支那の抗日団体                     外務省情報部

 支那で初めて外貨排斥運動が起つたのは、今から足掛け四十年前の一八九八年である。上海の寧波(にんぽう)人団体の墓地移転問題で、フランス居留民側と悶著を生じ、対仏取引中止の行はれたのが、支那に於けるボイコツトの嚆矢(かうし)である。これに次いで槍玉にあげられたのは米国で、一九〇五年、移民問題に対する憤激から上海の商人団体が第一に蹶起し、中・南支に波及した。これが全国的ボイコツトの始まりである。それから三年後の一九〇八年、日本が第三番目の目標となつた。有名な「第二辰丸事件」に因る排貨である。神戸辰馬商会汽船第二辰丸が、香港(ほんこん)安宅商会の依頼で、澳門(まかお)銃砲商注文の銃器弾薬を搭載して、神戸から澳門へ直行、潮流の都合で過路湾海面に仮泊したところを、清国砲艦に拿捕され、広東に拉致(らつち)された事件である。交渉の結果、清国の譲歩で解決したが、南支の輿論は政府の弱腰を責め、日貨排斥運動が起ったのである。
 味を占めた支那側は、其の後は何かといふとボイコツトを起すことになつた。満洲事変の始まつた一九三一年までに、左表の如く十一回の全国的ボイコツトが行はれてゐる。

年  次 対手国 原  因
一九〇五  米国 排支移民法
一九〇八  日本 第二辰丸事件
一九〇九 日本 安奉線改築問題
一九一五 日本 所謂二十一ケ條問題
一九一九 日本 山東問題
一九二三 日本 放順大連回収問題
一九二五 日本 五・三〇事件
一九二五 英国 五・三〇事件
一九二七 日本 山東出兵
一九二八−九 日本 済南事件
一九三一 日本 万宝山事件及満洲事変

 十一回の中九回までが対日ボイコットである。短かいので数ケ月、長いのは一年数ケ月継続した。其の手段も、日貨を買わぬ、日貨を支那人に売らぬ、日貨を使用せぬ、日本人との一切の取引を中止する、といつたやうなところから始まつて、日貨を扱ふ商人を圧迫し、檻の中に入れてさらし物にしたり、市中を引廻したり、終ひには大分悪性になつて来た。其の外に例の排日教育といふものがあり、まだ思想の固まらぬ青少年に、日本仇視の念を叩き込むといふ陰険な手段を発明してゐる。
 満洲事変後になるとこの勢は益々激しくなつた。排日団体の名前も、これまでは「反日会」といつてゐたのを事変直後から「抗日救国会」となり、日本に対する民族的嫉視(しつし)を主とし、排貨を従とするやうになつて来た。この勢に油を注いだのが一九三五年のコミンテルンの新方針、新戦術採用である。即ち抗日人民戦線結成の戦術である。
 尤もコミンテルンの抗日指導は、今に始まつたものではない。そもそもコミンテルンが支那に着目したのは、支那に反帝国主義運動が起つてゐたからであり、進んでこの運動を指導、援助し、以て民衆を獲得し、これを組織するといふのが、コミンテルンの行動綱領であつたのだから、其の魔手が支那に延ばされて以来の排日運動の裏には、コミンテルン及支那に於ける其の手先きである中国共産党の煽動があつたことは疑を容れない。一例を挙げると、一九二五年五月の上海総罷業(所謂五・三〇事件)の際などは、コミンテルン代表が罷業委員会を組織して指導に当つた外、罷業資金の捻出などに大童になつて奔走してゐたといふ事実がある。かうした執拗な抗日指導をコミンテルンはずつと持ち続けて来たのだが、併し乍らコミンテルンが、其の支那支部である中国共産党を指導するに当つて主力を注いだのは、先づ共産軍を強化し、其の遊撃に依ってソヴエート区を拡大し、それに依つて国民党の統治を転覆しようといふ、いはば「軍事依存主義」であつて、抗日指導は自づから第二義的のものであつた。
 併しこの軍事依存主義も終に破綻する時が来た。共産軍及ソヴエート区に対する蒋介石の執拗な攻撃は、徐々にではあるが著々效果を収め、終に中華ソヴエート政府の所在地である瑞金(江西省)の陥落を見るに至り、共産軍は西北支那に追ひ詰められて了つたからである。是に於てコミンテルン及中国共産党は、軍事依存主義の頼むべからざることを知り、共産運動本来の面目に立帰り、都市に於ける民衆を獲得し、再組織し、それを背後に背負つて国民党及国民政府を圧迫し、共産党との妥協合作を余儀なくさせようといふ方針を打ち建てたが、それには民衆を結合させるために何等かの題目を掴まねばならぬ。国民の間に普遍的な意識を取上げねばならぬ。彼等に取つて都合のいゝことには、抗日意識といふものが、支那国民の間に瀰漫してゐることであつた。これを掴まへるに限るといふので、第七回コミンテルン大会で世界的に人民戦線を結成するといふ決議をし、特に支那に於ては抗日戦線に重きを置くといひ出したのである。
 この新方針、新戦術を盛つて、「抗日救国のために全国同胞に告ぐるの書」といふのが、中国共産党に依つて出されたのが一九三五年の八月であつたが、それから約一ケ年を経過した一九三六年の六月頃までに、広汎な階層を含む抗日人民戦線が完成された。階層別に戦線内に含まれてゐる主なる抗日団体を挙げると左の通りである。
 (一) 学生層 五・四運動(一九一九年五月四日、北京の学生に依つて行はれた親日派曹汝霖邸焼打事件)以来、学生の社会運動に於ける役割は至極大きい。コミンテルン及中国共産党の発声に対して、真先きに呼応したのも学生であつた。実に一九三五年十二月の北平学生大デモが戦線結成の狼煙だつたのである。各大学、中学、甚だしきは小学校にすら抗日救国会の組織があり、それらが聯合して、地方的に例へば北平学生救国聯合会といふやうなものを作る。上海にも、南京にも、漢口にも、成都にも出来る。最後に其の総中枢機関として上海に全国学生救国聯合会が組織された(一九三六年六月)。学生とは別に、大学教授、中学教員、小学教員等も救国会を持つてゐる。
 (二) 文化界 大学教授、弁護士、記者等が中心となつて各地に文化界救国会が成立した。其の中で一等有名なのは上海文化界救国会で、沈鈞儒、章乃器等有名な人民戦線巨頭は最初この会を出発点としたのである。
 (三) 文芸界 上海に出来た中国文芸家協会、文芸工作者一派、著作人協会なとがこれに属する。文学者、評論家、記者、新劇俳優、映畫人などは大抵この中に網羅されてゐる。
 (四) 商工界 工人救国聯合会なとの系統がこれに属する。
 (五) 婦女界 上海をはじめ各大都市には大抵婦女救国会の組織がある。
 (六) 宣伝機関 各救国会は大抵機関誌を持ってゐるが、それ以外に抗日ヂヤーナリストの経営する専門の抗日雑誌が、雨後の筍のやうに発生した。陶行知の「国難教育」、鄒韜奮の「大衆生活」、「生活週刊」等が其の中でも有名である。巴里で発行される「救国時報」は中国共産党の抗日指導機関で、党随一の理論家陳紹禹等が毎号執筆してゐる。
 (七) 軍界 十九路軍、二十九軍、東北軍、広西軍等が皆戦線の一翼を成してゐる。
 (八) 政界 社会民主党系の中華民族革命同盟、中華民族革命行動委員会等皆戦線の一分子である。
 軍界は別とし、それ以外の抗日団体殆ど全部が参加して、一九三六年六月に「全国各界救国聯合会」が成立した。これが最大の抗日団体で、成立以後常に戦線の先頭に立ち、最も活発に行動してゐる。昨年十一月、在上海邦人紡績罷業を煽動し、終に逮捕された人民戦線七巨頭沈鈞儒、章乃器、鄒韜奮、沙千里、李公樸、陶行知、史良(女弁護士)は、いづれも「全救聯」の常務委員若くは委員である。
 以上で大体共産系及左翼系の抗日団体を網羅したと思ふが、抗日団体は「左」だけの専売ではない。「右」にもあるのである。支那で「右」といへば、国民党系統のことであるが、この系統の抗日指導は最初は共産党系のそれよりも有力であつた。満洲事変初期が、其の最も盛んな時期であつた。併しやがて蒋介石氏が対日関係を慎重に考慮するやうになつてから一時消極的になつたのである。だが、間もなく本来の面目を取り返し、今日では左右一致して抗日の一途に進んでゐる。昨年の西安事件後は特に其の感が深い。
 右翼系抗日団体として、第一に挙げられるのは藍衣社である。支那をファッショ化することを第一の目的とし、蒋介石の私党として、一九三二年に成立したこの秘密結社は、最初の間は蒋の政敵排除乃至圧迫、共産系の駆逐に重きを置いてゐたのであるが、一九三五年の中頃から抗日的色彩を強くして来た。其の最も著しい例は、北支那の藍衣社が国民党党部、憲兵第三団、軍事分会附設政治訓練処等の援助を得て、天津の親日満系新聞社長白逾桓、胡恩啓を暗殺した事件である。これに対し、我が北支那駐屯軍から厳重な抗議が提出され、其の結果梅津、何応欽協定が成立し、それに依つて国民党党部閉鎖、憲兵第三団撤退と共に、藍衣社も北支那から追払はれたのであるが、何時の間にか地下を潜つて再び北支那に現はれ、盛んに抗日扇動をやつてゐたのである。今回の北支事変の起つた其の原因の一つは、確にこの藍衣社の活動に在る。
 右翼系機関の第二はC・C団である。これは陳立夫、陳果夫兄弟を中心とする文人派で、藍衣社の武人派とは違ひ、直接暗殺などに手を下さないが、抗日の感情は前者に劣らず根強い。ファッショの理論を組立てたり、抗日を論理づけたりすることは御手のものである。
 今回の事変の起つた北支那での抗日団体のことを補足する。主な団体としては (一)華北各界救国聯合会 (ニ)河北農民救国聯合会 (三)民族解放先鋒隊 (四)平津学生救国聯合会 (五)平津学生戦地服務団 (六)平津文化界救国会 (七)北平婦女救国会 (八)新文字研究会 (九)文藝座談会 (一〇) 軍事委員会等がある。北平が学問の都であるだけに、抗日団体も大部分が教育界系統である。就中有力と目せられるのは、北京大学教授陶希聖、同尚仲衣等の拠(よ)つてゐる文化界救国会、中国共産青年団北方局の直接指揮下に在つて、宣伝の主力となつてゐる民族解放先鋒隊、第二十九軍の抗日情緒を拡大することに全力を注いでゐる軍事委員会(其の尖鋭分子は現実に軍の中に入り込んでゐる)等である。この外に藍衣社等の右翼系が加はり、必死となつて抗日煽動に努めてゐたのである。果然、北支事変の最も深刻な背景は、彼等の活動であつたのである。


 七月二十八日発行第四十一号二十三頁四行「出炭額(単位千噸)」は「出炭額(単位噸)」の誤   外務省情報部