鎌倉二夜の記

かうひくあさみづ南八、菅の根の長渾ヤンキー又の名は別天さくらをの
をん田呑龍など、湘南に鼻糞募集の密謀を凝らすと開き、吾れ官更にも
議貝にもあらず、但しその近頃謹憐の内幕は探偵して一かどの忠義を盛
徳なる内閣諸公に効さんと思ひし拡もあらねど、フト星月夜鎌倉行思ひ
立ちぬ。
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藷々居士を訪ひまつらんと思ふ折から、岡南萬蕾盟の面、ことひうしの
三宅雪嶺、さゞなみの志賀矧川を始めとして、鳥かょふはた山呂泣、あ
十入日午後、岡南萬の御一人自黒のご藤寵玉槙の主人別貌は忘言子、さ
てはあまぐもの木公と三人にて出立つ。浣車にて十年前の少き友と固ず
一虞になりぬ、かれはその後商家に身を委ねて、衆ん年は洩草なる某と
いふ貿屋に養子になるぺき筈と語る、故より浮良にして才き1たる男な
りしかば、行未の好遥推はかられて、めでたきことなり忘言、木公、い
づれも養子には資希なきにしもあらぬ身柄、耳とめてその謡承はる為可
笑し。志言は逗子へ行かんとて、大磯まで乗越したる履歴ある旗行家な
れども、吾が伴へるに安心して居睡りなどするは、人に任じて疑はざる
度ありと謂ふぺし。されど固覚寺へ赴くとて鎌倉まで乗りしは、是丈は
吾が功名にもあらざりき。囲覚寺前の一旗店にやどる、十教年の前、郷
里より秋田、盛岡などに行く造々の山問の族店思出でらる。藷々居士、
几鳥子、夜ふくるまで講さる、居士例の奇言妙語湧くが若し、几鳥子は
生れからの高饗にて笑ふ馨山の内の谷合にひゞきてすさまじ、木公記者
抜目なく、此等の話を明日の論許の材料にする由なり。席上に呉瞥季士
の「楕紳病者の書態」といふ書あり、中には苧灰の合ひし紹句など作れ
るあり、木公詞伯が九州に於ての作よりは上手なり。頻狂にも顆多く、
ムヤミと金を溜める気ちがひなともあること柏講する序で、岡両諸同人
の作なる頒徳表に及で、横濱の従五位なども恐らく此の伸間にはあるま
じきやなど、長こきことまで口走る。劇覚寺の彿像はいかに、運慶のは
無論あるぺし、定朝のもあるべきやなどいへば、寧楽このかた湖南少々
彿像癒にはならじやと、居士ひやかさる。居士、几鳥子と寺内正侍庵の
寓にかへられ、三人は寝に就きぬ。
十九日、吾最も先きに起く、孟し破格なり。朝餐己りて、忘言と打達れ

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て正侍庵を訪ふ、木公はかの論評起州に忙しく、此際の清問をさへ食る
こと能はず、可憐といふぺし。境内の雲頂庵に彿敦夏期講習曾あり、大
寧、高等中挙、専門拳校、法拳院、慶應義塾等の志有る諸生、横濱彿教
青年曾の人々の企になれりとぞ、二週間の合期にて、居士はその前一週
の講義を受持たれしにて、此日は終詩なるよし、聴講者は日々九十人は
どあり、中には一人大畢敦授あり、撃寧博士片山園嘉氏なり。こは元と
基督教徒の為すに傲へるにて、西の方にては勢州二た見に一合を設けて、
饗息相通ずる約あるよし。基督敦方にても箱根と頻磨とに仝じ曾を設け
ありといふ。やがて時至りぬれば、藷々居士、几鳥子に従て、雲頂庵に
至る、庵は山の牛腹に在り、林木鬱茂して、げにや自雲も麓に宿りつぺ
し、苔滑かに井泉清列にして、まことに塵の世を離れたり、山下を往き
かふ演車の音、無常迅速の響あり、此間に在りて聞法修行せんこと、億
劫の迷閤なりとも一時に破れつぺくぞ思はれける。況んや海水には一旦
ならずして搭すぺく、養生の為にも都合よし、将た月明自旗山に萱り、
覇都の遺址残敗のさまを指鮎して、無量の感慨を遊覚の興に寓せ、風雨
由此が濱逮に立ちて、縦横の計策を哺敷の飴に童せんことは、菩薩の本
色、英雄の本懐、此生峯しからずと謂つぺし。都門炎熱に苦しむの「所
謂前路的英漢」たち、頻らく衆りて牛月の清味を此間に昔むぺきなり。
建長寺貰造和伶の心王銘、藷々居士の般若心脛未章を講せらるゝを塘了
する頃、木公も亦爽る、居士更に聖浄二門排を演ぜられ、請全く畢りて
旗寓に麻る。
午下又正侍庵に至る、謁々居士、几鳥子、片山博士と鼎坐せるさま、幕
の内の寄合の如し、中にも博士の容貌、どこやら達磨大師に彷彿たるは、
此道に於て宿縁ありと謂ふぺき欺。人々と共に囲覚寺の俳牙を挿し、俳
殿なる定朝の簗師如来、運慶の十二紳賭、卿殿の本尊華厳の澤迦俳、自
褒庵なる仝じき繹迦俳をも拝したり。寺は相摸太郎時宗の建立にして、
時宗以下三代の墓所、肯像あり、貞時が勧進せし洪鐘を、忘言一つ、木
公二づ揮きて滴悦なり。藷々居士の一行は、此日厨京あるぺきよし、吾
等三人は辞別して、建長寺にて悌像を観、鶴岡八幡の懐古展覚合に、建
安の年競ある銅雀董の瓦、静の舞衣、頼朝の響、藤九郎盛長若くは北條
一門の拙き馬経、諸溶士の兜、政子の前が柴華の夢買ひし鏡、陳和卿、
安阿禰、遅慶等の俳像、鎌倉彫、敷々の盲物に目を飽かして、詞前の紅
蓮今を盛りなるに、
か尋ねわづらひて、
矧川、呂泣、別天、
も小さからぬ鉢の、
「俳めき」たる心を吟して、去りて岡南溝を幾たぴ
長谷なる三橋に至れば、枕言葉つきの諸豪、雪嶺、
南八、呑寵、臥せるもあり、立てるもあり、いつれ
時々調子外れの吟聾、桟上を轟かして、牡牛の群に
も似たりけり。
晩餐後、海水静びんとて、源泳自慢の呂泣、別天など眞先かく、あとに
つきて濱逮に至れば、はや人々は水に飛入りたり、魚顆のまねを鮮せぬ
は矧川老、木公、吾と三人、砂上を排掴して、快き風に懐袖を吹かす。
月影かすかにして、人々の源ぐさま定かには見えねど、呂泣の手なみは
葉山にてかねて知れり、几そ狩休法にもそれノ〜流儀はあるよしなれど、
吾が思ふ所にては、呂泣流ほと安全なるはあらじ、手を砂について首の
水面にあらはるゝ所にて、足を波間に働かすは愛嫡にて、箕は手もて旬
ひ行くなり。とかくして人々水を出でぬれば、叉打連れて辟る。辟れば
叉起くる者、臥す者、哺く者、■各がさま〜hTなり、かくては護憐のほど
もいかゝあらんと思ひしに†翌る朝、例の俳像頻己みがたくて、木公と
大俳、長谷の観音を拝まんといへば、忘言、南八も連立ちぬるは、岡雨
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溝一行代参のこゝろにて、諸公の冥涌を所るなるぺし、貌勝の事にて侍
る。二十日岡南裔諸人は酒勾の松涛園へ向ひ、吾と木公とは紅塵萬丈の
都に辟る。
(明治二十六年八月十五日「亜細亜」第二巷第九戟)