思想戦読本 1  情報局

 思想戦とは何か。最近、思想戦といふ言葉がよく用ひられるやうになつた
が、果してほんたうの意味で理解されてゐるであらうか。大東亜戦争も究極
においては、思想と思想の戦ひ、思想戦なのである。
 大東亜戦争は、いよいよ緒戦の段階から本格的な戦ひの段階に入つて来
た。正に戦ひはこれからなのである。武力戦、経済戦と共に、思想戦は強く
強く押し進められねばならない。
 そこで情報局では、週報誌上に「思想戦読本」を連載し、いろいろの角度か
ら、思想戦の意義、目標等を明らかにすることにした。これによつて広く国
民が、思想戦の戦士として御奉公の誠を效すべき逞しい実践の指針を得ら
れ、大東亜戦争の完遂に邁進せられんことを期待してやまない。

目次 (予定)

大東亜戦争と思想戦(本号及び次号)
思想戦と政治
思想戦と経済
思想戦と文化
思想戦と科学
思想戦と教育

大東亜戦争と思想戦 (上)

皇道開顕の思想戦

 大東亜戦争は、米英の支配した東亜の旧秩序を変革
して、日本の理想とする新秩序を建設することが、そ
の目的である。米英の支配した旧秩序は、いはゆる民
主主義、国際主義の思想に基づく米英的秩序であつ
た。しかるに日本の理想とする新秩序は、八紘為宇の
皇道原理に基づく日本的秩序でなければならない。従
つて大東亜戦争は米英の民主主義、国際主義に対する
皇道開顕の一大思想戦とも考へることが出来るのであ
る。
 既に満洲事変、支那事変は、東亜の旧秩序に内在し
た矛盾から起つたものであつた。米英にして真に世
界の平和と人類の幸福とを願ふならば、この時において
反省し、その態度を改むべきであつた。しかも彼等は
寸毫もその謀略の手を緩めないばかりか、却つてこれ
を強化し、正義人道は世界よりその影を没せんとす
るに至つて、遂に大東亜戦争勃発を見るに至つたので
ある。これを世界史に見るならば大東亜戦争は昨年十
二月八日に勃発した戦争と見るべきでなく、満洲事変
及び支那事変の勃発した時、既に勃発した
ものといは
なければならない。
 東亜におけるワシントン体制は、ヨーロッパにおける
ヴェルサイユ体制と共に、米英が第一次ヨーロッパ大
戦の戦後秩序として建設したものである。第一次大戦
当時、米英は、民主主義、国際主義の擁護を標榜して
ドイツに勝ち、民主主義、国際主義を原理とする戦後
の平和秩序を建設した。これが即ちヴェルサイユ並び
にワシントン体制である。
 かくの如くヴェルサイユ並びにワシントン体制は、
その標榜するところは民主主義、国際主義の秩序で
あるけれども、その内容は、事実において米英の帝
国主義支配の機構であつた。米英は世界の諸国を隷属
せしめ、その敵国たる独墺を圧迫したのみならず、そ
の与国ある日伊に対してさへ抑圧の手を伸べた。米
英のかゝる圧迫と抑圧に対する日独伊の反撃が、即ち
第二次ヨーロッパ戦争であり、大東亜戦争であるので
ある。
 この意味においてヨーロッパ並びに大東亜の今次戦
争は、第一次大戦以来の一貫した問題であつたと言はな
ければならない。従つて大東亜戦争の本質を理解する
ためには、第一次大戦に遡つて世界の歴史を回顧す
る必要がある。加ふるに、第一次大戦及びそれに引続
く戦後秩序の建設は、民主主義、国際主義の思想戦的
攻勢であつた。この意味から言つても、第一次大戦以
来の歴史を回顧することは、今次戦争の思想戦的意義
を知る上において、絶対に必要なことなのである。

前大戦における思想戦

 第一次ヨーロッパ戦争は、欧米諸国の帝国主義的対
立から起つた帝国主義的な戦争であつた。第一次大戦
の原因は単純ではなかつたが、特にロシアの南下政策
とドイツの東進政策がバルカンにおいて衝突したこ
と、独仏の永年に互るアルサス・ローレンに対する争奪
とドイツに対するフランスの復讐心、ドイツの勃興に
対するイギリスの嫉視、特にドイツの経済的発展、領
土的膨張、海軍拡張等々に対するイギリスの警戒が
その主たるものであつた。
 従つて第一次大戦の戦争責任は、これ等の列国がす
べて負担すべきであつて、固よりドイツのみが一人こ
れを負担しなければならないものではなかつた。特に
大戦の直接原因となつたオーストリア、セルビア間の
不祥事件はロシアが使嗾したものであつたこと、ドイ
ツはこの問題を局地的に解決し、戦争を拡大しない
方針であつたにも拘はらず、ロシアを始め英仏が、む
しろドイツのこの方針に反して戦争を拡大せしめた
こと等を考へれば、それ等の聯合諸国こそ、却つて
戦争の最大の責任者であつたといはなければならない。
しかるに、聯合国は優勢な宣伝組織と、熱心な宣伝戦
の実施によつて、戦争責任をドイツに転嫁することに
成功した。
 即ち専制的なドイツ政府の帝国主義的な侵略政策が、
大戦の原因であると宣伝されたのである。ドイツの不
拡大主義は隠蔽され、その戦争挑発が捏造された。特
にドイツのべルギー侵入はイギリスを起たしめ、戦争
を世界戦争に拡大せしめた最大の原因であると主張
された。しかいこの宣伝が世界の輿論を動かして、ド
イツを専ら戦争の責任者であると考へしめるに至つた
のであるから、緒戦において聯合国は、既に思想戦上、
見事な勝利を得ることが出来た。
 ドイツがベルギーへ侵入したのは、作戦上の必要に
基づくものであつた。加ふるに、ペルギーは戦前すで
に英仏側に傾き、英仏との間に軍事上の密約を結んで
ゐた。従つてべルギーの中立条約は、先づベルギー及
び英仏が犯したのである。ドイツがベルギーへ侵入し
なかつたならば、ドイツに先んじて英仏がこれに侵入し
たに違ひない。この点においてドイツは、たゞ英仏に
先手を打つたに過ぎなかつたのである。

思想戦に敗れたドイツ

 しかるに英仏はこれを宣伝戦に利用して、ドイツが
国際条約を尊重しないこと、国際条約を尊重しないド
イツを膺懲することが、聯合国の戦争目的であることを
宣伝した。しかしながら、国際条約を尊重しないの
は決してドイツのみではなかつた。ベルギーと軍事上の
密約を結んだ英仏は、既に国際条的の精神を蹂躙して
ゐたのである。イギリスのドイツに対する経済封鎖も
また、国際条約に忠実なるものではなかつた。イギリス
は、いはゆる戦時禁制品を一方的に拡張して、平和的
な商品まで対独封鎖の対象とした。これ等の問題を一
切隠蔽して、ドイツの国際条約違反のみを強調したの
が、聯合国思想戦の作戦であつた。
 次ぎに英仏は、ベルギー及び北フランスにおけるド
イツの戦争方法が、正義と人道に反する残虐極まり
ないものであることを宣伝した。ドイツの軍隊は住民
を虐殺し、婦女を凌辱し、寺院を破壊し、村落を
荒廃し、財物を掠奪する等々といふのである。この
点において聯合国は誇大な宣伝をしたのみならず、虚
偽の宣伝をした。フランスの「新聞の家」---ラ・メー
ゾン・ド・ラ・プレス----が影絵と人形を使つて偽造の
写真を作つたことはポンコンビーによつて暴露されて
ゐる。
 イギリスの調査委員会がドイツ軍の残虐行為に関し
て誇張された風聞の集録を報国したこともまた明らか
な事実である。物資の欠乏したドイツが勇士の死体か
ら脂肪を製造してゐるといふ宣伝も全くのデマであつ
た。ドイツがイギリスのスパイ、ミス・キャンベルを
処刑したことは、許すべからざる残虐行為として非難
された。しかるにフランスがドイツのスパイ、ミス・
マタハリを処分したことは、聯合国防諜組織の功績と
して賞讃された。
 イギリスの対独経済封鎖の当然の戦争手段として、
その威力が誇示されたのに対して、ドイツの潜水艦戦
は人道を無視する野蛮行為として、頻りに攻撃され
た。かくて戦争に伴ふ悲惨事を誇張し、歪曲し、捏
造して、ドイツをフン又は蒙古の再来の如く、恐怖と
憎悪の対象としようとしたのが、世界に対する聯合国
の思想戦の狙ひであつた。
 しかるに独墺に対する宣伝においては、一切の非
難がカイザーとその政府及び軍部に集中され、聯合国
は独墺の国民を敵とするものに非ざること、却つてそ
の国民をその支配者の専制から解放し、帝国主義戦争
の犠牲者たる地位から救済することが聯合国の目的で
あると主張された。特に民族関係の複雑なオーストリ
ア、ハンガリーに対しては、民族自決宣伝によつて少
数民族がゲルマン民族に反逆することが煽動され、ド
イツに対しては厭戦主義、平和主義の宣伝と、政府及
び軍部の政策に対する反対、並びにカイザーの支配に
対する革命宣伝が行はれた。
 かくてオーストリア、ハンガリーの少教民族は、聯
合国の援助によつて独立することを期待し、ドイツの
民主主義者、国際主義者は、ドイツさへ民主主義革命
を起して、侵略戦争の勝利を断念するならば、容易に
聯合国と「和解の平和」を実現し得るものと考へるに至
つた。特に無賠償、無併合を条件とするウィルソソ
の平和に関する十四ケ条の提言は、ドイツ国民の戦意
を最後的に粉砕する点において最大の威力を発揮した
のである。かくてドイツは思想戦に敗れた。武力戦に
勝ちながら、思想戦に敗れたことによつて戦争そのも
のに全敗したのである。

思想戦と思想的統一

有名なノースクリッフを補佐して、聯合国の思想戦
を指導した経験者であるスチュアートは、その著「ク
リュー・ハウスの秘密」において、思想戦の原則を次ぎ
の如く要約してゐる。「プロパガンダの凡ての原則の
第一は、たゞ真実によつてのみ語られることである。
第二は宣伝に矛盾撞着があつてはならないといふこ
とである。…敵国側の宣伝の失敗は、戦争が短期に
終局すベき予想の下に、真実ならざること、半(なかば)は虚
偽なること、誇張したこと等を以てしたゝめ、一時の
效果を現はしたけれども、戦争の長引くにつれ、その正
体を暴露して、逆効果を来すやうになつたためであ
る」といふのである。
 聯合国の宣伝が真実のみを語つたといふことは、前
述の如くこれと承認することが出来ない。この点に
ついては聯合国の宣伝も、真実ならざることを語つた
点においてドイツ側といさゝかも異なるものではなか
つた。しかしながら、英仏米は真実ならざることを真
実らしく語つた。特にその宣伝に矛盾撞着のなかつ
たことは、スチュアートのいふ如く或る程度まで事実
であつた。そして各種各様の宣伝に矛盾撞着のなかつ
たことが、その宣伝を事実らしく思はせた最大の原因
であつたと考へられる。従つて聯合国思想戦の勝利
は、如ちその宣伝に矛盾撞着がなく、根本において一
貫し、統一してゐた点に原因するものと認めなければ
ならない。
 聯合国の思想宣伝は、いふまでもなく問題により、
時と処により、さらに対象の如何によつて多種多様で
あつた。しかしながら、この多種多様な宣伝がすべて
思想的には、民主主義、国際主義の立場から、ドイツ
のいはゆる専制主義、帝国主義を攻撃する点に集中さ
れ、統一されてゐた。緒戦期における宣伝も、戦争末
期における宣伝も、自国民に対する宣伝も、中立国民
に対する宣伝も、敵国民に対する宣伝も、さらにその
内容からいへば戦争責任宣伝も、国際法違反宣伝も、
残虐行為宣伝も、艮族自決宣伝も、平和宣伝、革命宣
伝も、すべてこの意味において統一された思想性を持
つてゐたのである。
 これに反してドイツは、アイルランドに対する独立宣
伝、インド及び回教圏に対する攪乱(かうらん)宣伝、アメリカに
おけるドイツ系市民の非参戦運動、カボレットのイタ
リア戦線に対する平和宣伝、ポーランドの独立に関す
る宣伝、ロシアにおける共産主義革命の謀略的援助
等、一時は相当の成功を収めたけれども、それ等の宣
伝に明確な思想性がなく、思想的には相互に矛盾撞着し
た結果、それが単なる諜略宣伝であることを容易に暴
露し、かへつてドイツに対する信頼を失はしめること
になつた。
 思想戦に思想的統一があつて、相手方の思想を自己
の政策に同調せしめることが出来るならば、個々の問
題について一々具体的にその解釈を宣伝するまでもな
く、相手方は自発的にその思想に基づいて自己の政策
に有利な判断を下し、有利な行動をすることになる。
これが即ち思想戦の勝利といはるべき状態である。こ
の点において聯合国の思想戦は、確かに思想戦略の奥
義に徹してゐたのである。
 さらに聯合国、特に聯合国の中心であつた英仏米の
国民は、民主主義、国際主義の思想に自覚と自信を持
ち、その擁護に世界史的な使命を感じてゐた。従つて
英仏米の国民は思想的な挙国一致を実現して、官民一
体の民主主義、国際主義思想戦を展開することが出来
た。いふまでもなく英仏米にも戦争を辞さない強硬
論者と、戦争に反対する平和主義者があつた。特に民
主主義者、国際主義者が一般に戦争反対の思想を持つ
てゐたことは疑ひのない事実である。しかもドイツに
対する戦争のみは、「戦争をなくするための戦争」「平和
のための戦争」として、最も頑強な平和主義者、反
戦主義者までが最も強硬にこれを支持した。こゝに英
仏米の思想的挙国一致の見事な姿をみることが出来
る。
 かくの如き挙国一致の思想戦を以て、その与国、ロ
シア、イタリア、日本等々を、次第に民主主義の支持
者、国際主義の賛成者に一変させて行つた。それと同時
に中立国を、同じく民主主義・国際主義の共鳴者と
なし、敵国、独墺の内部にさへ、その内応者を獲得し
て、大戦を勝利に導いたのである。

「和解の平和」を盲信した独

 しかるにドイツは、開戦の頭初、既にその戦争目的
に反対し、スイスに逃れ、ドイツ共和主義者同盟を組
織して、聯合国思想戦の前衛となり、頻りに祖国を攻
撃した裏切者を出してゐる。戦前イギリスに駐在した
ドイツ大使リヒノフスキーもまた、民主主義、国際主義
を盲信し、イギリスの欺瞞に乗ぜられ、そのロンドン
における使命を誤つた。しかもその点に関する国民の
非難に反省することなく、イギリスの平和思想を礼賛
し、ドイツの侵略主義を非難する自己弁護の手記を著
はして、敵国に最も有力な思想戦の武器を提供した。
 ドイツは開戦第一回の戦時議会において「城内平和」
を決議し、戦時中、政争休止の挙国一致を誓約したに
も拘はらず、その挙国一致は、思想の統一なき外面的、
形式的、機械的な総親和に過ぎなかつたのである。表
面上の総親和は、裏面における思想対立を如何ともする
ことが出来なかつた。いはゆる東方政策に熱心であつ
た者、重工業資源の獲得に熱中した者、イギリスの帝
国主義を憎悪した者、ロシヤのツァーリズムのみを敵
と考へた者、ドイツの歴史と伝統を防衛しようとした
者、世界支配の実現を野望した者、戦争を通じて民主
主義または社会主義の実行を夢みた者等、各階級、各
政党はそれぞれ戦争を勝手気儘に理解し、勝手気儘に
利用しようとした。
 かくて戦局が長引き、困難が加重するにつれ、特
に戦争の目的に関する見解につき、思想の混乱を来し、
遂に聯合国の宣伝に乗ぜられ、平和論、敗戦論が横行
し、反カイザー、反政府、反軍部の思想が跳梁して、
戦争の放棄と革命の勃発を結果したのである。
 戦争に当つてドイツの政府及び軍部が「勝利の平和」
を主張し、心からドイツを愛した祖国派がこれを支持
したのは当然である。しかるにドイツの民主主義者、国
際主義者は、聯合国の思想宣伝に乗ぜられ、この当然
の主張を、却つてドイツの侵略主義的誤謬であるとな
し、いはゆる「和解の平和」論を提唱した。即ち、この
一派は聯合国の宣伝を盲信して、その平和主義に信頼
し、ドイツさへ侵略主義を放棄するならば、無賠償、
無併合の平等なる平和が実現するものと誤認したので
ある。
 かくて開戦四年目の戦時議会には、中央党所属代議
士エルツベルガーによつて、かゝる敗戦的な見地に立
つ「平和決議案」が提出され、中央党、自由党、社会民
主党の賛成を得て、この敗戦的決議案が通過した。
 しかも皮肉なことに、ドイツの議会が「和解の平和」
論を議論してゐたその時に、イギリスはローマ法王の
平和勧告に対して、「ドイツが聯合国に与へた損害を
回復し、将来に対する保障を約束するまで、平和の
問題を考慮し得ない」ことを回答してゐる。即ち、聯
合国はドイツの民主主義者、国際主義者の期待に反し
て、「和解の平和」を許さざる決心をしてゐたのであ
る。
 ドイツはコンピエーニュの休戦及びヴェルサイユの
講和において、初めてドイツを破壊しなければやまな
い聯合国の真意を悟ることが出来た。しかしながら、
その時既にドイツは、聯合国のこの意思に対抗すべき
一切の力を持つてゐなかつた。かくてドイツは思想戦
に敗れたことによつて、戦争そのものに全敗した。
 この時以来、思想戦の重要性は一般に認識をされる
ことになつた。思想戦は必ずしも第一次大戦に初めて
戦はれたものではなかつたけれども、この華々しい勝
利が敵味方の思想戦に対する自覚を昂(たか)めたのである。

(次号につゞく)