思想戦と教育


英国の植民地教育

 戦時における思想戦の重点は、国民の戦意を挫くこ
とにあるから、敵はあらゆる機会を利用して戦争を忌
み嫌ふやうに仕掛けて来る。平時においては、出来る
だけ無用の敵を作らないことが、戦争の場合を考慮し
て自国を利するに足る国を随所に作ることが重点であ
る。従つて政治的に支配し得る地域とか、国家に対し
ては、反感を助長しないやうに配意すれば、相当に身
勝手な措置さへ講じ得るのであつて、今までの欧米諸
国の植民地に対する諸政策は、その著るしい例であ
る。
 ところが相手が独立国である場合には、余程慎重な
用意が必要になつて来る。いはゆる親善関係といふも
のは、この点からいつて、よく吟味しなければならな
い。欧米諸国が外国に臨む場合は、まづ得意の武威を
示して圧迫し、武威に屈すれば政治、経済上の権益を
要求するが、どんなに政治的、経済的に支配体制を強
化しても、民心が動揺したり、離反したのでは、支配
力を久しく継続することは出来ない。
 そこで、必ず教育に着目し、必要に応じて、或る場
合には文盲者を作ることに主力を注ぎ、或る場合には
親切ごかしで、自国に都合のよい頤使に甘んずる人員
を要成するやうな教育を積極的に実施する。
 例へば、イギリスがインド統治を強化するに際し、
上流層にイギリス流の教育を実施してゐると揚言しな
がら、実情は驚くべき多数の文盲者を作つてゐるなど
は、最も顕著な事例である。伝ふるところによるとイ
ンドの文盲者は、全インド人の九割以上を占めてを
り、しかも上流層に対する教育は、インド人に自信を与
へ、実力を賦与するものではなく、インド人がインド
を軽んじ、自国の下層民を蔑み、イギリスを尊敬する
やうな内容のものであつた。
 大東亜戦争後、インドに叛乱が起つてゐるが、それ
がはかばかしく進展しないのは、多年に亘るイギリス
のインドに対する教育の成果に他ならない。教育を通
じて行はれる思想戦の効果を雄弁に物語つてゐるもの
といへるのである。

米国の対支教育政策

 これと趣を異にする例は、アメリカの対支教育政策
である。周知のやうに、アメリカの建設には支那の
苦力(クリー)の労力が大なる貢献をしてをり、特に大陸横断鉄
道の建設の労力は、大部分支那の苦力であつた。未だ
イギリスの植民地であつた頃から、アメリカの労働力
の主要部分は白人ではなかつた。
 南部の農業建設の主力をなしてゐたものは、アフリ
カから奴隷船で輸入されたニグロであつたが、南北
戦争後、奴隷の使用を禁ずべしとの思想が強くなり、
自然と奴隷を購入できなくなり、香港から苦力を多数
移入せざるを得なかつたのである。
 かやうにして支那苦力の移任者が増加すると、困る
のは白人労働者である。低い生活に甘んじて昼夜の別
なく勤労する苦力には到底対抗すべくもなく、こゝに
支那人排斥の声が起り、次第に苦力の移住を制限し、
遂に全くこれを禁止するに至つた。明治十八年、ワイ
オミング州ロックススプリング鉱山において、白人労働
者達が賃金値上げの争議に支那人労働者を引き入れよ
うとして失敗し、何の罪もない支那人等を虐殺し、
財産を掠奪した有名な事件があるが、これは右に述
べた支那人排斥問題に連なる出来ごとである。
 このやうに、アメリカは支那人を迫害したが、一面
対支貿易の将来には非常に大きな関心をもつてゐた。
既に支那には相当数のアメリカ人が居住して商事に従
事し、支那貿易の有望であることが彼等から報告され
てゐた。このやうな事態に処するために、アメリカと
しては、支那人排斥が至当であるとの理屈をつくり、
一方、支那人の好意を得る機会を窺つてゐた。
 日清、日露の戦争に際して、駐支アメリカ使節は、
機会ある毎に支那人の心を把へることに努め、日露戦
争後は個人的にも、国家的にも、満洲の利益、殊に鉄
道利権の獲得に狂奔し、日本の精力伸張を喜ばぬ支
那の政治家と提携して、日本を非難し、アメリカに知
己ありとの観念を、次第に支那の知識人に植ゑ付ける
ことが出来た。
 しかしながら、かやうなことによつて生ずる親善関
係は、双方共にいはゞ損得づくから出たものであつ
て、一旦利害を異にすれば、一朝にして崩れ去る底(てい)
ものに過ぎない。しかも、大東亜戦争直前まで根強く支
那人の心に植ゑ付けられてゐたアメリカ人に対する親
善観は、このやうな相互の利害関係から生ずべくもな
い。近時の米支両国間の親善関係は、まことにアメリ
カの対支教育政策に負ふところのものといはねばなら
ない。
 即ち明治三十三年、北京に起つた義和団事件(団匪
事件)の結果、アメリカは莫大な賠償金を要求し、支
那政府は年々多額の費用を関係諸国に支払つてゐた。
アメリカの議会では、早くからこの問題を取り上げ、
賠償金を一旦、支那に返還し、支那政府に青年の教育と
アメリカ留学とに使用させよとの主張があつたが、機
熟して明治四十一年、遂に賠償金の返還を議決し、以
来この費用によつて支那国内の教育は勿論、留学生教
育もまた著るしく盛んになつた。アメサカの財閥中、
屈指の一人ロックフェラーも、尨大な資金を投じて学
術・教育・医療等の奨励助成に力を致し、その後久しか
らずして、支那の学校教育は全くアメリカ式になつた
のである。

思想戦と教育文化施設

 アメリカには豊かな富があるから、金にあかして壮
麗な学校や病院、図書館、博物館等を作るのは容易で
ある。そして、お手のものゝ機械的な、分り易い方法
で支那の青少年を教育し、優秀な学生を選択してアメ
リカに留学させ、享楽的な物質文明によつて完全に魅
了することが出来た。これ等の文化施設が、いはゆる
企業的に経営されたのでは、支那の青年と雖も直ちに
その腹を見透したことであらうが、在支文化施設は教
会と不可分の関係にあり、教育者なども、一流の人物
であるとはいへないまでも、少なくとも中以上の学力と
教養とを具有するものであつた。従つて接する支那青
年に好感を与へ、尊敬の念を抱かせたのである。
 このやうな文化事業に一層効果のあつたものは、教
会の慈善事業以外にも准河の治水、阿片禁輸に対する
同情、排日運動に対する支援協力である。中支にしば
しば大打撃を与へる准河の氾濫を救ふ計画を樹てて、
数度に亘つて大調査団を派遣したり、国際会議の席上、
支那代表の阿片禁輸を是認し、これを激励したこと
は、実質以上に支那の知識人を感激させたのである。
また第一次欧州大戦当時、日本の対支政策----いはゆ
る二十一ケ条要求----を悪し様に宣伝したことも、い
たく支那側を喜ばしたのである。かやうな政治的、宣
伝的施策もなく、単に教育を行つただけならば、恐ら
くは支那民心に大して喰込み得なかつたであらうが、
アメリカのこの配意は、まことに有効であつた。
 元来、本国に物資の少いイギリスは、最も大きな期
待をかけてゐたアメリカが独立した後は、専らインド
統治に集中し、何としてもインドの物資を確保しな
ければならないから、アメリカの対支政策とは、政策
重点に自ら異るものがある。イギリスはインドの独
立運動に対して常に警戒し、教育上、特別の工夫をし
なければならなかつたが、アメリカは無制限に支那人
の独立心を奮起させることが出来た。
 支那四億の民衆を政治的に縛つて、産業を通して搾
取する体制は、既にイギリスが完成してゐるのである
から、アメリカとしては、同様の方法で支那に進出する
訳はない。むしろ支那人がアメリカに頼つて、イギリ
スの半植民地状態を離れて活動することが望ましいこ
とであり、彼等の生活が豊かになれば、アメリカの商
品市場として、また原料資源の供給地としてますます
好都合である。こゝに学校以下の各種の文化施設によつ
て支那人を啓蒙し、キリスト教育年会を中心にスポー
ツと映画とを普及して、享楽的な自由主義思想を伝
播する地盤を作ることが、アメリカの対支思想戦の狙
ひであつた。アメリカ勢力の滲透を阻止しようとする
日本が、しばしば支那と事を構へ、イギリスと並んで
排斤の的となり始めたことも、アメリカにとつては却
つて好条件を加へたに過ぎない。中国共産党が優勢に
なつても、それが日本に対する圧力となれば、却つて
幸せであるといふのがアメリカの立場であつた。
 このやうにアメリカは、支那に対して好意を売る機
会に恵まれてゐた上に、年収数億に上る煙草会社の英
米トラストがあつたから、教育資金をアメリカから持
出す必要は更にない。ロックフェラー資金も団匪賠償
金も大して腹の痛む金ではないから、思ひ切つて贅沢
な施設をすることが出来たのである。
 新中国建設の中堅的人材の養成機関である武漢大学
の設計とその運用とは、全くアメリカ流であつて、こ
こに支那の教授や学生の姿が見えなければ、支那の大
学とは思へない程の代物であつた。国立清華大学も、
元来はアメリカの大学で、対支文化政策の基地であつ
た。支那の各地に見られる立派な建築物は、アメリカ
系の大学か病院であつた。在支アメリカミッショソの
数は、五十余、アメリカ系大学、研究所、図書館を列
挙すれば、北京に燕京大学、輔仁大学(米独共同)、北
京協和医学校、国立北京図書館、哈佛燕(ハーバート)京学社、静生
物調査所、済南に斉魯(せいろ)大学(米英加教会共同)、上海に
聖約翰(セント・ヨハネ)大学、滬江(こかう)大学、上海女子医学院、聖約翰大学羅
氏図書館、蘇州に東呉大学、杭州に之江文理学院、南
京に金陵大学、金陵女子文理学院、武昌に華中大学
(米英教会共同)、文華公書林、福州に華南女子文理学院、
福建協和大学、広東に嶺南大学、成都に華西協会大学、
蒙疆の張家口に米国美普会図書館等があり、成都、福
州のもの以外は、いづれも大東亜戦争勃発後、皇軍の手
に接収された。このうち燕京大学の一部は、既に北支
那開発株式会社の調査部が利用し、南京の金陵大学
には国民政府の国立中央大学が移転することになつ
た。
 かやうに、主要な教育文化施設は、アメリカの基金
とアメリカ人によつて経営された結果、中国の知識層
には数多くの親米論者、アメリカ崇拝者があり、重慶
の要人その他の中堅人材の大多数は、アメリカの息の
かゝつた人々である。このやうにして民心を把へた結
果、アメリカの経済力は急速に支那大陸に延び、大東亜
戦争以前には、イギリスの地盤がアメリカに移りつゝ
あつたのである。教育を通じてのアメリカの思想戦
は、特に支那大陸において活溌であり、その成果もま
た著るしいものがあつた。特に積極的になつた明治四
十一年以来すでに三十五年、支那の民衆はアメリカの
思想戦に完敗しながら、未だに感謝の念を去り得な
い実情である。かやうな心境にある中国人を相手とし
て、新秩序の建設を進めねばならぬ我が国民は、以上の
事実を銘紀すると共に、内に自らを反省し、如何にし
てこの難題を解決するかについての心構へを作らなけ
ればならない。

我が国に対する敵の教育謀略

 以上、教育即思想戦の例として英領インドと支那に
おける教育について述べたが、これはわが国の教育の
中にインドや支那のそれと相通ずるものがあるか否か
を検討する資料を提供するためである。勿論、わが国
はインドや支那のやうに米英の侵略は蒙らなかつた
し、国家が米英の資金に頼つて教育を行つたこともな
かつた。仮りに教育の内容に相通ずるものがあつたと
しても、それは決してインドや支那におけるやうな無
自覚、無内容の結果、さやうなものに依存したもので
は断じてない。わが国の場合は、欧米の侵迫に備へ、
彼の武器を積極的にわがものとしようとする旺盛な精
神から自主的に輸入し、採用した
のである。
 しかしながら、このやうな積極的な向学心は、米英
にとつてまことに好都合であつた。心身に満ち溢れる
積極的な意慾と、革新的な精神との前に平坦な道を作
り、美しい整頓した目的地を与へれば、勇躍その道を
邁進し、彼等の欲するところに導くことが出来るから
である。明治初年の学校制度、教育方法、教科内容を
回顧すると、教育的、文化的侵略を招来する隙がな
くはなかつたのである。幕末の遣欧使節に随行した青
年が、その師匠に送つた書翰の中に、香港におけるイ
ギりス軍の整備した姿に一驚したことや、ロンドンを
始めとして各国の都市で各種の文化施設、工場、兵器
製作場を見て、井蛙(せいゐ)の歎を発したことが記されてゐる
が、欧米文化に対するかゝる認識は、一面において国
民の或る者をして大いに発奮せしめ、国力の充実に挺
身させたが、他面において欧米崇拝の風潮をも馴致
させたのである。
 欧米の功利主義、自由主義がこゝに地盤を得、教育
において国典、経書、忠臣賢哲の伝や、武芸等による
修練よりも、洋書を学ぶ方がより高く国家に益するも
のであるとの観念が植ゑ付けられた。
 明治十七、年当時の鹿鳴館をめぐる上流層の風潮
などは、今日からすれば、如何に手段とはいへ、正気の
沙汰とは考へられない。教育の先覚者を以て任ずる者
の中にも、日本人の伝統的な考へ方によつて欧米の学
問技術を検討するなどといふやうな、自主性を全く欠
き、ひたすらそれに追随し、欧化主義に堕した者が少
からず生じたのである。その結果は、教育界、思想界
に名状できない思想的混乱が生じたのである。
 この時に当つて渙発されたのが、畏くも教育に関
する勅語であり、これによつて我が国の教育、学問の
大道は明示され、教育の趨向(すうかう)も大いに改められたので
ある。しかしながら、前からの欧米思想追随の流弊
は、全く跡を断つには至らなかつた。国の安危をかけ
て戦ひ抜いた日霹戦争の頃までは、このやうな傾向も
実際問題としてさしたる不都合を生じなかつたが、そ
の後、満洲事変までの間は、なべて平和が続き、第一
次欧州大戦の際などは、英米仏等、いはゆる聯合国側
を助け、戦勝国の側に立ち、日清、日露戦争当時、国
内に漲つてゐたやうな国家意識は影を没し、米英の
唱導する民主主義、国際主義を以て進歩なりと思惟す
るやうになつた。
 かやうにして、その後の思想界は、急激に欧米化す
るに至り、アメリカニズムが氾濫し、戦後の反動によ
つて経済界に失業者群が増加するや、社会主義、共産主
義思想を抱くことが進歩的であるとする風潮も生じ、
混沌たる思想状態の中に彷徨すること数年に及んだ。

久しい間、欧米流の学問を学びつゝあつた学生層は、
よりどころたるべき日本の伝統を忘れ、昔の国家の重
きに任ずる書生気質は変じてアメリカ流の享楽的な学
生気質となり、一見明朗な学園風景が出現したけれど
も、祖先から言ひ継ぎ、語り継いだ精神は殆んど全く
青少年に伝へられなくなつた。欧米流の学問に精通す
るものは優秀な学者と謳はれ、わが国の伝統を保持し
ようと努力する学者や教育者は頑迷固陋と捨て退けら
れたのである。
 しかも、この学問たるや、学問のための学問、真理
のための真理などといふ考へに支配され、具体的、現
実的地盤から遊離し、国家や社会に対して冷淡な破壊
的批判をなすことが、恰も歴史や国家を超越する学問
の聖なる使命であるかのやうな謬想さへ生じた。
 このやうに、一般に学問、殊に文化、科学等の性格
は、建設的、協力的でなく、破壊的、分裂的となつ
ただけでなく、諸国、諸民族の盛衰興亡の跡や現勢を
教へて、日本の世界史的使命を諒解させるための歴
史、地理等の学問すら、主体性を欠いて、立場を欧米
に置いた方法に倣(なら)つたために、世界についての知識は
豊富になつたが、これに対し日本人としては、如何な
る判断をなし、如何に対処すべきかといふ確信や実践
は養はれなかつた。
それだけでなく、雑多な知識の集
積は、かへつて人をして混乱と実践回避とにさへ陥
れた。
 大正中期以後の我が国の教育、学問、思想、文化の
性格は、混乱であり、低迷であり、さらにつきつめて
いへば、歴史性、国家性を失ひ、自我功利と米英追随
に終始する国際主義に堕したとさへいへるのである。
このことは結果的にみれば、米英の思想戦的侵略を甘
受したものに外ならない。
 しかし満洲事変によつてわが国の使命を認識し、支
那事変に当面して欧米諸国の思想戦の実態を知悉し、
徐ろにわが国の教育の実情を反省し、建て直しする機
会を得たことは、非常な幸せであつた。このことなく
して直ちに大東亜戦争を迎へたならば、恐るべき混乱
状態に陥り、米英の思想謀略にうまうまと乗ぜられた
かも知れない。

皇国教育の覚醒

 教育には家庭教育、社会教育、学校教育と称せられ
る分野があるが、わが国近時の状態をみるに、いづれ
の分野にも欧米風の影響があり、殊に都市においては
この傾向が強い。従つて思想戦の戦場は極めて広く、
その方法も頗る多いのであるが、今日までの教育を
回顧して最も憂ふべきものは、いはゆる家庭教育と
社会教育の面である。学校教育の改革が必ずしも容易
であるとはいへないが、過去の誤謬に気付けば、直ち
に相当程度の刷新を加へ得る。ところが別段の監督を
受けることもなく既に考へがかたまり、習慣が出来
てしまつた人々が営む家庭生活と社会生活とを建て直
すことは、学校教育に比較してより困難である。あた
かも学校教育の改革に際して、改革の障碍が教育者の
過去の教養と習慣とにあるのと同様である。
 勿論、この三つの分野は、截然(さいぜん)と区別し得るもので
はなく、相互に深い関係を有するが、学校教育の場合
は、学制、学科内容に手を加へ得るし、教育者の再教
育も断行しようとすればさして困難ではない。
 思想戦をして真に効果あらしめるためには、まづ国
民的伝統と国民的信念とを育成する礎地たるべき家庭
教育を改革しなければならない、この点から女子教育
は、最も警戒されねばならない。大東亜戦争以前、さ
らに支那事変以前のわが国の女子教育の実情をみる
と、中等学校以上の学校で、著名なものゝ多くは、外
国のミッション系であつた。外国の直営ならずともミッ
ション系であれば、多少とも外国人に繋りをもつこと
はいふまでもない。支那の大学が英米その他の外国の
教会に直接、間接に深い関係をもつてゐたことは先に
述べた通りであるが、わが国のやうに国家的思想が旺
盛で、常に国家の体面を重視する国においては、男子
の学校に手をつけることは因難である。尤もかなりの
数の教会関係の学校がないではないが、必ずしも素質
優秀な学生をこゝに集めてゐるわけではない。
 ところが女子の学校においては事情を異にする。由
来、わが国においては、婦人は家をおさめることを本
分とし、徒らに世の中に出ぬ習慣があるから、政治や
外交等には自然と関心が希薄である。日常生活、衣
食住の問題、子女教養の問題が、わが国の婦人の持つ
関心の大部分である。女子教育としては、この伝統に
立つべきである。ところが、過去の例が示したやう
に、ミッション学校式教育は、家庭よりも社会、伝統
よりも自由、夫唱婦随よりも男女同権といふやうな
教育方針がとられ、従つて、そこに営まれる学園生活
は華やかで、自由な趣きがあり、婦女の憧憬をそゝる
ものがあつた。学資に恵まれてゐる上流の婦女が、競
つてミッションスクールに学ぶ風が一世を風靡し、す
でに親子二代を重ねてゐるものもある。
 そして学園生活の間に最優秀の生徒となるものは、
最も外国人に近い生活態度を習得し、外国語に堪能な
ものであるから、夢多く思慮未だ浅い子女が、競つて
欧米流に倣ふのは当然のことである。こゝに浅薄な欧
米崇拝の思想が養はれ、家に帰り、他家に嫁いだ後
も、一意、欧米の風に模することに努めて今日に及ん
だのである。合理的生活、夫婦愛中心の生活、享楽的
生活、総じていへば浮薄な、いはゆる文化生活は、先づ
上流家庭の風をなし、次第にこれが一般にも及んだの
である。
 元来、上流家庭にはよき日本の風習があり、祖先の
栄誉が子弟教育の教材として存在してゐるいのであ
る。それが新らしい教育を受けた主婦によつて鮮かに
捨て去られ、家庭の雰囲気は欧米流とない、祖先崇拝の
如きは軽んじられ、教育の材料は専ら外国に求められ
ることになつたのである。古き日本のよさを体得して
ゐる婦人が生存する間は、新旧思想の葛藤といふ形
で、とも角も欧米化の奔流が或る程度は阻止されてゐ
たが、その数の減少と共に、日本の伝統は子供の教育
とは無縁のものに成り果てたのである。感情的に直感
的に、祖先の魂を継承すべき筈の幼少年時代が以上
のやうな環境であり、学校教育、社会教育もまたこれ
と相去ること遠くないとすれば、真の日本魂は一体い
つ錬磨される
のであらうか。
 政府が学制改革と共に女子教育の改革と取り上げ、
さし当り正課に英語を課すことを廃止したのは、以上
のやうな宿弊を改めんがために他ならない。一部に
はなほ英語の習得を教養と考へ、政府当局の意の存す
るところを解しないものがあるが、思想戦と教育との
関係を省察すれば、かやうな謬見は次第に消滅するで
あらう。映画、ラジオ、新聞、雑誌、講演、運動競
技、演芸等もまた思想戦と教育の関係を考へる上に重
要な部面である。
 以上述べたやうに、教育を通じて行はれる思想戦
は、極めて徐々に進行するので、その結果に気がつい
た時は、既に戦ひはかなり進んでをり、これを一挙に
建て直すことは困難である。教育の刷新に対してはい
ろいろと尤もらしい反対のあるのは当然であるから、
革新の重点が何であるかを憤重に検討し、これがつき
とめられたならば、断乎として所信を貫くべきであ
る。政府は教育年限の短縮、語学教育の革新、教科書
の改訂に主眼を置き、目下鋭意これが完遂に邁進して
ゐるが、一億国民がこの真意を解して協力しなければ、
実施上いろいろ摩擦の生ずることはまぬがれない。思
想戦の実情を省みずに、徒らに現状の維持のみを考へ
て躊躇し、逡巡するものが多ければ、人材の養成は
それだけ遅延し、延いては大東亜戦争の完遂に支障を
生ずるのである。
 外国の思想戦に乗ずる隙を与へないためには、国民
一人残らずが皇國民としての自信と力量とを錬成し、
皇國民の世界史的な使命を明確に把握しなければなら
ない。そしてこの目的を達成するには、教育内容と教
学体制とを速かに刷新しなければならない。