母の力 大日本国防婦人会東京地方本部長 林富喜子
今日此講習会を開くに当りまして、本部からも誰か皆様に御話を申上げたらよいと云
ふお話で、私に母の力といふ事を申上げるやうにとの事で御座いますから、少しの間御
辛抱願ひまして聴いで頂きます。
人の親となりまして、子を愛する事は古今東西を問はず、自然の人情で御座いまして、
母となりました女は、子供を持ちました第一日から、まづ慈愛の生活が始まります。其
子供を育てるのに母は全力を尽し、其間何等他念なく、ひたすら其成長を楽しみます。
そして其一生を通じまして、子の喜びを自分の喜びとなし、其悲しみも矢張り自分の悲
しみとするその美しい情愛は、女としく生れた時に既に備はつて居て、其事自体が子供
を育てるのに適して居ると思ひます。
朝夕自我を没した母性愛を以て育てた子供に、母の感化力の深く及ぼさぬ筈は御座い
ません。「賢父の子に痴人はあれども−驚母の子に痴人潔し」とい童藁を聞いた事が御
ヽ
座ルますが、母のカはそれ程偉大であるといふ事を申したのであると存じます。
′
健の精紳カが子供に影響して、之が形となつて現はれ名迄には、母は子供が胎中に屠
る暗から準備むせ紛ばなら普せん。支郵では昔から胎数といふ事を重んじ乍屠らまし溌。
ノ一
ノ。
修餐講座卦三構、掴
日本でも徳川時代には之を信じく居らました0翳畢の進歩した今日は胎教のあるなしを
云々する人も出楽ましたが1とにかく好い子を持たうと思へば此位の心懸けは必要やは
ないかと思払ます0/
子供む数育するには、少し物心が付いた頃から意い芽はのぴ夜いチち絃摘みとつく、よ
い方へ指導する事が犬切で・つい面倒であるからと拾くし息くのは子供を過せる箋で、我
子にも申謬ない奉にならせす○或人が子供と云ふものは横着なもので、親が一奉譲れば
】歩進み、ニ歩譲進んで際隈なく自分の思ふ事を通さうとするものであるから、書い事
は通させるのは紐構であるが少しでもよく夜いと思つた時には、決レく親が穣歩しくは
孜ら沿と、子に甘い母親に致へく居るのを開きましたが、優しい中にも一南敢然とし溌
心を持つく子供に渦はなければ、子供によい数育をする畢怯出衆氾と思払ます。をしく
働観の樺カは子供に封しヾ紹封で、何事にも服徒させる事が出爽る漑は、自分の持つょ
●
い精紳を、子供に柏ゑ付ける事が出衆ると思払ます。併し此植カも、}方には愛と掛解
の充分に加はつたものでなく<はなら普せん。只肢しい】方では反つく反封の結果を生
一「
じ竣すから、よくよく考へくすべくを行ほ紛ばならません。、
、、ノ
子供が励稚固や、小畢杖へ通拳の始めは、母は山人手放し溌心配から、魂が子供の身
に添シて数室の内普でも行つく居るやうに、あ思以になる方があると存じ普す。母の心
は、かく迄子供の蔭身にをうて少しの尚も離れるものでは御座いません。病気になつた
時の心瀞なども】通らなものではなく精カをかたむけヾ看護致します0また男の子なら
ば中畢の入聾試験進んで高等畢枚」大寧、就職、女の子ならば女畢枚の入畢試験−嫁入多
の前後に於ける母親の心は貸に何とも云以棟のない眞剣な心で、我子の上を思つく知ら
ず知らずのうちに自身の事以上に仝く身を志れて強い精紳カが働きます。・かういふ事が
蚤なら普しで子供杵働きかける母の精紳が子に侍はちない筈はないと思ひます。
●
今迄の母は、只子供の立身出世を所つく居ればょかつ溌時代で御座いましたが、乙れ
から.の母の心がけはをれでは足らないと思ひます。皆様御承知のやうに自本は東亜共祭
囲建設の大使命を持つでて其指導者となそへく日本開嗣以来の大事業の為に、支郵と敬
払英米とも不和の状態で居卜ます0
其臼本の母は.圃家の為に子を戟場に叉は他の事業の虜に、北は満洲から南は南洋共
他速い虜迄も法らねばなら普せん。日本の人打は女の数が牛分と聞き普す。、母親の敷は
母のカ
罫
′′
/
俸盤講座節三斡
\
六
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l†
どの位あるか布じ普せんが、母親が子供を外地に迭る事払嫌つたなら、折角禽屁に向払
つ〜ある大審業の将衆がどうなら普せう。臼本の母親は、笑つく我子を圃家に捧げるだ
けの登悟が是非必要と存じます。
ヽ
満洲に移民としく洛来を負ふ青少年義卦軍は、内原の訓練朗で最初訓練をうけく彼地
へ蓼`三年れ経ヱ旦内地へ蹄つく衆まし豊ハ俵内地に止普ら度叶者は止まら、満例で
十地を開凝したい者は蒋び満洲へ蓼らせす0此青少年が満洲に渡つく少し落ちつくと−
■
若い人達の事で御座いますから親許が態しくなつて必らずホーム;ツクになると心ふ事
で御座います。其時親許から激励の手紙でも参みますと大に奮凝して最初の志を貰かう
と決心致しますが、若し母親から女々しい手紙でも蓼らますと心が窮くなつく志をとげ
▲■
在いと開きます、乙れなども母の心の強弱によつて、よい結果にもなら意い結果にもな
ら普す。
臼本の意法む作られまし溌公爵伊藤博文といふ方を息聞き及びの事れあると存℃ま
す。此方は維新前から、明治時代にかけ<の大政治家で、御圃の為にハルピンで兇湊の為
にピストルで尉たれく立耽な最期を遂げられた方で御煙いせし七、圃葬に迄夜らました。
−
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Y欄耶ふノ山桝月、..。メ
γ〕ハい√ノ
/
ノ
、
′この方は、長州の生れで漫家が貧しかつ溌ので、小さい時から人に使はれくあ育ちに
な¢ました。十四歳の時、滴原といふ允ぷん宅利家の家宏の家に奉公しく居られた時の
事と思払ますが、或袋い日に御章人があ友逢の家に行つく騒らに雨が降つく衆たの′で雨
且ハや傘を倍らであ蹄卜になみました。翌日も亦雨天で寒い中を伊藤さんはそれを持つく
返しに行かれました。その蹄らがけに、あ普ら袋いのでT寸家ぺ寄つで温せつく蹄らう
とされまし溌虜、迩母様は御主人のあ使杵術つ溌者が復命もしないうちに途中親許によ
るのは不都合だと申されましてどうしても家へみいれにならないで蹄されたr申しま
す撃泄齬lのあ考へでは、若し甘い言菓でもかけると主家に辛抱j出衆ない、又心にゆる
みが胡ると御審公鴻疎になると思つて心を鬼にしで寒峯を濡れく出くゆく我子を見迭
られた事と思以ます。乙の母の厳しい躾が伊藤さんの身の魚にもな阜、心のうちに働い
_
て後臼よく圃家の偽に轟されたのだと思払普す。
私は此ほど.母を語るといふ本を或人から迭られせして讃みました、其序文に、「其母
、
は其子にとつ七絶封の布在である雀であら、幼潔心に灼さ付けられた魂は意誠するとせ
ぎるとに.狗はらず母をの物でもあふぅし、懐しい母の零乙を至上至高の音欒としく横禽
→.′j欄瀾
母のカ
七
ヽ
ヽ
修秦講座革三堵八
ある毎に耳の底に廼へるであらう。乙の永久不壁の・響こを其生涯を通しての導きともな
るであらうと記されく御座い普したが、敵は誠に其通らで母の日常の言襲、行は何物に
も代へ難い致で∵仝篇を通じく母といふものがいかに子女に深い軋象む壌し、子に封し
て絶封の存在であ絹かを藩び知らました。
併し親が親らしくない場合には、折角の至上至高の音奨である.べき母の言菓も何等樺
威もなく、、懐しみも生じないで打拾てられる事が御座います。充分に数養のある増親は
れ論、たとへ何の数育もなくとも異心のあら慈愛のある母は自ら子供を善導すると思び
せす〇.
今同事攣で未亡人になられ普した方々の内で猫カで遺鬼計エ≠沢に育く〜、亡央の志む
光くくゆきたいといふ患考への方々が、軍事保護院の保護の下に、東京特設小嬰枚数貝
養成所或はヰ等致員養成朗に入拳されで一生懸命に勉強されく層ら普す。中等数貝養成
朗は女子高等帥範畢枚内に筐かれましで、家事と裁縫の数育をうけくあいでになつく、
ヽ、
第山回の卒業生は此七月に卒薬なされましたが、第二同、節三同と入拳者が御座いまし
く乙れは三月に入畢といふ事なので皆ニケ年後の三月には卒巽首れるわけで御座いま
、も
▲−
′小
′.
\
、∴∵袖欄姻欄題
す0今九十名許ら居られると申しまサ。中には地方からどうしくも子供む手離せない頚、
備のある方は患子さんをつれく寄宿合へ入つくをぢれ竣す。あ子さん達の年齢も・嘗ち
せちで御座い澄せうが1をれを預かつく幼稚尚のやうにしく居らせす。此漫きのどくな
未亡人達は1人の妻となつくからは畢悶とは緑速いものになつくあし普いになら・嘗した
\
でせうから、比較的今迄仕慣れた家事とか、裁縫とかを卦に人に数へられるやうに数青
をうけてあいでになるので御座い普す[其異剣な心、態皮があ子さん方に影響せ沿筈は
ないと思払普す0そしく御自分のあ子に深い戚枇を及ばす許らでなく、数へるにも亦威
枇を輿へる事は必然だと思払ます0此未亡人達が女子の寄宿合の寮母などにあならにな
つて乙れも耕瀞む離れキ若い娘苧んの淋しい心へ.温い慈母のやうな愛牢を、ぎ日本の
女としく圃毅に封する信念、女としくの踏むべき造などを懇に数へられ.苫したなら数誇
部の本懲よむょらも毅暴があつ1人を益し、御自分達も圃家に命を捧げた方の未亡人
としく立泥なそしく意義のあるあ仕事だと存t普す。てれからも普だ〈未亡人になら
ノ
れる方々も御座い澄せうから其方々の為にも立泥な造を閑いくああげになる事はこ垂に
も三登にも意昧あるあ仕事だと布じせす。」私どもも、若し其方々に接速する場合が御座
●_
一〇
い普したなら、何かと御力添へし望芸とげさせてあげ度いもので御座い・嘗す0乙れも・
廣い意味に漫ける母心では御座いませんでせうか0
ヽ、
党程も申上ました通ら、今日本は図を拳げく戟を為し大事業に邁進をしくをらますの
で図家に子を掻げ七居る母もあら、次の代に図民としヾ融曾に立つべき子を持つ母も御
座いませう、妄い子を韓山持つ母ち意い子を樺山持つ母とによつ七図のカも亦張くも
弱くもな多もす0斌に於七母といふものが闘家に封しまし1もどれ程大切であるかと云
ふ事がわからますO
I●
その母である方々が不用意に子供を育<るの蹟いかゞなもので御座い普せうか、そ乙
で修養が必妥であるので、今日かくの如く講習曾も讐れたので御座い孝す〕
凡そ人には智傭意の三つが備はつて居て之が完仝に蚤達したものが腱れた人になる
ヽ
ので御座います。乙れに健康な身鰹が必要で1韓仝なる身膣には健仝なる精紳が宿ると
申し普す通是とへ智、備がJく蜃達致して居豊しくも、濱の窮い人はとかく意志
も窮くな椅もので御座います。只今の様に時局重大なる暗に常つて批健な人の最も必
黎な時に盲保健につとめ、淀育を乳働して何事にも耐へ得られる人むつくらねばな卜
ヽ
榊瀾瀾瀾凋瀾欄憾瀾憫崩八ふ碓題欄加議
ノ
】
せせんC
さて智簡とは御承知のやうに準問、知誠を輿ふる事で、畢問もなく、知誠も孜いと
何革にも理解カがあをくく」今計のやうに軍艦を造らねばならず、飛行機、兵器の優雰
なものゝ敬明、それの技術考職工などに致しせしく冬理解力認誠の有無セは準牢に大卦
差が卦衆ます0今流行の代用品を作らますにも皆章問が基で御座い・ます。乙れらは男の
方の領分と致しまし「極手近な事で、私共が裁縫を致しせすにも7身ごろの尺や々
/
a漫くみの札をはかつ三寸足らないとかあせるとか云つく布懲皮々はから普しく裁ち
′
らすょらも∵反の尺を普づ計つく袖は何尺、身ごろは何尺と計算しく裁つ方が早ぺもあ
こら正確にも出衆ぜす0貰瓦斯のメートルを鬼るにしくも、内合れら出たくの人などは
中々呑み乙あ賓せん0‥乙れも漁備知議がないからで御座qせす。政府でも章問、知誠の
必要を戚じて今年から義務数背も二ケ年延長しく1八ケ年にす名革にな`囲民撃枚
と改稀しく智背の向上を計つく居卜せす畑此圃民畢枚も一般に知誠を高める計らでなく
科撃数育にも猫」膚カをいれて子供のうちから輿味む持たせく1く指導し王蒜な皇
川■
1、憐民を養戊する乙とに着眼しく欲しいと思、払普す0督様の温子桂めうちには科挙に輿塊
・\
′
霊持ちの方阜御座い言う0乙の方々を其志に導いて孟な凝明1凝見をし盲
本の開の馬に役裳つ人吾くるのも亦母のカによつ乍馬される事と思貰す0
筈、乙れと智育とは単の雨翰のやう誉ので驚に大切誉ので御座い草0此箸
の中には種々′の意味がそ貰遥貪して自然の戚備1驚生れながらに持つ墓
的戚僑が革礎となつて理智帥ち考へる事1乙の理智で指靡して窓志で軍行か義仕する・
乙ゝではじめ乍椿育が胡警ので御座い芋J徳育のうちにや人驚作孟・習慣を作
孟、凡そ造徳的戚惰が基讐なつ違雷る造徳的意志埜胃が完成孟芋0かくし
又格を養苧孟は大切で1人格の低い人はすべ宗己的に誉、自然他人との陶も
漂姦淫す此事欝にもかゝはらず、着物貰餓つ遥是山に雪音、物賓
節約を叫ばれ宗るのに浪費をし音、人の雷糞巷恵口萱雲つ晋するのは皆
人格の低いの蜃不すもので御座い・官す0
惰操数育は女には殊に必要で、傭のない女は凝坑香宗ないと同じで、何となく親しみ
がなく懐しみがないもので御座い芋○女の持つ美持しい傭は参目身に品の人に封
し音撞々よい備操的原動カと誉書い図家の璃に傷いた人、職場から疲れ違羞、
ヽ〜−
〔dJ川…琉柁硝
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掛枚から草臥れく轡の子供などの悲しみやら疲れやらを虜めるのに、温い優しい心は奄
分敷輿があつで、吏に此人達に新らしいカを出させます。母が子を慈しみ郷妹の睦じい
などといふ事も惰操数育のカによ多ますいせた、姑によく仕へる嫁、嫁計可変がる姑、乙
れなども情操数育からくる彪のものです。協カ】致などもやはら備操数背のょい現はれ
で御座いせす。せ溌傭操数育をする方便としで美のカを養ふのも必要で御座いましイ1
美竺口に女々しい七か、ぜい溌くだと云つくけばすのは不可いと思むます。昇に溺れ
る事は勿論謹しむべき事で御座い普すが、たとへば着物の色の配令をよくするとか、持
ちものY一寸工風するとか1董を見るとかノ∴昔奨を聞くとか、思以〈にすき襟方に好
みを鬼せる番は、戚惰を豊Yしく心を明朗にする.に役にたち普す。心を明朗にするのも
亦新らしいカを生じる原動カとなら賓す。
次に習慣、乙れは習以性となるとい皇白菓があつく」召慣は節二の天性を作るといふ
ほど大切をもので御座いせして辛い事を辛抱するの針或廃迄は習慣によつく辛くなく
なら普す。私の娘が畢校を卒業し溌てに、あ茶の湯の稽台を致んまし瀧併、最初坐つく
居るのが苫痛で大庸閑らましたが、暫くすると山時開位は坐れるやうになら後にはこ三
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膚は我慢が出誉やうに誉芭た。乙れは習慣が第この天性のやう頂っ蒜には
ぁくはまら普ゼ人が、苔痛に慣れる例にはなる上思以せす○日冬に生れた子供は箸に′車
で、日本は子供の天甲であると申されで居みkすが、々れと同時に妹な事、辛い事を辛
抱する習慣をつけられで居ない嫌が御座います0嫌な事や、辛い藩は出水る−顎ら避け度
いので御座いますが、tれを避けられない場合もないとはいへ普せん0忽耐カむつけく
aた子供は1辛いと云ネ事雷H費しないだけでも率で御座いせす0今年の冬の写に
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泉が少な1て顔を洗ふにや湯も沸せない時・卒生水で洗つて居る人は少しも摘ら普せん0
芙食物にしでも、好き嫌の為忙食事が進芸か芸らする子も御座いますノ0今日の如
く物費映乏の時に瀕卒生の習慣の大切な事竺凛胤じぜす○
今迄子供を苧るには要らなかつ牢心造以で御座い孝すが−冬の子供には高度圃防の
意味せ解阜易く教へる必要があると思以普す、ニィ問題もある曾Hで御座いますから
親が何の束なしに言ネ事牢小耳に挿んで、無心に人に革すといネ事は窟藤な審で御座い
ますが、小供孜がらも図家の事に閲して首白つてはならな氾事は言は氾といふ新らしい習
憤をつけイ這く必要が御座います○せ溌闘策による種々の審に葬分努カす盲習慣、J帥も
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貯金怒ども其】例で御座い普す。、乙れ等は章齢以上の子供の訓育の事で御座いますが、
親も亦心なく種々の事を子供の前で膚は沿召慣を厳守しく、親自らよい召慣竪ポす事が
必妥で御座いますC
意志数育、乙の習慣付ける事は、帥ち数背の土蔓であつく、好い召慣を付ける事は強
い意志がないと折角のょい思心究ちも途中でくtけヾ仕舞以せす。餓の如き意志乙れが
何事をもなし遂げる基で最沌必要なもので御座い普す。立蔵樽などを嶺みせすと、子供
の意志の強いのは勿論で御座いますが、蔭に居る母の意志が、ネの意志を強固にしたと
\
いふ審を屡々見ます。子供を立朕に育くあげるには、周は子供の智備意の数背泣に保健
帥ち身膿を丈夫にする為にカをを〜ぐ審が大切であると存じ普したので】寸申上げて見
☆した。あ藷も少し堅くなら普し允から、強い意志と智帥ち畢問によつ七世界瀾になつ
た故野口英牡博士母子のょい例を以いくあ話致しませう。
野口博士は白虎除で名高い、曾津若松から四里程の田合、翁島柑大字三つ和、三城潟
といふ虞に明治九年十山月九日あ生れになら普し溌。私も先年頃三城潟の博メの生家を
見溌審が御座いますが、猪萌代湖といふ湖の呼で、磐梯山といふ山がむかふにをぴえく居
せ
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巾
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仙〓朋も
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刺渕朋朋
修餐講座第三碑〓ハ
、
らます。母君はシカといふ名の方で博士は小芸い時は清作と申され普した。悸士の母君
ヽ
は小さい時から親孝術で働き者で、信心深くせた中々シツカブ常であつたといけ普すJ家
が貧乏であつたので人に雇れく戌人し普ん允が、】人娘であつたので攣をとjせしたが」
其人はどうも息酒がすさで」官姓をするのを面倒がるので家計は不自由がちなのを、博
士の母君は】人で】生懸命働いて子供を育くくをら普した。博士が三つの時、粛夕方夕
食の虜に罫味噌汁をなべに入れ嘘にかけ笠農の方へ行かれ普した。あ汁に入れる野菜か
息米でもとぎに術かれたので御座いせせチ。その時家扮中で子供の溌ゞなら氾叫び蜃が
するので飛んで行つヾ見ると、子供が蛙に這以よつ℃、かけくあつた漫汁む乙ぽしく、大
火傷をしたといふ始未で御座い普す。あ母棟は夢中で博士む媛の中から引づら上げで見
ると率身臆にはかはりは御座いませんでしたが、手に火傷をしく泣き叫んで居るので、ど
うにも手めつけやjがなく、もとよら貧家の事とく留者へかける審も出衆ず、延朗の人
の傭で膏率などをつけて治る乙とは治らせしたが、可哀想に左の手の指と指との開が焼
きたヾれ七くつつい七しま以ました。も母様は】寸した油断で子供が生れもつか氾甘輪
「●
粛になつたのを見七気も狂ふやうゼあつたさ一)で御座い普す。そしく清作セ】生安凛に
ヽ
ェ。〕巨巨鞋巨臣賢r′嘗鮎瀾瀾瀾瀾瀾
養以通すのだと云つた決心むしく働ぎつゞけたと申します¢博士は大づくなるにつれ七
台分の手の不自由を数きまし溌が、淀所の友達からヰ棒々々と云つく嘲笑されるのに悲
憤の渓をしぼつたと申し普すが、此嘲笑された片翰の子供が後に世界的の嬰者になつて
臼本人の名をかがやかせょうと吼たれが風ひましたらう。息凝椋の子を思ふ具剣な働き
が自然子供の上にも反影し、惇士も亦生れつき頭がょかつたので、小畢枚の成埼も優れ
くょいのを認めたのが、訓導の小林柴といふ息方で御座いました。此の方がいつも親切
に何かと南倒を見く下さい普した。そして樽士が片翰であるのを悲しんで居るのを知つ
でどうにかならないものかと心配されく居ら普した廃、丁顔其頃若松の町七開業して居
る渡部鼎といふあ欝者があつく近頃米闘蹄らで大暦外科が上手だといふのを聞いで、そ
の人に手術しで貰つくは軋デかといふ乙とにならました。もとよら質乏なので費用など
も此小林先生も勿論手侍つく下さつ溌のでせうし、他の人の惰もあつたと思ひます、此
渡部留師の手術にょつく、三過開の後には由由に指を依ふ事も出黎るやうにならました。
惇士が家に蹄つ溌時、.母子の喜びは申す普でも御座いません。yカさん払、−先生方への
御思を忘れたら、息せへは人開ではないと言つ七聞かせる母親で御座いせした1。今迄】生
/
r〆
1ヂ譜ト1
、d磯拶粛朴臣
片翰粛で過すとばから思つヾゐ牢のに、驚くペき醤術めカによつで人並に手が使へるや
うになつたのに戚じた博士は、欝者にならチと決心したといふ事で御座い.せす。小畢枚
を卒業し溌後は思人である渡部攫師の家で狗拳をつゞけながら凝畢を桝究しく居与嘗し
た。其噴丁皮日清戟季の最中で支那に渡つた人の】人が曾津へ蹄つ<衆く詳の解ら氾熱
む出しまし寛渡部捲師は1の熱の棟子が普通の病気とちがふのセ血液を顕微鎗にかけ
で見ると同蹄熱の薗が見えせす。を乙であ弟子達をよんで見せました廃、博士はをれ杵
大庸輿味を以くいよぐ細薗畢の研究むしよチと思払、乙れに】生を捧げ普した。其後
渡部兜生の心配で東粛へ出る事になつく、上京して暫く狗拳をしく居み普した。出立の
時母は我子の希望に満ちた様子を見七眞から喜んで居られました?
其後北里樽染病研究所に入つ七いよ′l・トかねく志望の細歯畢の研究を本格的に致しま
したが、其身はせだ針本も今日程慣畢も進歩せず種々の設備もとゝのはず、外圃術が流行
の時代で御鷹い官したから、博士も米図へ渡ク七勉強が仕度いと云ふ考へは少しの閏も
■
忘れる時がなく、渡米する費用を禅る為に瞼疫醤に畝つたらしく、其閏支却人のベスト
貰見し宗究し昔し嘉貪し宗、明治三十三芋二月いよや米歯に渡る事に
加
舵
′
在多、忠母様はあとの事は心配する、襟とはげまし普し究。此由小林先生とあ母樺とは横濱
に見迭ら普レたが・気丈の母も別れが悲しく笠快に口がきけなかづ丹と申し普す[米囲
に渡卜ましで直に研究所へ入る事は出来ませんでしたが、甘のうちフレキ′yナー惇士の
好意にょつ写aツチエル博士の研究宴で儀蛇の桝究をサる番になろました。此フレキy・
ナー博士は前に東京に衆た時」野口博士が北里研究所員であつ†東京見物のあ世話など
し乍・知ら卦払杵なつく居られ、此フレキyナー博士にょつく天才を見出されく濠に世界
的になる事を樽允ので、いはゆる思人の丈で御座卜普すか滋毒蛇の研究が藤衰され冬
と、仝低界の捲畢に反響しく、博士の名も亦傲界的になら普した。其後やツク∴ラー財
圃の費用にJって欧羅aへ留準する事になら、∵年の留畢の後に米圃に蹄つ亨湖らワツ
/クヘラー研究所に入る事となつく欧洲へ渡阜、丁抹の図立血液桝究所で桝究する乙とゝ
なら普した。外図人で米閥の費用で欧洲へ留畢を命ぜられ允者は野口惇士が最初であつ
溌と申します。血清研究併に約衆の】年を桝究し允後、猪逸、フラシスにも術つて多く
の撃者にも壌以、.舟準も参観しく、米図へ蹄つくсdクヘラー研究所員になら賓したJ
研究所でも東に者鴨仇桝究をつ・ゞけヾをりましたが1溌圃のぺe・ルごヤから拳士仇
磯
母
/−
稀能を授けられました。其後トラホームの原因を研究し允多、をの他の庶鰹を桝究し溌
ら致しせしたが七ノれも血清畢に閑係したもので、此桝究が出衆ヱ暦野口惇士の名が
世界の留革界に響いたと軋しヰ与。ニノクヘラー析究所で倦む事のない桝究は九十三種
にもなつてlそれを日本の京都大畢粁迭つて留畢惇士になら賓し允のは明治四十四年
で、博士の三十三歳の時であつ究と申し普す勺世界に自分の名が響い七居るのに、をれだ
けで満足しさチなものであ&のに、租囲を愛する樽士は何虜迄も日本人であるといふ自
壇を以て日本に於くも博士の碑観を得られ、∵方には其教々の論文に」っ′d、臼本の
留準粛をも啓凝された事と布じます。此事を曾津の内合に居たあ母様も聞い≦普んだ寄
y
は申す迄も御座い普せん。惇士はいつも人にあ母椋の車を話す時、「母は幼少から以どい
一r
昔瀞をしく衆たのに1少しも不卒不足雲昆ないで辛抱し通しく衆たのを偉いと思つて
由分も誉輿似をしようと思つ<∵生懸命あらゆる苫弊七弘んだあかげで、】人前になつ
cと話され光さうで御座いせす。驚に母の魂が子の胸に宿つく其志を貰かざせたので
御座い普す0
其後種々の桝究も教衷され普したが、恐ろしい小鬼麻痺の原嘩.粁紳病息者のうちや
脳を凝柳病薗によつて犯される事を磯見.狂犬病の原囚の凝見.をの治療法夜ども凝亀
され普したがr此三つの問題は世界静畢界で難問題とされく居たのを見審解′決し溌のは、
日本人の誇を)履世界や不した事になら頂すC
/
ノ
研叔軒nd
或時燭逸の自然科畢曾及び留科大禽から詩演に衆く欲しいと申しく参ら・誉した。此大
曾は仝世界、殊に欧山脛じの各方面の大畢者の岡膣が集るので、此曾で詩演するのは撃者と
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しく非常な名巷とされく居らます。しかも米閥の尊者中、をの名巷を得溌のは打本人で
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ある樽士が最初で卦つたさうで御座い普す。其時の曾場はオーストーフブヤの骨辟クja
であのたと申し・嘗す。詩演は素晴しい成功で、皇帝陛下の代理に皇子が大曾に出席され
溌ら、晩餐骨に皇族が臨浦し允ら大さうな事で卦つたと申しせす。乙の曾が絶つて、ド
イツのミnヘンヘ行つく詩演をして丁抹へ蓼う普し雫モしは先に血清桝究所で桝
究し兜薗知の虜て.博士針、乙乙でも詩演をしく息帝から準貴族、帥ちナイトを授けら
れく動章計も項きせした。さく米図へ由つ溌時には知るも知ら氾も出迎人で凱旋蒋軍の
やうであつたと申し普す“その後に束京の帝大へも論文を迭つ乍寮く理畢博士の橘鴇を
、琴りれまし溌0樽士が軋図へ掛つく十六年目に、かねくから】皮蹄つく無事な瓢が見た
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いと願つで居たあ母棟から焉眞を法つで衆ました。それを見く老いた母の南影が急に懐
しくなつく蹄朝されたのが、大正四年九月五日、賓に久し振で故郷の土をふ普れせもた。
人の備で渡栄し兜貧家の子は十六年の後には世界的の拳者としせ横濱の稜椅を出迎の人
人にとら巻かれく渡ら∵馬車も待つく居らます。東京に着いても夢心地でゐる縛士へ帝
囲畢士院から思賜賞と賞金が待つ<居ら普し溌。乙れは払本での最高の畢術貧ヤ、撃者
としでてれを授けられるのは最も名容とする虞で御座い普す/此暗に博土は此名畢に封
しく」今後山生を経げく日本帝図の名巻の想にカの隈丸研兎致し普すと申されたと申し
ます0をしヾ劾個等に叙せられました○そしても轟様の普つ骨津の三城潟へ籍省し溌
噂士ぺ挙母棟との瀞旬、誉じ子も喜びの疾に浸つ牢畢で御座い普せう。仝材畢つく数
迎するJ方々で詩演を租まれる、思賜金で田畑を買ひ庚す、何やかやと忙しい毎臼がつ
づいヾ滞在十臼の後樽士は上京nれ普し允。末京でも詩演繁付かで忙しいのに、樽士は
あ母椋や想帥の小林兇生夫妻む東京見物させょうと招ばれました。此三人が大庸喜ばれ
たので更に京阪地方へも見物に伴はれ普し常旗府中にも昇で手を払いた`美味し
さうなものを勒めたら傍で見七居くも其孝術ぶ¢に渓が乙ぼれ溌と申し普す。惇士の臼
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本滞在にも隠心があ仇七凡乞ハ十日程居く考た米図へ躇ら扮ば怒れません。折角蹄つ七
衆く可愛いゝ我子の顔も見、孝行もされましたあ母椋は、悲しい別れの後は欒tかつ溌
思出む胸に抱いで、鶉年かの後には叉蓬ぶ時もあらうと思以つ〜毎日週しく居られまし
∵たが」健げな母君は決しく女らしく悲しんで計らは居れらませんで、あの子にはあの子
の仕事が澤山ありく、牡の為、人の為に立沢な仕事をしく呉れゝば私は何よらも満足だ
と子の心を自分の心としく老年の淋しさも忽ばaとしく居られ普した_米圃に蹄つた博
士がチブスに碑つたといふ事を閲いた時には、ト日夜信心しく居る観音棟鋲守棟・へ自分の
命にかへで博士の命の助かるやう水どらをとつく漫新らした至誠が通じたのか、手厚い
肴護旬とゞいくさしも意性のチブスも仝快したと申し・嘗す。乙れが博士の四十二歳の時
で厄年といふので、あ母棟はご暦心配されたと申します。
大正七年十十月に月本で流行性戚冒が流術した時に此日本に俸大なる天才、世界的の
畢者を胡した、倣に嘗れなるあ婆さ人は六十六歳を山期としく遂に一生を絶ら普した。博
士は此知らせをう竹とつた時どんなに悲しく心淋しく恩はれせしたらう。惇士は蹄米後
も祁鮎ちず;ク人ラト桝究斯七最高の斯貝として畢み桝究朗′の賓としく奪重され七
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居られましたが・メキシコに蚊の大群が磯生しく黄熱病が大流術したの・で、メキyコに渡
りく研究し、翌冬南米のぺルーにも参阜せしく病原菌の蜃見やら血清にょる撲滅やらを
計ら名容博士の稀乳を樽まし宅或年アフaカにある黄熱病菌が惇士の教見したのとは
逢つて従つて今迄の博士の蜃明のり久チンも効を奏旦夜いといふ事をnクヘラー折
究斯へ言つ七衆たので、惇士は自身アフyカへ行つく研究しょうと速くアフクカ迄出か
けく街き官した0アライといふ所に英圃の研究所があつて到著の其臼から桝究に着手
され・嘗し允いアフソカの酷暑も何も忘れく病因の教見に倦V事を知らなかつたが、クタ
スマスの夜、研究所長のヤンギ氏邸に紹れた翌日教熱しくなか〈下らない、初めは労
れだと思つく居溌のが慈に入院し七軽い黄熱病である審が解つた。少しょくなるともう
研究にとらか〜つて病原歯を五種程教見し光ので1三−ヨークへ蹄つく自分の桝究
朗で研究しょうと思つく蹄米する乙とにして五月十月にラスゴといふ彪へ行つ七、ワ
ツクヘラー所貝に逢ふ用事の為に出かけ瀧時、急に恵褒をあぽえたので急いで蹄る途中、
運慈く劇しい敬雨に蓬つ溌ので、仝身濡れ鼠となつたので二簡病気が恵枇し、直に入院
しせし溌が」九日目に昏睦状態に陥ら、夢中で思帥小林先生を呼んだゎ、析究の事を口
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雲ねら、うは言畢云だノ\五十二豪でな」なられました。乙れが昭攣二年五月二十
三日であつた3うで御座い・嘗す。そし−て.乙れが臼本にも聞え七大に惜賓れ、動二等に叙
せられました○此の浄士毎子の】生は驚に、母の沫い変.張い忽耐、博士の天才的勉攣ち
努力、親へ孝術、思帥への報思、H本の名をせ界に輝し、種々病原を教見しく人頼の魚
に大なる京戯、な乙、箸に稀に見るよき蟹例であると存じ凛し乍水々皆椋のあ耳をわづ
らはせました。−
終らにのぞみまして−母のカといふ事は、眞心の結晶で御座い普t七、それが子にエ
つく衷現され乍その子が入の為、世の虜になつくはじめく母のカも怒められるので御
座いせす0をの役にだノ子女の}人∵人のカが札集まる時に固家の大なるカと怒ら、又
将衆には我囲家の絶カとも誉ノます。そ畑を考へ普す時、徹々牢る私共も嘩である暗、
子に封しで持つ偉大なるカを思以、圃家への膚任を軋思づ七子女を育つべきであると考
へせす。.
〔昭和一二ハ・六・一九〕