大東亜戦争と思想戦 (下)
ヴェルサイユ体制の正体
第一次ヨーロッパ大戦は、武力戦的には一九一八年
(大正七年)に終つたが、思想戦的にはその後、長く戦
ひ続けられた。即ちヴェルサイユ並びにワシントンに
おける戦後秩序の建設は、米英仏の思想戦的勝利で
あつたし、戦後秩序の現状維持も思想戦として戦ひ抜
かれたのである。
米英仏は民主主義、国際主義の擁護を標榜して大
戦に勝ち、民主主義、国際主義を原理とする戦後秩
序を建設することを標榜した。従つてヴェルサイユ並
びにワシントン体制は、思想的には民主主義的、国
際主義的秩序となつたのである。民主主義、国際主義
は、強者の利己的支配たる専制主義、帝国主義に反対
するが、しかしながら、その反対する理由は、同じく
利己的動機にあるのであつて、それが利益の平等を主
張する所以は、同様に利己主義、対立主義にある。
この意味において専制主義、帝国主義と、民主主義、
国際主義とは、根本的には世界観を同じくする同質の
思想である。利己主義者の対立抗争は、結局において
強者の独裁に帰着すべきものであるから、民主主義、国
際主義は、専制主義、帝国主義に反対しながら、結局
は専制主義、帝国主義に転化する。米英の民主的議会
政治が金融資本の独裁となり、ヴェルサイユ及びワシ
ントンの国際主義的平和秩序が、米英の帝国主義支配
となつたのはそのためである。
米英仏が、ヴェルサイユ並びにワシントン体制の指
導原理として宣伝したものは、即ち国際協調主義であ
つた。米英仏は大戦に伴ふ戦争の恐怖を利用して、
反戦主義、反軍主義を宣伝し、国策遂行の手段として
武力を行使する方法に反対すると同時に、一切の国際
問題を、関係列国の協議または会議によつて解決すベ
き方針を提唱した。武力の行使に反対して、戦はずし
て彼等の主張が世界の輿論となれば、米英仏が独占し
てゐる国際金融資本は、ますますの威力を発揮す
ることになる。即ち「武力の行使を困難にして、資本の
圧力を強化し、以て米英仏の帝国主義支配を強力な
らしめよう」といふのが、彼等の真意であつたのである。
さらに協議外交、会議外交といふことも、民主主義
的議会政治と等しく、自由、平等といふその形式に拘
はらず、実質的には強者の独裁、即ち米英仏の帝国
主義支配以外の何ものでもなかつた。大国といはず、
小国といはず、一律に一票づゝを所有する国際会議に
おいて支配するものは、正義でもなく、条理でもなく、
経済的な、従つて政治的な強大国家の意思なのである。
世界の諸国は、その殆んどすべてが経済的に米英
に依存し、政治的にこれに隷属してゐた。かくの如き
依存関係にある国家、隷属関係にある国家を集めて、
協議を行ひ、会議を催すのであるから、その決定が
米英の意のまゝとなるのはいふまでもない。この意味に
おいて国際聯盟は、これら帝国主義国家の現状維持機
関となり、いはゆる四ケ国協定、九ケ国条約は、支那
およぴ太平洋における日本の活動を抑圧する機構とな
つたのである。
たゞ、こゝで注意しなければならないのは「フラン
スの立場である。フランスは第一次ヨーロッパ戦後は
決して恵まれてゐなかつた。ヴェルサイユ体制の主役と
なつた米英とは寧ろ利害が対立することもあつたが、
イタリアとの対立といふ関係もあつて、米英に利用
され、同調させられる結果になつたのである。これ
に反して、イタリアは、フランスに対立し、延いては
米英体制に反撃してドイツと結ぶに至つたのである。
ヴェルサイユ条約における軍事条項、ワシントンお
よびロンドンにおける海軍軍縮条約もまた、米英の宣
伝した反軍主義、反戦立場を指導原理とし、国際主義
を標榜する帝国主義の現はれであつた。米英は、一
般的には武力の行使に反対し、武力行使に反対する立
場から軍備の縮少を提唱しながら、自国に有利な国
際会議を利用することによつて、対立国家の軍備を相
対的に弱体化すると同時に、自国の軍備を比率的に
強大化し、以て武力の点においても世界に冠絶せん
とする狡猾な方針を採用した。
ヴェルサイユの軍事条約は、その相手方が戦敗国ド
イツであつたため、とくに苛酷を極めた。即ちそれ
は、徴兵制度の撤廃、常備軍十万以下、重砲、タンク、
飛行機、一万トン以上の軍艦およぴ潜水艦を禁止する
等、ドイツの軍備を全く破壊するものであつた。し
かし米英およびその傀儡国家は、軍備を縮少しない
どころか、かへつて拡張さへもした。ワシントンとロ
ンドンの海軍軍縮会議は、流石に相手方が日本であつ
ただけに、日本の軍備を破壊することは出来なかつた
が、なほ米・英・日の比率を十・十・六に規定すること
になり、太平洋における日本の勢力を著るしく低下す
ることに成功した。
かくの如く米英は、以上の諸機構によつてその帝国
主義支配を強化したのみならず、一定の国々をその
傀儡として、日独伊等の必ずしも米英の意思に屈服し
ない国々を監視し、包囲し、牽制するために利用した。
例へばポーランド、ベルギー、オランダ、小協商国
等を利用してドイツ包囲陣を結成し、ユーゴー・スラ
ヴィアを強化してイタリアを牽制し、支那を使嗾して
日本に反抗せしめたこと、これである。これ等の小諸
国は米英仏の支持に信頼して、不当に日独伊に抗争
し、国力伸張の機会を狙はんとして、著るしく国際道
義を破壊した。
これが東亜における満洲およぴ支那事変欧州にお
けるエチオピア及びスペイン事変、チェッコ及びポー
ランド問題等々の原因となり、今次ヨーロッパ並びに
大東亜戦争の起因となつたものであることは、こゝに
絮説するまでもない。
米英思想謀略の影響
かくの如くヴェルサイユ並びにワシントン体制は、
実質的には米英の帝国主義支配機構に外ならないもの
であつたが、その標榜するところは、民主的国際協調
主義機構であつて、国際協調主義に対する思想的信頼
を、その存立の条件としたものである。
第一次大戦当時、米英が宣伝した民主主義、国際主
義は、聯合国は勿論のこと、敵国をも含む世界の各国
に深刻な影響を与へ、その思想界を風靡した。日本
においても、大正六、七年の頃から、いはゆるデモク
ラシー啓蒙運動が、学界、評論界、文芸界を席巻して、
人心を一変するに至つた。大戦の経験に伴ふ恐怖感
は、米英の国際主義思想謀略の跳梁と共に、反戦主
義、反軍主義の温床体となつた。シベリア出兵、済南
出兵における日本の正常なる立場は、米英によつて侵
略主義の非難を受け、日本の米英追随者もまたこれに
雷同することによつて、日本は著るしく不利な立場に
置かれることになつた。
日本の抑圧を目的とするワシントン会議が招請され
るや、同じく日本の米英追随者は、米英の宣伝に乗ぜ
られ、その真意を理解せずして、その陰謀に協力する
ことを、正義と人道に忠なる所以と誤解した。新聞雑
誌は米英のいはゆる平和事業を礼賛し、原案の内容
さへ不明なうちから、絶対にこれを支持する意見が
横行し、日本の国防を顧慮する軍部の専門的見解の如
きは、軍閥の職業的好戦主義として、一顧だに試みな
い風さへあつた。軍縮会議の代表が横浜を出帆する前
後には、米英の謀略に動かされた大学、専門学校の学
生の一部が頻りに軍事教練反対の反軍運動を起し、軍
部反対が行はれる有様であつた。
このやうな有様で、ワシントン及びロンドンにおけ
る日本の外交的不利は、米英の思想宣伝に対する日本
の思想的敗退に原因したものといはねばならない。
日支融和とその紛争に関する問題についても、また
同様のことがいへる。米英は支那を傀儡として、日
本を抑圧し、東亜におけるその帝国主義支配を強化せん
とする方針を執つたことは、既に述べた通りである。
米英は日本の対支政策を侵略的なりと非難し、支那
の排日、抗日をその当然の結果なりと弁護して、これ
を使嗾し、煽動した。しかも支那の不法行為に対して
も、日本が自衛のため武力不行使することに反対し、
問題を日支の協議、もしくは九ケ国条約に基づく国際
会議によつてのみ解決すべしと主張した。支那は日
本の抗議に対しても、その武力不行使と米英の絶対的
支持を妄信して、いさゝかの誠意さへ示さなかつた。
もとより事件を九ケ国条約会議に附議(ふぎ)するとしても、
公正な解決を期待し得ない状態にあつた。
かくて我々が隠忍自重をつゞけてゐる中に、支那はま
すます増長し、その排日、抗日はいよいよ悪化して、
遂に侮日となつた。満洲事変の直前には、支那の不法
行為に原因する日支間の懸案は、山積して数百件に上
り、日本と特殊関係にある満蒙さへ、抗日、侮日の
巷と化して、中村大尉事件、万宝山事件等の驚くべ
き不祥事件が頻発するに至つた。
満洲事奨と聯盟脱週
昭和六年九月十八日、東北軍に属する支那正規軍は
柳条溝において満鉄路線を爆破した。たとへ当時日本
の外交方針がなほ協調主義にあつたとしても、満鉄警
備の大命を奉じて駐屯した在満皇軍は、その目前に
おいて演ぜられたこの暴戻を看過すること能はず、
蹶然起つて行動を起した。しかも支那軍は在満皇軍の
少数なことと、日本の方針が結局、消極政策に帰着
すべきことを妄想して、かへつて全満に蠢動を開始
し、一挙に皇軍を圧倒しようとした。
しかしながら、柳条溝の銃声によつて、日本の外交
政策は一転することになつた。ワシントン体制の悪夢
は覚醒され、米英追随の迷夢を一擲して、日本の真面
目に立ち還ることが出来た。明治維新以来、日清、日
露の両役を始め、日本の外交方針は欧米の侵略を排し
て、東洋平和を確保し、皇道の理想をこの天地に開顕
するにあつた。維新以米侵入した西洋思想、特に第
一次大戦以来、跳梁した米英思想----デモクラシー、
インターナショナル----の影響によつて、一時、日本
の理想が不明徴を来したこともあつたが、こゝに回復、
その理想は蘇つて、米英の攪乱を排し、満蒙に新た
なる王道楽土を建設し、東亜を明朗化する決意を固め
た。この意味において、満洲事変はワシントン体制に
対する反撃であり、同時に日本の理想とする新秩序建
設の着手であつたのである。
満洲における日本の蹶起は、いふまでもなく米英
の帝国主義者を脅威し、震駭した。アメリカはスチム
ソンの宣言を発して日本を恫喝し、米英とその傀儡支
那は、国際聯盟を利用して日本の行動をも牽制しようと
した。しかしながら、米英追随外交から自主外交に
転換した日本は、アメリカの恫喝も、国際聯盟の策動
も、最早これを抑圧することが出来なかつたのである。
国際聯盟の総会は四十二対一票を以て、日本に反対す
る決議をしたけれども、実力によつて日本を制圧する
ことは出来なかつた。ヴェルサイユ並びにワシントン
体制は、思想謀略に基づく支配体制ではあつたが、そ
の堂々たる外見に反して、全く無力な存在であつた。
日本は国際聯盟を離脱し、軍縮条約を破棄した。かく
て米英の帝国主義支配体制は、その一角から崩壊し始
めたのである。
均しく米英の暴圧に悩んだ独伊もまた蹶起した。
即ち、イタリアについていへばエチオピア事変、アル
バニア進駐、アドリア海の制覇、ドイツについていへ
ば再軍備、ライン・ランド進駐、オーストリア合併
チェッコ聯合、ポーランド問題に対する強硬政策等々、
これである。かくて米英の帝国主義支配機構はヨー
ロッパにおいても崩壊に瀕した。この意味において
日独伊の世界史的立場は、いはゆる防共協定の成立す
る以前から共通するものがあつた。従つて枢軸の提携
は全く世界史の必然であつたのである。
世界革命の代行機関たるコミンテルンは昭和八年の
夏、第七回の大会を開いていはゆる人民戦線新戦略を
採用した。人民戦線新戦略とは、一方において、各国
共産党今まで対立して来た民主主義諸勢力と提携し
て、いはゆる反ファッショ統一戦線を結成し、他方にお
いて、ソ聯が同じく対立して来た資本主義国、米英仏
およびその御用機関たる国際聯盟と協力して、反日
独伊共同戦線を結成することであつた。
かくてソ聯の人民戦線新戦略は、着々と実行に移さ
れ、フランス、スペインにおいては人民戦線政権が樹
立され、支那においては中共合作が成立して、共に日独
伊に対する反抗を強化した。それと同時にソ聯は米英
仏と国交を調整し、国際聯盟に加入して、国際的な反
日独伊陣営を結成した。いはゆる防共協定は、かくの
如き世界情勢の下における人民戦線の危険に対する日
独伊の国際的な防衛体制であつた。
欧州戦争と支那事変
日独伊の新秩序建設運動が進展するにつれ、米英の
支配はますます危機に瀕し、従つて米英仏の日独伊に
対する憎悪は激化した。国際人民戦線はソ聯の提唱に
よつて結成されたものであるが、次第に米英仏が熱心
となり、特にヨーロッパ問題が緊迫するにつれ、英仏
は熱心にソ聯と軍事同盟と締結することを希望するに
至つた。
しかるにソ聯は、独英衝突の圏外に去つて、漁夫の
利を狙はんとする狡猾な態度をとり、かへつてドイ
ツに接近することゝなつた。かくて、欧州情勢はます
ます緊迫を加へたのである。ドイツは一先づイタりア
と軍事同盟を結び、次いでソ聯と不可侵協定を締結し
で、一九三八年九月三日、戦争に突入したのであつた。
これより先、昭和十二年七月七日、蘆溝橋事件を契
機として、満洲事変の延長たる支那事変が勃発した。
日本の不拡大方針に反して、戦火は全支に拡大したの
であるが、独ソ不可侵協定が成立し、欧州戦争の勃発
するや、日本は当時の外交を白紙に還元し、戦争に不
介入の方針を立てると同時に、米英と国交を調整しか
専ら支那事変の処理に図らうとした。
元来、米英帝国主義の陰諜に起因する欧州戦争と満
洲事変、支那事変は、世界史的意義を共通にするもの
であるから、相互の不介入といふことは極めて困難で
あつたにも拘はらず、なほ且つ日本が米英と国交を
調整しようとしたのは、実に人類平和の希求に外なら
なかつたのである。しかしながら米英の帝国主義的
策謀は底止するところを知らず、漸次その仮面を脱い
で鋒先を露骨に現はすに至つた。
かくて日本は昭和十五年、大なる決意を以て国内の
新体制を樹立すると同時に、外交を再転換する必要に
迫られた。国民の新組織、経済および政治の新体制を
共に樹立することに努力すると同時に、大東亜ならび
に欧州新秩序の建設に関して、日独伊が協力すること
を約した三国条約が締結されたのは、この世界史的必
然性によるものであつた。
その後、日本はなほ太平洋の平和を維持して、平和
の裡に新秩序を建設せんとする切なる希望に基づい
て、日米会談を行つた。しかしながら、アメリカはワ
シントン体制の諸原則を固執して、東亜の帝国主義支
配に関する野望を放棄せず、われに対して経済圧迫を
加へ、武カを以て威嚇するなど暴戻不遜の限りをつく
すに至つたことは周知の通りである。
政府はこれに対して、事態と平和のうちに回復しよ
うと、隠忍久しきに亘つて百方手段を尽して、最後
まで開戦を避けんと努力を重ねたが、思想謀略こゝに
成功せりと誤断した彼は、毫も反省の色なく、ますま
す経済上、軍事上の脅威を以て我を屈従せしめんとす
るに至り、帝国の存立は正に危殆に頻したのである。
かくて聖断つひに下り、昭和十六年十二月八日、米
英に対する宣戦の詔書は下され、帝国は「自存自衛ノ
為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキ」に至つ
たのである。
こゝに至つて、満洲事変、支那事変に始つた新秩序建
設戦争は、遂に最後の段階に突入することゝなつた。
満洲事変の当時においては、悲しむべきことではあ
るが、日本における米英思想の影響はなほ甚だ顕著な
ものがあり、一部の知識層は、米英の対日宣伝に雷同
して、事変反対を唱へる状態であつた。その後、外交
の転換に伴つて、国内の革新も進み、政治、経済の変
革と共に、國體明徴、教学刷新の必要が叫ばれ、次第
に米英思想に対する反省が起つた。従つて支那事変の
当時に至つては、少くとも表面的にはこれに反対する
者を見ない状態になつてゐた。
大東亜戦争と國體明徴
昭和十六年十二月八日、宣戦の大詔が渙発されて似
来、様相はさらに一変した。聖旨を拝し、一億国民一人
として米英撃滅の日まで戦つて勝ち抜く決意を固めな
かつたものがあらうか。現にこの感激は御稜威の下、
あの赫々たる戦果となり、内に一億一心の団結となつ
て征戦完遂に向つて一路邁進してゐるのである。
しかしながら、思想の根本における米英の影響は、
容易にこれを一掃することを得ず、主観的には思想転
向を行ひながら、無意識的に米英思想に追随する者が
少くない。國體の明徴は叫ばれ、教学の刷新は唱へら
れたけれども、國體に対する観念的反省が一部に昂揚
したにもかゝはらず、歴史、哲学、科学の学理などに
も、なほ欧米思想謀略の影響を免れ得ず、時局に対す
る認識を始め、新秩序、新体制の本質とそれを建設す
る方策に関する意識も、未だ不明徴な点がありはしな
いだらうか。
これ当の点において、かつて「城内平和」を決議し、
表面的な挙国一致を実現しながら、思想の根本におい
ては敵国の影響を受けて、遂にその宣伝謀略に乗ぜら
れた第一次欧州大戦における敗戦国ドイツと、共通す
るものがありはしないであらうか。
この意味において、われわれ日本人は、今や大東亜
新秩序の核心として我々自らが、国内における米英的
思想を撃滅し、これら一切の不明徴な点を一掃して、真
に日本の理想に徹することが最大の急務なのである。
さらに東亜共栄圏の内部には、固より日本以上に米
英思想が瀰漫してゐる。永年に亘つて欧米の支配を受
けた諸民族が、文化の凡ゆる面において欧米思想に捉
はれてゐることは、洵にやむを得ないことである。支
那の三民主義にもこの傾向がある。フィリピンはじめ
キリスト教圏の宗教的影響には、さらに深刻なものが
ある。各地の独立運動の指導精神にも米英的な民族
自決主義の色彩が強い。その経済思想は資本主義の影
響を受け、その政治思想は民主主義の影響を受け、そ
の社会思想は個人主義、階級主義の影響を受け、その
文化思想は文化至上主義の影響を受けてゐる。
皇國の思想戦的使命
かくの如き共栄圏の住民に皇道を宣布し、日本精神
を理解させることはいふまでもなく困難である。しか
しながら如何に困難であつても、皇道の宣布と、日本
精神の宣揚は、果さなければならない日本の世界史的
使命である。蓋し、大東亜戦争の戦争目的たる東亜新
秩序の建設は、即ち皇道新秩序の建設だからである。
皇道の宣布は、一部の論者のいふやうに皇道の押売
でもなく、帝国主義的でもない。古今不謬、中外不悖
の皇道は世界の真理である。われわれ日本人はあくま
で皇道に対する自覚と自信とを強く強く持つて行かね
ばならない。
今日すでにその矛盾を暴露して、破綻の運命に瀕し
た民主主義、国際主義でさへ、米英は自覚と自信に充
す満ちて、これを宣伝した。キリスト教の伝道も西
洋教学の伝播も、押売以上の押売であつたのである。
彼等がそれを押売と感じなかつたのは、たとへ誤謬と
はいへ、その価値を自覚し、自信したからである。
従つて、皇道が真に古今不謬、中外不悖であること
を自覚し、自信する者は、如何なる困難をも克服し
て、これを宣布する大使命感に然え上らねばならな
い。この自覚と自信この大使命感を日本人がまづ体
認することこそ、大東亜思想戦の出発点なのである。
皇道を宣布するためには、それを宣布するに足る十
分な準備が必要である。たゞ皇道を抽象的に絶叫する
だけでは、皇道の真義を徹底さすことは出来ない。皇
道は観念な公式として宣布さるべきではなく、一切
の歴史、哲学、科学を貫くものとして、一切の政治、
経済、社会、文化に顕現されたものとして、さらに一
切の個人と集団と、特に皇國に実現されたものとし
て、初めて宣布され得るのである。
この点からいつても皇道宣布の出発点は、即ち皇國
日本の皇道化にある。皇國日本において皇道が実現さ
れるならば、自然の勢ひとして皇道は共栄圏を光被す
るであらう。
その故に皇道はまづ皇國において実現さるべきであ
る。
次ぎに皇道は大東亜共栄圏を光被すべきである。さら
に進んで皇道は、枢軸諸国を同調せしむべきであつて、
最後には誤れる民主主義、国際主義を妄信する敵国と
も「ことむけやはす」べきものなのである。こゝに初め
て、皇國日本の窮極的な大使命たる八紘為宇の世界
新秩序は建設されるであらう。
古今不謬、中外不悖の皇道思想戦こそは、文字通り真
実についてのみ語る最も正純な思想戦である。敵の民
主主義、国際主義思想戦は、真実らしく語つたが、真実
を語らなかつたが故に、今日、早くもその勝利は崩壊
に瀕してゐる。しかしながら、真実についてのみ語る
皇道思想戦は、事実と矛盾する時なく、したがつてそ
の勝利は永久であるべきは昭乎として明らかである。