少年に寄語す
凡そ天下の事、無責任の慷慨より容易なるは無し。人、己れに背き、事、意の如くならざれば、輙ち嘲罵を以て自ら遣る。名は慷慨と称し、義憤と云ふも、実は即ち不平のみ。多くの場合に於ては、陋劣なる主我的感情より来る所の不平のみ。是の如き『慷慨』又は『義憤』の幾百年を積聚するも、徒に世を乱り人を誤るの外、世道人心に何程の裨益かあらむ。真に世を憂ふるものは、徒に慷慨して已むべきに非ず、世豈戦ひを宣言して而して逃避するものあらむや。吾人は救済の方法を解せずして徒に慷慨を事とするものの、果して真に憂世の士なりや否やを疑ふ者也。
近事、新聞雑誌に現はれたる所によりて、今の少年社会の風気を察するに、其の最も著しき現象の一は慷慨を喜ぶ事也。吾人深く是を憂とす。
彼等口を開けば輙ち言ふ、人は堕落せり、世は腐敗せり、名教地に堕ち、彝倫蕩然たり、一大革新なかるべからずと。言や壮ならざるに非ず、吾人希はくは少年諸子と共に現世の腐敗を承認せむ、唯々少年諸子にして是を言ふ、果して可ならむ乎。吾人は慷慨其物を悪しと謂はず、心の清きものは、偽善を悪まざるを得ず、人の正しきを好むものは、不義を憤らざるを得ず、慷慨義憤は人情の最も麗はしき発動として吾人是れを少年諸子に見たるを喜ぶ。唯々其の位に居らざれば其の事を言はず、吾人は少年の本領、他にありて此に在らざるを告げむと欲す。
少年の時代は修養の時代なり。学識を蓄へ、閲歴を積み、品性を養ふ時代なり。彼等は道徳上に於ても法律上に於ても、一個人たるの責任を有せざる也。一個人の責任を有せざるは、即ち天の仮貸せる修養の時代なれば也。彼は実務の人にあらず、社会の人にあらず、所謂る部屋住の人也。他日、実務の人、社会の人としての完全なる資格を得むが為の準備時代也。青春幾時ぞ、彼は是の準備の為に当に日も尚ほ足らざるべし。何の遑ありてか慷慨者流の空言に私淑して、其の本領を顧みざらむとはする。社会は少年の慷慨によりて、毫も益を受くるものに非ず。少年自らは却て是が為に大損害を被らむ。かへす/"\も心得違ひと謂はざるべからず。
快調、進取、楽天は、少年の生命なり。完全なる人生の開発は、是の生命ありて初めて望み得べけむ。不健全なる慷慨は動もすれば人を憂鬱にし、退嬰にし、厭世にす。是の如きは少年にありては即ち精神的に死せる也。吾人最も是を恐る。
(三十二年十一月)