この書を攻撃し、著者の小著の中に答へられた批評家等―それはジョン・ヘンリイ・マッケイによつて忘却から
救助されたのだが―は悉く最も驚くべき凡庸と無力な悪意とを示してゐる。
一八九六年その初版を出した『無意識哲学』及びその他の著述に於て、この事に注意を向けることに努めたエド
ウァルド・フォン・ハルトマン博士に吾人は負ふところが少からずある。自分はハルトマン博士が用ひた批評の自由
の為めに彼を羨みはしない、そしてスティルネルの教義の讃美者はフォン・ハルトマンがズット後にやつた一事を
まつたく承認しなければならないと自分は考へてゐる。一八九六年八月十日の”Der
Eigene”には彼によつて書か
れた書簡が掲載された。それには色々な意味がある、就中、フリイドリッヒ・ニイチェが後年彼の論文を書いた時
にはスティルネルの書を知らなくはなかつたといふ事を判断せしめるに足る資料を与へてゐる。
フォン・ハルトマンはスティルネルが更に進んで、彼の信条を展開さしたならばといふことを希望してゐる。ハル
トマンは君と僕とは同精神で異なつた二対の眼を通じて眺めてゐるに過ぎないといふやうな意味を暗示してゐる。
その時人は答へて、自分は汝の為めに自分自身を累はす必要はない、何故なら自分は自分自身の中に―我々を持
つてゐるから、と云ふかも知れない。そしてその分で行くと、フォン・ハルトマyほ単に矛盾に就いて哲H身を非
難してゐることになる0何故なら−ステイルネルがこの事を書いた時にはハルトマソの精紳がそれを寧きつゝあつ
たからである○そしてステイルネルが他のどんな人間からも異なつて居り、彼の自我がフイヒテの璧和望遠では
なく1『血肉のこの刹那的自我』であつたといふことを、ハルニyがステイルネルの形式で墾背きしてゐないとい
ふことは、脾に悲しむ盲事柄である0君と僕とが異なつてゐるといふのは普遍として長なく、表には推論出
来ない束衰の結合として£る0言分』ほ耗分かハルトマンである、だからハルトマ蒜冒分』である0けれど
私ほハルト;でもなく−ハルトマ蒜私でもない○叉自分ほステイルネルの冒分』ではない0ステイルネル彼自
身のみがステイルネルの冒分』であつた0ステイルネルにとつて人が扁の白雪あると云ふことほ法的どれ程
無意味なことであるかにひきかへて人が由党せる自我であり、自ら事故し、自ら意志する人間であるといふことほ
どれ程貰要なことであるかを注意せよ。
自覚もせず自ら意志せざる人々は紹えず利己的な動扱から行動しっ1、それを種々なる衣で包んでゐる。ステイ
ルネルの教義に照してそれ等の人々をよくノ1注意して見よ。さうすればかれ等ほ偽善老らしく見えて来る、かれ
等ほ如何にも多くの書き、道徳的な、そして宗教的な計宴を持つてゐる。しかし其の板抵には何れも利己が陰れて
ゐる。しかしかれ等は、それが偶然の一致以上のものだといふことを知らないのだといふことを吾人ほ信じ得る。
ステイルネルの中に、L五口人は政治的自由に封する背畢的板抵を有してゐる。エゴイズムの貿際的蟹展がやがて国
家の崩壊となり、自由人等の結合になるといふ彼の興味にほ明瞭で断乎たるものがある、そしてジョシア・ウォーレ
yの経済的背撃と完全に調和する。気質と言葉の相異を暫時許すとしても、ステイルネルとブルウドソの問にほ本
質的な一致がある。各自由を欲してゐる、そして自由人の増加とかれ等の叡智の進歩の中に鮭制者に対抗する補助
カを認めてゐる。しかし叫万で、こイチエとブルウドシとが共通の目的と傾向で前進し、1かれ等が逮信の政駁
と墓場を侮辱する勇気以外に共通する物を有してゐるといふことを、僅かの聞でも反面目に学ふ人がゐるであらう
ヽ
・方9・・
ニイチエはこれ進展々ステイルネルの弟子であると云ほれて釆た。そして、ニイチエの著署からの都合のい1寄
せ集めの馬めに、彼の書物の或物は貸際以上に有意義なものを含蓄すると想像されるやうになつて釆たiしかし
それは人が枚挙ばかり績んでゐる間だけの話である0
ニイチエは数十敷石の著智を引用Lてゐる。彼は有ゆる物を硬んでステイルネルを讃まなかつたのであらうか?
しかしエイチエがステイルネルと異なつてゐるのは恰も綱渡りの軽業が代数の方程式と異なつてゐるやうなもの
である。 ・/ノ
07
蔓イルネルほ彼自身の岱めに自由を愛した、そして有ゆる男女が星田になるのを見ることを愛したが、彼ほ樺‥
力に苧る慾讐持つてはゐなかつた0民鼻腔は彼にとつて虚偽の自由であり、暴主務が純掛な畠であつた。
ニイチエは、これに反して−費族的でないといふ理由で−民主政鰻に対して彼の侮警漉ぎれけてゐる。彼は硫
の如き貪慾に屈従しなければならない人々ほあきらめて服従することを教へられなければならないといふことを黎
求する程、抹香的である0彼が文明の大著の待路をウP芸讐蒜政府主義的群犬』に就いて云々する時ほ、
その違の前後の閲係から−彼が共憩主覇者を意味してゐることほ革質である。しかし彼のナボレオソに苧る卓
秤、堅丁年問慧巴を毒す言賓族史義勃興の不安に苧る彼のペーソス、盲Fo恥東洋夙に婦人を督級ほん
とする彼の思想等は−ニイチエが極めて番い邁を案出したものだといふ革を示してゐる。そして彼は暴虐姦拝し
てゐるのである0しかし警個人的自我監…政府主覇者等は誤警れないやうに−ニイチ蒜の人々にかう云ひ得
るかも知れない−我等はナボレオyに憐憫の惰を持てとは埠まない1叉椋琴する男革達に正義を行ふことをも求め
ないと0かれ等は何物をも柴慧ず、何物にも服従しない人間の如何なろ着かをステイルネルから畢んだ人々と妥
攣ることが彼嘗身の章稲の彗に便利であることを老身するであらう0勤勉な小手姦食すべく生れた男思
の警した鸞のニイチ芸僻傲に対して我々は寧ろ嘲誘に左の皮肉な萬量する○おまへ建の爪ほ何鼠に宝
のだ†著しその『禦が只の責打算であることが雪見され、その上にもつと愚劣な、しかしながち二撃フ太
陽の問の似而非讐制御する力毒す濠慧彗如‰野犠箸に筆立てゝ切芸ん打としたら如何か†
ステイルネルは人間がかれ等の紳を挙るが如く賓を笹るのだといふことを示してゐる、そして彼の目的は拳君
を滅亡するにある。
ニイチエは暴君を熱愛†る。
文建に於ても−ステイルネルの著書はニイチエのそラトクストラ」の幼絶望タぐした窪やその亀な掛
像に比して最大級の封照を示してゐる。驚が友情をもつて蛇を円繚つて』ゐるといふやうな不自然な頼り合せを何人
が曾て想像したであら・つ?その節作が祝き出しの言葉で語られてゐるが、何物もそれからは出て求ない。でァィル
ネルにあつて、我々ほ底面日な心に話しかけられた、生々した熱心な耗論に出池ふのである。そして全ての魂者ほ、
彼が精紳的掲立と、それを耽り用ひる勇気とを失はない限り、その言葉が彼の教訓と利益になることを感ずる。こ
の書の驚くヾき大府は全人頼に射する全心の愛をもつて浸されてゐる。それほ著者が偏見の叫イオタをも示さず、
何等人間の階級的思想をも抱いてはゐないといふ事梵によつて澄明されてゐる。彼は政府を排Lた。しかし何か便
宜と思はれる親律を立てようとした。そしてその見めにほ、単に我々の便利のみが輿かればいゝのである。かくし
て兵虐に向ふ性癖が−最早斯くの如き法則に服従出来ない聴明な反抗に出合ふ時にのみ表の自由が現はれるであ
らう0加之γステイルネルの男らしい同情と背革的傾向とは支配といふことほ→程の虚梁であり、掛倒せる誇りの
惑瀦であぎJとを著しく示しでゐる。我々は更にこの薯者を頃美すペきか、或は麓々彼を愛すべきか、その執れで
あをかを知らないのである。
婦人に対するステイルネルの態度ほ特殊のものでほない。彼女は若しそ町能力がありさへすれば山個人たるの資
格があ告そしてその場合−男子が云ひ、感じ−考へ−計茸する何物によつても手加演される必要がない。Lれは
この事に放てよりほ更に彼の生涯によつて充分詑増立てられた0しかし、この事に於ても、掃人を男子よりも劣等
な地位に澄いたり、或は階級とか貴族とかを乗認した鼓は叫行だもない。
同様にこの書には陛陳とキザな紳秘思想の何物も卑見されない。英の中のすべてぼ著者の力の及ぶ限りで明貯に
きれてゐる〕それを明瞭にしない者はステイルネルの弟子でも、後鍵者でも叉ほ協力者でもない。
一フラムiノイン
魂人は訊ねをかも触れない、どうして測 鉛をつけたアナアキズムがステイルネルによつて雲冒れた政教なエ
ゴ√ズふと親罫卦計ることが乱乗るかと0測鉛ほ狂紫物ではなく、】何の智的稀緑である。そして羊ゴイズムは乱
08
他生活の】舵的毒である紆伽Å¢放鳥仰な利己心より習萬倍も自分の上に強い笥の存汝の濱めに鞍らを軒†偏見
に充ちた雨足動物の代りにJ囚ほれざ冬日息叫のハ唯一者)を吾人が有する以前に、先づエゴイズムの事箕が人間
の自覚となつて項はれなければならないものだといふこと以上に明らかなことは、自分にとつてほないと云つても
い⊥。湖鉛の教義が不平等な人心の間に義務として、一 人迂の宗教として、十訳まや抱かれる時にそれは繁際、
アルハペットを知らずして頭書せんとし、結姫契約の代りに博愛を密かんとするが如き混乱である。しかし、若し
測鈷が科挙的であると云ふなら、.それほ自分の併有であり、自分の材窪たれ得る。そして自分ほ、事情がその使用
を許す場合にはそれを選んで使ひもする。しかし自分は自分の家を建てるに普つて、それが科畢的だからと云ふの
ヽ ヽ ヽ ヽ
でそれを用ひる義務の束縛を感じない。しかし、自分の意志が、聴明であつて、畢にわがまゝばかりでほないから、
測鉛を凍用するに嘗つて、.先づその御筒日を除かなければならない。飛ばない鳥、ヒツ掻かない猫のない限り、維
の先に不欒の鍔をつけてゐない朔鈷ほない。エゴイズム封自己譲輿の同額の驚際的方面、政治上に於けるエゴイズ
ムの試みに向つては、かう云ひ得るかも知れない。義務の耗念によつて動かされない人間ほ他人に対して不親切で
ぁり、d或は不正であるtいふ信仰は妄の信仰を懐いてゐるそれ等の・人々が1lれ等良身に封してよりも寧ろかれ
等の馬めに生きる他人を持つことに非常な輿搾を感じでゐるといふ間耗な告白に過ぎない。しかし自分は今多くを
頓みもせず、期待もしない?持分は他人が個人的にかれ等自身の矯めに生き、種々なる場合に、私自身の馬めの自
分の生活−我々白身の馬めの我々の生活†」に反抗すろやうな行岱を止めるならばそれで満足してゐる。
ノ若し基督教が世界を粥より持ずることに失敗したとすれば、敬虔な道徳的極印を有する合理教が同じ仕事に成功
するだらシといふことは夢想出来ない。基督教戒ほその他の樽愛掛デプほ無抵抗に於て試みられ告その模範が支
配者や、暴君や−モ,プの心を襲化するだらうといふのほ罫でむ一曾\為し最も確瑞な自己簾輿が失放するとすれば、
如何にして基督教的愛と世俗的訓戒の混合とが成功し得よ弓? これは少くとも故菜されなければならない。基督
とトルストイの政略がやがて吟味され短る。しか⊥トルストイの信仰は現在の試験や失敗を以ては浦晃せ心めちれ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
な心。彼ほこれがなされなければならないからと責張すろ人の昏捷を有してゐる。.『自分はこれをかづしたい牢と考
へるエゴイストは、なほそれが或る信仰や服従の事賀によつて成就されるものでほなく、同時に無頼坑¢上に不意
打を食はさうとして覗つてゐる者があるといふことをも認める知覚を有してゐる。我々はいつでも我々と一緒に多
くのフナラオハりぎ⊇○訂)を持つてゐる。
この著しく卓越した書中の数節ほ著者が如何に同情に充ちた人間であるかを元してゐる。我々は彼が悠然とし七
宅表した意見や情操、道徳的義務の耗念を組信の最後の形式と七て侮蔑する彼の態度を反省する時に、我々は義萄
ヽ ヽ ヽ ヽ
といふ感傷的な賽想の全域が最も純潔な寛大の矯めに紳経的エネルギイの粒分を解放し、よカよき分別々似て債債
ある物を演繹すべき智カを浄化するものであるといふ考へを保澄され得ないであらうか写
J・ム・WÅム]五泉
萬物は己にとつて無だ
全陛己の世話のやけないものと云つたらなんだらうJ 先づ帯ニト「睾のため」、それから「紳のため」、人類のた
ヽ ヽ
め、眞埋の、自由の、人造の∵正義の、それから己乃人民、己の王様、己の図のため、おしまひには心のためとい
、、 ヽ ヽ ヽ ヽ
ふことまで、そしてその他、有象無象のため、己の世話のやけないのはただ己のためばかりだ、『自分のことばかり
考へる利己主義者に恥あれょ!』か。
ヽ ヽ
そんなら己達は見てみよう、ぞんな嵐にかれ等ほかれ等のためを収り放つてゐるか−」そのかれ等の窺めに己達
が働き、身を捧げ」熱むにならなければならないかれ等が〇. 付々 ノ〜∵ ノ
09
零蓮は紳様に就いて樺山深い彗Hを輿へてくれた0そして整丁纂蒜格のもろくの配さを探求した、写して
その核心を見届けた・だから君建は勿警んな風に紳様御自身が『紳のため』に浮身をやつしてお告になるかと
いふことをよく紬存知な筈だ0その紳様のために轟せと己達は云ほれてゐるのだ0そして墓はまた紳様のやつて
ゐらつしやることを悔しほしない0さて−ふ轟、紳棟のためとはなんだ? 垂静枝は己達の要求するやうな虞
理と愛のためだなんて量ちがひなためを自分のためにしておゐでなさるだらうか?この訣賢は、歪もかな
ヽ ヽ ヽ 、
ヽ ヽ
り恐れること1璧、それから羞は紳様のためと云ふのは−貸ほ霊と愛のためだが、このためはなにも紳様に
とつて量ちがひといふ謬でほない、なぜなら−紳様御自身が頃理と愛でゐらせられるからといふや是ことを数
ヽ ヽ ょモ ヽ ヽ
へてくれる0それなら、紳綴も己達のやうな碧晶然−自分のためだと云つて、他のためによけいな無箸を折
つてゐらつしやるわけだ1とかういふ風に云へば君達はさぞ吃攣ることであらう。冠し紳様御自分が、霊で
なければ虞慧ために御轟しになるやうなことがあるでせうかT』紳様ほ琴嗣、御自分のため許りに御姦しになる巾
ヽ ヽ
なぜなら、紳様ほ全ての全て芸らつしやる、それだから、全てほ紳様のためなのです!けれど、私どもは全て
ヽ ヽ ヽ
の箸左ありません、そして私どものためはみんな小さくて−つ苛ません、ですから、私どもほ『ょり高いた
ヽ ヽ
めに仕へなければ』なりません1なる程わかつた0紳株は自分の他話ばかりやく0自分の事ばかれに忙がしい0
ヽ
自分のことばかり考へてゐる0それから−拐分ばかりを眼中に苧!紳棟の御機妓にかなはない琴妄いゝ面の
ヽ ヽ
皮だ!紳線は御自分を高いなにものにも仕へない−た言分ば溝姦普せるっして見ると紳のため去ふ
のほ如何にも純自我的だ。 :
それから−己達がためにしなければならない人塀ほどうだ↑人構はなんのために寧してゐるか、自分より高い
ものゝために毒し逼るだらうか?どうして、人猥はた言分ばか品めてゐる。人放はたズ慧利警望
ヽ ヽ ヽ ヽ
する0人琴がそれ良身のためだJ人塀は蜃匝するかも知れない0園民と個人をさんざんそのために疲警せて、拐
らすんだ操句ほ、御蛙だと云つて、脛史の兼溜の中へかれ等を投り込む。人輝のためは − 純自我的ぢやないだら
うか?
ヽ ヽ
己はもう己ヰの上にためを投げつけて己建のではなく、自分の島の好いやうにくにするやうな奴を一々省みる
必妥はない。その他のものにしろ、まあ君達自身で見て見放へ。摂理にしろ、自由にしろ、人道にしろ、正義にし
ろ、君凌が熱心になつてそれ等に仕へるといふこと以外に何を求めるだらうア なにしろ、傍から熱心な服従を受
けてゐる間が、かれ等の全盛時代なのだ。まづ献身的な愛国者に保護されてゐる国民を見紛へ。愛国者等はみんな
血膵い戦埠で死な1ければ、飢餓と敏乏の敬さで倒れる。閥民はなんで、そんなことにかまつてゐるものか? か
ヽ l【
れ等の稚骸の肥料で臨席の『花が嗅ぐ−・■』個人は『団民の停大なため』に死んだ。そして、拷民は感謝の言秦を為
つて‡利品キ受ける。己はそれを由我主義の御鎧の仕方と呼ぷ。
サ ル タ\シ
それから、自分の人民をいかにも可愛がつて世話をやいてゐるあの土耳音帝を見紛へ。彼ほ如何にも無我それ自
身のやうぢやないか、そして始終人民のために自分を犠牲にしてゐるぢやないか? 如何にも、『彼の人民』のため
に。まあ、やつて見紛へ。彼のものぢやなく、持分のものとし′で君を示して見紛へ、彼のエゴイズムを脱する化り
サ ルタ ン ヽ ヽ
に、君ほ叫寸平良へ旋行をするであらう。土耳音醇は持分以外の何物のためにも毒さなかつた。彼ほ彼良身にとつ
て全て打身てだ心緒は臥身にどつてただ;である0そして、『衝け人民』の叫人に敢てならないやうな奴はどん掛
者でも許しはすまいJ
そして、君はこれ等の立温な例から、自我主義者が、山番得だといふことを拳ばないであらうか† 自分は持分
としてそれから得るところがあつれ。そして、無我甘それ等のエライ計我主義者等に仕へる代りに−寧ろ、自分串
身がエゴイストにならうと思ふ。
、 、 し・ ヽ ヽ
紳と人頻は自分達以外の何物のためにも聴許をやかなかつた。だから己も同じやうに己のために己の世態をやか
0a
う。己だつて神と同然他の者からはなんでもない。己は己の全てゞ、・たッた一つだ。
若し神が、若し人類が、君の確言するやうに、自分に対して全ての全てゞある素質を充分内に持つてゐるとすれば、己は未だその素質に於て欠けたところがあると感じて自分の『空虚』に就いてなんの不平をもこぽすまい。だが己は創造的虚無だ。その無から己貝身は創盈者として萬物を創也旭する。
だから、まつたく己に関係のない全ての関係は向ふに走るがい1! 君ほ少くとも『睾のため』が自分のためで
なければならないやうに考へてゐるであらう0全攣拳とはなんだ? 窓とほなんだk、如何にも、己自身のみが
己の鯛はりだ、そして、己は事でも、窓でもない。開方とも已には無音昧だ。
紳のことは紳のこと、人塀のことは人間のこと。÷己のほ紳のことでも人間のことでもなんでもない。況して、原
理−彗正義、自由のことではなほない。だからまつたく己のことだ、そして→般のものぢやない、けれど、無ニ
(軋日払的且だ、己が然こだから。
己以外のことほ己にとつて・全く無だ!
(彗甚物ば己にとつ七無芸る¢これはゲ干戸々:ぎ邑監エゴ邑ら音戸→写欝ニ、、の最初の行:■T且旨蔓欝iE●ぎF−セミ
ヨ畳叫れ@驚−1t:の定申である・即ちこれを亜辞すれば→良分は持分の事柄亀何物の上にも土lさせなかつた」と放ろ.
目 次
はしがき
読者のために
序 文
万物は己にとつて無だ
第一篇
人 生
旧時代と新時代の人々
A 古 代 人
B 近 代 人
1 精 神
2 憑かれた人
3 神権政治
0b
C 自 由 人
a 政治的自由主義
b 社会的自由主義
c 人道的自由主義
追録
第二篇
1 所有
2 所有人
1 自分の力
2 自分の交態
3 自分の自己享楽
3 唯一者
第一篇 人間篇
人間は人間にとつて至上の存在だ、とフォイエルバッハが云ふ
人間がたつた今発見された、とブルノオ・バウエルが云ふ
それなら、我々はこの至上の存在とこの新発見に対して、もつと注目して見ようではないか
人 生
人間がこの世の光りを瞥見する瞬間から彼は彼自身を発見しようとする。そして彼が自分以外のものと一緒に雑色混合の中に動揺してゐる紛乱から彼自身を把持しようとする。
しかし、少年と接触する全ての物もその代り、少年の攻撃に対してそれ自らを防禦し、そしてそれ自身を確く固守する。
それで、各自がそれ自身を守ると同時に、他のものと絶えず衝突するやうになるから、自己肯定の闘争が避けがたくなるのである。
勝つか負けるかこの二つに一つの間に、闘争の運命が波動するのである。勝つた者が殿様になり、負けた者が臣下になるのだ。前者が主権を握り、「至上権」を振ひ、後者が恐怖と服従に於て「臣下の義務」を尽すのである。
しかし両者は敵になる。そして常に機会を待ち望んでゐる。かれ等は相互の弱点を覗つてゐる −子供等は両親の弱点を、そして両親は子供の弱点を(たとへばかれ等の恐怖を)。鞭が人間を征服するか人間が鞭を征服するかである。