七生報復あるのみ

     情報局総裁 下 村  宏

 去月二十五日夜、帝都夜間空襲の始つた時、私は麹町の官舎にゐた。郊外の自宅にゐたのではいざといふ時に間に合はぬ、こゝなら総理官邸へ歩いて二十数分で馳けつけられるからであつた。その夜の空襲は大分間近く、前夜の文相や運相官邸と同じ方向に火が上つてゐる。正しく総理官邸附近であると思ひ、紀尾井町通りをかけつけたが、それは閑院宮殿下の御殿であつた。吹きすさぷ火の子の下を縫つて総理官邸に入つたが、火勢ひろがり日枝神社から日本政治会、技術院、外務省、大東亜省、旧情報局と火焔は官邸をとりかこみ附属の官舎までつぎつぎに業火に焼けうせた。
 午前二時頃、遂に恐れ多くも宮城炎上の報に接した。「只今は混雑してゐるから参内は遠慮するやうに」とのたよりであつたので、四時少し前に車の連絡もつき、鈴木総理大臣のお伴をして火煙の中を大内山へ向つた。二重橋広場より炎上してゐる宮城を仰ぎ、片あかりで薄暗くはつきりはしなかつたが、ところどころ宮城ををがんでゐる黒影を見て、いよいよ憤激に胸つまり涙をとゞめあへなかつた。
  私共は天機を奉伺し、宮相と会談の後、大宮御所に車を急がせた。竹橋から五番丁、半蔵門へかけ路傍に罹災の人々がつゞいてゐる。ところどころに横になり休んでゐる。さうした痛ましい光景を見ながら大宮御所までたどりつけば、御所は既に炎上し、余燼なほ消えやらぬ中に、御文庫に伺候して御機嫌を奉伺、恐懼して引き下つた。
 三笠宮御殿に伺候した時は夜ははや明けそめて、木立の下で親しく御機嫌を伺ひ、御言葉を賜ひ、恐懼感激しつゝ退下し、さらに秩父宮、伏見宮、閑院宮各御殿に奉伺して総理官邸に引き返したのであつたが、この間に次ぎのやうな感想が浮んだ。
 一日前の夜間空襲の時、麹町で空襲をうけたのは文部、運輸両大臣の官舎のみであつて、まさしく敵は国葬をとり行はせられる閑院宮御殿を狙つたとしか受けとれなかつた。此の度麹町の山の手一帯は手広く暁失したが、私の永田町へかけつける頃、先づ麹町に最初の火の手をあげたのは確かに閑院宮の御殿であつた。日本の武士道、日本精神、我々日本人の心持からすれば、連日東京を空襲するにしても、国葬の時は遠慮してさし控へるといふところである。それが国葬をとり行はせられるといふので閑院宮御殿を狙ふといふのは見下げ果てた卑劣な根性である。彼等はかういふことによつて戦ひに対する日本国民の士気を沮喪させ得ると勘ちがひして非人道暴爆を敢へてしたのである。
 今までも敵は病院や学校などを随分と盲爆した。住居地帯の浅草観世音も焼いたし、木立の中に囲まれた池上の本門寺も焼いた。大阪では四天王寺、神戸では湊川神社、今度の空襲には高輪の泉岳寺、東郷神社、今朝私は立退先より乃木神社へお詣りして、これ又業火の為め焼かれあるに胸が打たれた。
 伊勢の神宮、熱田神宮、遂には宮城、大宮御所まで相次いで炎上した。明治神宮には私は炎上の直後首相にお伴して参拝したが、あの代々木の森に千発近い焼夷弾の筒が積み重ねられてある。これほどはつきり計画的であることを証拠立てゝゐるものは無い。彼等の気持では、恐らくかうもすれば日本国民の皇室に対する忠誠の念が薄らぐ、神仏への信仰心もこはし得るものと考へてゐるに違ひない。現に最近には敵は大空襲をやつては、そのあとからくさぐさの宣伝ビラをまいたりして軍民離間を主とし盛んに謀略宣伝をやつてゐる。浅慮短見、失笑の外なしである。
 こんなことで動揺する日本国民ではない。戦災者はみんな復興の氣持で起ち上りつゝある。二度、三度、真つ裸になつて、ほんたうの力の盛り上りつゝある姿は、まことに逞しく、心強い限りである。敵が何といはうと、どんな手を打つて来ようとも、我々は憤激を新たにして、敵撃滅の一途に邁進するあるのみである。
 この気持でお互は引つゞき来るべき戦災を乗り越えて行くばかりである。戦災に勝つのが戦ひの道である。私が特にお願ひしたいのは、直接戦災を蒙つてゐられない地方の方々が『戦災をうけた方々の穴うめを自分たちでやるのだ』といふ気持でますます馬力をかけ、今何よりも大事な飛行機と食糧増産に総力を集中強化することである。沖縄の戦ひ、これについで来るべき戦ひ、それには一にも二にも飛行機である。飛行機、それに伴ふ数多くの附属品、それらを仕上ける資材、その運送、一片の石炭も燃料も、一塊の※も爆薬にと思ひ廻せば、さうした戦ひの為により急なる方向に役立つべくお互の人や物の運輸はどこまでも遠慮したい、差控へたい。さうして積極に消極に兵器と食糧の増産に集中強化されたい。
 湊川神社の炎上を耳にした時、大楠公が誓はれし七生報国の詞がひしひしと胸によみがへつて、私は次ぎの歌をよみ、口ずさみつゝある。

  湊川業火のあとに人みなは
       ともに誓はん七生報復を

        (六月一日)