇帝をロシア公使館に潜幸せしめた元兇である。日露開戦に及び、日本の歓心を得て身を完うせんと欲し、かねて親交ある京釜鉄道会社社員守部虎寿なるものの宅に来り、自己の本心が決して親露にあらざることを陳弁し、将来日本のためにカを尽さんとするむねを誓ったので、守部はこれに答えて「弁解よりも実行なり。君にして親日の誠意あらばその実を示せ」といったところ、彼は諾して去り、皇帝の勅許を得たる二十余種の利権を持って来た。この二十余種の利権は、韓国におけろ重要なる鉱山、漁業、山林、未墾地等のいっさいを網羅しているのであって、ほとんど韓国利権の大部分を日本に与えんとするも
のであった。守部はあまり利権の大に過ぐるに驚くとともに、韓国の親露政策が皇帝と李逸植の合作に出ており、李逸植の保身は皇帝の保身と連帯関係にあって、恐怖心
も共通せるがゆえに、かくのごとき利権を勅許せられたるものなるを知り、これは無名の守部ごときが取り扱うべきものにあらず、天下に認められたる人格者に托してこれを処置せしめざるべからずとなし、押川方義、巖木善治に委托したるも、わが公使の反対するところとなり、李逸植はついに玉璽を盗用せるものとしてその罪に問わるることとなり、統監府の創設されしころ、裁判確定して流刑に処せられ、いまだ刑の執行を受けずして自宅にいたのである。
 馬鹿を見たのは李逸植であって、得難き利権の勅許を得、これを日本人に与えてかえって日本公使の抗議に遇い、それがために罪を得て流人とならなければならぬ羽目に陥入ったのである。しかし窮境に処してなお智術に窮せざる彼は、たまたま政敵宋秉oが日本人の経営する精華亭という料亭に遊べるを窺い知り、突然その席に入って救済を求めた。宋はこの窮鳥に飛び込まれてわが家に伴い帰ったため、罪人隠匿罪に問わるることとなったのである。いまだ刑の執行を受けず自宅に在った逸植が、宋の宅に二日や三日いたからとて、日本に対しすくなからぎる功労のあった宋秉oをむざむざ投欲せしめたるごときは、裏面に李逸植問題以外何事か伏在しておらなければならなかった。果せるかな、それは統監府の警務部およぴ韓国警務顧問府が、一進会を崩壊せしむる方針と、平常反目せる憲兵隊長小山某を陥れんとする隠謀を策し、宋と小山とが親交あるゆえ、宋を捕えて証拠を振るべく計画したものであった。

東学党及一進会の歴史

 
一進会は日清戦争の動機となった東学党の変形したもので、東学党は儒教、仏教、
道教を究極した綜合的の教を立てた宗教団体であった。東学と称した所以は、西洋の学に対する東洋学の意味より名づけられたものの由で、崔済愚という人がこの教を開いたのである。しかるに開祖は邪教人を惑わすという廉にて、大邱府において斬殺せられ、高弟の崔時享がその後を継ぎ、明治二十六、七(一八九三−四)年ごろには十万の教徒を作っていた。その教徒が積年の虐政に堪

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えかね、国王に訴願したのが発端となって騒乱を起し、ついに大乱となって全羅道全部および慶尚、忠清両道の一部も東学党軍に響応するもの多きにいたった。その首領は崔時享の高弟全琫準という傑物で、日本の志士十四名は天佑侠と称して東学党軍に投じ、彼らを援助していた。のち、日清戦争となり、日本が朝鮮の政治を指導するに及び、東学党は対外事情に暗きため、誤った行動に出ずることとなった。彼らは最も憎悪せる閥族政治が少しも改められず、日本人は閥族を擁護して人民を擁護せざるものと誤解しふたたび兵を挙げたが、日本守備兵のために撃破せられ、全琫準は傷ついて描われ、朝鮮政府はこれを機として東学党の全滅をはかり、数万人を殺戮した。崔時享も捕えられて刑死し、高弟孫秉熈は上海に逃れ、李容九は江原道より威鏡道に入り、東学党を改め
て天道教と称し、懸命に布教した結果、明治三十七年ごろには五十万人に達する信徒を得ていた。
 日露開戦となるや、亡命して、氷らく日本に在留していた宋秉oは、長谷川軍司令部付通訳官という名義にて京城に帰った。宋は韓国政府が日韓同盟条約を結びながら、首鼠両端を抱き(日和見をしく)、露国に志を通ずるもの多きを見てこれを慨し、旧独立協会の残党を集め、維新会を組織せしめ、日韓同盟の実を挙げんと計画し、李容九と提携することとなった。かくて李容九は天道教徒を提(ひつさ)げ進歩会を組織し、両派合同して一進会と改称し、断髪するをもって会員章とすることとなし、旧弊打破に邁進し、頑迷なる官吏と闘い、一面においては北韓輸送隊を編制して日本軍の成鏡道における軍事行動を援助し、また六万四千七百人の会員を発して京義鉄道の工事速成を援助せしむる等、偉大なる実力を示した。日露戦後、伊藤全権の京城に来り新協約を締結せんとするや、韓廷は容易にこれを許諾しなかったが、一進会はそのさい裏面から成立に援助した。元来一進会は、韓国の階級制度、すなわち文武両班の出にあらざれば文武の官途に就くを得ず、
官吏は終身官にて、現官を辞するも地方において人民を搾取し、不法の権力を振って人民を納税機械のごとくに扱い、牛馬のごとく使役する悪制度を打破せんと欲し、東学党の前身時代から闘争し来ったものであるから、韓国政府ならぴに両班階級の者は、これをにくむこと蛇蝎のごとく、機会あらば一進会を倒さんと策謀していたのである。かくのごとき際に統監府が創立せられ、統監府員が韓国政界の事情にすこぶる疎きものあるに乗じ、彼らは盛んに一進会誹誇の宣伝をなし、遂に統監府員をして、韓国指導上妨げとなるものは一進会にあらずやとする懸念を抱かしむるに至った。一進会にとりては不利な
る空気の漂える折しも、小山憲兵隊長に対する警務部の陰謀と李逸植問題とが起って、宋秉oは投獄せられたのである。このとき一進会の有力なる幹部連は、創立以来大運動に要した党費を醵出してすでに家産も蕩尽した後であり、いっぽう宋秉oの奇禍により、政敵の悪宣伝が盛んに行なわれる有様で、地方党員の動揺ようやくはなはだしく、従来毎月五銭(日本貨の二銭五度に当る)の党費を徴収して、半額は支部費に充て、半額は本部費に納入せしめ、その額六、七千円を下らざりしものが、たちまち半減以下となり、財政的にも大危機に陥るに至った。

樽井藤吉の大東合邦論

 著者は天佑侠同志中の一人として、東学党軍に投じていたこともあり、韓国問題については古き関係があるのゆえをもって、伊藤統監より招聘を受け、一嘱託となって帷幕に参していたのであるが、宋秉o事件起るや、一見小事件のごとくして実は容易ならぎる大事件なるを認め、ひそかに統監に向って説くところがあった。その意見は、「統監にして韓国指導の目的を適せられんとするには、親日、排日の両派を駕御し、両派をして統監の信用を得べく競争せしむるところに指導の妙諦あらんも、今、親日の一進会を滅ぼして、親清派より親露派となり排日派と変化し来れるもののみを存在せしむるに至るは策の得たるものにあらざるべし」というにあった。統監はすこぷるこれに同意せられたるをもって、九月二十六日、一進会に関する報告書を提出し置き、一進会会長李容九を招きて、「日韓の将来に対してはいかに考えらるるや。その目的にして一致するにおいては、宋秉oの奇禍を救い、あわせて一進会を援護せん」と述べしに、李容九は「自分の意見は丹方
氏のいわゆる大東合邦にある」と答えた。丹方氏とは大和の人、樽井藤吉の雅号で、樽井は大東合邦論を著わし、「東洋諸国カを一にして西方に対抗すべきアジア聯邦を結成すべし」という意見を発表したのであった。李容九は日清戦後、日本視察に来た時、この書を得て深く共鳴したので、今、この言を発したのである。かねて樽井と親交ある著者は、李容九の言を聞いてただちにその意を解し、大いに喜んで、「アジア聯邦を成就するにはまず日韓聯邦の一家を実現し、諸国をしてこれに倣わしめざるべからず」といいしに、李容九は「もちろん」と答え、著者が重ねて、「宋秉oを始め一進会百万の大衆がこれに同意すべきや如何」と問いしに、「一進会員は天道の宗教を奉ぜり。天道を行なうに当り、一人の異議あるべきものにあらず。いわんや宋秉oの志もまたこの大業にあり。その目的を達するために吾人と血盟せるものなれば、宋を失うは大業建設の技士を失うも同然なり。切に救助を乞う」と答え、熱誠面に溢れ、人をして感動せしむるものがあった。著者はすなわち宋の救解に尽力すべき旨を答え、ともにともに日韓合邦を実現せしめ、さらにアジア聯邦の大業を成就すべく堅く誓いて一進会の顧問となり、十月二十日に至りて宋秉oを救い出し、ついで一進会の財政を整理し、進んで朴斉純内閣を倒し、李完用
一進会の聯立内閣を組織せしむることとなり、新内閣には宋秉oが入って農商工部大臣となった。

合邦実現の実際的運動計画

 日韓合邦については、李容九、宋秉oとしばしば密議を凝らして実行計画を立てた。その最も安全なる方法は、一進会内閣を組織し、閣議において決定実行すること。もし一進会内閣を組織することあたわざる場合は、一進会員をもって十三道の地方長官となし、地方官会議において発議せしむること。地方官も独占するあたわざる時は、全国民の輿論として請願書を提出し、竹槍赤旗に訴えても実現せしむること。しかしてまず第一に確めざるべからざる必要あるは統監の意志如何の点で、統監さえ同意せらるるにおいては、一進会内閣の出現も可能となり、合邦は易々として実行せらるることとなるべきをもって、あらかじめ統監の意中を探り、もし反対なる時は、説得して同意せしめ置くにあらざれば、とうてい合邦の大事を成就することあたわざるべしとなし、三人は一死もってこれに当るべき誓約を結び、その運動に着手したのである。
 しかるに統監は韓国指導の大任を負い、いまだ幾何の年月も経ざるうちに合邦を断行するごとき大問題に関し、容易に是非を言明せらるペきはずなく、著者や宋秉oの主張する合邦論には耳を傾けられざるにあらざるも、賛意を表明しないで婉曲なる言葉をもって説諭せらるるに過ぎなかった。われわれはここにおいて非常に焦慮苦心している際、たまたま韓国皇帝が、ハーグに開催の万国平和会議に密使を派通して、日本に委任したる外交権を蹂躙せられた事件が現われた。それは明治四十(一九〇七)年七月二日のことで、この事実が暴露すると、韓国の大臣等は狼狽してなすところを知らず、宋秉oは李容九およぴ著者を招き相談していわく、「統監が合邦に賛成せられこれを実行する場合に至っても、李熈皇帝の在位中は、その裁可を得ることの困難なるは、新協約締結当時の例に徴しても明らかなり。ゆえに今回の事件に乗じ、皇帝をして譲位せしめおかば、合邦はおのずから容易ならん。両君の意見如何」と。李容九いわく、「それはかねて必要を認めおりたる根本問題なれば一進会より譲位運動を開始せん」と。宋いわく、「待たれよ、余はまず李完用総理を説き、閣議にて決定せしめん、もし閣臣にて断行するあたわざる時は、一進会大衆の力をもって目的を貫徹しては如何」。李容九いわく、「可なり」。宋は
さらにいわく、「会長はただちに地方に赴き、閣臣失敗の報を聞かば大衆を率いて入京せよ。聯絡は内田に一任せん。しかして譲位は統監に対しあらかじめ相談すべきことにあらざれば、その賛否を保し難きも、内田はよろしく統監の意向を探って内報することにせられたし」と。かくして協議は一決し、李容九は一進会の幹部二十数名を随え、三南地方に向って出発した。時に明治四十(一九〇七)年七月十三日であった。

韓皇譲位す

 宋秉oは李完用をして譲位奏請の決心をなさしめ、閣議を纏めて最初は李総理一人参内し、皇帝に拝謁して、「ハーグ密使事件は明らかに日韓新協約の違反にして、統監より重大なる問責の来るべきは、日本の外務大臣がすでに東京を出発したる報道によっても察知せられる。このさい畏れ多けれども、陛下が身をもって国家を救わせられるのほかに道なかるべし」と説き、譲位のやむを得ざる所以を奏請したけれども聴許せられず、翌日各大臣打ち揃うて謁見し、譲位を奏請したがなお容れられず、第三日日すなわち七月十八日に至り、各大臣死を決して参内し、宋秉oが毫も忌憚するところなく直諌したる結果、ようやく譲位せらるることに決したのである。この間において著者は統監の譲位に対する意向を確め、宋を激励し、李容九と聯絡し声息を通じていたが、第三日日に至り、二回の失敗を見て統監はすこぶる不安の念を起し、宋を招き厳談せられたので、宋は著者に一進会の在京会員を招集して王城を囲み、宮中と聯絡をはかり、大臣等に声援を与えんことを依頼した。よって具然寿を総指揮とし、王城内にある警務顧問府を宮中との聯絡所となし、終夜奮闘の結果、ようやく譲位の目的を達することを得たのである。
 この間李容九は三南の出張先から、譲位の成否を気づかい、しきりに一進会の大衆運動開始を催促して来たが、その都度進行の経過を通報しておき、いよいよ譲位の成立するや、電報をもって帰京を促したのであった。
 また伊藤統監は、外務大臣林董の着京を待ち、本国政府の意向を聴取して協議のうえ、韓国政府とハーグ事件に関する交渉を開かれ、七月二十四日新々協約が成立した。その条件はすこぷる寛大なもので、彼の譲位に反対して京城を暴動化せしめた排日流すら意外の感に打たれ、「かくのごとき程度の要求ならばあえて騒擾するにも当らざりしに」と言い合ったくらいであった。宋秉oは著者に向い、「統監は政権委任程度の条件を持ち出さるるならんと思いしに、意外にも、新協約の補綴(ほてい)に過ぎなかった。政権委任ならば日韓聯邦説を主張し、一気呵成に目的を達するのであったが、惜しきことをした。これによって考うれば、統監の合邦に賛成せられざるは、表面だけにあらずして真実その意思なく、吾人の期待とは大なる懸隔あるがごとし。君の観察は如何」と。著者いわく、「統監は既定の方針に従って進まるるのみにて、どこまで行くも統監ならん。統監政治より聯邦政治に転換せしむるは、われわれの努力いかんによるべきもので、他よりころがり来るべきものにあらず。如何となれは日韓合邦の主唱者はわれわれにして、他人ではないからである。したがって東亜経綸の基礎たる日韓合邦の成否は、われわれの決心一つにあるものなるがゆえに、時宜によりては大臣の椅子も投げ出し、命も投げ出さねばなるまじ」と。宋ほもとより同感にして、それより種々運動方法の打ち合せをなしたるが、著者は重ねて、「合邦は伊藤統監の同意を得るにあらざれば絶対に成功せざるべきこと、統監をして賛成せしむるには、まず山県有朋、桂太郎、寺内正毅等の武人派を賛成せしめて、廟堂の空気を作るのほか道なかるべきこと」を説き、著者はみずから主としてこの方面の運動に当ることとなった。

韓国軍隊の解散

 新帝即位の直後、韓国の軍隊は解散せられることとなったが、がえんぜずして反抗し
た兵営もあった。この日、著者は友人を停車場に見送り、帰路南大門にいたると、にわかに銃声が起り、同門守備のわが軍隊はこれに応戦しはじめた。不意の出来事に狼狽する通行人の状態を眺めているうち、訓練院において解散されつつある状況は如何であろうかと思いつき、天真楼に滞在せる友人を誘い、その方面に赴いた。ここでは解散さるるとも知らずして、将校に引率せられ、次々に出て来る兵士に対し、解散命令を聞かせ、手当金を渡していたが、兵士中には将校に縋りついて泣く者もあり、そぞろに悲哀の光景を呈していた。泣いて去るも怒って戦うもその情は一で、悲壮両面の状況が一場に展観せられたので、何とも言い知れぬ感慨に打たれたのであった。著者はかねて統監および宋秉oに向い、一時に全軍隊を解散するの危険なるを説いたが、用いられずしてこの日
の解散となったのである。果たせるかな、暴徒は軍隊解散によって起り、一年有余の聞これが鎮定に苦しめられることとなった。

東宮殿下の御渡韓

 伊藤統監は韓帝譲位後の処置を終り、一まず帰朝せられたが、皇太子殿下御渡韓あらせらるることとなり、有栖川威仁親王およぴ桂太郎、東郷平八郎等陸海軍の大将が扈従し奉り、十月十六日仁川に到着せられた。著者も統監と前後して東京に在ったが、統監の帰任に先だちて京城に帰りしに、李容九来訪して、「一進会は日本皇太子殿下奉迎の歓迎門を作り、夜間は提灯行列を催すべくその準備中なるが、ほかに御旅情を慰むる方法あらば示教せられたし」というたので、「殿下の御渡韓は未曾有の事にして、日韓一家成立の瑞兆である。この機会において、一進会は新古の物産を全国より蒐集し、これを献納すれば、生活器具の末にいたるまでも台覧を得、韓国を知ろし召す上に大なる御発明もあるべく、かつ御帰国ののち陛下の天覧に供えさせらるることあらば、いっそう一進会の誠意を天に通ずることとならん」と語ったところ、李容九は非常に喜び、「宋秉oと相談のうえ全国の支部に打電し、ただちに蒐集に着手すべし」とて辞去したが、僅々一遇間の短時日内に、古代の物品より現代の鞋靴(あいか)にいたるまで取り揃え献納することになった。殿下京城御着のさいは、韓国皇帝を始め日韓の文武百官ことごとく南大門に奉迎し、鶴駕粛々として統監邸に入らせられた。一般の韓民もまた盛装して雲のごとく集り、熈々然と歓迎し奉った盛況は、まことに崇厳といわんか壮偉といわんか、一種特異の感想に堪えざらしむるものがあった。けだし当時地方においては、暴徒すでに蜂起して京城の人心も穏かならざるものありしに、殿下の御着とともに和気城内に満ち、春風の吹き到れるごとくなりしは、全く皇徳のしからしむるところなるべく、深く感激した次第である。一進会の準備せる献納品は、表文を添え、統監を通じて台覧に供えたが、非常なる御満足にて、のち、上野の表慶館に陳列せしめ、衆庶に拝観するを得せしめられた。
 皇太子殿下御還啓後の韓国は、暴徒の横行はなはだしく、襲撃の目標とされたものは日本人と一進会員であって、一進会員の殺害さるるもの頗る多きため、宋秉oは義勇軍を組織して暴徒を鎮定せしむべく東京滞在中の著者に書面を寄せ来りしも、著者は軍隊を解散して義勇軍を組織するは政策の矛盾であり、統監の威信にも関するものあるを思い、帰任するまで待つよう制止しておき、帰韓後一進会をして暴徒に関する各面の調査をなさしめ、十一月二日に至り、李容九を招き、「義勇軍よりも行なわれやすくて有効なる方法あり。それは各村に自衛団を作り、官憲にカを併せ暴徒を防衛せしむるにあり。しか
してその自衛団は、政府をして命令を発せしめざればあまねく行なわれぎるべきをも一つて、会長より李完用総理を説き、総理より統監に相談せしめよ。統監にはあらかじめ賛成せしめおくゆえ、事はすみやかに成立すべし」といいしに、李容九は「妙案なり」と同意し、宋秉oに告げて即夜李総理を訪い、自衛団組織の必要を勧告した。総理は「統監に諮って決定すべし」と答え、統監の意向を伺ったところ、統監はすでに著者から聞いて賛成しておられたることとて、たちまち政府より自衛団組織の論告を発する運びとなり、京城府尹(長官)を会長とする自衛団組織後援会をも設立せしめ、一進会員は後援会員とな
り、地方を勧誘して自衛団を組織せしむることとなった。

一進会員受難の状況

 一進会は各道に会員を派遣して自衛団組に着手し、会長李容九もまた暴徒の最も猖獗なる江原道方面を遊説すべく著者の同行を求めた。著者は武田範之、高村謹一、大賀八三郎、須佐嘉橘、通訳岡本慶次郎の五名を伴い、四十年十一月二十三日、李容九一行二十数名とともに京城を出発した。前日、李容九とともに統監を訪うて別を述べたとき、両人に拳銃一挺ずつを与えられた。著者に与えられたものは、統監がかつて英国にて購(あがな)われたモーゼル式自働拳銃であった。一行は議政府、揚州、漣川、鉄原、金化、華川等を経て、十二月十一日春川に到着した。翌日副統監曾禰荒助より著者に宛てた十二月九日づけの書信に接した。披見すると、書中、「一進会が党勢拡張に汲々たる結果、時々あるいは暴行または脅迫し、あるいは断髪を強制し、良民はこれがためにかえって不安の念を生じ、容易ならざる形勢に立ち至り居候様(おりそうろうよう)に相聞え候(中略)前段に陳るがごとき処置あるにおいては、用捨なく断然たる処分に出るのほか途なきに至るべく侯(中略)一進会の巡視を暫時御見合せしかるべくとも存侯うんぬん」(下略)と
あった。これは実に驚くべき書面にして、一進会は党勢拡張や暴行脅迫等をなすごとき場合にあらず、一進会員たるが故に暴徒襲撃の目標とせられ、断髪せるがためにいっそう危害をこうむり、すでに千余名の党員を殺害せられおり、他に向って断髪を強制するなどというごときことが出来得べきはずもなく、自衛団組織さえ一進会の名においてする時は、かえって地方人をして暴徒の目標となる鬼胎を抱かしむるなきやをおもんばかり、自衛団組織後援会を創立し、その会の名において遊説せるくらいなるに、副統監がかくのごとき誤解をなすに至った原因は、京城に居住せる両班富家の財産は、彼らが地方に
おいて所有せる土地であって、暴徒蜂起のために小作料も徴収するあたわず困却しつつある際、一進会の進言に成れる自衛団組織は非常なる期待をもって好評を博し、一進会を嫌悪せる人士さえ称讃するに至りたるより、反対派たる政敵は一進会の勢力増大を恐れ、曾禰の不明に乗じ讒間したのである。著者はこの書を李容九に示し、協議のうえ日程を変更して帰京することに決定し、十三日春川出発、十四日京城に帰着した。この行わずかに三週間に過ぎざりしも、寒風凛烈、加うるに暴徒出没して、いたる所の村落は荒され、族行の困難にして危険なること非常のものありしにかかわらず、報効の赤心より労劬(ろうく)をいとわず、献身的活動をなせるに対し、副統監の与えた一書は、一進会の衆徒をして抑うべからざる憤りを起さしめ、のち、合邦提議に際し、大波瀾を惹起する原因ともなった。

授産金と将来の大計画

 伊藤統監は十二月に帰朝せられ、留守を預かれる曾禰副統監は雑輩に翻弄せられ、是非の鑑別なく、著者が一進会の行動につきつまぴらかに説明したるに、表面は了解したるごとくなるも、裏面において自衛団組織を妨げ、成功の見込みなき形勢に立ち至らしめたるをもって、著者は親しく統監に顛末を報告するとともに、他に期するところあり、十二月二十四日、京城を出発して東京に帰り、四十一年一月、大磯漁浪閣に統監を訪い、統監府嘱託辞任を乞うた。著者がこの決心をなすに至りたるは、日韓合邦を促進せしむるためであって、統監府員としては、統監の対韓方針に反する行動は絶対に避けざるペからざるのみならず、廟堂の有力者に向って日韓合邦の潜行運動をなすうえにおいて、
一介の野人処士たる立場に在るを便利とし、かくは辞職を申し出たのである。しかるに統監は聞き届けられず、四月に及び、韓国に帰任せられんとするに臨み、著者を大森恩賜館に招き、一進会授産金問題もあれば、今一度帰任して同問題を処理せよと懇諭せられたため、辞意を翻えして留任することとした。一進会授産金問題というのは、一進会会員に産業を与え、彼らの窮乏を救う必要あるを感じ、韓皇廃立事件の直後、四十万円内外の授産資金を一進会に与えられたしと、その方法を具して進言したるに、統監は大いに賛成せられ、帰朝のうえ他に謀って決定すべしといわれ、四十年八月帰朝中、五十万円
を調達したが、いまだ一進会に交付されないでいたものを指されたのであって、著者にとっては大なる責任の存する事がらであった。
 如上の事情により、京城に帰任して見れば、副統監の意見として、統監の調達せられたる五十万円のうち二十六万円を一進会に交付することとしたが、この資金のみにては不足なので、日本の事業家に出資せしめ、合資会社を組織する純然たる事業本位の計画が廻らされていた。著者の計画はかねて李容九、宋秉oと熟議の結果、日韓合邦の後は、一進会百万の大衆を率いて満洲に移住せしめ、支那革命の機に乗じて満蒙を独立せしめ、日韓聯邦にならいて、満蒙を聯邦国たらしめんと企画し、すでに間島には多数の一進会員を移住せしめ、その素地を作っていたのである。ゆえに授産金の交付を受けなば、他日満洲に活躍する基礎的事業を起し、第一線に立つべき満洲移民の母胎とする考案であって、どこまでも東亜聯邦の目的を達成する手段に供せんとしたのであった。したがって普通の営利会社ではおもしろからず、まして日韓合邦の根本問題はいまだ統監の賛成を得ず、あるいは国民的請願運動に出ずるのほか、道なきに至るやも計り難
く、万一かかる場合に陥らば、授産金をもって根本解決資金に運用しなけれはならぬ事情も存し、かたがた副統監の立案は、一進会にとり好ましからざることであったので、これをいかに処置すべきかと、ここに両人と協議のうえ最後の手段に出ずべく決定した。
 それは宋秉oがまず農商工部大臣を辞職し、著者もまた統監府を辞して全く在野のものとなり、一進会内閣を出現せしむるか、その不能なる場合は国民運動を起し、合邦速成を期するにあった。以上の方針を定め、五月下旬、宋秉oは統監を訪い、李完用内閣の失態およびこれに対する国民の不平、ならぴに一進会の憤激はなはだしく、辞職のやむを得ざる事情をのべた。李完用は統監より宋の辞意あるを聞きて内閣の瓦解を恐れ、しきりに翻意せしむべく苦心したるも、かえって宋のために内閣失態の諸点を責められ、李完用、趙重応の両人は、ついに統監に対し失政を謝することとなり、宋もその席に立会
わされたが、辞職するはずの宋は老練なる統監のため、かえって内部大臣に推され、突如として内閣の改造が行なわれた。一進会の会員は農商工部大臣の宋秉oが内部大臣になれるを見て喜ぶべしと思いのほか、大いに憤慨して動揺を生じ、著者の鎮撫によりてわずかに事なきを得、統監も宋秉oも深く喜びたるも、予期の辞職問題はここに頓挫するに至った。かくて九月に及び、著者は統監と前後して東京に帰り、李容九も次で上京して永く滞在することとなり、これより幾多の迂余曲折ありて、翌四十二 (一九〇九)年二月またまた宋秉oは辞職を申し出た。統監はこれが慰留に苦しみ、しばらく東京に遊ば
しむべく、伴うて帰朝せらるる途中、下関においてついに宋の辞職を許さるることとなった。ついで著者の辞職も許され、伊藤統監もまた辞職を決心せらるるに至った。

合邦と支那革命の関係

 伊藤統監の辞職は、かねてわれわれの期待せるところであって、しばしはこれを勧告せしも用いられず、著者は宋秉oと辞職同盟を結び、伊藤統監をして辞職せしむべく計画したのである。われわれ両人が辞職すれば、統監も辞職せらるべき関係が存在していたのであって、知遇をこうむった伊藤統監に対し、その辞職を希望し、これを勧告するに至った理由は、伊藤統監の在任中は、日韓合邦の大事を決行せしむるあたわざる事情の潜在するを認識したからである。著者がかくのごとく日韓合邦を急いだ所以は、支那革命の機運すでに熟し、数年を待たずして勃発すべき形勢にあるをもって、支那革命に先だち合邦せざるにおいては、韓国の人心支那革命の影響をこうむり、いかなる変化を生ずべきか測るべからざるものあるのみならず、満蒙独立の経綸も行なうべからざることとなるべき憂いがあった。ゆえに統監に対し、支那革命の切迫せる形勢を説き、抜本的対韓政策を進言すること再三であったが、ただ聴き置かるる程度で、当初より立てられたる政策は少しも変更せらるべき模様なく、千載一遇の好扱を逸せんとするおそれあるにより、たとい知遇の恩にそむくも、国家百年の計には換え難しとなし、ここに統監の辞職まで決意せしむるに至ったのである。
 宋秉oは辞職後東京に留り、李容九も滞在していて、三人協力合邦運動に専心従事する一面、著者は『清国動乱の機』と題する意見書を執筆し、これを朝野の人士に頒布して支那革命の目前に迫れる理由を具体的に説明し、注意を喚起した。また中央アジアの精密なる地図を製作発行して、東亜聯邦組織の理想を現実的ならしむべき準備を整え、枢密院議長山県有朋、総理大臣桂太郎、陸軍大臣寺内正毅等の元老当局を説き、日韓合邦に対しては、ほとんど異議なきに至らしめた。しかして伊藤統監はいよいよ辞職を決せられたが、後任者を定むるについて行き悩みを生じた。宋秉oおよぴ著者は、副統監曾禰荒助のごとき凡庸愚劣なる人物をもって統監たらしむるにおいては、一進会は断じて反対運動を開始すべしと主張した。伊藤統監も最初は曾禰を後任者に擬し、韓帝廃立後は副統監制を設けて曾禰を推薦せられたのであるが、彼の闇昧なるを知って、後任となすことを躊躇せられた。かくのごとき折から、一進会側の反対の声を聞き、容易に決定さるるに至らず遷延しつつあった時、著者等と元老大臣間の連鎖となり、合邦運動を援助せる杉山茂丸は桂総理と謀り、曾禰荒助と李容九、宋秉oおよぴ著者間の調停をなすこととなり、曾禰は桂の代理ともいうべき関係あれば、統監就任の上は、必ず合邦問題を解決せしむべしという桂総理の保証条件にて説得され、著者等は大いに満足して上京中の曾禰と会見することとなり、ついに韓国統監の更迭を見るに至った。

三派の提携

 伊藤公の統監を辞し、曾禰荒助に替らしめんとするや、最後の仕事を計画した。それ
は韓国の司法権を委任せしむる一件であった。宋も著者も、これに対する諮問を受けたが、宋は手を斬り、目を抉ぐるがごとき虐殺手段を執らずとも、韓国は首を延べて断頭を待っている、「何ぞ快刀一揮せられざるや」と答え、著者は司法権の委任に関して、「一進会は賛成もせず、反対もなさざるべければ、何ら顧慮せらるる必要なし」と答えた。李容九は統監の更迭と合邦問題局面の展開とを認めて帰国するに決し、六月四日、伊藤公は李のために霊南坂官邸において盛大なる送別宴を開かれ、桂総理、寺内陸相等の大官も出席された。李はこの懇篤なる待遇を受けしことに対し、大いに感謝していた。かく
て李容九は帰国し、曾禰新統監も赴任され、伊藤公は韓皇室その他に訣別のため渡韓せられ、この機会をもって、予定のとおり司法権を委任せしめ、四年間在任されたる韓国の山河を後にして、堂々帰朝されたのである。京城に帰った李容九は韓国在野党の全部を挙げて合邦に賛同せしむべく、一石二鳥の謀略をめぐらし、其の計画を実現せしめた。李容九の計画は、李完用内閣の横暴に憤りたる西北学会およぴ大韓協会と提携して内閣攻撃を開始し、李完用内閣を打倒して一進会内閣を組織するを得れば最も好都合なれども、もし内閣を打倒するあたわざる時は、二派の者を激せしめて、合邦運動に出ずるの止むを得ざる勢に赴かしむべく、両派の中において、李容丸に心を寄せたる同志の士と策謀し、三派提携の議を纏め、著者と宋秉oとの渡韓を促して来た。
 著者は宋秉o、杉山茂丸とも熟議を重ね、桂総理およぴ伊藤公を訪い、李完用内閣打破の挙に出でんとする三派提携の成立せる事情を述べ、この時この際彼らを利導して我が用をなさしめざるべからざる所以を力説し、九月十六日、著者のみ渡韓することとなり、十八旦京城に着し、ただちに李容九と要務を議し、二十三日、曾禰統監を訪問した。そのとき統監は、「三派合同は政権争奪のためならば、もとより賛するあたわざるところなるも、もしこれに反し、もたらすところの大賚(たいらい)[たまもの]あらば歓んでこれを迎うべし」といった。著者はこれに対し、「いかにも存外なる土産あらん」と語って辞去し、三派合同の懇親会に臨み、三派提携はここに成立した。二十五日、李容九の母堂が時疫のためにわかに逝き、至孝なる李は喪心せんばかりの悲哀に沈み、かつ一週間も外部との交通を遮断せられたため、慰問することもできぬ不幸に遭遇した。この日杉山茂丸の派遣した菊池忠三郎が来着した。菊池はかねて統監より一進会に付与せられた授産金の事について渡韓したのであった。この授産金は二十六万円のうち十万円は伊藤公の在任中下付せられ、残りの十六万円は新統監の手に保管されていたのを、杉山において監督すべき条件にて交付されることとなり、菊池はその会計監督として来たのである。しかるに李容九は隔離せられて面会することを得ず、菊池は著者に向って会計監督の方法を問うた。著者いわく、「韓人に交付せる金銭の収支を監督するごときは真に無用のことにて、彼らの感情を害うに過ぎず。余は従来、金銭利用の大本を指示するに止め、いまだかつて収支の末に留意したることなし。ただ大目的に向って一進会を指導すれば足ると思いおれり。区々たる金銭の収支に容喙すべきにあらず。君よろしく一進会の報告を鵜呑みにする覚悟をもって監督せよ」と答えたるに、菊池しかりとなし、この方針に従い、日韓合邦を成立せしむる上に大いなる貢献者となった。二十七日韓国駐屯軍参謀長明石元二郎を訪い、三派提携の経過を陳べて合邦の序幕に入りたるを告げ、彼の援助を約して帰り、十月十日、明月館において三派聯合会を開き、三日京城を出発し帰途についた。

断乎合邦に向って進む

 著者は帰京後ただちに杉山茂九およぴ宋秉oと会見し、形勢ここに迫りてはもはや躊躇すべからざるをもって、断然合邦に向って歩武を進むべしと協議一決に及び、具体的合邦案をもって当局を説くこととなった。時に伊藤公に満洲出遊の挙あり、これに先だち著者は大森に公を訪い、三派提携の現状およぴ合邦の断行し得べき所以を述べたるに、公は意外にも、「余もしか思うがゆえに、先日の枢密院会議において、韓国処分期の到来せることを説きたり」と言われた。公の口より初めてこの決然たる意見を開き、大いに喜び話頭を転じて満洲行の危険なるを注意したるに、公は、「韓人にして余に危害を加うるごとき愚挙をあえてするものあらざるべし」と笑って意に介するところがなかった。また杉山は伊藤公出発前において、桂首相を三田邸に訪い、三派提携の顕末を報じ、合邦の機迫れるを論じ、首相の不同意ならざる色を見てさらに言を進め、「我にしてすでにこの意あらば、彼らは必ず合邦を請い来るべし。その際首相はいかに処せんとするか。」首相いわく、「はたしてしかるを得ば実にこれ良策にして、列国もまた異議を鋏むの余地なからん。」杉山いわく、「しからばこの方法をもって決行せしめん。」首相いわく、「合邦の実行にはおのずからその時期あり。猪突猛進して累を生ぜしむるなかれ。」杉山いわく、「時期に至りては一に首相の指揮に従わん。ただ合邦断行の決意をなせば足れり。」首相いわく「しからば可なり」とて議ようやく決した。ここにおいて杉山は、帰路芝区網町なる宋秉o邸に到り、電話にて著者を招き、三人鼎座のうえ、右の顛末を語り、かついわく「君は宋君とともに合邦建議書の案文を草せよ。余はすなわちあらかじめこれを桂首相に提示し、首相をして期に臨んで変心せしめざるを期すべし」と。余すなわち宋と上書の大綱を談合して宅に帰り、川崎三郎、葛生能久の両人を招き、三人攻究の末、韓国皇帝に上(たてまつ)る書、統監に上る書、およぴ韓国首相に上る書の三通の文案を草し、宋秉oに一覧せしめ、異議なきをもって杉山に渡したるに、彼は佳なりと称し、転じて桂首相に提示した。
 宋秉oは合邦提議の方法を決定する必要あるより、しきりに李容九と書信を往復して内容の説明をなしたるに、李容九の主張とすこぶる懸隔を生じたるをもって、著者は「合邦の内容は日本天皇陛下の叡慮によって決すべきものにして、韓人の上るべき合邦建議書中にはこれを記載すべきものにあらず」となし、この意を伝えたるに、李より「君らの意思はこれを解するのみならず、僕も同意するところなれども、今説くに皇帝の廃位、内閣破壊等をもってせば、多くの賛成を得んことは至難である。僕は一人でも賛成者の多くして勢力の強盛ならんことを欲し、あえてこの要求をなす所以である」と答えて来た。李容九の要求はもとより至当であって、彼は百万の会員を率い、かつ大韓協会、西北学会以下、雑駁なる党派団体を糾合し、合邦の大目的に向って歩武を進めしめんとするものなれば、いわゆる合邦なるものはいかなる形式を具備するものなるか、これを説明して首肯せしめることはまことに至難の業であり、宋秉oもまた、衆人をして釈然諒解せしむべき説明を書信によって通ぜんとするはますます困難なるをもって、断然説明を廃し、単に合邦の大標題のみを立て置き、これを聯邦と解し、あるいは政権委任と釈(と)くものあるべきも、それはすべて各自の解釈に任せ、彼らを統率し節制して進行せは、結局統治権全部の授受を完成するを得べしとなし、この旨をもって李容九を同意せしめた。

伊藤公暗殺事件とその影響

 十月二十六日、伊藤公暗殺の報突如と してハルビソの天より飛来し、朝野愕然として一大衝動に襲われ、これに関する衆議は紛々として起った。しかもこの機において合邦を断行すべしと唱導せるものは、一大阪毎日新開ありたるのみにて、他は多く公の遭難を悼み、刺客安重根の兇悪を憤るに過ぎず。桂首相に至っても豹変するにあらずやと見受けらるる態度あり、このほか廟堂の内において早くより合邦を希望せる山県公、寺内陸相のごとき人々すらなお多少躊躇の色あるに至った。ただし諸当局が併合実行に躊躇したる所以のものは、これより先き日清、日露の両戦役に際し、韓国の独立を扶植すべき御詔勅のあるあり、我より進んで合邦する時は、聖徳を損い、列国の抗議を招来する憂いあり、これがためには指導権を墨守するのほか道なしとして、根本的解決をなすあたわざる事情にあったので、著者は韓国より合邦を提議せしむるにおいては、列国をして異議を挿む余地なからしむるのみならず、もって聖徳を発揚せしむるに足るものありとの見地を抱き、爾来四年間寝食を忘れて韓人を導き、ようやくこれを実現し得べき大勢をつくり、はじめて合邦の手段方法を説明し、首相等を賛成せしむるに至ったのである。しかるに今日におよぴ、首相が合邦の提議に逡巡の色あるは不可解に堪えず。この機会をもって合邦を断行するは絶好の時機なるのみならず、伊藤公の死を有意義ならしむるものなれば、あくまでこれが断行を決せしめんことを期し、あたかも伊藤公の国葬に派遣せらるる一進会副会長洪骨燮をして、京城より武田範之和尚を同伴帰朝せしめ、武田をして合邦の建議書を起草せしむべく、宋と協議のうえその電報を発した。武田は著者と天佑侠以来の同志にして、博学かつ韓国流の漢文を書くことにおいて唯一人者であった。同人の漢文は韓人がこれを読んで、日人の筆に成ったと観るものなきほどの文章家である。武田の着京するや、さきに杉山より桂首相に内覧同意せしめたる合邦請願書の草案を示し、原文の意をもって漢文となさしむるため、芝浦竹芝館に籠居せしむること一週日
の後、上奏文およぴ韓国統監に上る書、総理大臣李完用に上る書の三通を脱稿し、準備はここにまったく完成した。

朝鮮問題同志会の設立

 しかも首相の心中なお疑わしき点あり。合邦請願の後、廟堂諮公にして変心することあらんか、一進会百万の大衆その他韓国の同志ことごとくを死地に陥(おとしい)るる憂あるをもって、わが民間の輿論をして後援せしむるの素地を作り置くの必要あるを感じ、同志森山吐虹に日韓合邦の計画を打ち明け、国内輿論の喚起に当らんことを懇嘱した。森山は新聞社通信社等の有力なる同志を説き、大谷誠夫、福田和五郎、倉辻明義、松井広太郎等およぴ小川平吉ほか数名の有志と両三度相談会を開き、十一月十三日、以上の同志主催者となり、芝公園三縁亭において発起会を開き、朝鮮問題同志会を設立した。その後、会の発展とともに多数の人士入会し来りしが、その一部には高く志士浪人をもって標
置するも、胸量狭小忙して識見浅薄なる人物あり、森山を目するに後藤新平一派なりとし、著者を目するに藩閥の走狗なりとし、批難攻撃するものあるに至った。元来国家的の実行問題は、政府と民間との協力に待って始めて成立するものにして、政府をおきては終に成功を望むべからず。別して韓国問題のごとき政府の決心と施設を本として遂行さるべき事業に対し、藩閥に関係あるがゆえに相提携するに堪えずと思惟する短見者流ありしがごとき、すこぷる憫笑すべきものである。著者はこの状勢に対し、すでに輿論喚起の機関たる同志会を成立せしめたる上は、みずから会にある必要なきに至ったので、自
然これに遠ざかることとなった。
 十一月十四日、著者は宋秉oを訪い、京城より来りし報告書を示したるに、宋も彼の手に達したる報告書を出し、形勢の良好にして成算歴々たるものあるを喜び、翌日武田を京城に向け出発せしむるに決し、十五日、杉山を訪いしに、杉山告ぐるに・「山県公、桂首相に武田起草の上奏文を示し、一進会はこれを提出して合邦を請うの手順となれるを語り、さらに寺内陸相にも示し、陸相の質問に対し答解しおきたる」をもってし、その問答を覚書となし来り、これを著者に交付した。合邦運動はようやくここまで進行し来りたるが、これより先き京城における統監曾禰荒助の感情態度にわかに一変し、書を山県公に寄せて著者を批難し、また岡喜七郎も統監の意を承け、公に対して盛んに著者を攻撃し来れるむねを桂首相より杉山に注意され、杉山はこれに対し、合邦を遂行せんとするには必ず統監の賛同なかるべからず、しかるに統監の感情彼がごとしとせば、円滑なる進行を期すべからず。よって速に誤解をとくの道を講ぜよと著者に勧告し来りたるをもって、著者は書を曾禰統監に贈って感情の融和に努めた。時に十一月四日のことであった。
 十一月二十八日、著者はいよいよ合邦請願書を携え、京城に出発することとなり、二十六日桂首相、寺内陸相を訪問したが、あいにくいずれも留守中なりしをもって書面を両相に致し、また警視総監亀井英三郎を訪うて発程を告げた。亀井は熱心なる合邦賛成者にして、首相に対する斡旋その他陰に陽にカを致せること少なからず、その後においても終始尽力するところがあった。杉山は二十六日首相に面会するを得、著者の渡韓に関して述ぶるところがあった。これより先き首相は合邦に賛成したるも、時期の点についてはいまだ確定しおらざりしをもって、杉山はこの会見において、内田および宋がこの機運に乗じ、合邦論者を統率してその運動を実現せしむるとすれば、政府者においてあるいは事情の不可なるものあらんも、四辺の形勢は今や一進会を駆りていやしくも一日を緩うすべからざるに至らしめたるものあり、内田等の渡韓にして遅延せば、彼らは独力事を挙げんとすとの電報頻々として来りおり、いたずらにこれを看過するにおいては、不測の変を生ずるを免かれざる勢となれるをもって、まず内田を急行せしめ、次いで宋を派せんとする旨を報告し、かつその同意を求めたのである。首相は一時決心を鈍らせおりたるも、ここに至りては断然同意を表せられたる旨、二十七日の夜、烏森浜の家において、著者の送別と協議会とを兼ねて開きたる席上にて杉山から報告を受けた。
上奏文および建議書提出の手続議定 著者は渡韓の途中、下関において暴風雨にはばまれ、予定より一日おくれて三十一日乗船、十二月一日京城に入り、即夜清華亭に李容九、武田範之、菊池忠三郎の三人と会合して、携帯せる合邦の上奏文およぴ建議書を李容九に渡し、これが提出の手順を議定した。けだし建議書を武田の帰韓の際に托せざりしは、提出の機に至るまで内容を絶対秘密にする必要ありたると、わが政府当局との交渉まとまらざるうちに提出せらるることありては、大事を破る憂いありたるためであった。李容九は合邦運動を開始するにあたり、挙国一致的ならしむペく三派の提携を成就し、基督教育年会、褓負商団体、儒生仲間等、あらゆる方面にわたりて同志を求め、在野の者はすでに挙国一致というべき準備を整えていた。ただ大韓協会のみは、三派提携の直後より分裂すベき懸念があった。それは大韓協会の前身が自強会と称する極端なる排日党であって、韓皇譲位のさい、暴動を起したる張本なりしため解散を命ぜられ、その中の穏和分子と見るべき者等が大韓協会を組織したのであったが、協会の顧問大垣丈夫は、かねて自強会の顧問たりし人物で、自強会が決死隊を募って暴動を起し、韓国の大臣およぴ一進会長ならびに同会顧問たる著者をも暗殺せんと謀った時、大垣は、著者を狙う決死隊員に向い 「内田は武術に達し、酒を嗜まず、油断なき
男なれば、刀剣にては敵し難かるべし、銃器を用うるにあらざれば目的を達することできざるべし」と教えた。一進会の密偵にして決死隊に加わりいし着これを聞きて大いに驚き、本部に報告し来りたることがあった。
三派提携の妨書 かくのごとき人物が曾禰統監のもとに出入し、大韓、西北の二会は自分の頤使に甘んじおり、元来彼らは排日をあえてするものにあらざるも、内田等が一進会を率いて親日を専売とするがゆえにこれに反撥されしに過ぎずと説き聞かせおりたるに、突如三派提携が成立したので、統監に対する面目を失い、かつ己の立脚地を失わんことを恐れ、三派提携を破るべく捏造の材料を新聞通信員等に与え、言論機関を利用して讒誣中傷を試みたのである。十月十日発行の万朝報、時事新報、大阪毎日新聞等の紙上に、京城電報として、「三派提携の目的は日韓合邦にありと伝うる者あれども、これ日人雑輩のためにするところある流言に過ぎず。三派の迷惑すくなからざるにより、その首脳者等は凝議の上、これが弁明に関する宣言書を発表することとなった」と
の記事を掲げたるごとき、みな大垣の所行であった。彼はまた李完用、趙重応等に買収せられ、一進会の計画打破を企て、その手段としてみずから一篤の声明書を草し、大韓協会の尹孝定に交付して、彼の手より社会に配布せしめんとしたが、尹が諾せなかったので、さらに呉世昌、権東鎮の徒を説き、かねて三派間の意見交換を目的として組織せる政見研究会に提出しきたり、一進会多年の宿題たる合邦論の基礎を根底より破壊せんと試みた。しかし李容九が全カを挙げてこれを防止したるため、ようやくにして事なきを得た。
 たまたま伊藤公の国葬に参列した一進会の副会長洪肯燮其の他の人物が東京より帰来し、宋秉oが東京にありて日韓合邦運動を開始せんとする計画あるを伝うるや、これを聞き込みたる李完用は大いに驚き、一進会の目的は全然首を日本に渡すものなりと揚言しつつ、いっぽう大垣および愈吉濬等を使嗾して反間苦肉の策を用い、大韓協会を攪乱した。ここにおいて大韓協会よりは一進会に対し、さきに政見研究会に提出せる大垣の手に成りし声明書発表の督促状を発すると同時に、該声明書の全文を韓訳してその機関紙大韓民報に掲載した。李容九は大韓協会を失うも、西北学会とは、首脳者たる鄭雲復と堅く結合せるものあり、その他の団体に至っては、少しも動揺せしめざるべく、結束を堅めおることなれば、著者の来着を待ち、三派提携を断絶すると同時に、合邦請願書提出の準備を整えていたのである。
上奏文およぴ請願書提出 十一月二日、武田は一進会中の能文家崔永年とともに、合邦の上奏文その他の字句修正を行ない、李容九にも熱読せしめて慎重に協議するところありしが、わずかに二三句を刪正したるのみにてこれを終り、能筆家たる崔永年の子息をして、一室に籠居浄書せしめた。三日、一進会は三派の提携を断絶すると同時に、本部において大会を開き、合邦の上奏案を討議し、満場一致をもって一気呵成的にこれを可決した。李容九は著者等が大会の結果を待ちおりたる清華亭に馳せ来り、欣然としてこれを報じ、ともに祝盃を挙げ、族館天真楼に帰宿した。十二月四日、一進会はいよいよ会長李容九ほか一百万人の名をもって、韓国皇帝陛下およぴ韓国統監曾禰荒助、総理大臣李完用に対し、合邦に関する上奏文および請願書を上った。この日、一進会は合邦の声明書を機関新聞たる国民新聞の付録としてあまねく配布した。一進会の合邦提議をなすや、褓負商団すなわち大韓商務組合七十三万人は李学宰を、漢城普信社二千二百四十名は社長崔晶圭を代表とし、また各道の儒生団体ならぴに耶蘇教徒の一部も、続々として合邦賛成の声明書を発表し、李容九が多年苦心して聯絡したる同志はことごとく起ち上り、遂に国民同志賛成会が組織され、会長李範賛、副会長徐彰輔等もまた合邦賛成の請願書を曾禰統監、李総理に提出するにいたった。
 一進会が迅雷疾風的に合邦請願書を提出するにいたりたるは、三派提携断絶の急に迫られていたためのみならず、さらに他の強敵たる李完用等内閣派が計画せる攪乱策の裏を掻く策戦に出たのである。これより先き趙重応が伊藤公の葬儀に参列するや、桂首相を訪い、告ぐるに李完用が一進会解散の意あるをもってしたるに、首相は「一進会は解散せしむる理由なし。韓国の事は統監の権限に属するも、総理大臣はさらにこれを監督するの権限あり。ゆえに余は総理の資格をもって、解散の断じて行なうべからざるを答う」といわれ、李完用は計画図にはずれたので、一進会にしていよいよ合邦建議提出の挙に出で来る時は、これを受理すべきか却下すべきか、却下するも、日本政府の意図ここにあらんか、遂に内閣辞職の止むを得ざる窮地に陥り、一進会をして取って代らしむることとなるため、速に同会を解散して、その患を除かんと欲し、曾禰統監を使嗾して、目的の達成を計っていたのである。この計画を知りたる李容九は、機先を制して合邦請願を提出したのであった。李完用はこれを見て大いに驚き、彼の兄李允用および宮内官吏等を中堅とし、最近組織せしめたる政友会をして、十二月五日を期し、国民大演説会の名のもとに一進会攻撃の演説会を開かしめ、一進会員の必ず憤慨して妨害せんことを予期し、無頼漢を躯使して大争闘を起さしめ、治安を妨害すとの理由のもとに、行政処分によりて一進会を解散せしめんと計画した。しかるに李容九は一進会員に厳戒してその術中に陥らしめなかった。
京城における日本記者の態度 合邦問題に関し、韓国在野の人士は挙ってこれに賛成し、排日の結晶と見るべき諸団体にいたるまではとんど反対の声を発せず、ただ極力反対の運動を起こせしものは李完用の御用党のみで、これは当然過ぎるほど当然の行動とせなけれはならなかった。しかるにここに不思議の現象とも見るべきは、最も合邦を歓迎しなければならぬはずの日本人側より、驚くべき反対非難の声がいっせいに挙げられたことである。京城における日本の新聞記者およぴ通信記者等に対し、合邦の上奏文捧呈の当日、著者は李容九に代り、彼らを天真楼に招待してその顛末を発表せしに、一同意外の感に打たれ、その場ではにわかに可否を言わなかったが、翌日に至りて反対の鋒鋩を現わし来り、捏造虚構の通信を乱発し、果ては著者を目するに策士をもってし、人身攻撃をなすにいたった。著者は自己の水平線下に居る地位も顧みず、徳不徳も念頭に置かず、合邦の一事のみは、国家百年の大計にして、東亜民族和合興隆の基礎となるべき事業なれば、本問題が、たとい何人より主唱せらるるとも、日本人側において異論の起るべしとは、全く思い設けざりしことなので、いささか面喰いの感なきにあらざりしも、かねて一死を賭して着手したる仕事なれば、これらの反対を顧慮せず、一意邁進することとした。
 このとき新聞記者等が合邦反対の態度に出で来った原因は、統監府の煽動に出でたるものであって、時事新報特流員某、大阪朝日新聞特派員某、のごときは「内田が一進会をして合邦提議をなさしむるにあたり、まず吾人に謀らざりしは不都合なり。かかる策士は葬らざるべからず」というがごとき暴論を吐きてはばからぬような状態となった。けだしこれらは統監府より買収せられたる多数の記者等が、内田排斥の空気を作った結果であったが、この悪気流中に立ち、敢然として著者を支援せる新聞社通信社関係の萩谷籌夫、山道襄一、井上堅、小幡虎太郎、井上信、細井肇、前田学太郎、高村謹一、平岩佑介等の国家的崇高なる情義にいたっては、著者の忘れんとして忘るる能わざるところである。日本人側の反対気勢が上述のごとくすこぶる盛んなるを見て、李完用はこの機に乗じて大演説会を開き、一進会を正面より攻撃せしめんとしたが、さすがの曾禰統監もここに至りて黙過するあたわざりけん、平和を害するものと見なし、印刷
物の配布を禁ずると同時に、演説会およぴその他の集会をもあわせて禁止せしめたので、李完用派の運動はこれよりとみに内面的となった。
合邦請願書の受理と統監の窮境 曾禰統監は初め合邦請願書を却下すペく決心したが、重大なる事件なれば桂首相にその意見を問い合せたるに、首相より「受理すべし」との命に接したので、大なる矛盾に陥り、みずから処すべき途に窮することとなった。彼はすでに新聞通信員等を煽動し、莫大なる機密費を振り撒き、猛烈なる合邦反対の気勢を揚げしめ居ることなれば、今ここに請願書を受理するにおいては、賛成行為となるのみならず、やがて合邦を実行せざるべからざる前提となり、ただちに自己の進退を決せなければならぬ羽目に陥るのであったが、統監は請願書を受理して、なお晏如たる態度を示していた。李完用は統監の態度を見て、始めは請願書を却下し、却下すれはまた提出し来り、押し返すこと両度に及びたる後、統監の受理に決したるを知るや、ついにこれを受理することとなった。ここにおいて著者は李完用の心事を推測し、合邦の前途を楽観するを得た。かつて著者が宋秉o、杉山茂丸と二人協議の節、杉山は「一進会内閣を組織して合邦の局に当るは下策なり。李完用をしてこれに当らしむるこそ上策なり」といった。そのとき宋いわく「李完用の恐るるところは一進会に内閣を取らるるにあり。彼の最も恐るるところに乗じて事をなさば、合邦もとより容易なり。ゆえに合邦を提議し、彼にして反対行動に出ずるあらば、合邦の賛否をうんぬんするに及ばず、統監は批那が責任を問い、辞職せしむるの意をほのめかさば、彼より進んで合邦案を持ち出し来るであろう」と。著者はこれに賛し「我が見るところもしかり」といったことがあるが、宋の眼光はよく李完用の肺腑を透視していたのであった。機敏なる李完用は、早くも日本政府の意向を察し、請願書を受理するに至ったのである。これ著者が前途の光明を認めた所以で、曾禰統監の無能さには今さらのごとく驚かされた次第であった。
 十二月十九日、一進会警務部の偵察員上り、「旧自強会系の間に一進会長およぴ内田を賠殺する計画あり。警戒を要す」と知らせてきた。著者すなわち李容九に対し、「僕の身は軽し。君の一身は重し。もし万一のことあらば、合邦運動は根本より覆さるる恐れあるをもって、いっさい外出するなかれ。外出のやむを得ざる場合は護衛を厳にせよ」と戒めしに、李容九いわく「不平の肉塊をいつまで保存するも、不平はますます増大するのみにて毫も減退せず。不平をあわせて殺しくるるものあらば、この身を与えん。しかるに今は不平を亡ぽす時にあらず。貴命に従わん」と。そのころ著者は天真楼を引き揚げて自宅に起臥していた。自宅は北部斉洞の丘上にあって、付近にはいまだ日本人の居住するものなく、毎朝韓人の人事に乗り、竹洞なる李容九の宅に通ったのである。二十日の朝雲峴宮の付近四辻の所に通りかかるや、一韓人車上の著者を窺わんとして接近し来れり。著者すなわちこれに眼を注ぐやたちまち立ち去った。かくのごときこと三日間に及んだ。初めは警察の探偵ならんと思いしも挙動に怪しき点あるをもって李容九に「先ごろの刺客説は事実なるやも測られず、用心にしくはなし」とて対談中、金時鉉なる者飛び来り、「今ここに来る途中明治町フランス教会堂の坂の中途において、李完用が刺客のために襲われし光景を目撃して来た」と知らせた。李容九はこれを聞き、「兇行者の何者なるやはいまだ知るを得

215

八U
ハJ
ウ】

ざるも、一進会員激昂の際といい、殊に反対派よりわれ
われを殺さんとするの風説ある際なれは、多数会員中、
あるいは血気の徒ありてわれより手を下したるや絹知る
べからず。もしかかることありては一大事なり」とて」
すこぷる憂色を浮べいたる折しも、憲兵隊特務清本熊蔵
訪ね来り、ひそかに著者に告げていわく、「李完用刺客に
襲われし報告に接し、統監は極度に驚愕せられ、長官石
塚英蔵のごときは一進会員の所為ならんと速断し、急に
警察に会員の検挙を命じたり」と。著者は渚本の好意を
謝し、李容九と協議のうえ、各種の秘密書類を焼棄し、
なお必要欠くべからざるものは他に隠匿した。しかるに
   きゆ▲ノもん
犯人を軋問せる結果、彼らの一団は風説のごとく、当初
李会長およぴ著者等を刺さんとしたが、李完用等をも併
せて刺すベtと主張するものあり、李在明まずこれを決
行したという真相が判明したので、一進会に対する嫌疑
はここに解くるを得た。これは十二月二十二日の出来事
であった。
 これに先だち十l一月十六日、著者は駐屯軍参謀長明石
元二郎を訪いて、合邦問題につき相談するところがあっ
た。明石は著老と同郷忙して、憲兵司令官時代より合邦
意見を抱懐せる人なので、ひそかに著者を支援し、西小−
門外ソソタクホテルにおいて、しばしば密会して協議打・
ち合せをしていた。一日、明石は著者に説いていわく、
「方今合邦断行の機すでに熟し、この潮頭に乗じて成宰
せしめざるべからざるは何人といえどもこれを知る。し
かれども千載一遇の大事を遂行するに当り、その事にあ■・
ずかりその名声を博せんとするはまた衆人のひとしく熱
望するところである。しかるに君はまず身を挺してその
     たくれいふうはつ     しェぅどう
断行を策し、躇属風発、世の視聴を聾勤したるがゆえに1
しゆうと
衆妬ことごとく君の一身に集っている。いま君のために
謀るに、しばらく京城より身を潜め、東京に去るの意な
きか。君はすでに合邦の導火線に点火して、宿志の一叫丁
を遂げたのである。しからば余功を世人に譲るは、これ
また達士身せ安んずるの道ではないか」と。著者いわく.
「将軍の高見は卑意と合致せり。余は曾礪統監の態度に
見て、合邦の速行し難きを知り、おもむろに謀るところ・
あらんと欲して杉山にはかり、すでにその返電を得た。
しかれども統監は余に退韓の命を下さんとするもののごト
とし。吾人が多年寝食を忘れて、日韓の根本的解決にカ‥
               ゆえん
を尽し、合邦を提議せしめた所以のものは、一身一家りY



一日




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っU
2
私をはかるがためではないのである。しかるを統監の余
に対する処置ほ、とうてい忍ぶべくもなきがゆえに、余
                    おも
は統監とともに倒れんと欲し、帰朝を念うてなおいまだ
退京せざる所以である」と。将軍いわく、「過程の件は
さる暗影の潜みしことありしやも測られず。しかれども
            しやはん
吾人ある以上は、断じて這般の暗影を実現せしめじ。君
はこれを念頭に置くことなく、大勢進行の途を開くべき
である」と。余はここにおいて日を期して帰京すペきを
約し、十二月二十四旦京城を発して、二十五日朝下関に
着し、同所に待機中の宋秉oと会見して、京城の形勢を
語り、協議のうえ、二十六日東京に帰着した。
 捷首相と杉山の合 十二月二十八日、亀井警視総監は、
 邦に関する覚書 桂首相の内命により、著者を烏森
浜の家に招待し、慰労の宴を張ってくれた。著者は杉山
茂九に面会し、合邦提議以来の経過と京城の近状を述べ
                 たと   ご もくなかで
しに、杉山いわく「今回の挙は囲碁に曹うれば五目中手
を打ったのである。いかに曾礪や世間が騒いでも、目潰
しとなっているから、大局上すでに勝っている。憂うる
                        しんち上く
に足らず」と。これより杉山は智襲を傾け、合邦進捗の
途を打開するに苦心し、まず第一着の仕事として、曾稲
統監を更迭せしむべく首相を説き、帰朝の招電を発せし
めた。しかるに統監は数回督促を受けたのち、ようやく・
一月に至りて東京に入り、首相とは一回会見せるのみに.
て片瀬の別湛に引きこもり、病を養うこととなった。著
老らは、曾禰のごとき人物を長く統監の要職に当らしむ
                         ひ めん
るは、国家の大事を誤る所以なりとて、猛烈にその罷免
を元老およぴ当局に要求した。山県公まず著者らの要求・
を容れ、首相も更迭のはか良策なきを言明したが、議会
開会中にて遂に遷延することとなった。しかしてこの山間
杉山は二月二日、首相に迫りて合邦に閑する覚書を得、
一進会をして隠忍せしむることとした。
     覚   書
 本日桂侯爵より拙者へ左の内訓ありたり。
 (一)一進会およぴその他の合邦意見書はその筋に受
   理せしめ、合邦反対意見はことごとく却下し居る
   ことを了解すべし。
 (二) 合邦に耳を傾くるとしからざるとは、日本政府
         い か ん
   の方針活動の如何にあることゆえ、寸宅も韓国民
    ようかい
   の容喚を許さず。
 (三)一進会が多年親日的操志に苦節を守り、穏健統

216

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                 じんすい
  一ある行動を取り、両国のため尽挿し来りたるの
  誠意は、よく了解しおれり。
 (四) 右三条は、なお当局の誤解なきようへその筋に
  内訓を発しおくペし。
 右の内訓を開くと同時に、拙者は一進会に左の事を開
陳すべし。
 (一)一進会の誠意は、すでに十分日本政府に貫徹し
  おれるを証すると同時に、すこぷる同慶の意を表
   すべし。
                         ほkノし
 (二)一進会が政治を批議するの状態は、過慢放慈に
     ピーノ
  して篭も保護国民の姿なく、その不謹慎の言動は
  すこぶる宗主国民の同情を破壊するの傾きあり。
 (三) 常に党与の間に、動揺の状態をもって間断なく
              ひつき
  空論に属する政治意見を提げ、すべて不遜の言動
  をもって、政府の政治方針を己れの意見どおりに
  左右せんとするの観を示すは、すこぶる軒酎か要
   すべし。
 (四) 政治を論議する志士にして、官吏に対する感情
        こうがい
   より常に懐慨を説くは、耳を傾くるの価値なきを
   自覚せらるべし。
一進会にして、右等のことを知了せずしてなお言動を
 はしいまま
 痩にせんと欲せば、拙者と閑係を断ち、自由の行動
 を執らるるは随意たるべし。
  明治四十三年二月二日  杉 山粛 丸
ここにおいて吾人の運動は鵡に成功し、その目的はほ
とんど貫徹したるものである。当局者にあらざるよりは、
これ以上には進みかつ採るべき手段なきがゆえに、一進
会が合邦請願書を上りて運動を開始したる目的は、この
一事によりてその根本を決定したるもの忙して、著者等
はすべての妨害反対に逆抗して、遂に勝利の凱歌を揚ぐ
るを得たのである。ただなお著者等の任務として残存せ
るものは、曾頑の罷免と合邦の実行を監視することすな
わちこれである。
 曾覇統監の‡任曾頑統監は片瀬に引き籠りたる以来、
 に槻する箕開‡ 病骨を抱いて世評のおもしろからざ
ると、元老大臣等の一人として病を問うものなきため、
ふんまん                    すうしん
憤洒の念に駆られてますます病勢を嵩進せしめた。杉山
は曾禰と旧交ある小美田隆義をして、合邦に対する曾帝
の真意を叩かしむべくこれを病床に見舞わしめた。小美
田は統監を訪い、雑談の末「合邦問題に閑し、岡喜七郎

▲合

一日



り〕
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や小松緑などの小役人を首相のもとに使せしめられても、
…し ぎ
事宜を得ることはできない。もし吾輩を副統監に任命せ
         そ かく
られなば、ただちに阻隔を通ずべし。吾輩の副統監は無
                 かいぎやく
月給にして辞令書の必要もない」との許詳を交えた言葉
に、統監ははからず胸中の秘懐を洩らしていわく、「合
邦はかねてなさざるはずになって居る。これは伊藤公辞
職のみぎり、公が桂と余と三人にて約束されたことであ
る。韓国の現状、列国の関係、日本の内情との三者より
して、名を捨て実を取り置き、ここ七、八年間形勢を観
るべしとの伊藤公の言に、桂も同意して外間の急進論者
を防ぐことになっていたのに、過般来の合邦提議は、桂
が命ぜるものか、また杉山、内田等が勝手に演ぜるもの
か、余はこれを知らざるも、内田を処分せんとするも、
桂がこれを許さぬのは不可解である。しかして余に招電
を発しながら、帰朝後〓三日も合邦のことに及ばず。ゆえ
に当所に引き寵り居る次第である。聞くところによれば、
合邦のことは進捗しつつある模様なるが、実泣けしから
ぬことである」と、涙を浮べて憤慨した。ここにおいて
小美田は曾礪を慰め、「よきことを聞かされた。さっそ
く首相に談じ、貴下の安心さるるように取り計うべし」
とてただちに帰京し、杉山およぴ著者にこの顛末を語り、
首相を訪問して三人密約の件を話したるに、首相は大い
に驚き「曾頑がそんなことを君に語ったか」と頼色を変
えられた。小美田はここにおいて「曾禰さんが話さなけ
れば私の知るはずもなきことにあらずや。曾爾さんは時
勢の推移を知らず、伊藤さんさえすでに合邦を賛成すろ
にいたっておられたのに、なお約束を守って今日の境遇一
に陥られたは気の毒なれば、早く因果を諭して辞職せし
   い か ん
めては如何」といいしに、首相は承知して、「三人の約
束一件は他に洩すな」といわれしも、小突田は転じて小
田原に赴き、事情を山県公に告げたるに、公いわく、「一宮
頑は正直ものなれば密約を守っておりたるならん。これ
で曾禰の不可解なりし行動も解った」とて、萩原通商局
長、平井軍医総監等を片瀬に遣わし、その容体を見舞わ
しめられた。首相も曾帝の嗣子寛治に対し、「われわれ
の口より直接に明言し難きも、曾禰の病気ははなはだ重
態で、回復至難のようである。卿より懇々加餐(炒艶佃
甲〕を勧めよ」とて、暗に蹴怒(柑詣)を諷せしめられた
が、曾礪はなお辞意なき様子であった。
                      せんえん
 かくのごとき形勢にて、合邦はいたずらに遷延さるる

217

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のみなので、著者はこれを憂い、政府の与党たる中央倶
楽部をして統監の不信任を鳴らさしめなば、曾禰にとり
て大打撃たるべきを信じ、年来の同志たる秋田県選出代
議士にして同倶楽部員たる近江谷栄次にはかりたるに、
近江谷ほ大いにこれに賛したるをもって、左の要件の質
問書を議会に提出すペく、同倶楽部の総会に提議せしむ
ることとした。
   韓国統監の責任に関する質問主意喜
一、従来統監帰朝の場合は統監代理を置き、緩急の事
 務を処理するの例なりしが、現統監曾礪荒助君は帰朝
          けみ
 すでに二か月以上を閲し、代理を置かざるのみならず、
 病躯任に耐えず、重職をむなしうするの観あり。事局
 多端なる韓国の現状に対し、政府はなおこれを放置す
 るや否や。
 二、一進会が合邦の提議をなせしさい、統監曾礪荒幼
 君は、韓国大臣会議を開かしめ、その提議を却下せし
 め、押し返し提議三回におよぴ、ようやくこれを受理
 せしめたり。しかして合邦反対の提議は、当初よりこ
 れを受理し、本邦政府の命令あるにおよぴ始めてこれ
 を却下せしめたり。統監の措置、その日本政府の方針
と反対に出でたるは明確なる経過にして、当然そ勺責‥
任を負い、処決するところな、かるべからず。政府はこ・
れを黙認するや否や。
三、韓皇室と米国人コールブランとの共営なりし京城
電気事業は、さきに日韓ガス会社の買収約束履行に際.
し、統監曾禰の嗣子曾禰寛治等ガス会社重役は、コー
ルブラソと共謀し、その日韓ガス会社より払い渡すべ
               かくしゆ
き金員をコールブラソ独自の手に獲取せんと擬し、革
皇帝の御璽を押したる文書を提出せしも、その御垂は
形状を異にし、偽証の疑あり、これがため今に同事件
の落着を見ず。政府はこれに対し、いかなる処分を取
るの方針なるや。
四、昨年初夏、宋秉oの中枢院顧問親任のさいは、杢丁
完用その代理として辞令を受領せり。しかして今日杵
至るまで、辞令害およぴ俸給の下付なし。当然統監の
管掌すべき大官の任命待遇に対し、かくのごとき現情=
に関し、政府はいかなる処分をなすや。
       そ▲ノろ▲ノなり
右質問に及び侯也
首論機関 近江谷は以上の四箇条を提げ、緊急動議と−
の動向 して同総会に提出し、ついにこれを通過し

▲合

甘口



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て、宮崎県選出肥田景之、熊本県選出安達謙蔵の両代議
士とともに委員に選定せられたるが、その手続はまず首
相に会見して質問を試み、首相がこれを容れざるにおい
て、始めて議会の問題となすもいまだ遅からずとなし、
三月二十一日、貴族院控室において、該委員は首相と会
見し、質問の・璧息を述べたるに、首相は質問箇条をこと
ごとく承認し、骨礪統監の解職ならぴに合邦の断行を警
       てんまつ
った。この会見顛末が翌二十三日の新聞紙上に公けにさ
                      たなごころ
れるや天下を挙げて驚勤し、新開界の輿論は掌をかえ
           きゆ▲ノ一せん
すがごとくに一変し、嘉然として合邦の急切なるを論ず
るにいたった。
 これより先、統監府より買収せられたる京城在留の新
聞通信記者等は、請願書の受理せられしころよりその論
調を変え「韓人の分際として合邦論をなすは不都合なり。
日本に必要あらば日本の考えによりて併呑すべし」と、
勝手なる暴論を吐きつつも、漸次に合邦の必要を唱え来
り、また最初東京にて輿論を指導せしむべく森山吐虻に
依頼して組織せしめたる朝鮮問題同志会のごときも、合
邦はその全目的なりしにかかわらず、これまた著者に対
  ほいせい
する排柄より著者の運動に反対するものありしが、著者
                  彗H    孝司
は元来合邦を成立せしむるのほか、何らの念願なきものノ、
なれば、昨年末京城より帰京後は、もっぱら潜行運動にl
従い表面に立たざりしため、なお敵国祝されてはいたる一
             やわ     さか
も、同志会の悪感情は次第に和らげられ、怯んに民間運
動に従事していた。しかして当局の問では、山県公は、
中央倶楽部委員が首相と会見した前日、寺内陸相と相構
えて首相を訪問し、曾潮解職、合邦断行の二案を勧告写
れた。ここにおいて後任者選定に関する問題となり、元
老大臣の一致したる適任老は陸軍大臣寺内正毅と決し、
寺内も合邦断行の目的をもってこれを承諾した。かくて−
今は曾礪を辞職せしむるのみとなり、寺内をして曾爾を⊥
訪い、因果を含めて辞職のやむべからざる所以を説かし−
め、ついに辞表を提出するに至らしめた。
 合邦実行の開講 寺内正穀が韓国統監に任命せられ、
 と韓皇への奏請 同時に山県伊三郎の副統監に任ぜらレ
れたるは五月三十日であった。寺内新統監の京城に入尋
や、内部次官岡喜七郎、警務局長松井茂等、従来曾朝の
          そ がい      ひ めん
手足となり合邦の大策を阻碍しいたる一派を罷免し、明
石髄屯軍参謀長をもって憲兵警察を統制せしめたるうえ−
合邦に関しては予備的準備を完成するに至るまで、表面

218


ほとんど関せざるもののごとき態を装いつつありたるが、その準備成るや、萩に在りし宋秉oを下関に出でて滞在
せしめ、李完用にしてもし合邦断行の意なけれぼ、急に
宋を招aて内閣を組織せしめんとするの気勢を示し、は
るかに李完用を威嚇させた。かくのごとき四囲の状勢を
観取したる李完用は、七月三十一日、北郊翠雲亭におい
て、内相朴斉純、農相舐重応と密議をこらし、合邦賛否に
対する内閣の決心を定め、翌八月一日、新統監着任後第
一回の閣議に臨み、越えて十六日李完用、統監邸を訪問
し、寺内統監、山県副統監と密談三時間余に及んだ。こ
のとき統監はじめて日韓合併のやむべからざる所以を説
き、韓皇みずから進んで統治権を我が天皇陛下に譲らせ
                            ■
らるるは時宜に適応せる措置なるべきを提言した。季完
用はさきにすでに決意せるところなれば、同夜ただちに
閣議を開きて合邦の実行を決議し、宮中に入りて合邦の
                    一こ−ク
やむべからざる所以を伏奏した。皇帝は篭もこれを杏ま
るる色なく、ただちに勅許を与えられたので、牢完用は
さらに転じて太皇帝に謁し、同じく合邦の議を奏請した
るに、太皇帝ももとより御覚悟のこととて、容易にこれ
を容れられたが、李完用退出後、侍臣に向わせられ、「さ
きに一進会が合邦を提議せるとき、臣らは死すともこの
売国の挙をあえてするあたわずと傭慨せるは、かれ完用
                 かんはせ
にあらずや。しかるに彼、いま、何の務あって朕に合邦
のやむを得ざるを言うや。しかれども合邦は天命なり。
いかんともすべからず」と言い終って働突せられたとい
うことである。ここにおいて、日韓併合条約は八月二†
二日に調印せられ、韓国皇帝の詔勅、日本天皇の御詔斬
は八月二十九日にいたって同時に発布せられ、著者等がハ
多年粉骨砕身せるところのものはようやくに実現した。
 総督政治の機構 日韓合邦は一進会およぴ著者等がか
 は希望を裏切る かる苦心のもとに成立せしめたのでレ
あるが、その結果は総督政治となり、その撥構は主唱者
等の希望を裏切りて、東亜連邦組織の基礎とならざるの
みならず、一進会百万の大衆を清洲に移住せしむる計画
   が べい
さえも画餅に帰したのであった。はじめ桂首相は、李容
九、宋秉oの計画であった合邦後一進会員をして満洲に
移住せしむる事業については大いに賛意を表し、二宮万
円や、三宮万円くらいの補助金は必ず与うべしといわれ一
居たが、いよいよ併合の蛇となるや、一進会の解散はや・
むを得ずとするも、満洲移住費のごときは一文も与えら
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川邦
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・韓
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れざるのみならず、解散費として下付せられた金額はわ
ぜノかに十五万円で、これを会員宮万人に分配する時は一
人当り十五銭となり、七年間多大の犠牲を払い、奮闘の結
川果ようやく目的を達して合邦を成立せしめたその報酬が
この十五銭を得たに過ぎぬこととなるので、会員はこと
ごとく怨みを飲んで四散した。この時李容九は病を得て
上京城病院に入院し、四十五年の春、転地療養のため須磨
に来たのであった。著者はあたかも支那革命の援助に奔
・走し、病を訪うあたわざりしが、四月二日に及んで須磨
に赴き病床を訪うた。李容九大いに喜び著者の手を握り
ていわく「われわれは馬鹿でしたなあ」と。けだし馬鹿
を見たの意味であった。著者はこれを慰めていわく「他
日必ず頗あらん。今日の馬鹿は他日の賢者なるペし」と。
李容九大いに笑い 「わかりました」とて、また過去を語
らず。五月二十二日午前九時、ついに永眠した。これよ
り先き病危篤の報天聴に達するや、勲一等を賜うた。野
人にしてただちに一等勲章を賜わった例は未聞の破格事
          ゆぇノあく
なので、著老はこの優渥なる天恩の旨を枕頭に語り聞か
せたるに、人爵の栄を知らざる李容九も、真に感激の色
を浮べ、「ありがとう」と答え、東方に向って拝伏した。
ああ薄命の英雄、彼は挺時享門下の麒麟児にして東学党
の乱、慶尚道方面の主将となり、戦に傷つきのち捕われ
        くじ
て拷問に足を挫かれ、わずかに死を免かれて北韓に逃れ、
日露戦争には教徒を率いて日本軍のために献身的努力を
なし、ついで一進会会長となり、東亜青年の大計を策し
て、日韓合邦影主唱実現せしめたが、いまだその志を得
ずして不帰の人となった。
 およそ官年の大計は目前の成敗によりてこれを決せら
                   けいりん
るペきものではない。西郷南洲等の大陸経験は当時に敗
れたるも、その死後において着々実現されたるごとく、
李容九等の精神理想とする東亜連盟は、併合の目的達成
後における当局の無理解冷酷なる処置によりて頓挫を来
したるがごときも、今日満洲問題の解決すなわち満洲国
の成立は、ようやくその一歩を進め来りたるもので、こ
れが全目的を達成してその霊を慰めることは、著者等の
常に責任を痛感するところである。
 著者はここに日韓併合を叔するにあたり、一
する我が政府当局の刻薄を記したる所以のもの
進会に対
 あば
は許いて
直となすがためにあらず、政府着みずから西洋思想の弊
害たる功利主義に堕し、明治以来朝鮮に支那に、常にか

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くのごとき行動を行ない、聖徳を傷つけ、日本精神と絶対に相反するものあるを慨し、後世をして再びこれを繰り返さしめざらんことを戒しむるがためにほかたらねのである。