・・・「は」或ハ「ハ」ト表記ス。
・・・「ば」或ハ「バ」ト表記ス。
・・・「々」デ代用ス。
混合と化合
凡そ人類は単独孤立の生活を為し得るものにあらず必ず多少の親和力を
以て相団結して社会を形成するものなれども其団結の程度若くは方法如
何に依ては其社会の性質に勢力の上に一大差異を生ずるものにして其
団結の方法たる固より千種萬別なりと雖も概して之を混合と化合との二
種に区別するを得べし
混合と化合とは一見頗る相似たるが如しと雖も一たぴ之を検査すれば容
易に其差異あるを発見すぺし今自然界に於て之が例証を挙ぐれば夫の空
気の如き畢竟するに窒酸二元素の混合物にして二元素の関係ハ別に親密
なるものあるにあらず唯単に二元素の各分子が個々別々に相接近して存
在するに外ならず之に反して化合の例は水に於て之を見るを得ぺし水は
吾人の知悉するが如く水酸二素の結合して成立するものなれども其結合
せる有様は窒酸二素の空気に於けるが如きにあらずして水酸二素が化学
的作用に依りて相結合するや各分子は各其特性を失ひ其性質全く異りた
る水を形成するなり混合と化合とは夫れ此の如き差異あり随つて之を破
壊還原するに於ても亦其難易同日の談にあらず是其親和力異なるが為め
に抵抗力に強弱の差ある敢て怪むに足らざるなり
之を以て社会団結の現象を推すに吾人人類が共同生活を為すに方り個人
的思想のみ発達して各個人の利益を唯一の目的として相団結する者は宛(あた)
かも窒酸二素が相混合して空気を形成するが如く更に他に自己を利益す
るに足るものあれば直ちに其団体を去りて他と結合するは又恰かも空気
中の酸素若くは窒素が他の元素に触るれば容易に空気を棄てゝ之と抱合
するが如し此の如き団結は名のみにして是唯各個人が各別の利益目的を
以て雑居群棲するに過ぎず未だ以て目するに国家を以てすべからざるな
り此の如き混合的団体は団体としての勢力頗る微弱にして国際的国家と
して列国競争塲裏に立ち其生存を全うするの資格を有するものにあらざ
るは敢て疑を容れざるなり
故に鞏固なる国家として前途多望なるは化合的団結ならざるぺからず化
合的国家とは国家内の各個人が其個人的利益を後にし国家的利益の為め
に結合するものにして其結合の中心は即ち国家的観念に在り此(この)国家的観
念は即ち夫の化学的結合と其作用を均しくするものにして一旦化合した
る時は各分子は容易に游離するものにあらず全力を集めて一団とするも
のなれば之を混合的団結に比すれば猶五指の交々(こもごも)弾ずるに対し一拳の打
撃を以てするが如く其勢力の強弱固より智者を待つて後に知らざるな
此理を以て推せば最強最盛の国家は之を組織する分子たる各個人の多数
若くは強壮なるのみの故にあらずして完全なる化合的団結にあるは殆ん
ど自明の理と云ふも敢て過言にあらざるなり果して然らば此化合的作用
を発生せしむるは国家を組織する者の一日も忽(ゆるがせ)にすべからざる所にして
乃ち余輩が平素国家的観念を鼓舞するの必要を説く所以なり
顧ふに我国民は忠君愛国の至情に富むを以て今更国家的観念を涵養する
の必要を喋々するは殆んど無益に属するが如き観ありと雖も個人志想若
くは拝金主義は泰西と交通盛なるに従ひ益々其猖獗を逞うするの傾(かたぶ)きあ
り加ふるに国家の国家たるを解せざる無智の小民も亦決して少きにあら
ず今に於て大に之を鼓吹するにあらずんば内地雑居の期来る遠きにあら
ず此時に方り化合的団結全からず尚游離する分子の存在するが如きあら
んか其危険殆んど測るぺからざるものあらん是余輩の尤も恐るゝ所にし
て混合化合の別を説き其利害を明にする所以の已むを得ざるなり
(明治二十九年十二月十一日「東京朝日新聞」)