似而非慷慨の弊
似而非慷慨の気風は、漸く青年社会に浸潤せむとす。是れむしろ慷慨すべきなり。むかし基督、己れを十字架に上せむとせるものの為に祷りて曰く、『神よ、彼等を赦せよ、彼等は彼等の為すべき事を知らざれば也。』と。似而非慷慨の弊は、自ら慷慨すべき事柄を知らざるにあり。
慷慨其物の価値
現世の為に慷慨せずむば、彼等は何の為に慷慨するぞ。一向に世を怨み、人を悪みて、尚ほ自ら慷慨と称す、何の意なるを解する能はざる也。
凡そ青年の元気を厭世の悲観に消耗するほど悲むべきは無し。彼等は世を知らず、而して世を慷くと称するもの也。彼等は人を知らず、而して人を慷くと称するもの也。彼等は慷慨其物に何等かの価値ある如くに誤り想へるもの也。
(三十二年十一月)