臣民の道 文部省編纂
序言
第一章 世界新秩序の建設
一、世界史の転換
二、新秩序の建設
三、国防国家体制の確立
第二章 国体と臣民の道
一、国体
二、臣民の道
三、祖先の遺風
第三章 臣民の道の実践
一、皇国臣民としての修練
二、国民生活
結語
序言
皇国臣民の道は、国体に淵源し、天壌無窮の皇運を扶翼し奉るにある。それは抽象的規範にあらずして、歴史的なる日常実践の道であり、国民のあらゆる生活・活動は、すべてこれ偏に皇基を振起し奉ることに帰するのである。
顧みれば明治維新以来、我が国は広く知識を世界に求め、よく国運進展の根基に培つて来たのであるが、欧米文化の流入に伴なひ、個人主義・自由主義・功利主義・唯物主義等の影響を受け、ややもすれば我が古来の国風に悖り、父祖伝来の美風を損なふの弊を免れ得なかつた。満洲事変発生し、更に支那事変起こるに及んで、国民精神は次第に昂揚して来つたが、なお未だ国民生活の全般に亙つて、国体の本義、皇国臣民としての自覚が徹底してゐるとはいひ難きものがある。ともすれば、国体の尊厳を知りながらそれが単なる観念に止まり、生活の実際に具現せられざるものあるは深く憂ふべきである。かくては、我が国民生活の各般に於いて根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除し、真に皇運扶翼の挙国体制を確立して、曠古の大業の完遂を期することは困難である。ここに於いて、自我功利の思想を排し、国家奉仕を第一義とする皇国臣民の道を昂揚実践することこそ、当面の急務であるといはねばならぬ。
第一章 世界新秩序の建設
一、世界史の転換
近世初期以来数百年に亙つて、世界人類を個人主義・自由主義・唯物主義等の支配下に置いた旧秩序は、いまや崩壊の一途を辿り、未曾有の世界的転動の中に、新秩序の建設は刻々に進行してゐる。この世界新秩序の意義を明確にするためには、先ず世界近世史に就いてその大要を瞥見しなければならぬ。
近世史は一言にしていへば、欧州に於ける統一国家の形成と、これらの間に於ける植民地獲得のための争覇戦との展開である。即ち近世初期にアメリカ大陸が発見せられ、それに引き続いて欧州諸国民は支那・インド等の遥かなる東亜の地へも、大洋の波を凌いで盛んに来航することとなつた。而してその全世界への進出は、やがて政治的・経済的・文化的に世界を支配する端緒となり、彼らは世界をさながら自己のものの如く見なし、傍若無人の行動を当然のことのやうに考へるに至つた。
この侵略を欧州以外の諸国はただ深い眠りの中に迎へた。南北アメリカもアフリカも、オーストラリヤも印度も、武力を背景とする強圧と、宗教を手段とする巧妙なる政策とによつて、瞬く間に彼らの手中に帰した。阿片戦争によつてその弱体を暴露した支那もまた、忽ちにして彼らの蚕食の地と化するに及んだ。我が国は、室町時代末より安土桃山時代にかけて、先ずポルトガル・イスパニア等の来航に接し、後に鎖国政策によつて一時の静安を得たけれども、幕末に至りイギリス・フランス・アメリカ・ロシヤ等の来航漸く繁きに会し、神州の地もまた安からざるものがあつた。
元来欧州諸国民の世界進出は冒険的興味の伴つたものであつたとはいへ、主として飽くなき物質的欲望に導かれたものである。彼らは先住民を殺戮し、或ひはこれを奴隷とし、その地を奪つて植民地となし、天与の資源は挙げて本国に持ち返り、或ひは交易によつて巨利を博した。されば彼らの侵略は世界の至る所に於いて天人共に許さざる暴挙を敢へてし、悲慘事を繰り返したのである。アメリカ-インディアンはいかなる取り扱ひを受けたか。アフリカの黒人は如何。彼らは白人の奴隷として狩り集められ、アメリカ大陸に於いて牛馬同様の労役に従事せしめられたのである。このことは大東亜共栄圏内に於ける諸地方の被征服過程と現状とに就いて見ても、思い半ばに過ぎざるものがあらう。而して西暦十八世紀末より十九世紀にかけての欧州に於ける産業革命は、彼等の世界支配の勢いを劃期的に飛躍せしめたことはいふまでもない。機械の発明による工業の発達は、夥しい原料を要求すると共に、その莫大な製品を売り捌く海外市場を必要とした。彼らは愈々盛んに原料の獲得と製品のはけ口とを植民地に求めた。やがて勢いの趨くところ、彼ら同志の間に熾烈なる植民地争奪や貿易競争が起こり、かくして弱肉強食の戦いを繰り返したのである。近世に於けるイスパニヤ・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランス等の間の戦争や勢力消長史は、海外侵略と密接な関係のないものはない。かかる弱肉強食的世界情勢の形成は、やがてその矛盾を拡大し、ついに西暦1914年の世界大戦の勃興を見ることとなつた。
世界大戦は、独仏間の歴史的仇敵関係も与つてはいるが、主として英独の制海権の争奪、経済制覇の闘争がその原因となつてゐる。而して戦争の結果戦敗国ドイツは徹底的重圧を加へられて滅亡の淵に逐はれ、英仏米の独占的世界支配が愈々強化せられた。民族自決の美名の下に弱小国家が戦後の欧州地図を彩つたけれども、それ等は要するに英仏米の世界制覇の堡壘たる役割りを担ふものであつた。所謂正義人道はただ彼等の利己的立場を正当化する手段に過ぎなかつたのである。
近世初期以来西洋文明の基調をなした思想は、個人主義・自由主義・唯物主義等である。この思想は弱肉強食の正当視、享楽的欲望の際限なき助長、高度物質生活の追及となり、植民地獲得及び貿易競争を愈々刺戟し、これが因となり果となつて世界を修羅道に陥れ、世界大戦といふ自壊作用となつて現れたのである。されば大戦後彼等の間からも西洋文明没落の叫びが起こつたのは、当然のことといはねばならぬ。英仏米等があらゆる手段方法を講じて現状維持に狂奔し、また共産主義の如き徹底的なる唯物主義に立脚して階級闘争による社会革命を企図する運動が熾烈となつた一方では、ナチス主義・ファッショ主義の勃興を見るに至つた。この独伊に於ける新しい民族主義・全体主義の原理は、個人主義・自由主義等の幣を打開し匡救せんとしたものである。而して共に東洋文化・東洋精神に対して多大の関心を示してゐることは、西洋文明の将来、ひいては新文化創造の動向を示唆するものとして注目すべきことである。
かくて世界史の転換は旧秩序世界の崩壊を必然の帰趨たらしむるに至つた。ここに我が国は道義による世界新秩序の建設の端を開いたのである。
二、新秩序の建設
満洲事変は、久しく抑圧せられていた我が国家的生命の激発である。この事変を契機として、我が国は列強監視の中に、道義的世界の創造。新秩序建設の第一歩を踏み出した。蓋しこれ悠遠にして崇高なる我が肇国の精神の顕現であり、世界史的使命に基づく国家的生命の巳むに巳まれぬ発動であつた。
我が国の地位は明治三十七八年戦役によつて一躍世界的となつた。この戦役は、ロシヤの東亜進攻態勢によつて独立を脅威せられた我が国が、挙国一致、真に国運を賭して立つた自衛のための戦いであつたが、その世界史的意義は極めて重大であつた。即ち欧州の大強国帝政ロシヤが東洋支配の最後の一線に於いて、渺たる東海の一島国とのみ見られていた日本のために、図らずも手強い反撃に遭い、欧米勢力の世界支配の体制はここに一転するの兆しを示すに至つた。而して我が国の勝利は、全世界の耳目を慫動し、ひいては欧米の勢力下に慴伏を余儀なくせられていた亜細亜諸国の覚醒を促し、独立運動の気運を喚起することとなつた。かくて印度をはじめ、トルコ・アラビヤ・泰・安南その他の諸国は欧米の羈絆を脱せんとの希望に燃え、支那の新しい民族運動にも強い刺戟となつた。かかる澎湃たる亜細亜の覚醒の気運の中に我が国民は東亜の安定を確保することが日本の使命であり、東亜諸地方を解放することは、懸かつて日本の努力にあることを痛切に自覚したのである。
我が国は明治維新以来、開国進取の国是の下に鋭意西洋文物の摂取に努めその間多少の波瀾があつたとはいへ、よくこれ等の長を採つて国運進展の根基に培い、営々として国力充実に邁進して来たのである。殊に明治二十七八年竝びに三十七八年戦役に於いて国威を海外に宣揚し、更に世界大戦を経て世界の強大国に躍進した。諸般の文物制度は顕著なる発達を遂げ、教育の普及、学術の進歩、産業の発達、国防の充実等、あらゆる方面に於いてその面目を一新し、ここに我が国は名実共に東亜の安定勢力たるの地位を確立するに至つた。
かかる我が国運の隆々たる発展伸張は、東亜の天地を併呑せんとする欧米諸国をして深く嫉視せしめ、その対策として彼等は、我が国に対して或ひは経済的圧迫を加へ、或ひは思想的攪乱を企て、或ひは外交的孤立を策し、以つて我が国力の伸張を挫かんとした。このことは同時に東亜をしてその自主性を喪失せしめ、永遠に彼等の傀儡たらしめんとするものに外ならない。
世界大戦の帰結たる所謂ベルサイユ体制は、戦敗国ドイツに徹底的重圧を加へると共に、英仏米による世界支配を強化せんとするものであつたといふことが出来る。而してベルサイユ条約成立後、国際連盟を中心とする彼等の対日構成は愈々執拗となり、大正十年より翌十一年に亙るワシントン会議に於いては、国運の進展に必須の推進力たる軍備の削減を意図して、主力艦の噸数に於ける比率を定めることによつて、我が海軍力に対する彼等の優位を確保せんとした。それのみならず、四国条約によつて太平洋上の島嶼の安全保障に名を藉りて我が国防を脅かし、また九国条約によつて支那に対する彼等の権益を擁護し、かつ我が大陸への発展を妨げんと企てた。彼らはこれに飽くことなく、更に昭和五年のロンドン会議に於いては補助艦艇の比率をも制限し、我が海軍力を英米に対して絶対的劣位に釘付けせんとした。これ我が国が東亜勃興の推進力としての地位に躍進するを阻まんとせるものに外ならない。またこれに前後してアメリカは、我が海外移民の入国を制限または禁止する等の処置に出でた。かく諸方面に於いて、我が国の発展を阻止せんとする策謀が続けられたのである。
かかる太平洋を周る諸情勢の逼迫につれて、東亜に於ける我が国の立場も急迫せる事態に直面することとなつた。即ち支那は欧米諸国の対日圧迫の勢いを利用してその経済的支援を得、またソ連との接近を図り、かつ我が国力を過小に評価して日本与し易しとなし、同胞の血と肉とによつて確立せられた満洲に於ける地位を蹂躙して、我が生命線を脅かすに至つた。かくて昭和六年九月、満洲事変の勃発をみたのである。
世界史は満洲事変を以つて新しき頁を書き始められた。世界の視聴は東洋の一角に集まり、英米勢力を中心とする国際連盟はあらゆる手段を弄して妨害に乗り出した。併しながら我が国の堅き決意は、満蒙三千万民衆の運命を担つて事変の完遂に邁進し、昭和七年には満洲国の輝かしい誕生となつたのである。而して満洲国は王道楽土・民族協和を理想として逐年迅速かつ健全に生長を続け、日満一体の実愈々鞏固なるものがある。
多民族の搾取と犠牲とによつてその繁栄を続けんとする欧米諸国は、満洲建国によつて大な脅威を感じ、国際連盟を利用して飽くまで我が国に不当の制裁を加へんと狂奔した。所謂リットン報告書は専らそのための準備であり、連盟は道義的世界を顕現せんとする我が意図を蹂躙せんとした。ここに於いて我が国は遂に意を決し、昭和八年三月、国際連盟を脱退するに至つたのである。国際連盟脱退に関する詔書には、
今次満洲国ノ新興ニ当リ帝国ハ其ノ独立ヲ尊重シ健全ナル発達ヲ促スヲ以テ東亜ノ禍根ヲ除キ世界ノ平和ヲ保ツノ基ナリト為ス然ルニ不幸ニシテ連盟ノ所見之ト背馳スルモノアリ朕乃チ政府ヲシテ慎重審議遂ニ連盟ヲ離脱スルノ措置ヲ採ラシムルニ至レリ
と仰せられてある。国際連盟は畢竟名を世界の公論に藉りて、英仏等の世界大戦によつて獲得せる利権を護り、その現状を維持せんとする機関に堕し了はつたのである。我が国はかかる桎梏を敢然として摧破した。而も我が国の決意と武威とは、彼等をして何らの制裁にも出づること能はざらしめた。我が国が脱退するや、連盟の正体は世界に暴露せられ、ドイツも同年秋に我が跡を追うて脱退し、後れてイタリヤもまたエチオピヤ問題に機を捉らへて脱退の通告を発し、国際連盟は全く虚名のものとなつた。かくして我が国は昭和六年の秋以来、世界維新の陣頭に巨歩を進め来つてゐる。
我が国は満洲国と協力して日満一体の実を挙げてゐるが、東亜全般の新秩序を建設するには、支那との心からなる提携協力を必要とする。蓋し日満支が一体となつてこの理想の実現に邁往してこそ、東洋の平和は確立せられ、ひいては世界の平和にも寄与し得るのである。北清事変以来擡頭し来つた支那の民族運動は、明治三十七八年戦役以来の我が国の目覚しき躍進に刺戟せられて急激に高まつたが、それは欧米の搾取と暴圧との桎梏を打破し、半植民地的地位を脱出して、大東亜共栄圏の一翼としての新しき支那の建設に向かふべきであつた。然るにその運動は、日支提携による東亜の自主的確立を欲せざる欧米諸国竝びにコミンテルンの画策に乗ぜられ、却つてこれ等勢力に依存することとなり了はつた。かくして不幸にも根本方針を誤つた一部指導者は、抗日救国の名の下に一般民衆に対して多年に亙り執拗に抗日教育を施し、ここに排日侮日の風潮は全支に瀰漫し、満洲事変を経て日支の国交は愈々危機に瀕するに至つた。
昭和十二年七月、蘆溝橋に発した日支衝突事件に際しては、我が国は東亜の安寧のため、現地解決、不拡大方針を以つて臨み、隠忍自重して彼の反省を待つたのである。然るに支那は飽くまで我が実力を過小に評価し、背後の勢力を恃みとして、遂に全面的衝突にまで導いた。かくて硝煙は大陸の野を蔽い、亜細亜にとつて悲しむべき事態が展開せられるに至つたのであるが、事ここに及んでは我が国は事変の徹底的解決を期し、新東亜建設の上に課せられた厳粛なる皇国の使命の達成に一路邁進しなければならぬ。天皇陛下には、ここに深く御軫念あらせられ、支那事変一周年に当たり下賜せられたる勅語に、
惟フニ今ニシテ積年ノ禍根ヲ断ツニ非ズムバ東亜ノ安定永久ニ得テ望ムベカラザル日支ノ提攜ヲ堅クシ以テ共栄ノ実ヲ挙グルハ是レ洵ニ世界平和ノ確立ニ寄与スル所以ナリ
と昭示し給ひ、国民の向かふべきところを諭し給ふた。まことに支那事変の目的は支那の蒙を啓き、日支の提携を堅くし、共存共栄の実を挙げ、以つて東亜の新秩序を建設し、世界平和の確立に寄与せんとするにある。
事変始まつて既に五星霜、御稜威の下この大なる使命を負うて、忠勇なる皇軍将兵は、厳寒を冒し、酷熱を凌ぎ、陸に海に空に奮戦力闘して赫々たる武勲を輝かし、また銃後の国民は挙国一体よく奉公のまことを致してゐるのである。而して支那には既に新政権確立し、新しき支那の建設は漸くその緒に就いた。即ち昭和十五年十一月、南京の国民政府との間に日華基本条約竝びに附属議定書の正式調印を見た。これによれば両国政府は、「両国相互ニ其ノ本然ノ特質ヲ尊重シ東亜ニ於テ道義ニ基ク新秩序ヲ建設スルノ共同ノ理想ノ下ニ善隣トシテ緊密ニ相提携シ以テ東亜ニ於ケル恆久的平和ヲ確立シ之ヲ核心トシテ世界全般ノ平和ニ貢献センコトヲ希望」するものであり、これがために両国は政治・外交・教育・宣伝・交易等諸般に亙り相互に両国間の好誼を破壊するが如き措置及び原因を撤廃し、かつ将来もこれを禁絶すると共に、政治・経済・文化等各般於いて互助敦睦の手段を講ずべき旨を協定したのである。同時にまた日満華三国共同宣言が発表せられ、相互の主権及び領土の尊重、互惠を基調とする三国間の一般提携、特に善隣友好・共同防共・経済提携の実を挙げること、及びそのために必要なる一切の手段を講ずること等が宣言せられた。
これより前、昭和十五年九月、日独伊三国の間に条約が締結せられるに当り、天皇陛下には詔書を渙発あらせられ、
大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ而シテ今ヤ世局ハ其ノ騒乱底止スル所ヲ知ラズ人類ノ蒙ルベキ禍患亦将ニ測ルベカラザルモノアラントス朕ハ禍乱の戡定平和ノ克復ノ一日モ速カナランコトニ軫念極メテ切ナリ乃チ政府ニ命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提攜協力ヲ議セシメ茲ニ三国間ニ於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深く懌ブ所ナリ惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ
と宣はせられた。日本の世界史的使命は実にこの聖旨に拝して昭らかである。而してこの条約の根本精神は、その前文の冒頭に見る如く、万邦をして各々その所を得しむるを以つて恆久平和の先決条件とするところにある。ここに我が国の東亜に於ける指導的地位は愈々不拔のものとなり、八紘を掩いて宇となす我が肇国の精神こそ、世界新秩序建設の基本理念たるべきことが愈々明確になつたのである。
支那事変は、これを世界史的に見れば、我が国による道義的世界建設の途上に於ける一段階である。世界永遠の平和を確保すべき新秩序の建設は、支那事変の処理を一階梯として達成せられる。従つて、支那事変は、蒋介石政権の打倒を以つて終はるべきものではない。我が国としては、支那を誤らしめた東亜に於ける欧米勢力の禍根を芟除し、大東亜共栄圏の一環としての新しき支那の建設に協力し、東亜竝びに世界が道義的に一つに結ばれるまでは、堅忍不拔の努力を必要とする。日独伊三国条約の締結も、世界平和の克服を目的とするものに外ならない。この意味に於いて、我が国は二重三重の責務を世界に対して負うてゐるのである。即ち政治的には欧米の東洋侵略によつて植民地化せられた大東亜共栄圏内の諸地方を助けて、彼等の支配より脱却せしめ、経済的には欧米の搾取を根絶して、共存共栄の円滑なる自給自足経済体制を確立し、文化的には欧米文化への追随を改めて東洋文化を興隆し、正しき世界文化の創造に貢献しなければならぬ。東洋は既に数百年に亙つて破壊せられて来た。その復興が既に容易の業ではない。更に新秩序を確立し新文化を創造するには、非常の困難が伴ふことは必然である。この困難を克服してこそ、真に万邦協和し、万民各々その所を得るに至るべき道義的世界の確立に寄与し得る。まことに国史を一貫して具現せられ来つた肇国の精神は、さきに満洲事変、更にまた支那事変を契機として世界史転換の上に大なる展開を示すに至つたのである。
三、国防国家体制の確立
世界新秩序の建設は、漸くその第一歩を踏み出したのみである。現状維持の自由主義的民主主義国家の一群は、これに対して相結んで必死の妨害を試みてをり、またその諸植民地は、彼等の術策により未だ欧米依存の迷夢から醒めきれぬ。まことに大業の前途はなお遼遠であつて、その行路は決して坦々たるものではない。あまねく世界人類をその堵に安んぜしめんとする我が国の責務は、尋常一様の覚悟を以つてしては到底果たすことが出来ぬ。この難局を突破するためには、国内の諸組織や機構も速やかに更新強化せられねばならない。これ国内新体制の確立が要望せられる所以である。
我が国は、近くは明治維新に際し挙国一致の体制を整へて外敵の侵攻を斥け、爾来国力を充実して富国強兵の実を挙げ、明治二十七八年竝びに三十七八年戦役の国難をも克服することが出来た。併しながら明治以来欧米文物の輸入に急なる余り、ややもすれば本を忘れて末に趨り、我が古来の国風に悖るが如き余弊を胎すに至つた。かくて明治三十七八年戦役は一般民心の弛緩を来たし、殊に世界大戦は未曾有の好景気を齎して軽佻奢侈の風が瀰漫し、個人主義・自由主義・功利主義等の病弊が顕著となり、この間隙に乗じて赤化思想の流入もあり、時に我が国体の本義、肇国の精神を没却するものも出づるに至つた。綱紀の弛緩、思想の動搖、国防の軽視等、各方面に憂ふべき状態を呈したのである。偶々大正十二年九月、関東大地震が起こつたが、この災害も国民の反省と戒愼とを促すには足らなかつた。この時、国民精神作興に関する勅語を下賜あらせられた聖慮の程、ただただ恐懼に堪へぬ次第である。日本精神に還れとの痛烈なる叫びが国民の間から起こり来つたのは恰もこの頃からである。
やがて満洲事変が勃発し、一般国民も緊迫せる四囲の情勢に目覚めて来た。更に支那事変の発生を見るに及び、国内体制も時局の推移に伴つて漸次革新せられ来つたのである。併しながら国民各層に深く浸潤せる弊習は俄かに払拭すべからざるものがあり、事変初期に於いては国民の多くはかくまで大規模の戦ひなるとは考へず、まして世界史的意義に就いては認識を欠くものが少なくなかつた。然れども時局の進展は、我が国の使命の重大なるを明瞭ならしむると共に、国民を挙げて一国の偸安をも許さざる未曾有の難局に直面せるを覚らしむるに至つたのである。今後如何なる事態が発生するにしても、これに対し挙国一体となつて敢然その難に当るべき十分の覚悟と万全の準備とを整へ、いかなる試煉にも堪へて飽くまで不動の国是の貫徹に邁進しなければならぬ。即ち政治・経済・分化・教育等国民生活のあらゆる領域に亙り、真に挙国一致の体制を確立するすることこそ国家の焦眉の急務である。
凡そ国防は国家の存立上必須の要件である。国防なき国家の如きは空想の世界のことに属する。国防の完全なると否とは実に国家存亡の岐かれるところであり、これを忘れて国家の生成発展は到底望むべくもない。されば新体制確立の具体的目標は、高度国防国家体制の整備にあり、国家総力戦体制の強化にある。
もと国防は武力戦に対する軍備を意味してゐた。少なくとも世界大戦に至るまでは、各国共にこの古い国防観念に立脚して、軍備の充実を以つて直ちに国防の強化と考へ、戦争は武力戦に終始したのである。然るに世界大戦が進行するに従つて兵器・弾薬・軍需資材等の甚だしき消耗は国内生産力の拡充を促して、戦線と銃後とが緊密に結合すると共に、外交戦・経済戦・思想戦・科学戦等が武力戦と一体となり、あらゆる国家活動が直接戦争に參加することとなつた。かくて戦争は国家総力戦であり、戦線と銃後との別なく、国民全部が戦争に従事してゐることを如実に感ぜしめたのである。総力戦体制に立脚するにあらざれば真の勝利を獲ることは出来ない。たとひ武力戦に勝を制するとも経済戦・思想戦等に敗北するならば、結局戦敗の苦汁を嘗めなければならぬ。その好例はこれを世界大戦に於けるドイツに見るのである。
戦争の本質が武力戦から総力戦へと転化し来たるに伴ない、戦時と平時との境も明らかでなくなつた。世界が平和を謳歌してゐる時にも、その背後には各国の間に経済戦・思想戦等熾烈なる闘争が続けられてゐる。平常より国家国民の総力が国家目的に集結統合せられ、最高度の機能を発揮し得るが如くに組織運営せられてゐるのでなければ、弋を執らずして既に敗退してゐるのである。若し国家の諸機構が支離滅裂となり、政治的には党派が互ひに相剋対立し、経済的にはその運営が個人の恣意と自由競争とに放任せられて国家目的から遠ざかり、文化的にも学術・芸能・諸施設等がほとんど国家に貢献するところなく更に国体に背き国民の志気を頽廃せしめるが如き思想の横行するままに委ねられてゐるならば、国家とは名のみである。今次のドイツの目覚しき活躍は、決して高度性能の機械化軍備の威力のみよるものではない。平時にあつてそれを支へ、それを動かしてゐる旺盛なる国民精神と国民の熱烈なる国防への協力との賜なのである。換言すれば、よく挙国一致して国内諸般の体制を統一的に組織運営し、平時戦時を一貫して総力戦体制を充実し来つたによるものである。
今次欧州大戦以来列強は競つて総力戦体制を採り、その強化に努めてゐる。英米等の民主主義国家も高度国防国家体制の整備を急いでいる。我が国は大東亜共栄圏の指導者として、また根本的には世界を道義的に再建すべき使命に鑑み、速やかに総力戦体制を完備し、以つて我が国是の遂行に邁進しなければならぬ。紀元二千六百年の紀元の佳節に当たり発せられた詔書には、
爾臣民宜シク思ヲ神武天皇ノ創業ニ聘セ皇国の宏遠ニシテ皇謨ノ雄深ナルヲ念ヒ和衷戮力益々国体ノ精華ヲ発揮シ以テ時難ノ克服ヲ致シ以テ国威ノ昂揚ニ勗メ祖宗ノ神霊ニ対ヘンコトヲ期スベシ
と諭し給ふてゐる。而して我が国の総力戦体制強化の目的は、偏に皇運を扶翼し奉るところにあり、それは全国民がその分に応じ各々臣民の道を実践することによつて達せられる。ソ連は共産主義による世界制覇を目的とし、階級的独裁による強権の行使を手段としてゐる。ドイツは血と土との民族主義原理に立つて、アングロ−サクソンの世界支配、ドイツ圧迫の現状を打破し、民族生存権の主張に重点をおき、そのためにナチス党の独裁に対する国民の信頼と服従とを徹底せしめ、全体主義を採用してゐるのである。イタリヤは大ローマ帝国の再現を理想とし、方法に於いてはドイツと異なるところなく、ファッショ党の独裁的全体主義に立脚してゐる。これ等に対し我が国は肇国以来、万世一系の天皇の御統治の下に、皇恩は万民に洽く、真に一国一家の大和の中に生成発展を遂げて来たのであり、政治・経済・文化・軍事その他百般の機構は如何に分化しても、すべては天皇に帰一し、御稜威によつて生かされ来つたのである。我が国家の理想は八紘を掩いて宇となす肇国の精神の世界的顕現にある。我が国の如く崇高なる世界史的使命を担つてゐる国はない。されば新体制を樹立し国防国家体制を確立するといふも、一に我が国体の本義に基づき、固有の国家体制を生かして万民輔翼の我が国本然の姿に還り、以つて我が国力の運用を万全ならしめ、その総力の発揮に遺憾なきを期することに外ならぬ。もとより制度や組織・方法・技術等は虚心坦懷に他の長を採るとしても、核心は飽くまで本来の面目に反省し、その発揚に努るにある。
第二章 国体と臣民の道
一、国体
世界史は大きく新しく動きつつある。我が国の歴史的使命に基づく道義的世界建設の理想は、東亜新秩序建設への巨歩を通じてその実現の緒に就いた。時恰も昭和十五年、光輝ある紀元二千六百年を迎へ、国民は斉しく宝祚の彌々盛んなるを仰ぎ奉つたのである。この年、紀元の佳節に当たつては優渥なる詔書を賜はり、秋には記念の祝典が挙げられた。
紀元二千六百年を寿ぐ曠古の盛典は、澄み渡つた大空の下、宮城外苑式場に於いて、天皇皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、盛大かつ厳粛に行はれた。億兆挙つて聖寿の万歳を唱へ奉つた歓喜と感激との中に、国民は肇国の淵源を憶い、神武天皇御創業の雄図を偲び奉り、国史の成跡を顧み、皇国の窮まりもなき隆昌を慶祝した。かくて我等はここに、肇国の精神に基づく道義的世界建設への決意を愈々深くしたのである。
我が国は、皇祖天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊に神勅を授け、この豐芦原の瑞穂の国に降臨せしめ給ひしより、万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にしろしめし給ふ。臣民は億兆心を一にして忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る。万古不易の我が国体はここに燦として耀いてゐる。
顧みるに我が国の道義的世界建設への使命は、悠遠なる我が肇国の事実に淵源してゐる。即ち伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊の二柱の神は、天ツ神諸々のみこともちてこの漂へる国の修理固成に従い給ふた。この二尊の大御業を、古事記には、
是に天ツ神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて伊邪那岐ノ命・伊邪那美ノ命二柱の神にこの漂へる国を修理(つく)り固成(かためな)せと詔(の)りごちて、天(あま)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひてことよさしたまひき
と記されてあるが、この伝承の中に、我が歴史的使命の悠久なる淵源が明らかに感得せられる。二尊は「国稚(わか)く、浮脂(うきあぶら)の如くして、くらげなすただよへる」国を修理固成せられんがために、先ず大八洲を生み、次ぎに山川・草木・神々を生み、更にこれを統治せられる天照大神を生み給ふた。二尊は天照大神を生ませられていたく喜び給ふたのであつて、日本書紀には、「此の子(ミコ)光華(ヒカリ)明彩(ウルハ)しくして六合(アメツチ)の内に照徹(テリトホ)らせり。」と記し、万物を化育し給ふ宏大無辺なる御稜威を讃へ奉つてゐる。かくて天照大神は高天ノ原の神々を始め、二尊の生ませられた国土を愛護し、群品を撫育し、生成発展せしめ給ふのである。而してこの大御業を天壌と共に窮まりなく弥栄えに栄えしめ給はんとして、皇孫瓊瓊杵ノ尊に
豐葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり 宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治せ 行矣(さきくませ) 宝祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮りなかるべし
と勅せられて、大八洲に降臨せしめ給ふた。
この時、天照大神は皇孫に三種の神器、即ち八坂瓊ノ曲玉・八咫ノ鏡・天ノ叢雲ノ剣(草薙ノ剣)を授け給ひ、爾来神器は連綿として代々相伝へ給ふ皇位の御しるしとなつた。特に御鏡については勅を賜はり、
此れの鏡は、専(もは)ら我が御魂(みたま)として、吾が前(みまへ)を拝(いつ)くが如(ごと)、いつきまつれ
と仰せられてゐる。即ち御鏡は、天照大神の崇高なる御霊代として皇孫に授けられたものであり、歴代の天皇はこれを受け継ぎいつきまつり給ふのである。
皇孫降臨の後、御三代の間は日向の地にましまし、ひたすら正しきを養い慶を積み暉を重ね給ふたのであるが、神武天皇の御代に至つては御東征あり、大八洲の中心に遷つて、国をしろしめし給ふた。而して大和橿原の地に都を奠めさせられるに際しては、
夫れ大人(ヒジリ)の制(ノリ)を立つる、義(コトワリ)必ず時に随ふ。苟も民に利(クボサ)あらば、何ぞ聖造(ヒジリノワザ)に妨(タガ)はむ。且(マタ)当に山林(ヤマ)を披払(ヒラキハラ)ひ宮室を経営(ヲサメツク)りて、恭(ツツシ)みて宝位(タカミクラヰ)に臨み、以て元元(オホミタカラ)を鎮(シヅ)むべし上は即ち乾霊(アマツカミ)の国を授けたまふ徳(ウツクシビ)に答へ下は即ち皇孫(スメミマ)の正(タダシキ)を養ひたまひし心(ミココロ)を弘めむ。然して後に六合(クニノウチ)を兼ねて以て都を開き、八紘(アメノシタ)を掩(オホ)ひて宇(イヘ)と為(セ)むこと、亦可(ヨ)からずや
と詔し給ふた。この天業恢弘の御精神は、専ら我が肇国の精神に則とらせられたものであり、歴代の天皇はこの大御心を継ぎ給ひ、天の下をしろしめし給ふのである。今上陛下には日独伊三国条約の締結に際し詔書を下し給ひ、
大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ
と仰せられてゐる。国民はこの肇国の精神に基づかせ給ふ深き大御心を奉体し、皇国の世界史的使命の達成に奮励努力しなければならぬ。
天ノ日嗣の御位に即かせ給ふ天皇は、神鏡奉斉の神勅のまにまに、祭祀の大御業、即ちまつりを通じて皇祖と御一体とならせ給ひ、皇祖の大御心を体し給ふ。神武天皇は御即位の後、
我が皇祖(ミオヤ)の霊(ミタマ)や、天(アメ)より降鑒(クダリヒカ)りて、朕が躬(ミ)を光(テラシ)助けたまへり今諸の虜(アダドモ)巳に平ぎ、海内(アマノシタ)無事(シヅカ)なり以て天神を郊祀(マツ)りて用(モツ)て大孝を申(ノ)べたまふ可し。
と宣い、霊畤を鳥見の山中に設けて、皇祖天ツ神を祀り給ふた。歴代の天皇もまた、常に皇祖皇宗を給ひ、恆例及び臨時の祭祀を厳粛に執り行はせられる。光仁天皇は、
神祇を祭祀する国の大典なり
と勅せられ、宇多天皇は御日記に、
我が国は神国なり 因つて毎朝、四方大中小の天神地祇を敬拝す
と記し給ひ、崇徳天皇は禁秘御抄に、
凡そ禁中の作法、先づ神事、後に他事。旦暮敬神の叡慮、懈怠なし
と述べ給ふてゐる。毎年の政始には、先ず神宮の御事を聞こし召され、畢はつて政治の奏上を受けさせられる趣に拝する。
御宇多天皇御製 天津神国つ社をいはひてぞ我があしはらの国はをさまる
明治天皇御製 神垣に朝まゐりしていのるかな国と民とのやすからむ世を
御製 天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たゝぬ世を
かくて神を祀らせられることと政をみそなはせ給ふこととは、その根本に於いて一である。ここに天皇の御敬神はそのままに愛民の御政治となる。これ祭政一致の我が国体の然らしむるところである。明治三年の鎮祭の詔には、
朕恭しく惟みるに大祖業を創め神明を崇敬し、蒼生を愛撫す祭政一致由来する遠し矣
と仰せられてゐるのであつて、祭政一致は実に肇国の古へより国史を一貫する神聖にして厳粛なる事実である。天皇は神につかへ給ふ大御心を以つて国をしろしめし給ふのである。
また天照大神は五穀を得ていたく喜ばせられ、
是の物は則ち顕見蒼生の食ひて活く可きものなり
と宣い、また親ら機を織らせ給ひ、而して皇孫降臨に際しては、
我が高天ノ原に御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつる
と勅し給ふた。神武天皇は皇居を営み給ふに当たり、
夫れ大人の制を立つる、義必ず時に随ふ。苟も民に利あらば、何ぞ聖造に妨はむ
と詔し給ひ、崇仁天皇は、
宸極しろしめすことは、豈一身の為ならむや
と仰せられ、仁徳天皇は、
百姓貧しきは則ち朕が貧しきなり。百姓富めるは、則ち朕が富めるなり
と述べ給ひ、また元明天皇が宣命に、
遠皇祖の御世を始めて、天皇が御世御世、天つ日嗣と高御座に坐して、此の食国天下を撫で賜ひ慈み賜ふ事は、辞立つに在らず人の祖のおのが弱児を養ひ治す事の如く、治め賜ひ慈み賜ひ来る業となも、随神念ほしめす。
と仰せられたのを拝するにつけても、民をみそなはすこと子の如き大御心の程は、まことに忝なき極みである。聖武天皇は、疾疫流行し、百姓重病を得て昼夜辛苦せる時、
朕は父母たり、何ぞ憐愍せざらむ
と大御心を垂れ給ひ、医薬を遣はし、賜穀賑恤せしめられた。醍醐天皇は寒夜に御衣を脱ぎ給ふて窮民の上を御軫念あらせられ、後鳥羽天皇は御製に、
夜を寒みねやのふすまのさゆるにもわらやの風を思ひこそやれ
と深く民草を憐み給ふた。後醍醐天皇は飢饉を聞こし召して朝餉の供御を止めさせられ、御製に、
世をさまり民やすかれといのるこそわが身につきぬおもひなりけれ
と、深き大御心の程を詠じ給ふてゐる。明治天皇は維新の宸翰に、
朝政一新ノ時ニ膺リ天下億兆一人モ其処ヲ得サル時ハ皆朕カ罪ナレハ今日ノ事朕自身骨ヲ労シ心志ヲ苦メ艱難ノ先ニ立古列祖ノ尽サセ給ヒシ蹤ヲ履ミ治蹟ヲ勤メテコソ始テ天職ヲ奉シテ億兆ノ君タル所ニ背カサルヘシ
と仰せ給ふた。
かくて天皇は皇祖皇宗の御心のまにまに、親の子を慈しむにもまして国民を慈しみ給ひ、国民は天皇を大御親と仰ぎ奉り、ひたすら随順のまことを致すのである。これは国即家の我が国体の精華である。今上陛下には即位礼当日の紫宸殿の儀に於いて勅語を賜はり、
皇祖皇宗国ヲ建テ民ニ臨ムヤ国ヲ以テ家ト為シ民ヲ視ルコト子ノ如シ列聖相承ケテ仁恕ノ化下ニ洽ク兆民相率ヰテ敬忠ノ俗上ニ奉シ上下感孚シ君民体ヲ一ニス是レ我カ国体ノ精華ニシテ当ニ天地ト竝ヒ存スヘキ所ナリ
と仰せ出されてゐる。 かかる国体を有する国は、世界のいづくにも見出すことが出来ぬ。我が国にして始めて道義的世界建設の使命を果たし得るのであり、我が国こそまさしく世界の光明である。天皇陛下には紀元二千六百年式典の臨幸あらせられて、
茲ニ紀元二千六百年ニ膺リ百僚衆庶相会シ之レカ慶祝ノ典ヲ挙ケ以テ肇国ノ精神ヲ昂揚セントスルハ朕深ク焉レヲ嘉尚ス今ヤ世局ノ激転ハ実ニ国運隆替ノ由リテ以テ判カルル所ナリ爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ体シ我カ惟神ノ大道ヲ中外ニ顕揚シ以テ人類ノ福祉ト万邦ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ
と勅し給ふた。皇国の道に則とり肇国の精神を四海に宣揚して、道義に基づく世界新秩序を建設し、以つて人類の福祉、万邦の協和に寄与するこそ、我が国の使命である。
二、臣 民 の 道
皇国臣民は、畏くも皇室を宗家と仰いで、一国一家の生活を営んでゐる。もとより我が国には古来他民族の皇化を慕つて来たり仕へるものがあつたが、これ等外来民族も御稜威の下に皆斉しく臣民たるの惠沢に浴し、時移るに従ひ、精神的にも血統的にも全く一体となつて、臣民たるの分を竭くし来たつた。聖徳無辺、万物を包容同位して至らざるなく、一国一家の実は愈々挙がり、君民一体の光輝ある国家は天壌と共に窮まりなく栄えて来た。
万民愛撫の皇化の下に億兆心を一にして天皇にまつろひ奉る、これ皇国臣民の本質である。天皇へ随順奉仕するこの道が臣民の道である。かの「和を以て貴しとなす」との御教へを以つて始まる聖徳太子の十七条憲法には、
私を背きて公に向くは是れ臣の道なり。凡そ人に私有れば必ず恨有り、憾有るときは必ず同らず、同らざれば則ち私を以て公を妨ぐ。憾起るときは則ち制(ことはり)に違ひ、法を害(やぶ)る。故に初章(くだり)に云へらく、上下和(やはら)ぎ諧(かな)へと。其れ亦是の情(こころ)か。
とあり、元正天皇の詔には、
至公にして私無きは国士の常風なり。忠を以て君に事ふるは臣子の恆道なり。
と仰せられてある。また北畠親房は神皇正統記に、「凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を拾つるは人臣の道なり。」と教へてゐる。即ち臣民の道は、私を捨てて忠を致し、天壌無窮の皇運を扶翼し奉るにある。
歴代の天皇は臣民をば大御宝と重んぜさせ給ひ、臣民はまた畏くも天皇の御民たるの光栄に生きる。記紀・宣命等には屡々おほみたからと宣はせられてあり、万葉集に於いては臣民自らみたみとその感激を謳つてゐる。また詔勅には爾臣民と親しく呼びかけさせられ、股肱と頼ませ給へるを拝する。かの臣民翼賛の道を広め給ふた大日本帝国憲法の発布に際して賜はつた勅語には、
惟フニ我力祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼二倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ
と肇国以来の臣民翼賛の事実を宣べさせられ、皇祖皇宗の御威徳と臣民祖先の忠実・勇武・愛国・殉公とによる光輝ある国史の成跡を顧み給ひ、
朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ
と仰せられてゐる。今上陛下には即位礼当日紫宸殿の儀に於いて賜はりたる勅語に、
朕内ハ即チ教化ヲ醇厚ニシ愈民心ノ和合ヲ致シ益国運ノ隆昌ヲ進メムコトヲ念ヒ外ハ則チ国交ヲ親書ニシ永ク世界ノ平和ヲ保チ普ク人類ノ福祉ヲ益サムコトヲ冀フ爾有衆其レ心ヲ協ヘ力ヲ戮セ私ヲ忘レ公ニ奉シ以テ朕カ志ヲ弼成シ朕ヲシテ祖宗作述ノ遺烈ヲ揚ケ以テ祖宗神霊ノ降鑒ニ対フルコトヲ得シメヨ
と宣べさせ給ふてゐる。皇国臣民たるものは大御心を奉体し、粉骨砕身、臣民の道を実践して皇恩に報い奉らねばならぬ。
我が臣民の道は、神聖なる皇祖皇宗の遺訓と、光輝ある国史の成跡とに鑑みてまことに昭らかである。教育に関する勅語には、
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
と仰せられ、忠孝が臣民の道の大本たることを昭示し給ひ、
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
と諭させ給ふた。而も斯の道は古今東西を貫ぬく大道であつて、皇国臣民のひたすら服膺し、晝となく夜となく履践すべきことを教へさせられてゐる。十七条憲法には、
詔を承りては必ず謹め。君をば即ち天(あめ)とす。臣をば即ち地(つち)とす。天覆ひ地載す。四の時順り行き、万の気通ふを得。地天を覆さむと欲るときは、則ち壊(やぶるること)を致さむのみ。是を以て、君言(のたま)ふときは臣承る。上行へば下靡く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずば自らに敗れなむ。
とある。而して文武天皇の宣命には、
天皇(すめら)が朝庭(みかど)の敷き賜ひ行ひ賜へる国法を過ち犯す事無く、明(あか)き浄(きよ)き直(なほ)き誠の心を以ていやすすみすすみて緩(たゆ)み怠る事無く務め結(しま)りて仕へ奉(まつ)れ。
と仰せ給ふてゐる。この明き浄き直き誠の心は、宣命には屡々見え、明・浄・直の外に正等を加へて誠の心を説き明かされてゐるが、これはきたなき心(黒・悪・濁・邪・穢)即ち不忠に対する忠誠を意味し、我が国民道徳の根本を言ひ表はされたものである。軍人勅諭に、
さて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑此五ケ条は我軍人の精神にして一の誠心は叉五ケ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ケ条は天地の公道人倫の常経なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
と諭させ給ふた大御心は、国民斉しく肝に銘ずべきところである。
抑々我が国に於いては忠あつての孝であり、忠が大本である。我等は一家に於いて父母の子であり、親子相率ゐて臣民である。我等の家に於ける孝はそのままに忠とならねばならぬ。忠孝は不二一本であり、これ我が国体の然らしむるところであつて、ここに他国に比類なき特色が存する。もとより我が国に於いては、西洋に見る如く夫婦を単位とせず親子関係を中心として家をなし、従つて孝道が重んぜられるのは当然のことである。孝謙天皇の天平宝字元年には家毎に孝経一本を備へしめて誦習せしめられ、その時勅し給ふて、
古者、民を治め国を安んずるは必ず孝を以て理(をさ)む。百行の本、茲より先なるは莫し。宜しく天下をして、家どとに孝経一本を藏し、精勤誦習し、倍教授を加へしむべし。百姓の間に、孝行人に通じて、郷閭の欽仰する者有らば、宜しく所由の長官をして具に名を以て薦めしむべし。
と仰せられてゐる。而して孝の第一義は父祖の心を継いで、皇運扶翼の臣民の道を実践するところにある。これ我が孝道の神髄である。されば子は父に順ひ、父は祖に順つて共々に忠を致すのであつて、家に於ける敬神崇祖はこれを具現する行でなくてはならない。
天皇は皇祖皇宗を祀り大孝を申べ給ひ、その御心を体せられ、惟神の道に則とつて国を治め民をしろしめし給ふ。この皇室に於ける御敬神の彌深きを仰ぎ、臣民各々敬神崇祖を実践するところに、自ら孝が成ぜられる。我等臣民は歴代の天皇に仕へ奉りし祖先を敬ひ、その純忠と同心一体となつて、現御神に仕へまつり、大御心に応へ奉らねばならぬ。ここに敬神崇祖の根本義がある。
皇国臣民たる我等は、皇運扶翼のみこともちて生まれ来たつたものである。臣民の道の実践に於いて億兆これ一でなければならぬ。万民輔翼、老若男女を問はずひたすら大御心を奉体して終始するばかりである。もとよりその官にあると否とに別のあるべき筈はない。橘守部は待問雑記に、「世人、直に大宮に事ふるのみを奉公といへども、此照す日月の下に、天皇に不事人やはある。」といつて、田を佃るも商ひするも、すべてこれ天業を翼賛し奉ることに於いて転はらのないことを説いてゐる。
我等の祖先は肇国以来、武人は弋を執つて身を捧げ、農人は鍬を執つて仕へ、その他商に工に皆各々その所に応じ夫々の分を竭くして、国家の隆昌に力を致し、皇運を扶翼し奉つて来た。我等はまた大御心を奉体し、父祖の心を継ぎ、各々先だつて憂へ後れて楽しむ心掛けを以つて率先躬行し、愈々私を忘れ和衷協同して、不断に忠孝の道を全うすべきである。臣民の道の実践を外にして人たるの道はない。未曾有の国難に臨み、今こそ我等臣民はこの道に徹し、挙国一体となつて如何なる時艱をも突破しなければならぬ。
三、祖先の遺風
我が国の歴史は、皇国の道の御代御代に彌栄えゆく発展の姿である。天皇は皇祖皇宗の御遺訓を奉じて万世一系に我が国をしろしめし給ひ、臣民はよく忠よく孝にして、億兆一心となり大御心に随順帰依し奉つて来た。天壌無窮の神勅のまにまに我が国は永遠に生成発展して行くのである。かく天壌と共に窮まりなく国運の発展を遂ぐることが、我が国の本然の姿である。されば我が国こそ、世界人類の幸福安寧に対し崇高なる使命を果たし得るのである。戊申詔書には、
抑々我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト我カ光輝アル国史ノ成跡トハ炳トシテ日星ノ如シ
と宣べ給ふてゐる。
我等の祖先は、肇国以来歴代の天皇の大御心を奉じ、明き浄き直き誠の心を以つて仕へまつり、「海ゆかば水漬くかばね、山行かば草むすかばね」の言立(ことだて)も雄々しく、「大君の醜の御楯と出で立つ我は」 と勇み立ち、努め励んで来た。明治天皇の御製には、
しきしまの大和心のをゝしさはことある時ぞあらはれにける
と詠ませられてある。皇運扶翼の赤誠は、国家の危機に際し赫々と発露する。かつて亜欧の天地を席巻した元が、その余勢を駆つて我が国をも併呑せんと迫まり来たつた時、我が国民は如何にしてこの国家を防衛し、光輝ある歴史を守つたか。御身を以つて国難に代はらんと御祈願あらせられた亀山上皇の御軫念は申すも畏し、菅原長成の草した返牒案や宏覚禅師の祈願文に現はれてゐる如く、国民は我が国こそ万邦に優れたる神国なりとの自覚に奮ひ立ち、北条時宗は始終烈々たる気魄を以つて率先国難に当たり、一般国民もまた老若男女を問はず身を挺して国の護りに就き、挙国一致、力戦奮闘してよく乙の強敵を撃破したのであつた。また明治二十七八年竝びに三十七八年戦役を始め、最近の事変に於ける皇軍将兵の忠烈なる行動はまことに日覚ましいものがある。
更に遠く遡つては、皇孫降臨に先だつ大国主神の国土奉献の御事蹟、神武天皇の御東征に随従した臣民の勇戦、推古天皇の御代に於ける新日本文化の創造の大御業を翼賛し奉つた臣民の至誠奉公等、何れも国史の輝かしき展開を示すものである。殊に推古天皇の御代に勅命を奉じて始めて隋に使ひした小野妹子の如きは、扁舟に身を托して万里の波濤を凌ぎ、日出処の使臣たるの重責と、大陸文化摂取の大任とを遺憾なく果たし、我が国威をかの地に発揮したのである。これは摂政聖徳太子の御偉徳によることもとよりであつて、山鹿素行は中朝事実に、「当時初めて書を制して東天皇敬みて西皇帝に問ふを以てす。唯太子の大手筆のみに非ず、其の志気洪量、能く本朝の中華たる所以を知れば也。」と述ペてゐる。
大化改新に際しては、藤原鎌足はよく中大兄皇子を扶けまつり、我が国体を擁護し、上代よりの積弊を一掃して大政を翼賛し奉つた。鎌足は日本書紀に、「為人忠正しくして、匡済ふ心有り。乃ち蘇我臣入鹿が君臣長幼の序を失ひて、社稷をうかがふ権(はかりごと)を挾(わきばさ)むを憤(にく)みて」とある如く至忠の人であり、国体に基づく革新政治を成就し、聖徳太子の御意のあらしところを実現して翼賛のまことを致したのである。和気清麻呂は一身の安危を忘れ、「我が国家開闢より以来、君臣定りぬ。臣を以て君と為ること未だ之れ有らざるなり。天ツ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(はらいのぞ)くべし。」と神教を復命して、その純忠よく無窮の国体を守護した。また楠氏一門の父子相伝へ一族力を合はせて皇事に尽瘁し、「七生まで只同人間に生れて朝敵を滅さばや。」と七生報国を誓つた精忠、さては北畠・新田・菊池等の諸氏の世々の勤皇は、後世幾多志士の尽忠の赤心を振るひ起こし、国民崇敬の的となつてゐる。幕末に於ける勤皇志士も、これ等諸氏の事蹟に励まされるところが頗る多かつた。
明治維新は維新であると同時に復古であつた。王政復古の大號令に
諸事 神武創業之始ニ原キ
と宣はせられ、五箇条の御誓文に、
一 広ク会議ヲ興シ万機公論二決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
我国未曾有ノ転革ヲ為ントシ 朕躬ヲ以テ衆エ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヲ
と仰せられてあるのは、この根本精神を昭示し給ふたものと拝せられる。御稜威の下、維新の志士の決死の奉公は、幕府政治の積弊を打破して国家をその本然の姿に復し、ここに国民は一体となり、この光輝ある国体を護持し愈々その精華を発揮して、よく国家の富強を致し、皇威の宣揚に努めたのである。然るに、他方では七百年来の久しきに亙る陋習に加へて、欧米の個人主義・自由主義・功利主義等の思想が浸潤し来たつた結果、一部国民の間には、公益を顧みずして私利に趨り、国家国民の休戚を忘れて一家の富貴安逸を求めんとする風を見るに至つた。田を佃るも商ひするも国のためといふ我が国ぶり、祖先の遺風が薄れ、国民生活はややもすれば国家と離れた個人のこと、私事と考へられる傾きを生じ、この宿弊がなほ今日はも及んでゐる。
凡そ不忠の臣の出づるは私心による。国家のこ衰退は何人も欲せざるところであるが、何時しか人は私心に眩惑して忠孝大和の根本を失し、国家に禍を及ぼすのである。古今東西の国家興亡の跡は鑑みるに、「文臣銭を愛し、武臣命を惜しみて国亡ぶ。」とは永遠の真理である。命も金も名もいらぬ全く己を滅した人間でなくては、危きに臨んで国家を富嶽の安きに置き、大御心に応へ奉ることは出来ない。大義に生き、国家の事を以つて憂へまた喜びとする我等臣民の本領は、平素より私心を去り、尽忠報国のまことに生きるところにある。然らずしては、事ある時に当たつて大和心の雄々しさは発揮されるものではない。
光輝ある我が国体を護持せんがためには、国民一人残らず清麻呂たり正成たるべきであり、国難来たる時、国家総力を挙げてこれに当たるはもとよりであるが、皇運扶翼はかかる非常の場合のみのことではない。平常心是道であり、我等の行住坐臥一として国家に関係なきものはないのである。我等の祖先は大方は名もなき民として、日に夜に皇国の富強に努めその繁栄に竭くし、忠良なる臣民としての生涯を送つて来たのである。名もなき民として悦んで皇国に尽くすの心掛けなき時は、身命財を抛つて御奉公をすることは出来ない。我等皇国臣民は今日の非常時に際し、御稜威の下、御民としての御奉公の覚悟を更に新たにし、光輝ある祖先の遺風を継承してこれを顕揚しなければならぬ。
第三章 臣民の道の実践
一、皇国臣民としての修練
皇国臣民の道は、我が国体に淵源し、億兆心を一にして各々奉公のまことを致し、皇運を扶翼し奉るにある。今や世界史の一大転換期に再会し、我が国の歴史的使命は日に重きを加へてゐる。東亜新秩序建設の大業は国民各自の双肩に懸かり、偏にその奮励努力に俟つ。職務の何たるを問はず、国民皆斉しくこの重大使命の負荷に任じ、協戮邁往、よく天業を翼賛し奉るべきである。
新時代の皇国臣民たるものは、皇国臣民としての修練を積まなければならぬ。即ち、国体の本義に徹し、皇国臣民たるの確固たる信念に生き、気節を尊び、識見を長じ、鞏固なる意志と旺盛なる体力とを練磨して、よく実践力を養い、以つて皇国の歴史的使命の達成に邁進すること、これ皇国臣民として積むべき修練である。この修練を重ねてこそ、臣民の道が実践せられ、大東亜共栄圏を指導すべき大国民として風尚が作興せられる。これを怠つて、新時代に於ける使命の自覚を欠き、徒らに旧殻に篭もるが如きことあらば、父祖の遺業を害ない、子孫への責務を忽せにすることとなるのみならず、臣民の道に背く謗りを免れない。畏くも青少年学徒に賜はりたる勅語には、
国本ニ培ヒ国力ヲ以テ国家隆昌の気運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ而シテ其ノ任実ニ繋リテ汝等青少年学徒ノ雙肩ニ在リ汝等其レ気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今ノ史実ニ稽ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思案ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ気風ヲ振励シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ
と仰せられてゐる。これもとより青少年学徒の肝に命じて日夜励行に努むべき御教へであるが、一般国民もまた皆この大御心を奉体して時艱を克服し、愈々国家の隆昌に力を致さねばならぬ。
皇国臣民は国体の本義に徹することが第一の要件である。人は孤立せる個人でもなければ、普遍的な世界人でもなく、まさしく具体的な歴史人であり、国民である。従つて我等にあつては、人倫即ち人の履践すべき道は、抽象的な人道や観念的な規範ではなく、具体的な歴史の上に展開せられる皇国の道である。人たることは日本人たることであり、日本人たることは皇国の道に則とり臣民の道を行ずることである。即ち我等は、国体に基づく確固たる信念に生きることに於いて皇国臣民たリ得る。
国体は我が国永遠不易の大本であつて、天壌と共に窮まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊瓊杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給ふて君臣の大義を定め、民の生くべき道を示されて、ここに我が国の祭祀と政治と教育と産業との根本を確立し給ふた。我が国はかかる悠久深遠なる肇国の事実に基づき無窮に生成発展するのであつて、まことに万邦に其の比を見ざる一大盛事を現前してゐる。
歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給ひ、現御神として下万民を統べしらし給ふ。即ち皇祖の御心のまにまに天業を恢弘し給ひ、臣民を赤子として愛撫せられ、その協翼に倚藉して皇猷を弘めんと思し召される。大正天皇には、即位礼当日紫宸殿の儀に於いて賜はりたる勅語に、
義ハ則チ君臣ニシテ情ハ猶ホ父子ノコトク以テ万邦無比ノ国体ヲ成セり
と宣はせられ、また国民精神作興に関する詔書に、
朕ハ臣民ノ協翼二頼リテ彌々国本ヲ固クシ以テ大業ヲ恢弘セムコトヲ冀フ
と仰せられてゐる。
この宏大無辺の大御心を仰ぎ奉るところ、皇国臣民の道は自ら明らかである。臣民の道は、皇孫降臨の際奉仕せられた神々の精神をそのままに、億兆心を一にして天皇にまつろひ奉るにある。我等は生せれながらにして、皇運扶翼のみこともちてこの道を行ずるものである。その君臣の間に於いて現はれた最も根源的なものが忠であり、これが親子の間に現はれたものが孝である。
歴代の天皇は皇祖の神裔であらせられ、皇祖と天皇とは御親子の関係にあらせられる。而して天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。神と君、君と臣とはまさに一体であり、そこに敬神崇祖、忠孝一本の道の根基がある。かかる国体にして、よく永遠に生成発展して天地と竝び存するのである。ここに於いて国体は国民の規範となり、生成は天業翼賛の行として実現せられる。永遠なるもの、無窮なるものこそ、真理の実相であり、我等の生命の根源である。
されば国民各々が肇国の精神を体得し、天皇への絶対随順のまことを致すことが臣民の道であり、その実践によつて自我功利の思想は消滅し国家奉仕が第一義となつて来る。国体を忘れ、臣民の道を実践するまごころを欠けば、如何に自我功利の思想を排除し国家奉仕を主張しても、それは本末を謬るものである。個人主義・自由主義の影響を受け、唯物主義・功利主義に誤られて、皇国臣民たるの本分の自覚に欠くるところあらば、如何なる努力精進も空しく、却つて国運の発展を妨げることになる。皇国臣民の生活は各々その分に生き、その分を通じて常に国家奉仕のまことを致し、皇運を扶翼し奉ることを根本精神とする。この精神に立脚して不断の修練を重ねるところに、臣民の道が成ぜられるのである。されば国民学校令にもこの点を強調して、
皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス
と規定せられたのである。明治維新以来、我が国の教育は時に欧米の思想に禍せられて、皇国教育の本義を徹底せしむるに十分ならざる憾みがあつた。これがためにややもすれば我が古来の国風が忘れられ、臣民の道の修練が軽んぜられる結果となつた。皇国臣民たるものは、この弊を正し、国体の本義に徹し、確固たる信念を把握して、不断の修練により臣民の道を日常生活の上に具現することに努めねばならぬ。
我等は新時代の皇国臣民として、修練に修練を重ねることを必要とする。気節を尚ぶ風を修練することは国民の風尚を高める所以であり、大国民たるに欠くべからざる要件である。国民が卑俗惰弱に流れ、私利貪欲に耽り、事に当たつて責任を回避し、免れて恥ぢなき状態となれば、国運の進展は阻害せられ、外侮りを受けるに至る。我が国がこの非常時局に際し毅然としてこれに処し、泰然として事を運ぶためには、国民の剛健にして高潔なる気節が必要である。気節の錬磨によつて、大国民としての雄大なる気魄と崇高なる人格とが養はれ、新秩序を建設し、共栄圏を指導すべき我が国民の資質・風尚が修練せられる。
元来我が国は海国であつて、かつて海外に雄飛せる事実が多く存するが、江戸時代三百年の鎖国のために、国民の気魄が萎縮せしめられた嫌ひがある。明治の御代となつて、開国進取の方針の下に国運は大いに躍進したが、国民一般は未だ我が国の世界史的使命を自覚することが十分でなく、雄大なる国民的気魄に欠くるところもあつた。ために国内にあつては大同和諧の度量に乏しく、国外にあつては徒らに自ら卑下して他に追随することがないではなかつた。新時代を担ふ国民は、よろしく雄大なる気魄と他国民の仰望する徳風とを以つて、肇国の精神の具現に邁進すべきである。
国民の識見を高邁ならしめることは、国運の進展を致し、興亜の大業を遂行するに緊要なる事柄である。識見を長養する途は、ただ無反省に広く知識を吸収集積するにあるのではない。皇国臣民として夫々の立場に於いて広く観、深く考へ、真に皇運を扶翼し奉る具体的知識・学問を修得するところにある。皇国の道と一体たり得ざる学は、真の学たり得ざるものであつてまさに我等の生活と遊離せる単なる抽象的理論に過ぎぬ。道は発して教となり学となる。学は道を生活の各領域に於いて認識し把握する所以のものであり、数は学をその内容として道を具現するものである。故に教と学、知と徳とは道に於いて一如たるものである。されば皇国臣民としての使命に根ざす高き識見を持するためには、国民として観察を広汎にし、思索を精深にして皇国の道に則とり専ら研鑚に努めることが大切である。
皇国臣民としての修練は、また果敢断行、勇往邁進する実践カの養成に向けられねばならぬ。為すべきは敢然としてこれを為し、為すべからざるは断じてこれを為さざる真の実践力は、国体に基づく深き信念によらねばならぬ。実行の源泉は信であり、信は力である。国民学校令施行規則に、
教育ノ全般二亙リ皇国ノ道ヲ修練セシメ特ニ国体ニ対スル信念ヲ深カラシムベシ
と定められてゐるのも、その意の存するところを知り得る。我等は、気節を尚び識見を長ずると共に、鞏固なる意志と旺盛なる体力とを錬磨して、国体に基づく信念を具現すべき真の実践力を培はねばならぬ。ここに身心一如、知徳相即の修練が強調せられる所以がある。
近時物質文明が進歩し、著しく生活を向上せしめたが、これに伴なひ低俗安易ぞ欲望を唆る各種の施設も増加して、享楽的生活を求める風が漸く強く、ややもすれば制欲克己等は軽んぜられ、意志の鍛錬を阻害することが甚だしくなつたことは、国民として大いに反省するところがなければならぬ。殊に体力の向上は我が国の当面せる重要事の一つである。長期建設に耐へるためには、精神の錬磨と共に、国民各自が真剣に体力の増進を工夫する必要がある。いふまでもなく身体は鍛錬によつて強健となるが、それには常に国民としての修練が眼目であることを忘れてはならぬ。単に運動競技の興味や勝敗の末に流れて、体錬の目的を逸脱する如きことあらば、それは本末を謬るものとなる。身心の鍛錬は、皇国臣民としての徳性と一致し、皇国の道に則とり国運の進展は寄与し得るものであつて始めて、真の修練となり得るのである。
修練を重んずるは我が国古来の風であり、我が教学の特色である。教と学とが道に帰入するの機を修練または行といふ。武士道の如きは、特に年少の時より日夜錬磨に錬磨を重ねることによつてその神髄を発揮し得た。剣道・柔道・弓道といひ、茶道・華道・藝道といふ、何れも行を通じてその奥義に參入し得ることを示してゐる。仏教にしても、我が国に於いては鎮護国家の教へとして受容し、忠孝のための行として国民生活の中に摂取した。儒教に対しても同様な態度であつた。かかる態度は、欧米の科学・技術を摂取するに当たつても異なるべきではない。我等は新時代の皇国臣民として、重大なる責務を深く身に体し、我等の父祖の先蹤によく思ひを致して、常住坐臥の間、臣民の道の修練に念々不断の精進を重ね、国家奉仕の実を挙げねばならぬ。
二、国 民 生 活
我等皇国臣民は、悠久なる肇国の古へより永遠に皇運扶翼の大任を負ふものである。この身この心は天皇に仕へまつるを以つて本分とする。我等の祖先も同じ本分に生き、その生命を我等に伝へたのであつて、我等の生命は我がものにして我がものにあらずといはねばならぬ。従つて我等の現実の生活はすべて厳粛なる歴史的のものである、我等は国民たること以外に人たることを得ず、更に公を別にして私はないのである。我等の生活はすべて天皇に帰一し奉り、国家に奉仕することによつて真実の生活となる。
日常我等が私生活と呼ぶものも、畢竟これ臣民の道の実践であり、天業を翼賛し奉る臣民の営む業として公の意義を有するものである。「天雲の向か伏す極み、谷蟆のさ渡る極み、」皇土にあらざるはなく、皇国臣民にあらざるはない。されば、私生活を以つて国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見做し、私意を恣にするが如きことは許されないのである。一椀の食、一着の衣と雖も単なる自己のみのものではなく、また遊ぶ閑、眠る間と雖も国を離れた私はなく、すべて国との繋がりにある。かくて我等は私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ。我が国に於いては、官に仕へるのも、家業に従ふのも、親が子を育てるのも、子が学問をするのも、すべて己の分を竭くすことであり、その身のつとめである。我が国民生活の意義はまさにかくの如きところに存する。
現下我が国の直面する非常時局は、一に国家国民の総力を集結統合し、最高度の機能を発揮してこそこれを突破し得る。ここに我等は国民生活の根本義に立脚し、旧弊を刷新して、よく今日の時局に処し得べき新しき生活を速やかに確立せねばならぬ。それに就いては先づ家に於ける生活を考察する必要がある。
我が国の家は、祖孫一体の連繋と家長中心の結合とより成る。即ち親子の関係を主とし、家長を中心とするものであつて、欧米諸国に於けるが如き夫婦中心の集合体とはその本質を異にする。従つて我が国の家に於いては、家長の家族、親と子、夫と妻、兄弟姉妹、各々その分があり、整然たる秩序が存すると共に、亡き祖先も在すが如くに祭られ、生まれ出づる子孫も将家の家族として家の永遠牲の中に想念せられ、ここに祖孫一体の実が挙げられる。更に我が国の家は、国に繋がるのをその本質とする。蓋し我が国に於いては、家は古代の氏より分化発展せるものであつて、我等の祖先は氏の上を中心とし常に国家の職務を分担して天皇に奉仕したのである。されば氏は国に連らなり、家には氏の伝統的精神が伝はつてゐる。我が国が家族国家であるといふのは、家が集まつて国を形成するといふのではなく、国即家であることを意味し、而して個々の家は国を本として存立するのである。かくて家は祖先より子孫に建らなる永遠の生命を具現するものであら、国体に基づく信念はよく家に於いて培はれ、また長幼の序を正し、各自の分を自覚せしむることも顕著である。かくの如き特質を基として家の生活が営まれるのである。
家の生活に於いて先づ強調せらるべきは、敬神祟祖の精神である。敬神崇祖は我々の生命の根源への随順であり、家を尊重する所以の基本であつて、敬神の精神を一貫するものは神を通じて天皇に帰一し奉るところにある。近時欧米の個人主義思想の影響を受け、家を尊重するの念が稀薄となり、殊に誤れる合理主義や唯物主義に禍せられて、国民精神の涵養上最も緊要なる敬神崇祖の行事が軽視せられる風を生じ来たつたが、かかる傾向はよろしく刷新せらるべきである。畏くも天皇には、春秋の皇霊祭を始めとして大祭日には御親ら皇祖皇宗を祀らせ給ふ趣きに拝する。家々に於いて先祖祭を行ふことは、宮中の祭祀の御精神を体する我が古家の国ぶりである。敬神崇祖の行事は家族の全員によつて営まるべきであつて戸毎に神棚を設け大麻を奉斎し、また祖先の霊を祭り、一家挙つてよく敬神崇祖のまことを致さねばならぬ。氏神は本来氏の神を祀つたものであつて如何なる土地にも氏神があり、我々は必ず何れかの神社の氏子であるから、氏子として氏神に奉仕することを怠つてはならぬ。即ちその祭礼には勿論、家に於ける慶祝その他特別の日等、または毎月或ひは毎日、氏神に詣でることを励行することが肝要である。更に彼岸会・孟蘭盆会等は先祖祭の機会であるから、これ等の行事をも有意義ならしむることが望ましい。
敬神崇祖は報本反始の行であり、報本反始は報恩感謝の念を起こさしめる。この報恩感謝の念があれば、人は個人主義や利己主義に陥ることはない。敬神祟祖を忽せにする家庭にあつては、子弟の訓育に於いて魂を欠くのみならず、国民精神の涵養に於いて全きを期し得べくもない。家庭の生活は、常にかかる敬神崇祖の本来の精神に基づいて営まれることが必要である。
祖孫一体の我が国に於いては、敬神崇祖は自ら子孫の繁栄発展といふことに連らなる。而して結婚は家の存続発展の基礎をなすものであり、親子の関係は結婚を前提として生ずる。併し我が国の家に於いては決して夫婦関係が中心をなすのではなくして、親子の関係がその根本をなしてゐる。従つて妻は単にその夫と結婚するに止まらずしてその家に嫁するのであり、また妻を迎へる家も新しき家族の一員を加へこれを慈愛し指導しなければならぬ。近時我が国本来の結婚の意義は、誤れる思想の浸潤によつて閑却せられ、夫婦中心の生活が望まれるが如きことがないではなかつたが、かかる結婚観も最近では漸次反省せられ来たつたことは、家を尊重すべき国民精神作興の点よりして大いに喜ぶべきことである。
古来我が国に於いては、子女を子宝としてその出生を喜んだ。万葉歌人が、
銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
と歌つたのは、何時の世に於いても転はるところなき親の至情である。而もそれは単に親としての満足のためのみではなく、家の存続繁栄を祝福する心持ちからである。家庭は子供によつて明朗となる。一日の疲労も子供の一語一笑によつて慰められる。これ人情の自然であり、この人情を基として家の存続繁栄が致されるのである。されば子女の養育は家に於ける親の大切なつとめである。而もそれは親としてのつとめであるのみでなく、祖先に対し家に対し国に対するつとめである。従つて子女の育成に際しては、ただ我が子を育てるとのみ考ふべきではなく、祖先の後継者を作り、将来御国に奉仕する国民を育てるものであることを常に念頭に置かねばならぬ。
我が子を少しでも善いものに育てることは何人も望むところであるが、親の恣意或ひは無自覚のために却つて誤つた育て方をする場合もないではない。子女の育成に当たり特に心すべきは躾けであり、それは家に於いでよく徹底せしめ得る。育て方が峻厳に過ぎて童心を歪める惧れあることは深く慎まねばならぬが、自由放任に失して子女を放縦ならしめることは最も戒むべきである。家に於ける親や年長者の言動の及ぼす感化に注意すべきことはもとよりであるが、更に子女の日常の言語動作にも深く心を用ひ、常にこれを善導すると共に、若しその中にいささかなりとも不純不徳あらば直ちにこれを是正し、過ちを繰り返すことなきやう指導せねばならぬ。また戸外に於ける道徳は家に於いて養はれることが必要であり、それが公衆道徳の養成となる。交通道徳を始めすべての公衆道徳は、家に於いてその基本訓練がなされることが肝要である。明治以前には家庭に於ける躾けは頗る厳粛であつた。特に武士の家庭にあつては、人々の上に立つものとしての修練が行はれた。今日の如き進歩せる学問も整備せる教育機関も存しなかつたにも拘らず、人としての修養に於いて今なほ教へられるところの多いのは、この家庭に於ける躾け・修練の結果である。現代の教育は殆ど学校に一任された形であり、学科即ち知識の方面にあつては、家庭も学校数育に協力し、豫習・復習等に留意してゐる向きが少くないが、躾けの方面にあつては、学校が如何に子弟を指導しつつあるかに就いて比較的無関心な家庭が多いやうである。これは子女の教育上深く考慮すべきことである。家庭は躾けの場所、修練の道場である。家風・家訓を重んずるは我が古来の醇風であり、子女の礼儀・作法・言語・動作等はその家庭に於いて培はれるところ大なるを思ひ、父母・長上たるものは子女弟妹の指導にいやしくも過ちなきを期せねばならぬ。
次ぎに家の生活に於いては、衣食住の質素を尚ぶと共に、物資を愛護する風を徹底せしめることが肝要である。剛健なる精神は簡素なる生活の中に養はれ、奢侈贅沢によつて害なはれる。我が国にあつては古来質素を重んずる風が強く、物資を尊重愛護し自然に感謝する念が厚かつた。即ち山川草木はすべて神の生み給ふところであり、国民と祖を同じくするものとして、古来自然を単なる自然とは認めてゐない。我等の生活資料はすべで神より頂くものとして神に感謝し、従つてまた自然に対しても生産者に対しても感謝するのである。神嘗祭には天皇がその年の新穀を先づ伊勢神宮に献らしめられて皇祖天照大神の神恩を感謝せさせ給ふのであり、また大嘗祭・新嘗祭には皇祖を始め天神地祇を祀らせ給ふて新穀を御親供あらせられ、御親らもこれをきこしめし給ふのであつて何れも重大な祭儀とせられてゐることをここに深く拝し奉るべきである。
我等が安らかに日々の生活を営み得るのは種々の物資があればこそであり、そこに自ら報恩感謝の念が滲み出るのである。これ我が国民本来の心情である。然るに西洋近代思想の影響を蒙り、自然はこれを征服し利用すべきものであつて、これに感謝するが如きことは無意味であり、不合理であると観ずる傾向が生じ、更に産業組織が転化し大量生産が行はれるに至つて、物を尊重愛護する念は一層稀薄となつた。かくて日常家庭に於ける衣食の資に就いても、浪費濫用の弊は蔽ふべくもなかつたのである。然るに支那事変発生以来、国民は斉しく資源を愛護し物資を尊重すべきことを切実に教へられるに至つた。我等は日常生活の諸資料に就いてはもとよりのこと、生産その他の資料に就いては、古来の美風を再び今日に生かし、一物と雖も粗略にすべきものにあらずといふ真の感謝愛護の念を以つて取り扱はねばならない。物資の尊重愛護を奨励するにも、かかる根本精神に立脚すべきであり、単に功利的見地よりするが如きは我が国本来の精神に合致するものではない。
生活の刷新が、道徳的精神的に行はるべきことはもとよりであるが、他面衣食住の各般に亙り科学的見地より再検討し、正しき知識と技術とを尊重して、その合理化を図り、新時代に適応した生活を樹立することは極めて緊要である。
以上述べた如く、家は皇国臣民の修練の道場である。神を敬ひ祖を崇び家業に精励する質実簡素なる生活の中に、剛健にして情操豐かなる国民精神が錬成せられ、よく皇運を扶翼し奉る皇国臣民が育成せられる。そこに自ら苦楽を共にする一家団欒の真の和の精神も培はれる櫓のである。
皇国臣民たるにふさはしい国民生活の樹立は、家庭生活の刷新を図ると共に、更にこれを家の外に拡め、隣里の和合、家国一体の親和を実現するところに成就せられる。国民斉しく天皇の御民たるの光栄に生きる我が国に於いて、隣保苦楽を共にするの風は、古来の尊い伝統である。近時、隣組・部落会・町内会等が、全国津々浦々に至るまで隈なく組織せられ、活溌なる活動を示してゐるのは、この伝統を新時代に生かし、挙国新体制の確立に資せんとするものである。これ国即家の根本義に則とつて、一家和合の精神を向かふ三軒両隣りに拡大し、ひいては国内の大和の生活を樹立せんとするに外ならない。その任務は新時代に即応して、江戸時代の五人組・十人組等に比し遥かに重大である。即ち大和の精神に基づき、隣保相扶け隣人相戒めて道徳的修練に励み、更に国策万般の普及徹底に協力する最下部組織として重要なる意義を有する。かかる任務の達成は、主として常会の運用如何に俟つ。常会は二宮尊徳が芋こじと称せる如き、相互の切磋琢磨、一家にも比すべき和気藹々たる雰囲気の中に、自らその機能の全きを期し得るのである。
隣保団結の中に行はれる道徳的修練に就いて特に注意すべきことは、公衆道徳の訓練である。我が国の家に於ける道徳は比較的よく保持されてゐるが、家の外に於ける道徳は決して十分とはいへない。例へば、常会の開催に当たり一人時間を励行せざるときは衆人に累を及ぼし、また一人私見を固執すれば会の進行は阻碍せられる。隣保団結に於いては、かかる公衆道徳の欠如を是正せしむべき修練が行はれねばならぬ。これに基づいて公共物を尊重するの念を涵養し、公共生活に於ける行動は統制秩序あらしめ得るのであり、かくて漸次公衆道徳が向上するに至るのである。
更に隣保団結の生活に於いて養成せらるべきは、遵法の精神である。我が国の法は、全国民が大御心を奉体して皇運を扶翼し奉る上に恪循すべき道を示されたものである。従つて国憲を重んじて国法に遵ふのは、皇国臣民として大御心を奉体し、翼賛のまことを致す所以である。かかる遵法の精神の根基は先づ家の生活に於いて培はれるのであるが、公共の生活の中にその精神は一層深く涵養せられる。即ち各種の規程・規則等が、隣組・部落会・町内会等の行動を律し規定するところに、自ら遵法の訓練が行はれる。遵法の精神が国民に徹底すれば、国家秩序は確固たるものとなり、国策も円滑に遂行せられる。
かくて一家・一郷相依り相扶け、道徳・政治・経済・文化等、国民生活の各般に亙り、国家の目指すところを協力遂行することによつて、万民翼賛の実を奉げ、国防国家体制の整備充実を期し得るのである。皇国の使命を完遂するには、国家の総力を万全に発揮することを必要とするはもとよりであるが、それがためには、国民各々自己の職業を通じてよく国家奉仕のまことを致さねばならぬ。
元来我が国に於いては、職業は国家諸般のことを分担して天皇に奉仕するつとめであり、それが後世子孫に伝へられたのである。時世の推移に伴なひ職業の形態は漸次転化したが、我が国職業の根本義は、営利を主眼とせずして生産そのものを重んじ、勤労そのものを尚ぶ風習の中に保持せられ来たつたのである。かくて明治維新を迎へるや、御稜威の下皇国臣民たるの自覚は愈々明らかとなり、爾来国民は鋭意国家奉仕に励み、欧米の文物制度をも採り入れてよく国力を充実し国威を発揚するに努め、政治・経済・教育・国防等各般に亙る国運の進展は史上の驚異とせられるところである。殊に経済に於いては世界大戦を機として未曾有の躍進を遂げ、工業は急激に発達し、貿易は頓に活況を呈し、日本製品の世界進出は実に日覚ましく、ここに我が国は世界列強の間に伍して確固たる地歩を占むるに至つた。
併しながら欧米文化の流入に伴なひ、個人主義・自由主義・功利主義・唯物主義等の影響を受け、職業は個人の利欲を満たし個人の物質的繁営を招来するための手段であるかの如くに考へる傾向を生じ、ややもすれば我が国職業の根本義が忘却せられるに至つた。支那事変の発生以来、国民的自覚の昂揚と共に、職業に対する反省が深まり、農・工・商等各方面に於いて、夫々の職業を通じて報国のまことを致さんとして鋭意努力が払はれてゐるのは喜ぶべきことである。古語に、「一夫耕さざれば天下その飢を受け、一婦織らざれば天下その寒を受く。」といへる如く、我等の従事する職業は何れも国家国民の存立に関係するものであることを常に銘記しなければならぬ。現今、職業は多種多様であり、これが運営の方式はもとより古へと異なるが、その何たるを問はず、国民は自己の職務に勉励することによつて分を喝くし、国家に奉仕するを得ることは、今も昔も転はりがないのである。明治天皇が御製に、
なりはひはよしかはるとも国民の同じこゝろに世を守らなむ
と詠ませ給ふた大御心の程を深く拝し奉らねばならぬ。
多数の職業を簡単に分類することは蓋し困難であるが、大体家の生活と業務とが明瞭に区別し得られるものと、然らざるものとに分かち得る。前者は所謂勤人の勤務であり、後者は家業として特定の職業を家に於いて営むもの、農業や中小商工業等である。
所謂勤人には官公吏・銀行員・会社員等種々の種類があるが、その勤務は何れも国家の仕事の一部であるとの自覚の下に、精励すべきことに於いて転はりはない。このことは官公署・学校等に於いてはもとより明瞭であるが、民間の会社・工場等にあつても国策の運営に即応せねばならぬことはいふまでもなく、従業員各自その勤務を通じて国運進展の職責を担つてゐるのである。凡そ勤務はすべて天皇に仕へ奉るつとめの真心から出発しなければならぬ。利を追ひ、私欲の満足のみを追求するが如きを厳に戒め、全精神を打ち込んで自己の職務に精励しなければならぬ。昔はすべてのつとめを奉公といつた。婢僕のつとめも奉公、職人や商人の見習ひも奉公と呼んだ。奉公の精神が旺盛であれば、自我功利の心の起こることはなく、そこに始めて己を滅した真の奉仕が成立するのである。
家に於いて営まれる職務にあつては、家の生活と職業とは必ずしも判然と区別せられない。殊に農業・商業等の如きは、殆ど家族の各員がこれに従事し、家の生活の中に職業が行はれる。この場合に於ける職分奉公も、常に国家への繋がりを念頭に置いて、その業務を熱心勤勉に行ふにあることは勿論である。
農業は肇国以家我が国民の生業の大本であつた。農耕も養蚕も皇祖天照大神が皇孫に授け給ひ、民の生業たらしめ給ふたものである。然るに明治以来の経済・産業の転化は次第に農村にも大なる影響を及ぼし、ややもすればこれを疲弊せしめてゐる。かかる事情は匡救せられねばならぬ点であるが、農家自身も農の尊重すべき所以を自覚し、神聖なる業務を近代的唯物思想のために汚すが如きことなきやう心せねばならぬ。この自覚から出発して農耕を営んでこそ、大神への報本反始の行となり、農家として天皇への奉仕を全うする所以である。
商業は毫釐の利を争ふ業務であるといはれた。併しながら商の本質は物の需要者と供給者との間に立つて有無相通ぜしめ、以つて円滑なる国民生活に寄与するところにある。従つて、適正なる利益を収むることは商業経営上もとより必要であるとはいへ、いやしくも商業の国家的機能を忘れて徒らに利己主義的な利潤本位の商業を営むことは十分に反省せられねばならぬ。自己の利益となるならば法律を潜り他を犠牲に供することをも敢へてし、利益なくば他人の窮乏をよそに見て、ひたすら儲けのみを目指すといふが如きは、決して職分奉公とはいひ得ない。今日殊に中小の商工業者は非常な困苦の中にあるが、当面せる我が国内外の事情によく思ひを致し、積極的に商業を通じて真のつとめに尽瘁し、国家奉仕を全うせねばならない。
凡そ皇国臣民の道は、如何なる職にあるを論ぜず、国民各々国家活動の如何なる部面を担当するかを明確に自覚し、自我功利の念を棄て、国家奉仕をつとめとした祖先の遺風を今の世に再現し、夫々の分を竭くすことを以つてこれが実践の要諦とする。而してその実践に於いていやしくも至らざるなきを期せんがためには、先づ皇国臣民としての修練の徹底が肝要である。非常の時局を克服し新秩序建設の聖業を完遂するの途は、偏へに我等皇国臣民が職分を通じてこの道を実践し、天業を翼賛し奉るにある。
結 語
世界の歴史は変転して止むことなく、諸国家の隆替興亡は常なき有様である。ひとり我が国のみ、肇国以来万世一系の天皇の御稜威の下、臣民はよく忠によく孝に奉公のまことを致し、ひたすら発展を続け隆昌を重ねて今日に及んだ。而して今や我が国は、世界史上空前の深刻激烈なる動乱の間に処して未曾有の大業を完遂すべき秋に際会してゐる。まこと支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布き、進んでこれを四海に普くせんとする聖業であり、一億国民の責務は実に尋常一様のものではない。即ちよく皇国の使命を達成し、新秩序を確立するは前途なほ遼遠といふべく、今後更に幾多の障碍に遭遇することあるべきは、もとより覚悟せねばならぬ。
今こそ我等皇国臣民は、よろしく国体の本義に徹し、自我功利の思想を排し、国家奉仕を第一義とする国民道徳を振起し、よく世界の情勢を洞察し、不撓不屈、堅忍持久の確固たる決意を持して臣民の道を実践し、以つて光輝ある皇国日本の赫奕たる大義を世界に光被せしめなければならぬ。
文部省編集 臣民の道