思想戦読本 5
思想戦と科学
近代科学と欧米的思想
科学の振興が国運の発展上に極めて重要であること
は言ふまでもないが、良薬もその処方を誤ると却つて
害になるやうに、科学も国民がその本質を正しく理解
して、各々の立場に即してこれを正しく活用するや
うに心掛けねば、思はざる害を蒙るといふこともあり
得るのである。殊に従来の科学には舶来の物が多いの
で、うつかりそのまゝ呑み込むと、われわれの気質や
体質に合はなかつたりして、折角の良薬が思ひがけな
いいろいろの中毒症状を引起すことがあるから、こ
の点大いに注意を要する。しかるに、現在わが国には
この種の中毒に罹つてゐる人が少くないのである。こ
れは、要するに、近代科学の健全な本質と、それにま
つはりついてゐる欧米的近代思想とを峻別して、科
学をわが国の国柄と国民性とに適するやうに処方し直
す努力が、従来とかく欠けてをつたためである。
近代科学の偉力に眩惑されて、ついうつかりその外
面のきらびやかな欧米的粉飾を科学そのものと思ひ
誤るならば、この偉大な近代科学の成果を自家薬籠中
のものとして活用し、発展させることが出来ないだけ
でなく、遂には自分の大切な魂さへも失ふ虞れがある
のである。現に過去数十年に亘り、米英が日本や支那
に対する思想的侵略の有力な武器として、科学を----
理論的研究たると応用方面たるとを問はず----利用し
て来たことは、既に多くの識者によつて指摘されてゐ
るところである。こゝに、日本人として科学を正しく
把握するといふことが、思想戦上忽(ゆるが)せに出来ぬ問題と
なつて来る理由があるのである。
幸ひ、大東亜戦争の勃発以来、科学の米英的臭味(しうみ)を
完全に一掃して、日本人の赤心によつて科学を神技に
等しい域にまで高め得た業績が、前線に銃後に続々と
現はれつゝあるのは頼もしい限りでるる。我々はこの
際、一層汚れなき赤心を以て科学の真諦(しんたい)を明らかにし、
これに日本的な生命を賦与するやうに努めねばなら
ぬ。かやうな意味において、思想戦上、注意すべき二、
三の問題について解説を試みよう。
科学研究と国策
最近、研究の統制といふことが世論に上りつゝある
が、これに対して、「科学の研究は統制を加へない方が
效果を挙げる」といふ説をなす者が少くない。即ち「統
制を加へると、各人の創意を自由にはたらかせること
を妨げ、独創的な研究が出なくなる」といふのであ
る。だが、果して創意といふものは、個人的な興味心
によつて生れるものであらうか。
個人的な興味が動機で始つた研究から、有意義な
結果が生れることも無いではないが、それはむしろ偶
然であつて、真に偉大な独創的な研究は、多くの場合、
熱烈な愛国心や社会人類のためを念ふ真摯な宗教的人
生観を以て一生を貫き、一身を研究に捧げた人に多い
のである。また、たとひ個人的な興味から独創的な着
想が得られたとしても、これを真に意義ある研究とし
て実を結ぶに至らしめるには、個人的な興味心などで
は続くものではないのであつて、もつと高い境地に
立つた真剣な努力が必要なのである。
個人主義的・自由主義的心情によつてなされた研究
は、一寸考へると如何にも各人の創意が活(い)かされてゐ
るやうに思はれるが、事実は正に反対であつて、卑俗
な物慾や功利に走るか、或ひは真理のための真理など
と口に美しいことを唱へながら、実は学界の流行を追
ひ、すぐ論文になりさうな問題のみを漁るといふやう
な浅間しいことに陥り易いのである。
そもそも創意とか独創とかいふものは、単なる思ひ
つきや小器用さのことではない。それは一貫した旺盛
な探求の意欲を以て、一事に没入することによつては
じめて生れるものである。従つて、創意や独創を云々
する時に大切なことは、この意欲が如何なる動機によ
て起り、如何にして維持されるか、といふことであ
る。個人主義的人生観に禍ひされてゐる米英人におい
ては、この意欲が個人的欲求の自由性に基づくと解釈さ
れてゐるからといつて、日本人の場合もさうであると
考へねばならぬ理由は毫もない。米英人の場合でも、
真に時代を動かすに足るやうな偉大な独創的な仕事を
した人々は、超個人的な高い心境においてその仕事
に没入してゐることは既た述べた通りである。
ありがたいことには、わが国には、「君国のために」
と念ずる時、他の如何なる動機も超へて、これに挺
身せんとする意欲が湧き上つて来るといふ、国民精神
の伝統が流れてゐるのである。われわれが我々の創
意、独創の根源をこゝに求めてこそ、真に世界に冠絶
する日本科学を創造することが出来るのである。大東
亜戦争の輝かしい戦果の蔭には、兵器の研究や製造
に、戦略の工夫に、兵站や衛生の整備に、輸送の計画
に、君國のためと念じて挺身没入する幾多の人々によ
つて齎された偉大な創意が充ち溢れてゐることは、
誰しも知るところである。
かやうに考へて来ると、研究の統制に対する考へ方
も自ら変つて来ざるを得ない。若し盡忠報國の念に燃
える研究者ならば、何々の研究がわが国にとつて絶対
に必要であると知つた時には、これに従事することを統
制とは考へずに、自らこれに挺身するであらうし、戦争
遂行上、物資その他の関係で研究に及ぼされる不便は、
敢へてこれを不便と思はず、自らこれを克服して、そこ
に創意を活かさうと工夫するであらう。
従つて、統制の仕方の適不適に対する批判はあり
得るとしても、統制そのものが科学的創意を妨げるな
どといふことはいへないことである。たとひ国家の
命令によつて従事する仕事であつても、その人がこれ
に誠心を傾けて一念没入するならば、そこに自由自在
な創意が泉の如く湧き出て来るのであつて、創意独創
の心境が自在闊達なものであるといふことと、創意
の動機が個人的欲求の自由にあるといふ愚論とを混同
してはならない。
純粋科学と応用科学
科学と国策との関係について、今一つ最も議論の種
になり易いのは、実用的な応用技術方面と、純粋な
学理的、基礎的研究とのいづれが大事であるかといふ
問題である。次ぎにこの問題を検討しよう。
勿論、目先の效果や末梢的なことに眼を奪はれて、根
本的なことをおろそかにしてはならぬといふことは、
科学の振興のみならず、あらゆる場合に通ずる真理で
ある。その意味からいへば、学理的な研究を応用的方
面よりも重視しようとする意見の方が正しいやうにみ
える。しかし、何が根本であり、何が末梢、目先のこ
とであるかを十分検討しない内は、かやうな速断は許
されない。
なるほど、科学を演繹的体系に整理してみれば、学
理的な研究が基礎的、原則的な位置を占めることにな
らう。従つて、科学の論理的、抽象普遍的な半面を
以て科学の本質なりと考へる者にとつては、学理的な
研究こそ基礎的であり、純粋であるといふことにな
る。整理された教科書式の書物の記述などのみを通し
て科学を知つてゐる人々には、そんな感じがするのは
無理もないことであるが、それは謂はゞ科学の死んだ
姿である。常に新らしい研究の分野を発見し、また常
に人生と一体になつて生きて動いてゐを科学の姿にお
いては、さやうな単純な結論は許されない。
殊に、いはゆる純粋科学といふ言葉の中の純粋とい
ふ文字には、法則や公式が論理的にみて純粋な形で適
用できるといふだけの意味しかないにも拘はらず、あ
たかも、この方面の研究をする者だけが純粋な高潔な
気持を持つてをり、いはゆる応用科学方面の仕事をし
てゐる者は不純な功利主義者で、目先のことのみを追
つてゐるかのやうにいふ者もあるが、これは大変な誤
りである。学理的研究にも、末梢的なものもあれば
動機の不純なものもある。また応用的な研究にも、新
らしい学理の発展の基礎になるものもあれば、動機の
純粋高潔なものもある。
たとひ電子や原子や宇宙などといふ、森羅万象の最
も根源と信ぜられてゐるやうな事柄を研究してゐて
も、或ひは病理の微に入り細に亘つた研究をしてゐて
も、学に志すといふことの根本義を忘れて、徒らに外
国の学界の流行に追従し、問題の目新らしさのみを
誇るやうであれば、これは目先に走つた功利的な態度
といはざるを得ない。
逆に、たとへば、農産物の品種を改良して冷害や旱
害から農村を救はうといふ一念に発し、その研究に一
生を捧げてゐる人があるとすれば、たとひ品種改良と
いふことは遺伝学の応用ではあつても、その人の研究
は根本的な純粋な研究であるといへる。かやうな研究
から、却つて従来の遺伝学の欠陥が明らかになり、新
らしい学理が発見されるといふやうな場合もあり得る
のである。また、造船術は力学の応用かも知れない
が、本当によい船形を造らうといふ研究が独創的な船
形を生み出し、力学の理論的研究にも飛躍的な進歩を
促すといふことになる場合があるのである。
或ひはまた、工場の一職工が、自分の使ふ機械や材
料を改良しようとして払つた苦心や、地方の篤農家
が、土質の改良や施肥法、耕法などの改良について、
体験を基として長年に亘り積み重ねた研究などは、そ
の動機は全く純粋であり、その中に科学の新らしい研
究分野を示唆するやうな独創的な着想を豊富に含んで
ゐる場合が少くない。
かやうに言つたからといつて、決していはゆる学理
的な研究が不用であるといふのではない。たゞ、学理
的な研究でありさへすれば基礎的であり、純粋である
といふ考へ方が、いはれのないことであるのを注意し
ておるに過ぎない。
いま例に挙げたやうな実際的な研究が成功し得るた
めにも、また、かやうな実際的な研究の独創的な着想を
発展させるためにも、それが学理的研究と緊密に結び
つく必要があることはいふまでもない。しかし、滅私
奉公の一念に発してその志を貫かうとする人ならば、
たとひ実際的な問題から入つても、その解決に学理的
研究が必要であると痛感すれば、敢然としてそれに必
要な勉強を始めるであらうし、また学者の真面目な研
究に敬意を払ひ、それを自分の研究にとり入れようと
心掛けるに違ひない。だが、これと同時に一方、学理
的な研究をしてゐる人々も、末梢的な机上の空論に堕
することなく、広く実際的な研究にも注目し、その中
から独創的な着想を掬み取つて、学理的研究に不断の
新らしい生命を与へるやうに心掛けることが必要であ
る。
以上、基礎的とか純粋とかいふ言葉の意味を誤つて、
実際的な研究をいやしめることの不要を指摘したので
あるが、この逆の場合もまた注意を要するのである。
即ち、国策的な工業方面の仕事をしてゐる技術者の中
には、学理的ないはゆる純粋科学方面の研究を軽視
し、自分達のみが国家的であるかの如く考へてゐる者
があるかも知れないが、これもまた大変な間違ひであ
る。自分の仕事がたまたま国策に役立つたといふこと
と、その人が真に国家意識に燃え、日本精神に徹して
研究に志してゐるといふこととは別である。
若し、盡忠報國の一念から或る研究に志し、長年そ
れに没入した結果が、実を結んで国策に役立つたとい
ふのならば、これは誠に尊敬すべきことである。或ひ
はまた、今までは大した国家的観念もなくやつて来た研
究であつたが、たまたま時局に際会して自分のやつ
てゐた研究が国策的な重要なものであることを訓(をし)へら
れ、それに感奮してこれに献身没入しようと決心した
といふのならば、これもまた立派な心掛けである。
しかし、若し、これまで営利的な気持や個人主義的な
態度で仕事をやつてゐた人が、たまたまその仕事が国
策に役立つたからといつて、自分の従来の気持や態度
を反省することなく、自分の仕事は国家的だから大い
に擁護して貰ふ権利があるなどと考へるならば、これ
は大変な誤りである。かやうな人は、愚にもつかない
空論を弄んで、何か純粋崇高な学問をしてゐるやうな
錯覚に陥つてゐる連中と好一対であつて、やはり純粋
と功利、根本と目先の区別がつうかぬ連中である。
いつ金になるか、いつその価値が認められるやうに
なるか分らぬが、国運の発展のためにはぜひ解決しな
ければならぬといふ至誠の一念から、超世間的な研
究に一生を捧げてゐる学者や、国策的に緊要で、成
功すれば国家的に素晴らしい利益は齎すが、それだ
けに精神的にも肉体的にも非常に苦しい研究に、全く
私慾を捨てて没入し、利益の分け前などのことは全然
念頭にない技師などの仕事こそ尊いのである。
彼等の研究には、どちらが本で、どちらが末だといふ
やうな区別はない。後者の研究が前者の研究を促す動
機となり、前者の研究が後者の研究を成功に導く契機
となつて、互ひに助け合つてゐるのである。
かやうに、生きて動いてゐる科学においては、学理
と実際とは一体になつてゐるのであつて、このことを
突きつめて行くと、結局は国家経綸の大本に立つて科
学を綜合的に把握し、国家と人生の本義に基づいて科
学の方向を正すといふことが一番根本であるといふこ
とになる。この根本が正されてはじめて、科学の個々の
知識や技術が本当に活かされるのである。この根本が
確立してゐないと、例へば、科学の進歩が却つて国民精
神の健全な伝統を破壊したり、体力や気力を薄弱にし
たりするやうな現象を生ずることにもなるのである。
また、例ぺば、わが国には年々風害、水害、地震等
の天災が起るが、これらに備へて山を治め、水を治
ね、さらに火事や敵襲にまで備へる遠謀深慮が平素か
ら十分めぐらされてをらねば、如何に建築や土木の技
術の進歩を誇つてみても、非常の際、全く役に立たな
くなるのである。工業技術の粋を集めた大工業地帯
も、地震、水害、敵襲等に対する考慮を欠いた無計
画、不用意のものであつたなら、非常の際、一朝にし
てその機能を喪失するであらう。かやうに科学の分科
した知織や技術の末のみに走つて、科学の綜合的な大
本を忘れたところには、科学の健全な発達はないので
ある。科学政策とは、かやうな大本に立つて科学の方
向を綜合的に指導することであつて。[ママ]単に科学の知識
や技術を振りまはす政策のことではない。
しかし、かやうに国家経綸の大本に立つて科学の方
向を正しくとらへることは、単に為政者だけに必要な
のではない。科学に従事する学者や技術者、否、いやし
くも科学を論ずる者の一人々々に必要なことである。
さうでなくては、科学の全体が有機的に関連し、一体
となつて国家経綸の正しい方向に働いて行くといふこ
とは望めない。「だが、科学に関係する者の一人々々に
かやうな高邁な識見を期待することは無理である」と
読者は考へるであらう。
しかし、実はそれは至極平明なことである。即ち、
すべての人が日本臣民としての至純な心境で科学を
考へさへすればよいのである。正しい国家観、人生
観を体得し、志を立て且つこれを貫かうとするとこ
ろには、自ら高邁な識見が現はれて来るものである。
かやうな志が立つてはじめて、如何なる学理がその
研究に必要であるかも決つて来るし、如何なる技術
がその計画に必要であるかも決つて来るのであつて、
単なる理論や技術や機械は死物に過ぎない。これらが
一つの志によつて統率され、正しく活かされてこそ意
味があるのである。また、創意や独創にしても、行き
当りばつたりの経験だけからは出て来ないことはいふ [ヽ]
までもないが、さうかといつて、既成の学理の枠の中
で理論を弄んでゐるだけでも出て来るものではない。
何かぜひ解決しなければならぬといふ問題があり、こ
れを飽くまで解決しようとして苦心するとき、今まで
の知識では追ひつかぬことが明らかになつて来て、は
じめてそこに新らしい研究の分野がひらけ、新らしい
学理が展開されるに至るのである。頭の中で何か今ま
でと変つた理論を作つてやらうなどとたくらむやうな
態度から生じたものは、独創ではなくで単なる小細工
に過ぎない。即ち、本と末、純と不純との別はその人
の態度や志や識見に存するといふことを忘れて、学理
的研究即根本、実際的研究即目先と速断したり、実際
的研究即国家的、学理的研究即非国家的と速断したり
するやうなところには、科学の健全な進歩はなく、独
創的な研究を期待することも不可能である。
科学と思想戦
以上の解説によつて、科学もまた帰するところは思
想の問題であるといふことが明らかになつた。我々
は、純乎たる國體観に立ち、大和魂を以て打ちつらぬ
かれた研究でなければ、日本の科学をして世界に先ん
ずるやうな飛躍発展は遂げしめ得ないことを知つた。
この大本を忘れたり、疑つたりしてゐるやうな研究は、
必ず末梢や目先の瑣事に走つたり、国家に大害を及ぼ
したりするのである。
ところが、かやうな至極当然な事柄がなかなか一般に
諒解され難いのは、近代科学の華々しい外面に眩惑さ
れて、科学の健全有益な本質と、それにまつはりつい
てゐる欧米的近代思想とを判別することがおろそかに
されてゐるからである。欧米的近代思想においては、
知と行とを分け、学問と国家人生とを切り離し、抽象
普遍的な論理の体系を求めることを以て学問の理想と
するのであるが、科学の知識が客観的であり、科学の研
究に分析的、論理的な方法が重要であり、科学の学説
が整然たる論理の体系の形をなしてゐるといふ表面的
な事実のみにとらはれて、かやうな学問観が正当であ
るかのやうに誤信してゐる者が少くない。しかし、科
学者の働きの結果として得られた知識や「科学者が研
究の際に用ひる個々の手段方法や、科学者の仕事の結
果を整理した論文や書物などと、生きて動いてゐる料学
の全体的な微妙な姿とは別である。知行を一如ならしめ、
科学を国家経綸の大本に帰一せしめる境地が根柢にない
ところには、科学さへも健全には育ち得ないのである。
そのところがはつきりしてをらぬと、いろいろな誤
りに陥るといふことは、既に前に十分に説明した通り
であるが、自由主義的乃至は国際主義的な考へを、客
観的、普遍的、且つ科学的な考へであると思ひ誤つた
り、批判者的、傍観者的な態度を客観的、科学的な態
度だと思ひ誤つたり、唯物的、便宜主養的な卑俗な合理
主義を以て科学的であると自惚れたりする人が少くな
いのは、みな近代思想の虜になつてゐるためである。
ヨーロッパにおいてさへ、ドイツやイタリアはこの
近代思想の病根を----種々の兇悪な社会主義的思想も
亦この近代思想の温床に生えた毒茸である----を払
ひ捨てようとして努力してゐるのであるが、我が国に
は、無比の國體を根基とする国民精神の伝統があるの
であるから、こゝに目覚めて純乎たる日本精神に立
還りさへすれば、近代思想の病禍を脱却することな
ど何でもない筈である。
ところで、この近代思想を世界に流布した張本人は
米英であるが、米英は、科学文明の華やかな産物や人
道主義の浅薄な感傷の蔭にこの近代思想の麻薬を忍ば
せて、彼等の手に乗つて近代文化の外面的な美しさに
魅惑されてゐる間に、知らず知らずに民族の魂を奪は
れ、民族の伝統と歴史とを忘れさせられて、遂には甘ん
じて彼等の植民地とさへなるやうに世界の多くの民族
を誘惑して行つたのである。支那やフィリピンやイン
ドにおいて、米英のこのやうな思想謀略が如何に深刻な
ものであつたかは、識者の斉しく認めるところである。
我が国においても、最近までは彼等のかやうな思想
的謀略にかゝつてゐた傾向がないとはいへなかつた。
田舎では健実な伝統の力がまだ十分に強かつたので、
それ程憂ふベき現象にまでは至らなかつたが、都会地
では誠に憂慮すべき状態にあつたといはねばならな
い。幸ひに大東亜戦争の大詔下り、湧然として盛上つ
た国民的自覚は、思想戦の方面においても次第にこの
米英の謀略を騒逐しつゝある。しかし、思想戦の根本
は自分の心にあるのである。われわれにして、至誠
殉忠の念に燃え、日本精神に徹し、こゝに立つて一切
を観じ且つ行ずるに非ずんば、表面の米英的思想を払
ふことは出来ても、それと同じ根は心の中に残り、他
日、第二、第三の米英的思想となつて芽を出す虞れがあ
るのである。特に科学観において、近代的学問観を乗
り超えた知行一体、物心一如の高い境地を求め、こ
れを国家の大本に帰一させるやうな絶えざる努力が必
要である。この努力を国民が忘れなければ、科学は我
我の新秩序建設戦における最も強力な武器となるで
あらうし、この努力を怠れば、科学は、物質的には国
策に責献しても、その反面に、依然として思想戦にお
ける米英思想侵入の温床をなすといふ虞れを免れな
いであらう。