俗人多数の解釈に従ひて立憲政治を党派競争政治と見做すときは、今日
に在りて政府党と民間党とが互に自衛の策に怠りなきことをば、必すし
も非理の事態と云ふへからさるに似たり、然れとも、徐に党派的自衛の
心を去りて一国の実状を考察するときは、大に反省して悚然たらさる
へからさるものあり。吾輩は此の処にて『国家』の長計若くは『宇内』
の大勢などゝ云へる文字を臚列せざるへし、何となれは、斯る広漠たる
文字は常に思慮もなき粗放者流の為に濫用せられ、徒らに朝野の俗政事
家より不慥なる賛成を受くるに過きされはなり、今日の事は国家の為に
憂ふと云ふよりは寧ろ各自の禍福に付きて憂ふへきなり。夫れ人誰れか
自己の幸福を希はさらんや、其の幸福とする所は人々各々之を異にすと
雖とも、自己の為め、父母の為め、子孫の為め、又は朋友の為め、其の
幸福を希ひて以て営々するものならさるは莫し、此の点より見れは、世
の所謂る『個人主義』なるもの亦た真理を含蓄すること知るへきのみ。
吾輩は『個人主義』なるものを十全の真理と見做すものにあらされとも、
今日の如く朝野の政事家か『国家主義』と云へる口実を以て個人の利益
を放抛し置くときは吾輩も亦た、勢ひ其の『偽国家』に対して戈を逆に
せさるを得す。
政府党は権力を失はんことを恐れて『国家』を自衛の道具と為し、民間
党は権力を得んことを欲し、亦た其の自衛の道具として『国家』を担き
出す、党派自衛の道具とするは猶ほ可なり、独り個人の幸福を如何にす
へきや。党派の中には『個人主義』てふ主義を旗幟とするものあり、彼
等の個人とは唯た自己の個人を指称するか、何ぞ其の他人に不深切にし
て世態に無感覚なるの甚しきや。今の県治は地方民の個人に適実なるか、
今の司法は詞訟者の個人に適実なるか、今の教育は青年者の個人に適実
なるか、今の農工商政は産業家の個人に適実なるか、個人主義を言ふ者
は先つ此の実迹に目を注き以て其の匡済を講すへきなり。徒らに自由又
は権利を口にして以て個人主義の要を得たりと為す者は、是れ個人の真
正なる利益を謀るものにあらさるなり、学者或は講壇の上に坐して生徒
に教ゆる者、往々空理を説き以て学問の思想を養成するに供するあり、
彼等は其の講義録を読みて之を実地に行はんと欲する何そ其の太た迂な
る一に此に至るや。今の自治制なるものは我か旧来の良習を破毀して生
民を塗炭に陥れたり、此点に於ては政府固より自ら破壊党たるにあらす
や、之れを傍観して救済の道を講せさる府県知事も亦た破壊党の悪称を
自ら甘んするものにあらすや、個人主義者は何故に之れを黙々に附する
か、彼等は自治制の名の『個人主義』に近きに惑はされて、自治制の実
の全く個人の利益を破壊したるを知らさるなり。
夫の諸法典は個人の権利を確然に保護することを名として起れり、然れ
とも、其の実は反りて個人の利益を破壊するの恐れなきか、隣保の厚誼
は之れか為に破れ親族の好情は之か為に壊る、而して個人の利益は何処
にか之を完ふすへき。僻陬の地に於ける区裁判所は劣等の官吏を以て之
を組織し、劣等の代言人は識者絶無の郷に在て社会制裁の弱きを利し、
樸直の民を誘ひて相ひ鬩争せしめ、其の間に不正の利を占めて以て己れ
の口腹を肥やすもの此々皆な然り、斯る制度は夫の飜訳的自治制の如く
実は破壊主義の顕表に外ならす、『個人主義』を言ふものは権利保護の
名に眩して民俗破壊の実を見す、今に至る迄黙々之を愁訴する者なきは
何ぞや。夫の登記法の如き執達吏の如き、凡そ個人の権利を保護するの
名あるものは、大抵皆な個人の権利を破壊するの実を有せるものに非る
は莫し。其の立法者(寧ろ訳法者)の説を聞くに、今日の世は法治国の
制にあらされは不可なり『国家』の進歩を謀らんには『個人』の苦情を
問ふに暇あらさるのみと、個人少数の苦情は問はすして可なり、其多数
の苦情を問はさるときは是れ個人を無視するものなり、天下何れの処に
か『個人』なきの『国家』を実存せしむへき。
民法の如き商法の如き、立法者は能く日本人の『個人』を熟知して之を
議定したるか、西洋人の個人に適実なるものと雖とも、日本人の個人に
は反て不利益なるものあり、何となれは『個人』の境遇自ら大異同あれ
はなり、而して曰く、個人の利益を謀りて之れを編成すと、吾輩は大に
疑を抱けり、世の『個人主義』を執ると自称するものは如何に之を視る
か、法典は明年より実施の途に上らんとせり、人事篇相続篇の如きは果
して日本人の家制に適合すへきか、商業社会は能く此の商法に因りて其
の個人的利益を保全し得へきか。彼等の中にも梢々之に感覚を起すもの
あり、時には政府に向つて実施の延期を請ひ箇條の修正を請ふに至る、
然れども、彼等は『偽国家主義』の為に眩惑せられ、『空進歩』の名に
驚きて逡巡するもの多し。世人は『国家』を楯にして似て個人的苦情に
当るを慣手段と為すも、其の所謂る『国家』なるものは吾輩の解する
『国家』と異なれり、世人の所謂る国家は個人を除きたる抽象的のみ、
吾輩は個人をもせて以て国家を解得す、法典元と個人の権利を保護す
るに在りとすれは、之を議する亦た専ら多数個人の利益を標準とするも
のなり、外国に対して虚飾を張り以て『空進歩』を装ふか如き『偽国家
主義』は吾輩の断して反対を表する所のものなり、而して夫の世態人情
に冷淡なる『偽個人主義』も亦た吾輩の固より与せさる所に在り。
国家は固より大の教育又は産業の事に付きて個人を擁護するの職務ある
なり、然れとも之を擁護する所以の方法其の当を得すんは、擁護反りて
個人の利益を破壊するに至らんとす、『国家主義』を執ると自称する者
は事物の性種を問はすに皆な之を国家の専断に帰して毫も個人の意想を
顧みさるの弊あり。吾輩は教育又は産業の事に係る『国家』をは彼の外
交兵備に係る『国家』と区別するものなり、吾輩は外交兵備を論するに
国家の利益を基礎とし而して教育産業を論するには個人の利益を基礎と
するの通常を認む、国家主義者は教育にも産業にも皆『国家』を主にせ
んと欲するか如し。教育制度は二三の俗吏がテーブルの上に於て描きた
る想像図のみ、故に当局者代れは制度法律亦た忽ち変はる、怪む勿れ地
万人民が其の子弟の為に無益の負担を嘆することを。産業保護法は(例
は蚕種検査法の如き)当局者が一二の紳商に聴きて起草せしものなり、
地方の産業家は初より其の必要を感したるにはあらす、而して立案者は
曰く国家の財富を進めんか為めなりと、是れ一種の『偽国家主義』にあ
らさるか、何となれは個人多数の利益を次にして唯た偏へに抽象的国家
を其の口実とするものなればなり。
教育産業に対する国家的運動は成るへく個人多数の利益を基とせさるへ
からす、此の点に付ての『個人主義』は決して国家主義と相ひ衝突せさ
るのみならす、寧ろ此れありて始めて『国家』の進歩を見る、故に立法
者たるものは勉めて大の教育会又は産業会の如き私立団体を官治の傍に
近つけさるへからす。吾輩は陸海軍の行政を広く天下の軍人に相談せよ
と言ふものに非す、又た外交或は内治の機務を広く世の外交論者政治論
者に諮問せよと云ふものにあらす、何となれは是れ国家本然の専権に属
するものなれはなり。然るに世の政事を言ふ者は此の点に於て吾輩の説
に反し、而して却て大の教育産業の事に付ては毫も民論参取の要を言は
ざるは甚た奇怪と云ふへし。世の政事を言ふ者既に斯の如く誤れり、夫
の『国家主義』を取ると自称する者は直ちに此の誤解を利用して、国家
本然の領分をも故なく衆論に聴き依りて以て僥倖を期するに至る、而し
て個人多数の事情に諮ふへき教育産業の事をば、世人の無頓着なるに乗
して恣まに処理することは往々にして然り、彼れ其の謂ゆる『国家主
義』とは全くの『偽国家主義』にして、初より一定の道理を有するもの
にあらさることは、彼れ其の挙動に於て自証せり。
之を要するに今日の世は百事皆な自家撞着を意とせさるの世の中なり、
個人主義者は何事をも個人の利益を本として説を立て、遂には『民力休
養』と云へる口実を以て国家の事業を無視するに至る、此の『偽個人主
義』は今日に至りて既に識者の其の非を認むる所なりと雖とも、猶ほ識
者論難の外に置かるゝものは吾輩の所謂る『偽国家主義』是れなり。国
家主義固より真理を含有すと雖とも、之を濫用するに至りては反りて国
家其物の存立を害することあり、今の国家主義を言ふ者は何事にも『国
家』と云ふ大道具を担き出し、以て個人の苦情を抑制せんと試みるの傾
きなきにあらす、若し『国家』を道具にして足らされは即ち『大権』と
云へるものを以て其の最後の防禦器と為す、是れ実に大弊にあらすや、
国家は個人と離れて実存すへきにあらす、今多数個人の利益に反する法
律を攻撃すれは、則ち『国家』と云ふものを口実として以て之を防く、
而して個人の理福、即ち其の財産其の権利其の親族に係る真正の安康を
は、殆ど眼中に置かさるに似たり、鳴呼是れ『偽国家』なり、然りと雖
とも、『偽国家』をして政論の資料と為らしめたるは、夫の『偽個人主
義』を唱へしもの亦た多く罪ありと云ふへし。
(明治二十五年四月十二−十三日「日本」)