大 義 杉本五郎 平凡社 1938刊
序文 中佐は曩に大命を拝し今次事変の聖戦に向ふや、緒戦より之に参加し、長城山岳戦料子台の戦闘を始めとして北支各地に転戦、到る処偉勲を樹て「死之中隊」として名声を博し果敢勇猛を謳はれ、長駆敵を追うて山西省に入るや、山西の要衝蔚閣山高地の攻略に於て常に陣頭に立ちて肉弾以て敵陣に突入し、勇戦奮闘遂に北支の華と散る。
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噫軍神杉本中佐 純忠玉の如く、心神に通ず。闇を突いて攀登す、死の中隊。 大皇の醜の御楯といふものに かゝるものぞと進め真前に 事前の訓戒粛として肝に刻む、奮然隊を提げて陣頭に起てば、神将杉氏の下、神兵有り、殉皇の一団敵塁を屠る。胡弾は四彩し、君は絶後せり、聖骸は尚進む塁中の奇、直立恭しく東方を拝し復動かず。暁天の旭旗頃(このこ)ろ漸く明かなり。満身の熱血高峯に灑ぎ、浮雲長城に飛んで巫山尚遥かなり。 神州の聖姿を顕現せんと欲し、閲年心を砕く維新の業。奇傑の丹心人知るや否や、満腔の憂憤誰に向つてか述べん。 汝、我を見んと要せば、尊皇に生きよ、我は尊皇精神のある処常に在り。尊皇の有る処、君常に在り、忠魂永久に皇基を護らん。 昭和十二年十月十日 常 岡 瀧 雄 |
発刊に際して 大義の各章は、歩兵第○○聯隊第○中隊長杉本五郎中佐(当時大佐)が、部下青年将校指導指導のために綴られたものであるが、同時に又、これが、子孫乃至は後世青年への遺言書であることは、その緒言に依つて明かである。首章より第四章までは、昭和十一年八月廿五日に書き上げられ、其の後、一章乃至数章宛を書き綴つては、青年将校の指導に当てゝをられたのである。かくして第十六章まで書き進められた時、会々今次事変勃発し、昭和十二年八月一日、中佐も愈々出征されることゝなつた。中佐出征の際、常岡大尉は、陣中にあつても大義の章を書き続けることを懇々中佐に奨められ、中佐、亦、生のある限り必ず書き続けることを誓はれて、勇躍征途に就かれ、途中少位に進級、中隊長の儘、戦線に向はれたのであつた。其の後一ヶ月余、中佐よりは杳として何の便もなかつたが、九月十四日の朝、九月六日附の部厚の二通の封書が、編者の手元に届けられた。蓋し、常岡大尉出征の場合を慮られて、編者宛送られたものと思はれる。開封して見ると、一通には第十七章第十八章、他の一通には節十九章第二十章が、夫々封入してあつた。而して次の如き手紙が添へてあつた。 拝啓愈々捨身の時機到来と存じ居り候。(中略)神武天皇御東征に比すれば極めて容易のこと、 皇國のため奮闘進兵の決意に候。只今午前二時三十五分出発迄に二時間有之候。文意整はず何卒御推察の程願上侯。生前の御指教厚く厚く御礼申上候。吾が児等又復御厄介と相成ることゝ存じ居り候。先生御健体愈々御自重御奮闘の程遥に懇望其事に御座候。紙もなきまゝに支那人のものに書き流したる次第に御座候。敬白 九月六日午前二時四十五分 杉本五郎九拝 中佐の戦死の報を得たのは、それから五六日の後であつたが、思へば、九月十四日丁度中佐戦死の当日にこの遺稿が編者の手元に到着したのも奇しき因緑である。 中佐が大義四章を書き綴られたのは、長城線の戦が終り、部隊が懐来城内に暫く滞在してゐた時であつた。当時中隊長として種々軍務に忙殺されて居られたにかゝはらず、十七章以下四章を書き綴られたことは、如何に中佐が大義の至誠に燃えて居られたかと云ふことを物語るものである。当時親しく中佐の身辺にあつた岩村少尉・上田准尉及当番兵前川一等兵の直話に依れば、大義の章を書かれるのは、大抵皆が寝静つてからであつて、いつも午前一時・三時頃迄かゝつて書いて居られたと云ふことである。而して、これを書かれる時は、既に戦死を決意して居られ、従つて全くの遺書として書き綴られたものなることは、前記の書翰及び第二十章死生観の最後の橘曙覧先生の歌に依つて明白である。大義二十章は実にかくして出来上つたものである。 緒言は、出征前に令息への遺書として書いて置かれたものであるが、その緒言中にもある如く、中佐は、大義に透徹せんがために我執を去る手段として、禅道を選ばれた。中佐の禅は、禅のための禅ではなく、飽く迄殉皇精神鍛錬のため禅であり、大義に透徹せんとして我執を去るための禅であつた。されば、大義の章の中に多く禅語があり、仏教的言句のあるを以て、直ちに中佐の思想未だ日本精神に純粋ならずと為すものあらんか、そは々たる蛤的神道者流か、若くは偏狭なる日本主義者と云はねばならぬ。大義の章の一言一句は、実に生命がけの修行に依つて悟得された殉皇大義の誠心より迸り出でたるものであり、しかも其の言を更に実践躬行、死の瞬間まで行(ぎやう)し続けられたものである。其の点、世の徒に言説のみ巧にして、実得実行なき軽信慢心輩の日本精神の書物などとは凡そ根本からその類を異にするものである。読者諸賢、徒に中佐の偉徳を称することを止めよ。中佐の英霊が無窮に皇基を護ると云ふことは、決して単なる観念ではない。そは、中佐の精神を継承し、中佐の精神を実現して行く者が、永久に絶えない事実の謂ひである。されば、自ら殉皇の行を行することなくして、徒に中佐の徳を称へても、それはむしろ中佐を冒涜するほかならない。くどいようではあるが、大義の章を公刊するのは、中佐を譛めて貰ふためではない。中佐の如き殉皇の大士の続々として出で来らんことを冀ふほか何物もないのである。 昭和十三年二月十一日 編 者 識 |
杉本中佐略歴
一、 |
明治 |
三三年 |
五月二五日 |
広島県安佐郡三篠町大字打越一ニ六四番地ノ三に生出 |
杉本中佐遺稿大義目録
緒言
第一章 天皇 (23)
第二章 道徳 (26)
第三章 「無」の自覚到達の大道 (29)
第四章 神国の大理想 (31)
第五章 皇道 (36)
第六章 解党 (40)
第七章 生活原則 (44)
第八章 七生滅賊 (48)
第九章 国防 (51)
第十章 第一等の人物 (59)
第十一章 維新
(68)
第十二章 神勅 (77)
第十三章 信仰 (96)
第十四章 大命
(106)
第十五章 神社
(128)
陣中遺稿
第十七章 戦争
(137)
第十八章 皇國民の定義
(142)
第十九章 行 (146)
第二十章 死生観 (151)
緒 言 吾児孫の以て依るべき大道を直指す。名利何んするものぞ、地位何物ぞ、断じて名聞利慾の奴となる勿れ。 士道、義より大なるはなく、義は 君臣を以て最大となす。出処進退総べて 大義を本とせよ。大義を以て胸間に掛在せずんば、児孫と称することを許さず。一把茅底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過すとも、専一に 大義を究明する底は、吾と相見報恩底の児孫なり。 孝たらんとせば、大義に透徹せよ。 大義に透徹せんと要せは、すべからく先ず深く禅教に入つて我執を去れ。もし根器堪えずんば、他の宗乗に依れ。戒むらくは宗域に止まつて奴となる勿れ。唯々我執を去るを専要とす。 次に願わくは、必死以て 大義擁護の後嗣を造れ。而してそは汝子孫に求むるを最良とし、縁なきも大乗根器の大士ならば次策とす。一箇忠烈に死して、後世をして憤起せしむるは止むを得ざるの下策と知れ。よろしく大乗的忠の権化、楠子を範とせよ。 歳々大義の滅し去ること、掌を指すよりも明白なり。汝ら 大義の章々を熟読体得し、協力一致、大義護持以て 皇國を富岳の安きに置き、 聖慮を安んじ奉れ。 至嘱々々 父 五 郎 正 殿 外 兄弟一統 |
大義
(一)仏説
(三)無我 |
第 一 章 天 皇
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第 二 章 道 徳
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第 三 章 「無」の自覚到達の大道
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(一)仏ノ
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第 四 章 神国の大理想
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第 五 章 皇 道
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第 六 章 解 党 聖徳太子憲法第一条「和ヲ以テ貴シト為シ、忤(サカラ)フコト無キヲ宗ト為ス。人皆党アリ、亦達者(サトレルモノ)少ナシ。是ヲ以テ或ハ君父二順ハズ……」
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(一)先人のなしたあと |
第 七 章 生活原則
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第 八 章 七生滅賊
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第 九 章 国 防
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(一)自信のなきこと
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第 十 章 第一等の人物 |
(一)至極の道、覚なり
(二)事理を決択すること
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第十一章 維 新 |
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第十二章 神 勅 天照大神スメミマニ勅シテ曰ハク 天照大神ミテニタカラノカガミヲ持チ、 瞥見忽ち國體の真髄に徹し、 宝祚の無窮なる所以を把握し、世界救済の根本道は全く此の 聖勅にあることを大悟せん。 |
(二)過去の罪業
(三)心身を放ち置くなり
(四)斗は一斗ますは一斗二升を入れる竹器転じて人の器量の小なるをいふ
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第十三章 信 仰 (昭和一二、一、三一)
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第十四章 大 命
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(五)大悟無我の道人は常人の窺ひ知る所にあらず
(六)肉団身、人身を指す
(七)五蘊と云ひ身と心となり、色は身の事、物質有形の事、受は事物を受け込む心、想は事物を想像する心、行は善悪を作用する心、識は事物を分別する心の本体なり
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第十五章
神 社 仏教は無我を本とし、儒教は仁を説き、耶教は愛を叫ぶ。この三徳を兼備し、諸宗諸学を統合し、人類を救済し給ふは、実に 天皇御一神にお在します。天皇に透徹せる士は、即ち 天皇を御神体とする神社なり。その氏名を冠して、和気神社(和気清麻呂公を祀れる護王神社の謂ひに非ず、和気清麻呂其の人なり)、楠神社(湊川神社の謂ひに非ず、楠公其の人のことなり)、乃木神社(乃木大将を祀れる乃木神社のことにあらず、乃木希典其の人の謂ひなり)と称呼すべし。日本臣民は須く皆 聖心を御神体とする神社ならざるべからず。君臣一体は正に此の神社の謂ひなり。此の身は既に 天皇の宿らせ給ふ神社、尊重すべし、鍛錬せざるべからず。広く世界に智識を求めて、 聖神を悟り、神域を清浄広大にせよ。 皇國に受け難きの生を受けながら、尚且つ 本尊を我慾我執とし、仏とし、異神・異学とす。何ぞ其の思はざるのはな甚しきや。
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(一)あかざのつゑをつく、 |
第十六章 高天原
(昭和一ニ、四、三〇)
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陣中遺稿
戦 争
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第十八章 皇國民の定義 |
(一)毘盧舎那仏のこと、仏の頭上を踏み行くこと
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第十九章 |
「意は毘盧頂(びるちやうねい)(一)を踏み、行は幼児の足下を拝す」。意は常 |
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に最高正法を把握し、而して之を生活に具現せんために、謙々として行し来り、譲々として争はず。此の士真に 皇道の行者なり。万世を動かし感ぜしむるものは、言に非ず、終始行(ぎやう)なり。 |
第二十章 死生観 絶筆(遺品手帖より)
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第十七章 戦 争
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