佐渡の暴民に感あり
鼓腹撃壌は、固より以て文明世界の太平を示すに足らさるも、米穀騰貴、
細民其生を聊せさるは、又不文時代の乱階たるのみに非さるなり。昨年
憲法成り、本年国会開く、四民将に康哉を謡はんとするに当り、春来米
価非常の騰貴を来し、細民の憂愁は、一変して憤怒となり、福井に鳥取
に下の関に新潟に無数の暴民、蜂起して、米商を襲ひ、或は其狂威を逞
ふせんことを謀る、幸に警察官及ひ地方人士の調停に由り、其暴を逞ふ
するに至らす、又慈善家相踵ひて之れか救済に従事したるを以て、威焔
忽ち鎮定するに至れり。然るに一昨夜飛報あり曰く、佐渡相川の暴民二
千数百名、蜂起して富豪及ひ米商を襲ひ、其家屋を損し、其器什を毀り、
勢ひ猖獗当る可らす、遂に新潟県知事は兵力を必要とし、新発田営所に
出兵を求め、同営所の兵一中隊、一昨日海を渡つて、之れか鎮撫に従事
せりと。
夫れ人誰れか貯積の欲望なからん、然るに赤貧洗ふか如し、平生の行為
必らす善とす可らさるも其境遇甚た憐むへし、人誰れか乱を欲せん、然
るに困窮の極、白昼相結んて他人の財産を奪はんとす、其行固より悪む
へしと雖とも、其意亦甚た悲むへし、而して其此に至る所以のものを問
へは、食物を欲すと言ふに過きす、苛も其食を得されは、死之れに随ふ、
生は人の欲する所死は人の悪み且つ避けんと欲する所なり、今其悪み且
つ避けんと欲する所のもの背に迫る、大人君子に非さるよりは、之れに
処して疑ひなき能はす、無智の人民豈に其の面前の事物を弁識するの余
裕あらんや、苟も之に食を与へんか、順良の民何んそ敢て他人を害せん、
況んや警察官の公力に抗するをや又況んや鎮撫の兵と戦ふに於てをや、
故に之を治むるの道は食を与ふるに在り兵を用ゆるに在さるなり。
世間姦曲詭譎殆んと盗賊に類するものあり、巧みに法律を脱れて、他人
の利益を横取し、国家の財産を占奪し、傲然自ら称して紳士となし、高
堂華屋美衣美服動物的の欲を恣まにし、不義の富みを楽む、法律之れを
罰せす、世人之れを咎めさるのみならす、随ふて之れを称揚し、或は某
社の長となり、或は某会の幹事となり、甚しきに至ては、国家の栄誉職
たる国会議員に挟撃せらるゝものあり、而して国家の罪人たる此の細民
を問へは、順良方正にして未た曾て他を害せす、自己の汗に衣食して其
他を知らさりしと維とも、一旦不幸にして、死と相隣するに至り、憂愁
の極一変して憤怒となり、自ら国家の罪人たるに至る、今ま之れを以て
彼の紳士に比するに其智愚の差亦甚しと言ふへし、然れとも其心術操行
に至ては彼此相顛倒する、又智愚の差より甚しき者あるなり。夫れ順良
方正なる貧民は、一朝の非行に由つて、国家の罪人となり、殆んと人倫
の何たるを弁へさる、盗賊の子孫は、其不義の富みに由つて、国家の栄
誉を荷ふか如き、仮令国法上不可なしとするも、決して国家の生活上賀
すへきの事に非さるなり、吾輩此に至て豈に一の歎なからんや。
(明治二十三年七月六日「日本」)