誠  心

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        上

国家に事なきこと三百年、偸安の俗久しく成りて進取の気殆んど熄み、
人唯た虚礼末節に拘はりて而して実用活機に迂なるの弊を生す、世局に
当りて大事を謀る者は此の積弊を看破し、反動の致す所遂に道徳を捨て
ゝ而して専ら才智を取る、是に於て乎、才を貴ひて徳を賎しめ利を重ん
して義を軽するの風漸く起る、是れを明治維新の始に於ける風習の傾向
と為す。形而下の文物西洋より輸入せられて我か邦人の耳目を驚かした
るは其れ幾何そや、道徳仁義の説大の器械工芸と毫末の関係なきことは
常識の者固より之を疑はさるなり、実利の説は人の耳に入り易く、楠公
権助の比較論は少数人の反対を受けたるに拘らす、既に振揺せる旧俗の
心を掃ふこと猶ほ快刀を以て草を薙るか如し、是に於て乎、節操なるも
の益々卑しく、廉恥なるもの益々蔑せらるゝに至る、是れを明治六七年
に至る迄の傾向と為す。道徳固より政治に関係なしとの説は西洋形而上
の文物として第一に入り来れる夫の法律学実に之を我か邦内に弘めたり
信教心に乏しき日本人は夫の基督派の主義を感受すること甚た鈍く、従
つて仏国法律の思想は功利を好む士人の脳中に浸入し、英米民権の論と
共に置郵して命を俸ふょりも速に治播するを致したり、之を要するに邦
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 人の奉西文物を探るや、其の道徳的方面を拒みて而して唯た其の法律的
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 方面を容れたるものと謂ふへきのみ。
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 昔時に至りて本邦固有の道徳思想は少なくも政治部面に於て、既に振描
 せられ、既に排除せられ、又既に破壊せられたり、而して之に代りて入
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 りたるものは何ぞや、日く法律思想是れなり、所謂る立憲政膿は我か邦
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 人の解稗にては法律的政治たりしや疑あらす、常時に在り代言人の皆な
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 自ら政事家を以て任せしことを見るも亦た其の一澄なり、是に於て乎、
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 政治世界に於ては法律ありて道徳なく許諾ありて誠心なきに至れり、是
 れを明治十年以後の傾向とす。マキヤヴヱル死して既に三百五十年を過
 く、不徳的政治の主義は泰西に於ても排斥せられ、経験上及ひ道理上復
 た斯る主義を採用するものあらす、特に立憲政膿の如きは道徳力の干渉
 なければ其の完行を期すぺからざること多数畢者の定説にあらずや、不
 幸にして我が国の政界は維新以来全く道徳を排斥して唯た才智を吸収せ
 り、其の飴習は引きて今日の立憲政饅に及ひ、政府及議曾共に弊を感知
 するに至らんとす。抑々道徳とは何ぞや、吾輩は政事家に向つて孔孟の
 造を話するにあらず、叉た基督の敦を説くにあらず、吾輩の今日政事家
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 に向つて言ふ所の道徳とは唯た一の誠心是れなり、此の誠心ありて而後
 に始めて政を言ふへきのみ、始めて国家を語るぺきのみ、斯の誠心なけ
 れば千百人の才子ありと雄ども邁々以て国家を誤るに足る。
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 天下強きものは誠に如くは莫し、世未た誠ありて而して軽き者は有らす、
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 人之を誘はんと欲すと維ども焉ぞ得て之を誘はん、世未た誠ありて而し
 て貪る者は有らす、人之を餌せんと欲すと維ども鳶ぞ得て之を餌せん、
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 世未た誠ありて而して擾る者は有らす、人之を乱さんと欲すと錐ども鳶
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 ぞ得て之を乱さん、誠あるもの疑はす、故に反問の能く惑す所にあらざ
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 るなり、誠あるものは怠らす、故に詭謀の能く誤る所にあらざるなり、
 凡そ人を致さんとする者は必す、其の軽きに因りて之を誘ひ、其の食る
 に因りて之を餌し、其の擾るに因りて之を乱し、其の疑ふに因りて之を

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 惑はし、而して其の怠るに因りて之を誤る、筍くも一の誠心にして存せ
 ざれば小事と維ども為す能ハず況んや国事をや、今や政府及ひ議合に付
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 きて最も其の然るを感するなり、吾輩は前年の條約問題に付き政府部内
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 に統一を失ふを見る、又た近時の濠算問題に付き議院部内に整理を乱る
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 を見る、其の弊源を察するに唯た其の大臣たる者若くは議員たる者の誠
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 心に乏しきに因るのみ、別言すれば法律思想の漸く進歩するに拘らす其
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 の道徳思想の殆んと滑燻するに因るのみ。唯た其れ誠心なし、故に甘言
 以て之を誘ふへく、賄賂以て之を解すぺく、脅迫以て之を乱すぺく、反
 問以て之を惑はすべく、詭謀以て之を誤るへし、若し姦滑陰険の筏其の
 問に生するあらん乎、其のカは大臣をして「裏切り」を為さしむるに足
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 り、議員をして「返り忠」を為さしむるに足らん、鳴呼、誠なき者は天
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 下の至崩なり。
 夫れ身は重臣の位に在り人の勢威に慣れて堂々其の意見を通る能はす、
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一旦他の攻撃に逢へば則ち日く、我れの知る所にあらざるなりと、而し
 て事の危きを見て頻りに民間に訣言を呈し、一日も永く其の威礪を保つ
 の計を為すものあらば如何。前年の條約問題に於て吾輩革葬の間に在る
 者猶ほ能く之を攻撃して多少の資効を拳けたる所以のものハ宜に濁り議
 論の正しきのみに因らんや、是れ條約問題の為に大事なりと錐も、国家
 百年の為には決して賀すへき所にあらず。是故に吾輩は條約失敗の「書
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 後策」を諭するに嘗りて、第一に政府職制の改良を促したり、常時新に
 政府の首位に立つ人は吾輩と同じく此の弊源を感知したるや香や、昨年
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 の姶に於て内層官制なるものを制し、以て善後策の第一着と為したるか
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 如し、然りと維とも弊の源は人に在りて制にあらず道徳の方面に在りて
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 法律の方面に在らす、人既に一の誠心なし、千法萬律を以て之を規すと
 錐とも復た何の効験か之れあらん。一旦理乳の磯に臨むときは則ち、渚
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 に一己の賓利主義を取りて危難を免れんことを謀り、而して以為らく、
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 政事家は村夫子にあらす、法律の範囲内に於て臨機應欒以て功名を取る
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 ぺし、小節小義は腐る所にあらさるなりと、事此に至らば政府ありと錐
 とも、吾輩は何を悼みて国務を托することを得へき、是れ宣に濁り政府
 のみならんや、譲合と雄とも亦た然り、昔しポーランド囲の亡ひたるは
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 政府及譲合の共に誠心を失ふに因る0計掛か卦針a掛かいいで酔掛か冴
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 きを喜ふ者にあらす、政府を味方として議合の崩きを賀することは最も
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 吾輩の意にあらす、吾輩が日本囲民の為に望む所は政府及議禽の互に誠
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 心を以て相和し又た誠心を以て相争はんことに在り。

        下

 雪霜霧霧は未た必すしも疾を起さゞるなり、饗色宴遊は毎に以て姫を萌
 するに足る、剣楯曳戟は未た必すしも鍋を生せざるなり、金柑玉吊は毎
 に以て園を滅するに足る、激論評議は未た必すしも乳を衆たさゞるなり、
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 巧言阿附は毎に以て世を誤るに足る。吾輩は必すしも官民の軋轢を非と
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 せざるなり、必すしも政府と議禽との激許を非とせざるなり、非とせざ
 るのみならず、時ありてか其の反て要用なることを信するものなり、然
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 りと維ども、誠心なくして柏接し許諾陥済互に競ふことは吾輩の最も非
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 とする所なり、萄くも誠心なければ其の争ひ固より非なり、其の和合亦
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 た最も非なり。蓋し誠心なきの争は其の争ふ所の鮎唯た政凝に在りて政
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 造にあらず、誠心なきの和は其の和する鮎唯た私利に在りて囲利に在ら
 ず、是を以て其の争は以て園を音するに足り其の和は最も以て世を誤る
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 に足る、而して無誠心にして官民相和することは遂に立憲政膿をして有
 名無賓たらしむるに至らんとす。吾輩既に内閣の一致を失ひて大臣各々
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 其の親しむ所に阿附するの不可を論じ併せて議員の誠心なくして常に院
 外の許言を顧慮し術策以て口舌を動かすを攻撃せざるへからす。
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 議員に費ふ所は其の国家の食めと信する所を執りて以て眞撃且謹重に言
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 論を為すに在り、試に議員の言動を見るに、其の言動は果して眞撃なる
 か果して謹重なるか、甲は晋りて日く彼は政府薫なりと、乙は駁して日
 く彼は破壊薫なりと、筍くも国家の費途を調査するに嘗りて相ひ嘲属す
 るは是れ謹重の拳と言ふへからす。或は故さらに過激の説を唱へて其の
身の藩閥罵にあらざるを示し、或は口を国防の必要に藷りて私に陸海軍
の費目を桝護し、或は政府篤と構せらる1ことを憤れて飴義なく過激の
説に同し、或は他の俵嘱に應じて忽ち反対の論に和するあらんか、是れ
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宣に眞撃の行と言ふへけんや。夫れ眞撃ならす謹重ならざるは即ち誠心
なきの澄なり、苛鴻誠心以て園の大計に参興するものは人言世評固より
憤るゝ所にあらす、又た妄に嘲罵の言を以て相争ふへからさるなり、私
行私徳に於ては固より此の事あるを得す、而して国家の利害より之を見
るときは最も其の不可なるを知るへし。自己の信する所を執りて眞撃且
謹重に言論を為し、互に討究して以て多数に決するときは其の結果始め
て輿論の結果たることを得へきなり、若し徒らに世評を顧みて其の心に
是とせさるの議に同し、故らに薫勢を張りて其の心に非とせさるの論を
駁し、或は除外の依喝に應して其の説を二三にするか如きあらば、其の
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結果は決して之を輿論公議の結果と云ふへからす。
軽き者は人に誘はれ、食る者は人に餌せられ、擾る者は人に乱され、疑
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ふ者は人に惑され、怠る者は人に誤まらる、此の敷患は皆な一の誠心な
きより来る、故に不幸にして議曾に誠心なき時は常に外部の為に致され
て他の利用する所と為らさるへからす。議曾にして他の利用する所と為
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るに至らは、是れ寧ろ議曾なきの優れるに如かさるなり、是れ寧ろ立憲
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政饅ならさるの優れるに如かざるなり、昔し羅属国の盛んなるや、智識
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の進歩に因るに非す、人皆な質直にして誠賓の心に富むに在り、而して
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其の衰ふるや、智識の退歩するにあらすして此の誠心の滑燻せしに因る、
農具を捨て1団欒を理むるの仁者は一人ありて以て園を興すに足れり、
樺略許諾に長するの智者十人ありて以て世を誤る。是に因りて之を見れ
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ば立憲政饅即ち公議政治の囲に於ては其の理乱の係る所、決して智謀の
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如何に在らずして唯だ誠心の滑長に在り、政府にして誠心に乏しければ
必す議合の為に侵凌せらる、譲合にして誠心に乏しければ必す政府の為
に擾乱せらる、而して立法行政の二植は忽ち合して一と為らん、若し政
府及ひ譲合共に誠心に乏しき乎、則ち世の権謀家の為に利用せられ国家

 の権力は遽に功利の弘法と為らん。
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 政府の策略、議院の方術、政事家の樺謀、吾輩は常に世人の公然此等の
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 語を誇栴するを聞き、又た其の事の賓際に行はる1を見る、然れども政
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 治上の徳義は吾輩其の語の度々構造せらる1を聞くも、未た資際上其の
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 事あるを見す。世に使者あり毎に政治上の掛引なる語を咽て夫の紛擾な
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 る薫汲を煽動し、又は政治上の技量なる詞を稗して夫の汝檜なる姦人を
 頒揚す、此の無節操破廉牡の世に於て敢て斯る言を為すは是れ賓に油を
 火に注くものなり、而して事の今日に至る所以のものは亦た此の徒其の
 罪を負はさるへからず。今日に官りて吾輩が世の識者に望む所は多きを
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 要せす、政治上の節操を奨励するに在り、之れを奨励せんには、大臣た
 ると議員たるとに論なく、苛も無節操の挙動あらば才識の取るべきある
 も猶濠なく之を排斥するを要す、蓋し立憲政濃をして其の効を有せしめ
 んには之を措きて他なければなり、吾輩は今日に至りて益々政治上徳義
 の必要に感する所あり、麦に卑見を記して大方の君子に海を乞ふ。
                   (明治二十四年一月五−六日「日本」)