士道と儒道


   本誌五十競凌刊に就き陸先生を訪ひ先生の骨像を得て掲載せんこと
   を希ふ先生之を快諾せられたのみならず特に本曾の食め近来の所感
   を談話せられたるは曾貞諸君と共に深く感謝する所なり余不文或は
   先生の意を停ふ能はざるを恐ると雖ども右談話を筆記して之を巻頭
    に掲ぐ希くは先生の志のある所を察し諸君と共に士道の発揮に努め
    んかな(子強諭す)
 士道は儒造より来たもので儒道印士道であるとは儒学者一浪の言ふ虞で
 ある成程徳川三百年の間時の政府は儒造を鼓吹して士民を治めた従て士

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造も其影響を受けて大に態達したことは確である従てまた儒道と士道と
は大に相近かづき大に一致する様になつたでもあるが併し士道は我邦に
於て儒造以前即ち徳川時代より逢か昔よりのもので士道の醇なる虞は常
時より今日まで一貫して残つて居る士道は日本固有のもので儒造より出
 でたるものでなくまた其根本に於て相違して居る様に思はるゝ尤も両者
一致する廉も少くはないが併し其相違の鮎も亦た少からずであるそれを
 妄ロして合員諸君の参考にしたいと思ふ
儒道は形式に傾き形式に重きを置くが士道は形式よりも精神を主とする
様に思はるる事貰に見られた所で見ると仮令倫理の上で君臣の間にして
も儒道の方は「成王有通則鞭侶禽」と云ふこともあり、漫りに君上を犯
 す行動は臣家の為すぺからざることの様に形式は定まつて居る士造に於
 ても其様な例はあるけれども時にょり虞によりて必ずしも此の如き形式
 に関せない今一二の例を挙げて見よう
 昔し奥州津軽藩主に髭殿様と慣名せらるゝ方があつた御櫛を上げる髪を
 結ふことあるときに頭を振り身を動かして侍臣共を困らせた侍臣に山本
 三郎左衛門と云ふ人あつて此の人は忠義の暮れ高かつた人であるが所謂
 る御櫛を上ぐる時頭を動せば容捨なく拳骨を加へた此の山本に限り静に
 結はしたと言ふことであるまた近年山岡銭舟は明治の初宮中奉仕の間時
 々角力の御柏手仰付けらるゝこともあつたが銭舟は遠慮なく勝負をして
御覧に入れたと云ふ話はある嘉に此の如き例は珍らレくない即ち事情
 にょりては君主をも犯すことはあるさりながら其問に無量の赤心はこも
 つて居る即ち精神を主として形式に拘らないから自然に此う云ふことを
 するのである
 兎に角儒道は形式に拘はり士道は精神を重することは確である儒造を修
 めたるものでも士道の素養なきものは俗儒となる只形式を取りて論じ形
 式を以て行ふことになる孟子に捜の溺れたるを授ふに手を以てするの書
 きか慈しきかを論じたるは形式を重ずる儒道の弊である孟子は此問題に
 射して之を授ふに手を以てするは構造なりと切り抜けて居るけれども随

分馬鹿げた話であるこう云ふ馬鹿げた話は儒の方には津山ある士造より
言ふときは全く問題にならない此る場合には手を以て引かうが足を引張
つてやらうが又は腰を抱き上げようが一向かまはない人の命を授ふの精
神を以てすれば形式の如きはどうでもよいのである之に一例を拳ぐれば
林子牛は仙董の貧乏さ朗いの次男であつた昔て捜が死亡したとき其死骸に
布輿をきせてあつたが折しも塞い晩であつたから子平先生は捜の布圏に
這入り寝て居つた家内のものはどこに居るかと家中を捜したが子牛は妓
 の死骸と枕を列ぺて寝て居つたので人々大に驚いたと云ふ話はある
此子苧の如き、また前に述た繊舟などの如きは儒造よりすれば随分乱暴
 のやうであるけれども士造より見れば何も答むぺきことほないのである
倫理の方より見て種々異なる鮎のあることは右の如くであるが素行の鮎
 に於ても亦頗る差違あるやうに思はれる
例へば節倹とか卑下とか云ふやうなことは儒造に於ても士造に於ても美
徳とする虞であるが扱應用の場合では南道の間に鯵程の差異が出来る士
造の訓陶を受けないで只儒道のみを修めたものは兎角自己の品位を忘る
 1気味がある
 昔は武士は貧乏しても両刀と袴は必ず着けて居る少し身分の高きものは
 外に鎗一本を有し馬一世を飼つて居ると云ふ棟なことで如何に貧すと維
 ども之を廃さない之れは時の制度にも由るのであらうが浪人でも五日は武
 士であると云ふ観念より食ふことほ出来なくとも之を備て置くと云ふ風
 があつた
 幕府時代に横山町遽の裏長屋に濁身の浪人は至極貧窮で暮して居つたが
 或日華言迄も戸を閉て居るから支配人は不思議に思ひ外から戸を開け
 て這入つて見るとその浪人は具足植に肱をかけて磯死して居る具足植を
 調ぺて見れば多少用意金もある又鎗刀などもよく手入してある
 死んだ本人の考では武士として具足、鎗、刀、用意金などを失へば生き
 甲斐はないと思ふたのであらう此の如きは儒造より見れは愚人と云ふの
 外なきも士造の方では先づ美談として俸へて居る
 席通では取巻にありて、箪の食一瓢の飲といふのを構賛して居るが士道
 ょり見れば余り春めた謡にならない士造の方にては武士といふものは融
 合中等以上にあると云ふことを根砥にしてその地位相首の生活をしなけ
 ればならない裏長屋生活などは士造にとりては余り名著でない寧ろ祉辱
 である
 佐久間象山は信州松代の藩士で身分は知らないが勿論中以上の士であつ
 たらう常に士は木綿を著るものでないとて絹布より外のものは著たこと
 はなかつたといふ此鮎は今の大隈伯の若い時も頗ふる似た話がある長崎
 で書生をして居た時代から黄八丈に白縮緬の帝といふ衣装で居つたそう
 である
 衣服の実意は兎も角くも其精神は尊ぷぺく其気位は感ずぺきである是れ
 は士造の極意と云つてもよからう士は気位品格はなければならない儒造
 の方でも士君子の品位といふを言ふてゐるが節倹とか卑下とか云ふこと
 に制限がなくどこ迄も美徳としてゐるから客薔家はそれを日貨にシ、、、ツ
 タレたことを自慢にしてゐる貧乏であれば致方もないが相官の財産も収
 入もある癖にケチな眞似をするなどは儒道の方で余り禁じてゐない様で
 ある相官の身分ある人にして過度の節倹を行ひ卑客なやり方で富を積む
 だものは珍らしくない特に漢学先生で箇様な顆の人は多いやうである
 某願選出の代議士にして儒道を修めたと云ふ人はある二千囲の歳費を受
 けながら汽車に乗るには赤切符である叉某地方の有力者で廣く世間に知
 られてゐる老紳士も亦た赤切符で東京へ往来するそれで節倹主義だと誇
 つてゐる
 抑も紳士として世に立つものが赤切符で乗車するなど言語同断である、
 官然赤切符で乗る人々の席を塞げるといふことにも首るか1ることは士
 造より見て卑むべきの極である
 高橋建三氏が内閣書記官長の官舎に入りし時家人は玄関前の杢地に野菜
 畑を作つた高橋之を見て野菜は八百屋にあるとて大に叱り郎時に畑を取
 り壊して花園に改め和洋草花幾百種を植さしたことはある、高橋の意は

 官吏として相官の俸給を取り且つ官舎に居る身でありながら少しばかり
 の野菜を手作りするなどは士道の法則に達ふと云ふのであらう少しく過
 激のやうでもあるが士造の極意には合つて居る
 神鞭知常が或る道具星に神山鳳陽の書幅があつたから償を聞いた所が五
 十銃であると答へた「夫れは余り安いから一園に要れ「五十鏡でも儲け
 はありますから「そうでもあらうが之れは己の師匠の暑であつて五十鏡
 では勿饅なくて買はれないとて遽ひに一固に買つて衆たことはある、小
 事ではあるが其心掛は中々気高い一囲のものを五十鏡に直切つて買ひ掘
 出したなど1喜んでゐるのは今日文人学者等の常習であるが紳鞭のやう
 なのは先づ珍らしい是も士道の標本であらう
 節倹はくれ′ハトも注意しなければならない騎著固より慈しいけれども過
 度の節約は土人の品位を落すものである少し苦くとも品位を落さぬ様に
 するは士造に於て必要條件である山鹿素行の「語頬」といふ書中「士
 談」といふのは数巻あるその士談の中にも金溜主義の節倹を土人の成と
 してある
 両者の美徳とする虞は同一であつても其應用に至りてほ此の如く大差を
 生ずるのである要するに儒道は形式を重んじて精神を次にするより自然
 と人情に冷やかなる士道は精神を主として形に拘らない形を捨て温かい
 情を以て人を救ひ人に壷すのは士道の本色である、叉自ら身を持するに
 於ても儒造では節倹や卑下を奨励してその過度なるを士道でほ或指滑度
 までは高慢をも許し又た時としては十露盤以上の滑費をも許す、気位品
 格を維持するは士造の尤も注意する虞である以上はふと感ずる虞ありて
 適ぺたるもので大略の考に過ぎないが青年曾貞諸君にして感を同ふする
 人々は更に研究をなさんことを望む
             (明治三十九年八月三十日「日本青年」第五既)