敵国に対する礼


有理の攻撃は友邦に対して之を加ふるも妨けあるぺからず、之れと同時に無道の侮辱は敵国に対しても之を慎まざるぺからざるなり、王者の道は敵国に対するも猶ほ礼を守る、礼やは諛らふにあらず、以て我れの品位を保つ所のものならずや、故に敵軍の人と雖ども死者は之を葬り傷者は之を労し降者は之を食なふ、皆な王者の大仁大義にして必ずしも西洋の所謂る国際公法なるものゝ命を俟たざるなり[○]、吾が 主上夙に王者の道を行ふに勉む、今回の變あるに当りてや、乃ち急に法令を出して清人を遇するの法を定め、戦時敵国の民と雖とも軍に関係なき者は善く之を遇して堵に安ぜしむ、是れ亦た敵国に対する礼のみ。
然りと雖ども、礼や国を以て之を行ふべし政府に因て之を行ふぺし、域内に向ひ戸毎に説き人毎に諭して皆な之を体せしむるは難し、何となれば礼は是れ法にあらざればなり、是の故に市井の間に在りては王の所愾に敵するの余り或は罵晋嘲侮を加へ、其の軍人たると商民たるとを問はざるなり、甚しきは死者をも笞たんとし、傷者をも殺さんとし、降者をも辱かしめんとし、猶ほ甚しきは其の相将に向ても侮辱を加へて願ず[○]、是れ王者の道に背馳するものなりと雖ども、一方より見れば、臣民が国の愾はる所に敵するの心に出づ固より深く各むるに足らず、唯だ識者は時に自ら節制して甚しきに至らじと注意するをば要す。
新聞紙又は坊間の図画書册に於て、殆ど無道の侮辱を敵国人に加ふる少からず、然れども国法は固より之を禁するに由なく、且つ戦時敵愾心の激なる所亦以て人心を鼓舞するに足る無しとせす、例へば、袁世凱を笑らひ、葉志超を嘲り、李鴻章を侮辱するが如き[●]、人誰か之を快とせざるものあらんや、坊間以て俗好に投ぜんとするは固より其の所なり、然りと雖とも是れ唯た民間一個人の事たるに過きざるなり、天下視て以て尋常と為して毫も怪ざるなり、萬一にも一個人にあらざる者例へば荘厳なる公庁の類之れを為さば、吾輩は国の品位を保つに於て無益の戯たるを知る。
十年前の事と覚ふ、西班牙国王が独逸国に行幸して同国の陸軍大演習を参観し、独逸帝より陸軍士官の資格を授けられ還幸の途次巴里に着御あるや、停車場の傍に仏国陸軍々人集り、敵愾の余り、軍人等は西班牙国王を呼びて独逸兵卒よ独逸兵卒よと罵りたり、当時欧州の識者は皆な仏国軍人の失礼を誹り、大国の品位を損する旨を言へり[○]、蓋し当時仏国は独逸国に向て敵悔心の熾んなること今日よりも数倍す、西班牙王が独逸の軍籍に入りしを見て敵愾心を之に移し、乃ち市井の徒と共に之に侮辱を加へたるなり、市井の徒ならば則ち可なり、軍隊は則ち不可なり。
仏国は実に弱を侮るの謗を免れす、弱を侮るは是れ強を畏るゝなり、乃ち小邦西班牙王に侮辱を加へたるは敵国に対する礼を失ふの外に又た其の侮弱畏強の不徳を犯すものといふへし、王者の道は大仁大義に在り、弱敵を侮るは是れ陋の極のみ、吾輩は一個人に在りても妄に敵国人を侮辱するの可を見す、況んや一個人ならぬ公廨に在りてをや[○]、我が国に於ては幸にして未だ仏国当時の軍人の如きものなしと雖ども、今や清国と干戈を交へ敵愾の心は官民共に熾なり、此の時に当り宜しく節制すぺきは敵国に対する挙動にあらずや、有理の攻撃は友邦に対して加ふるも猶ほ可なり、無道の侮辱は敵国に対しても慎まざるぺからず(白抜き点)]、是れ決して敵に諛ふにあらず、以て我が国家及び我が軍隊の品位を保つ所以なり。

                     (明治二十七年十一月四日「日本」)