東西美術家の確執
工部省の美術寧校を置くや、以て西園美衝を俸へて、之を此に移植せん
とするに在り、嘗時甚しく固有の術を購で、全く之を度外に放棄せしは、
則ち謬見に巌すと雄も、其の後一二西人が固有美術を褒揚すること太だ
盛なるや、則ち其の新たに美術寧枚を設くる、義く之を固有の者に取り、
而して全く西園の術を廃す、是れも亦矯柾太だ過るなしといふぺからず。
夫れ今の所謂日本蓋なる者、何ぞ昔て固有特性の術たらん、乃ち土佐、
浮世、四條の縛化して而して一種の風格を為す者と雄も、其の淵源壷く
之を支邪に取りしのみ。乃ち今の油董と雄も、邦人の技傾にして、其の
英を合み、其の華を岨ひ、醸して而して新致を生ずぺからしめば、其の
西に取るぺき所は、特に其術のみ、何ぞ必ずしも忌で而して之を斥せん。
且つ油董の日本董と、軒軽を其間に置く者ありと錐も、一は油を用て塗
澤し、一は筆墨を用ゐて沸刷す、其の衝己に同じからず、其の長短又相
異なる、此を以て彼を律すは、馬を以て牛を律するが如きのみ。故に南
存して而して各々其の饅達を助く、固より其の所、又自ら爾らざるを得
ざるぺき所なり。若し今の西董家が其の董題を揮ふ、動もすれば之を西
園に取り、其の董趣の如き、其の賓用に室るまで、徒らに之を西図に邁
へて、曾て園民の思想なしといふを以て之を斥けんか、狩野氏の揮ふ所
董題は何如、其の由て出る所如拙、周文、雪舟等の董趣は何如、是れ二
十年新来の西董に酷責すべからざるなり。故に官局の者、美術を奨励す
るの造に於て備はるを貴めば、固より邦董を奨励するの次、必ず併せて
西童を奨励するの理に近きを見るなり。然れども董エ其人が自ら為すの
道より之を言へは、則ち異なる者あり、今の西董家が、哀叫怨既して、
一の九鬼某を政撃するの何の心なるを訝らざるを得ず。夫れ一世の蕾習
に泥むに官りて、自から新蓮路を開く者、古より誰れか世の蓉愛する所
と為りて、而して姶めより大に条えし者あらん、然るに西董エは則ち甚
しく不幸の地に立てりといふを得ず、世方さに西園新異の事を伶ぶに普
り、其の美術の如きも、頗る世人にもてはやさるぺき勢あり、而かるを
何ぞ必ずしも其の一二官人の好意によりて喜肇を為すへきあらんや。土
佐氏の方さに檜所頚たりしに官り、如拙、周文、雪舟の徒、′北宗の董を
俸ふ、彼れ宣に必ず官司の保護を受けて、而して其の術を弘めしならん
ゃ、狩野氏の方さに武家の董柄を執るに官り、南宗の量を俸ふる者、四
條の新汲を開く者、彼れ亦宣に必ず官司の保護を受けて、而して其の術
を弘めんや、而も其の制作する所は、不朽の償ある者彬々たり。且つ土
佐氏檜所頚たりしより、名工の出ること、却て落莫たり、狩野氏食線に
飽てより、其董は釘短摸擬に終る、是れ今の西童家の官司の保護なき者
は、却て其の自信の念を篤うして、束縛せらる1所なく、大に技に奮ふ
に於て、寧ろ宜しき所にあらざらんや。乃ち一の九鬼某の好意に噴々と
して、其の技に於ける自信の薄窮なるを見す、此の如き童エ、之に輿ふ
るに千百の保護を以てするも、其の能く為すなきを知るぺし、之を排斥
するは、固より其所なるのみ。
(明治二十五年入月二十九日「亜細亜」第五四競)