戦場精神と日本精神

 アッツ島に全軍最後の突撃を敢行して忠死された鬼神の如き山崎部隊の、悲憤堪へ難い、また尊さ極まりないその姿は、皆様の胸に昨夜来御同様一杯であられることと思ふ。海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍と、古来魂に誓ひ、「額(ぬか)にはを立つとも背には箭は立たじ」と誓ひ、大君を一つ心を以て護るものと、勇猛に忠誠を命としてきた皇軍人(みいくさびと)の最期とはいへ、熱涙なくしてこの報せを私どもは受取ることはできないのである。嘗て戦場に同じ心を似て戦ひ、また熾烈な敢闘の中に幾多の戦友の忠死を実際目のあたりに見て来た我々には、ただ胸が煮えて、熱涙よりほかはないのである。さきに山本元帥の御戦死の報せを受け、今またこの報道を受けて、たまたま表題の如きお話をするやう約してゐた私には、事あまりに大にして到底一言も申し述べる心にもならぬのであるが、ただ約により、耳底にかの忠魂の喊声をききつつ、つつしんで戦場にある者の一つの思ひを申し述べてみたいと思ふ。
 山崎部隊が最後の突撃に出づる前には、恐らく必ず全員 明治天皇より陸海軍軍人に賜つた勅諭、即ち

 一 軍人は忠節を尽すを本分とすへし
 一 軍人は礼儀を正くすへし
 一 軍人は武勇を尚ふへし
 一 軍人は信義を重んすへし
 一 軍人は質素を旨とすへし

 この五箇條を奉誦し、全くこの勅諭そのままに、忠節に死する自分の姿と本分とをはつきり信じ、思ひ残すことなく、天皇陛下萬歳を絶叫して、部隊長以下突撃に移られたものと信ずる。
 戦場精神といふものについて我がかねて申し述べる筈であつたことも、別にいろいろあれこれとあるわけではない。帝國軍人の使命は、軍隊内務書に「軍ハ天皇親率ノ下ニ皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スルヲ本義トス」また操典及び作戦要務令綱領に「軍ノ主トスル所ハ戦闘ナリ」と示されてある通りで、かくて軍人の本分は忠節を尽すを本分とすべしとの大御言の通りで、終始一貫この本分に徹するほかに戦場の精神は何もないのである。
 「軍人精神ハ戦勝ノ最大要素ニシテ其ノ消長ハ國運ノ隆替ニ関ス、而シテ名節ヲ尚ヒ廉恥ヲ重ンスルハ我武人ノ世々砥礪セシ所ニシテ職分ノ布スル所、身命ヲ君國ニ献ケテ水火尚辞セサルモノ実ニ軍人精神ノ精華ナリ。是ヲ以テ(中略)常ニ軍人ニ賜リタル勅諭勅語ヲ奉体シ云々」と右の内務書にも示してある通りである。
 かういへば、或は軍人でない方には、若しか何か形式的な申し様の如く感じられる方もあるかも知れぬが、眞に戦場に臨む軍人には全くこの通りであることを重ねて申上げたい。
 内地の軍隊に於ては勿論、戦地にあつても、事情のゆるす限り、毎朝隊毎に五箇條の勅論を奉誦してゐる。そして、忠節を尽すを本分とするといふ自分の姿を正してゐるのである。想像に絶する困苦欠乏も超えて不撓不屈に、各人さまぎまの身上経歴なども超えて堂々と、「和(のど)には死なじ」とのさかんなる戦闘力は、全くその根源を、「天皇陛下」の一念に置き、「忠節を尽すを本分とすべし」との大御言(おほみこと)に、勇み立つところにあるのである。これ真に戦ふ者の本心である。勿論生来勇敢である者があり、また日本人が世界の他のいづれの國民に比してもはるかに最も勇敢であることは今更いふまでもないが、一人の勇気は凄愴な戦の中には挫け易いこともないとは言へない。而もただ荒ぶる神の如くに勇みに勇み立ち「かへりみはせじ」 「和(のど)には死なじ」と奮ひ立たせるものは、天皇陛下を戴き奉り、忠節を尽すを本分とすべしとの大御言の拝承奉行にあるのである。
 このことは単に直接戦闘の上のことばかりではない。私の部下に、故郷では手に負へぬ怠け者で、そのくせひがみ根性で、村では爪弾きされ、親泣かせの不孝者であつたといふ噂の者がゐたが、戦地では全くそんなことは露ほども見えす、隊きつての朗かな、人に好かれ、素直で忠実なことも無類で、命令に対しては勿論、進んで隊のために文字通り粉骨砕身して、青くなるまで働いてゐるといふ兵があつた。同村から来てゐた他の兵が、私に、戦に来るとこんなになるのでせうかと、感に打たれて昔のことを話したことがあつた。私もどこかさういふ所があらはれるかと気をつけてみたことがあつたが、ついぞさういふ所は鵜の毛ほども見出すことが出来なかつた。私はその兵が余りよくもなかつた裸の体を曝して、肩から大きなを守袋を必ずかけて働いてゐた姿が今目前に髣髴としてゐる。この兵をこのやうに素直に孜々として休まず、粉骨砕身して怠らぬやさしい人間にしたのは、何のカであらう。
 群り突入してくる敵の手榴弾の炸裂する中に全身傷つきつつ立ち塞がつて、軽機関銃を猛射して更に突撃、遂に陣地を確保し、而も馳せつけた私に対し、肩の深傷にも些かの怯みも見せず厳然捧銃をして、僅か一歩にせよ敵を陣中に入れたことと部下を傷つけた責とを申訳ありません申訳ありませんと詫びつつ、戦闘経過を報告し、いくら腰を下して休めよと言つても固辞して、戦場掃除をする私の警戒に自ら銃剣を提げてついて廻り、またその負傷の手当も、部下の軽傷者まですべて終らせてから漸く武装を解いて受け、後方病院に於て数箇月の治療を要する重傷で内地還送にもなる体を、再びひよつこりとはるばる部隊に復帰してきた一伍長は、内地では普通の酒屋の一店員であつた。このやうな勇猛さと健気さと軍紀の厳守をなさしめてゐる力の根原は何であらう。
 或る兵はひどい吃りで、何かと発言も差支へ、従つて進級も後れがちといふ有様であつた上、いつの戦闘にもひどい負傷をして私どもをハラハラさせてゐたが、或る夜襲の際、敵陣地の障碍物偵察を命ぜられて、敵歩哨の直前まで匐ひ寄り、鉄条網の柱を一本また一本と、次々と根元から上まで手数伸ばして撫でてみて、実はそれには鉄線は張つてあるのでなくただ棒杭だけであることを確かめて帰つてきた程で、戦友の舌を震はせてゐたが、これもその時足元に手榴弾が炸裂して重傷を負ひ、治癒に半年も要したところ、やはりまた前線へ戻つてきた時、私が彼の幾度かの経験を聞き、恐ろしく思ふことはないかときいてみると、「恐(えす)かタイ」と言葉少なに一寸顔を赤めて答へてゐた。これも一介の農夫であつた。
 残る看護兵、これは私どもは、神様だとひそかに噂したりしてゐたが、柔和親切申分ない手厚い世話を平生から戦友に尽してゐて、また戦闘間の活動の目ざましさは勇敢とも責任感の強さともいひやうのない、定評のある人物であつたが、やはり夜襲の時、敵陣直前で敵の手榴弾と乱射を受け、戦死負傷一時に三十名を超える眞暗闇の苦戦中のことであつたが、肺を射ち貫かれた一兵か心気朦朧となつて、気分が悪いから抱き起してくれと訴へるのを唯々として抱き護つてゐるのを闇の中に見、また一人の重傷の兵の止血をしてゐるところへ地をすつて機銃弾が飛び来り始めるや、その負傷者の前にぴたりと身を竝べて庇つてゐるのを、何れも傍近く認めたが、さてその戦闘後夜が明けたとき、かの多数の負傷者と戦死者の殆ど残らずの止血を為し、消毒から注射まで施してゐたのには、銃剣とる者が驚歎したことであつた。昼間の戦闘に負傷者落伍者でもあれば、敵弾雨飛する中を敢然飛び出してその兵を草の中に探し廻り、扶け出して伴ひ来る彼を拝まぬ者はなかつた。私はこの看護兵の前身を知らないが、平生何か彼の功について語らうとすれば、静かに笑つて終るのが常であつた。しかし彼が答へないその答へが何であるかは、答へるより明瞭であらう。
 戦地にある兵といつても結局、内地の人と同じ人の集りであり、或は却つて血気さかんではあり、種々雑多な経歴性質を持つ者が一になつてゐるため、決して所謂善良な人間の集まりではなく、中々生やさしいものではないのである。然しお世辞でも飾りでもなく、実に私は戦場の兵隊が好きで、これ以上好きな人間の、いや好きな人間ばかりの世界はまたとないと信じてをる。私ばかりではない、陛下の御召を受け奉つた戦友お互ひの心として、実に戦場は最も離れ難い故郷ともいへる。前にもいつたやうに、内地還送になるやうな重傷者でも、許される限りは望んで前線へ戻つて来る。どこの兵もさうであらうが、多く無口で、将校の私へは何か語りたくても中々口がきけずにゐるといつた具合の者が多く、ただ敵に向ふ時、私の先へ先へと出て、さういふことで私への心を示さうとしてゐるのであつた。時折酒でも飲んだ時、今日は口が利けるといつた風で、無性に喚いて抱きついて来たりするのである。ところが或る時のこと、図体の大きい兵であつたが、そして殊に羞(はにか)み屋であつたが、酒に顔を赤らめて、ひよつこり私の室に入つてよくありますか」とやつて来て、一気に「小隊長殿、今日は一口申し上げに来ました。今度私どもも、どうやら交代して帰還するらしいさうでありますが、ほんとうでありますか。もしほんとうなら、どうか私は帰されないやうに、小隊長殿から中隊長殿へ手続をして下さい。ほんとうにお願ひいたします。これは酒の上で申すのではありません。しらふではどうも小隊長殿には言へませんから、一杯のんで申しに来ました」。私はその兵の申出に生返事をしながら涙が出てしやうがなかつた。その兵も泣いててれながら念を押して出て行つたが、この兵はやはり一農村青年で、家では大事な跡取であつた。一体このやうに戦場をとうとう死ぬまで離れ難く愛惜させる、その根原は何であらうか。
 これは私の僅かな戦友の、而もほんの思ひ出るままの一端を取立てて述べたに過ぎす、特に語ることとでは殆どなく、皆様の中の実戦体験の方も、銃後に於て種々の報道によつて戦場の例を御存じの人も、もつともつと御承知のことと思ふ。而して誇張でも何でもなく、このやうに人を素直にやさしくもし、勇猛に奮戦させもし、そこを死処とさせもするのは、全く戦場の力である。そしてその戦場とは、実に忠節を尽すを本分とする戦場なのである。
 銃後から戦場の労苦や勇敢さを見て、感動され、同情されるのは勿論また然るべき当然の事であるが、ただ同情的に見たり、ただ勇士々々と言つてゐるだけでは、未だ戦場の者を外面から見てゐるだけであつて、ほんとうの軍人の姿も、勇気の出どころにも真に触れられてゐない憾みがあるのではないかと思ふ。中には演説や何かで「・・・ 天皇陛下の御稜威によるといへども、また勇敢なる将兵の奮闘により・・・」といつたやうな、飛んでもないお上手を言つてゐるのを聞くことがあるが、これは勿体ないことでもあり、またもしほんとうに軍人の最も本心の、最も清く最も高い心を称賛するつもりで言ふのならば、さうであればあるだけ、ただ「 天皇陛下の御稜威により」と言ふだけに止められたい。それこそ軍人と同じ心での言葉といへよう。それこそ言挙(ことあげ)せすただ勇戦し、天皇陛下萬歳とだけ唱へて死する英霊の覚悟への最も真実なる感動であらう。
 たしかマレー戦線に於て、今夜ジヨホール水道を渡つてシンガポールに突入しようといふ夕方、一人の兵が手帖にひとり書き記してゐるのを一記者が目をとめると、天皇陛下萬歳と書いてゐたといふことを、新聞で読んだ記憶がある。恐らく今夜の戦ひの予想では、天皇陛下萬歳を唱へることが出来ぬままに敵弾に仆れるかも知れぬといふ思ひから、今ひそかに奉唱しておくといふ心持であつたことと思はれる。一寸をかしな話にもなるが、私の中隊でも、或る時一兵隊が重傷のために、もはや最期と、天皇陛下萬歳を唱へたさうであるが、手当によつて生命を取止め、その上、後には達者になつて隊に復帰して来た兵があつたが、それを他の兵が、あいつはあの時、 天皇陛下萬歳を言つたといつては話題にして、冗談のやうにしながら、しかし心打たれもしてゐたことがあつた。天皇陛下萬歳の一言を目あてに戦つてゐるのが、軍人のとつてをきの心であるとも言へる。
 天皇陛下萬歳と唱へ奉り、一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし、の大御言を奉戴して、全く 天皇陛下の御稜威の一念で、いかなる軍人にも、自分の持ち難い勇猛さを発揚せしめ、この一念に奮ひ起たせられて、そのまま全く神のやうな姿となつて戦つてゐるのである。これは、今日のみならず、悠久の皇國の歴史に於て然りであつて、これがまたわが悠久の歴史を成し伝へて来た力である。
 近くはかの日本海々戦に、皇國の興廃此一戦にありとまで覚悟して奮励努力、勇進敢戦された東郷大将は、その大勝について全軍の実感として、この大勝は全く一に 天皇陛下の御稜威の致す所にして固より人為の能くすべきにあらず、と敢闘詳報の最後に、所見として断言してをられる。この戦闘詳報は勿論一事たりとも妄りに書いてはならないものであるが、更にこの所見は将来の戦闘に重大な作戦指導の資料ともなるもので徒らな言葉であつては大変なのである。あの東郷大将の至誠の言に、はつきり強く右のやうに記されてあるのである。
 必ずやアッツ島の将兵諸士も、五箇條の御稜威赫々たる勅諭を奉唱し、忠節を尽すを本分とすべしとの大御言に勇み立ち、天皇陛下萬歳を唱へ奉つて草むす屍となられたことであらう。私どもがこの二千の英霊の精神を思ひ、敬意深く捧げるならば、この英霊が固く抱いたこの軍人精神に透徹しなければならない。この事を思ふことが二千の英霊を思ふことにならう。
 万葉集などを読むと、天皇の大命を奉じてわが官人(つかさびと)の到る辺地を「遠の御門」といつてゐる。日本本島の果は無論、九州、壱岐、対馬、さては韓土も「遠の御門」といはれてゐる。すべて朝廷(みかど)(べ)である。さればかの大伴旅人卿が、九州太宰府で詠んだやうに、「やすみししわが大君の食(お)す國は大和もここも同じとぞ思ふ」、即ちあくまで距離を超えて大君の御側ぞといふ信念は変りなかつたのである。「海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、和(のど)には死なじ」とは、そのまま実に北洋のアッツ島に 天皇陛下萬歳を唱へて死地に突入した人々の姿であるといはねばならない。同じ奈良朝時代の昔、称徳天皇の宣命の中に、

 この東人は常にいはく「額に箭は立つとも、背には箭は立たじ」といひて、君を一つ心を以ちて護るものぞ、云々

といふ 聖武天皇の勅語をお引きになつてあられるが、古の東の國の人たる山崎部隊長初め、まことにこの厚き御信倚のままに昔も今も変らぬ尊い皇國民の姿を今日に止められたものである。
 この一念が我々全國民にひびけばこそ、かの「頭髪未だことごとく白からざるの不忠を恥入るものに御座候」といふ誠忠の言葉を残して護國の神となられた山本元帥に続いて止まじと覚悟させ、今また二千の壮烈無比の戦士の面影を胸に抱いて、國民また勇奮興起して、些かもたじろかぬばかりか、この忠勇の神の志を百千倍にしてゐるのである。前に述べたやうに、わが日本人は 天皇陛下の御召を受けると、各自の勇気や力が二倍も十倍も無限倍し、立派な、壮んなものに増し進む、いはば一億の國民の力が二億十億、正に億兆の力が出るといふことが出来るのである。全く億兆の力なのである。戦友が仆れればそれによつて戦力はこれを補ひつつ更に激励興起させられるのである。これが敵米英の如きに於ては、闘志は生半可であり、打撃を蒙ると意気沮喪して、彼の人口の数が逆に二分の一にも十分の一にも萎縮するわけにもなるのである。たとへていへばこの戦争はわが勇み立つた十百千億の大きな神力を以て、二千万、四百万にも縮む獣類を討つのであるといつても決して単なる妄言ではないのである。我々は彼に打撃を与へねばならぬ。徒らに一時一局の戦況に無用の素人判断を下して動揺したり、いやしくも米英思想にかぶれて意気地なくなつたりするならば、英霊に申訳なきは固より、それこそ戦がぐづぐづになることになる。これは非常に重大なことで、どうか全國民が、わが歴史的精神であり、軍人精神である 天皇陛下の御信倚を賜れるの信念を以て、天皇陛下を戴き奉る日本國民といふ、たとへやうもない、尊い、強大な力を振ひ起し、神の國日本の聖戦へ、愈々前進せられることを相共に覚悟し、忠誠を尽したいと思ふ。

                 − アッツ玉砕を報ぜられし翌日五月三十一日放送 −