緇心録
創才と出学殖
さりとて寧殖も全く天才にあらずといふぺからず、善く其の分を知て之
浮せの荒き風波に堪へかねて、百事人後に落ちぬれば、事業文章あらゆ
る願望を思ひ攣えて、心に墨染の衣を被り、手に未鵜を把り、故郷なる
南畝二頃の田に耕へすぺしと定めては、先づ宅椿を姑りて、世に立てる
人々の是非をいはんことを合めんに如かしと、二年あまり、先輩の後へ
に随て、糊口の資とも頼み、進畢成名の路とも辿りたる、「亜舶亜」編
輯の事、今を限りに辞し申さんと、さては名残りの一二語、亦感香に渉
ることを免れざるは、宿障のいかばかり深かりけんと我ながら杢恐ろし
き限なり。
ハU
只リ
3
三穎とかいふ煙草の名ともまがふぺき雑誌あるよし、可笑しさに借りて
見たり、デビl;−とかいふ兵器を、根かぎり振同さん下心と見えたり。
利器はあまり多く人にかすべからずとか、デビI妄−に檜したる利器あ
らずば、カの及ぶだけ、わざの及ぷだけ用ゐて、遺れる必要をば、衆ら
ん能者に賂さん、宣に好からずや。我れ濁りにて其用を轟さんとせば、
手を損せざれは、則ち必ず匁を鈍らさん。すぺての横棟、崎形のょりあ
ひしともいふぺき雑誌なりけり。
文体はそれノ1その代ノ1に邁したるさまにて、其の能事を了し、其の
時過きぬれば、いかに其の維持を勉むるも、支へがたきものと見ゆ。萬
葉の長歌、古今新盲今の三十一字、室町のせの達歌、江戸府の俳譜、各
々其の世に盛を極めて、それょり以前は体備はらず、それょり以後は情
うすし0統詞宜命の奈良朝、物語の平安朝、軍記の北條南北朝、詰曲の
室町、浮瑠璃の徳川前牛期、讃本の徳川後牛期に於けるも、同じためし
なるぺし。されば新しき世には新しき文体生すぺし、されど僅か二十飴
年なる今日には、人々新しき体をいづれと定めかぬるも理りなるぺし。
迫逢大人なども、しか思さる1にか、記資の主義を唱ひ出されしも、そ
の故にやあるぺき。
しぐれ庵まめなる男にて、二官里の外、我は疎潤かちなるも、音間を絶
たれざるは、悦ぢて謝する所なり。三月中南度の侶書あり、其の前なる
は「亜細亜」停止の後、問もなくのことなりければ
毎度の手錠嗜ひ申す辞も無之候こちらの親切もあちらに邪推されては
溜り申さず候生も椿萱奉養の為め俗更の群に入り申候虞諦席の一言が
忌詫に鱗れ職を尉するに至りたる次第にして法にも棒にも外れたるこ
との嘗世に多きは仕方なき義にして官惑するより外無之候されば家厳
が「南無阿滴陀鳴たが雉子の最後かな」と唱ひしに「野は廣し下ろす
雲雀に揚雲雀」と和し相慰め申侯誠に棟々の浮世に有之候乍未筆昼剛
途御自愛所上候匁々不備
とあり、されど地を肇で下ろす際には、上をば厳みまじと、我は覚倍せ
んと思ふが、あしかりなんや、前途とは一寸前きの闇の事なるぺし、
を愛惜すぺき身なるぞ、しぐれ庵が更に敦へられんこそ願はしけれ。
に例の俳句そへられたり
何
未
八寵橋にて
永き日を寵の眠るや橋の影
霞みけり遽山寺の鐘ながら
篤に障る1心見られけり
障る1心見てくる1篤もあらば、あまり寂実たらざるぺしと、それのみ
は光りの世を辞する今はのきはの未練なれど、それも覚束なくはあらず
や。後の書には、
未た御免の沙汰なきや随分辛き折檻に候(中略)滑雪を待て柳の糸の
長々と愚痴可申上侯
とあり又一句添たり
渡られぬ濁木橋や山櫻
島田蕃根大人の語られき、三十年前、熊本の横井李四郎と語りける折、
九州にて畢者は誰ぞと問ひたれば、誠の寧者は筑の永井十兵衛なるぺし、
安心の地を求めて得ず、悶え死に死したりと答へたりきと。此の心を諒
知する者は、今の世に幾人かあるへき。
老子は志人の其の生涯の経験を侶じて、折々小言いふが如し、偏屈とは
知れど、語のはし〈親切菊見えて、言葉を反しにくし。列禦遥は人柄
あしからず、面恰きは荘子なるぺし、其の能力の或る部分にすぐれて、
人の及びかぬるが為め、慢心して人を人とも思ハぬ風あり、口がしこく
て志施などゝ言葉たゝかひして、勝ちかぬれは、本に返れなどすまし込
むなり0茶山が筆のすさびに、其心は院亭稽庵にいくばくも異なる事な
しといひし、酷許にはあらし。
黄面老子は博識なる厳師停なり、時として其の言ふこと誤ありと認め、
又出放題をいふぞと心付くことありても、長れて之を指摘し難し。され
ど過ありしとき、其の嘗て言はれしことを思ひ出づれば、亡き母の折檻
記
の
夜
二
倉
鎌
J
OO
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を思ひ出しやうにて、涙せきあへぬことあるべし。聞解第一とて、始終
側をはなれさりし可憐の阿難と、成ることならば、我は生れたかり
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自惇居士は稗尊に似たる所あり、天台造士は基督に似たる所あり。
九州人の書く歌ふ都諮を開くに、浬嚢にして鵜くに堪ふぺからず、此等
が戦勝者として、大都に入り込み、風を移し俗を易へたれば、さる粋人
共が、明治の世になりて歌妓の蛮いたく衰へて、容姿のみにて償る1や
うなり行きしと歎くも、故なきにあらず。薩長の諸公中、苦談桟主の如
きは、水野をばやり得ぺし、柴翁一人のなきは、藩閥の命教長かるまじ
き兆といふぺからずや。
九州人の都詰の節は、前牛段張りて、後牛段ゆるむが常調なり、奥州人
の都詫と相反するやうなり、以て地方菊風異同を察すべきなり。
圃々に行はる1鬼話怪談を彙顆して、此較研究したらんには、定めし面
白き結果あるぺし。囲了師の妖怪研究はいかになりしにや、師は只管妖
怪の由来の強鮮を求めて、妖怪談の方土風菊に係る人顆寧的講究は、あ
まり注意せられざるに似たり、醇庵先輩は定めて此の講究をば喜ばるぺ
し。今奔譜といふ馬本あり、舌賀個庵の著なり、我が囲にありとあらゆ
る怪談を聞くかぎり集めて、頗る義したり、醇庵先輩に見せたきものな
り。岡南欄、此の一項にて、思はずも筆を摘くことなるも、自づからな
る因縁にや。
(明治二十六年四月十五日「歪細亜」第二巻第三競)