厭世主義
這箇の文字、近日屡々見る所、娩に基督敦家の口吻に上りて、毎々排撃
の種と鳥る。然れども世果して厭ふぺからざるか、現在の状態、何れの
時か満足歎喜すぺきあらん、其の一身の為にせば、則ち災害、患難、柾
屈、威迫、皆之を命として甘じ、天の績理と信じ、前世の宿業と観じて、
楽で之に居ることをも能くすぺし、しか甘じ、信じ、観ずる能はざる哀
柑
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々たる生民の馬にせば、則ち如何とかせん。石川五右衛門は其の身湯鏡
を硯ること飴の如きも、猶ほ其子を挽げて、一剋牛剋の苛痛に兎れしめ
んとせり、若し其の自ら苦痛に堪ふるを以て、其の子をして同じく之に
堪へしめんとす、是れ獅の巌のみ、千伍の整に投じて、其の健屠を試み
る、獅に在て則ち可、人に在ては則ち不慈たるを兎かれず、今生民を硯
ること赤子の如く、備々意として只其の傷かんこと、疾まんことを憂ふ
る者に在て、乃ち其の自ら能く現在の状態に安ずるが故に、一世をして、
挽には牡曾の最も多敷にして、最も抑屈せられ、而して殆んと自から其
の抑屈せられたるをも忘る〜の族をして、かの暖飽して猶ほ且つ名利の
途に疾璧眈奔する者と同じく、現在の状態に安ぜしめんと欲す、正さに
其の不仁の甚しきを見るのみ。是故に民の痍を憂へ、世の偶向を慨く者
は、皆此のせの厭ふぺきを思ひ、新たに理想の世を建て1、以て衆と僧
に欒しむの願を全うせんと務めざることなし、是をしも厭世の斥すぺく、
卑しむぺしと言ふことを得んや0且つ今の所謂楽天の徒を観るに、彼れ
其の欒しむ所、果して一人頭↓の天とするか、賭た億兆生民頭上の天と
するか、億兆生民の頭上に於ける天、其の偏頗矛盾、錯雑雰午するが如
き者あるも、是れ人の測るぺからざる、大なる明命ありて、其の仁志な
る棟理を行ふ者あるならんと云ふと雄も、兄弟の罪を犯す者あり、官司
之を逮捕して獄に投ずるは、亦た懲戒して勧奨する所あらんとするの恵
にあらずとせず、然れども兄弟なる者は、其の恵を拝して、獄に入る者
を祀して之を迭ること能はざれば、大滴理なる者あるも、我は以て安じ
て、其の憂を解くこと能はず、是れ情の至り、又義の轟る者に非ずや。
若し所謂楽しむぺきの天を以て、厭ふぺきの世を以て、唯だ之を一人頭
上、二□身連に於けるの裳歓に過ぎずとせん・か、乃ち彼れ一人の為の故
に天を楽しむ者は、其の得意の日、而して一己の為の故に世を厭ふ者は、
其の失意の境、得意の日に楽しむ者は、又失意の境に厭ふ者、斯の如き
馨圃根性の小人物、之が虜に群を費し論を立て〜、楽天圭義、庶世主義
なる者を、侭々裔として説くを頻ひざるなり。深くせ相の賓態を覿せず、
篤く皇天の明命を求めす、而して励々として口語を弄して、塾自の異を
争ふ者、彼れ焉ぞ大厭世覿、大架天想の根抵を知るぺけんや。
(明治二十五年九月五日壷細亜」第五五競)