人権問題
     和歌山県民に県庁なし



仁は天の道なり、仁を行ふは人の道なり、之を天良に問ふて而して動か
す、之を社会に質して而して易らす、之を古今に鑑みて而して違はす、
之れを東西に視て而して錯らす、故に法は公法たると私法たるとを問は
す人権を保護するの点に於て其の帰を一にせさるは無し、今ま其れ極西
方の人と極東方の人と其利害毫も相関せさるなり、其の痛痒些も相及は
さるなり、而して二者各々船を洋上に泛へ、極西方の船会々極東方の舩
の覆没に際するを視て之を救はさらん歟、公法は之を免さゝるなり、人
類一般相互の間に於けるも尚ほ斯くの如し而るを況や一国の政府に於て
をや、政府なるものは実に人権保護の必須に由りて之を設く、其政府に
して人権保護の実なくんは政府ありと雖も将た何にかせんや否な政府な
るものは国資なくして存立するを得す今国資を公献して設置する所の政
府にして而して人権保護の責に任せさらん歟、是れ始めより政府なきの
勝れるには如かさるなり、今や我 天皇陛下の知ろし召す大八洲の中県
庁なきの県民あり、否な県庁あるも人権の保護を被らさるの県民あり、
之を和歌山県とす。
明治廿五年十二月廿八日此県瀕海の漁民無慮五百名は海上颱風の凶変に
会し、一出して皆な還らす、是れ実に悲痛惨怛人心ある者の聴くに堪え
さる所なり、而して其当時帝国軍艦の紀海に赴きて之を捜索するの挙あ
るを見す、今ま衆議院議員の質問に対し、海軍大臣の答弁する所に拠れ
は「去十二月二十八日紀州熊野沖に於て漁舩遭難に際しては軍艦救護を
要するの報告に接せさるを以て即時軍艦を汲遺せさりしなり」と是に拠
りて之を観れは当時和歌山県庁なるものも亦之を知らさりし歟、将た知
るも視て遭難となさゝりし歟、或は之れを遭難と認むるも以て保護する
に足らすとせし歟、三者必らす其の一に居る可きなり、而して伝聞する
所に拠れは、
 当時此変あるや吉田東牟婁郡長は電報を以て捜索の為め軍艦派遣を其
 筋へ稟議ありたき旨県庁に出願し、尚ほ勝浦村長、三輪崎村長も連名
 を以て同様出願したるに、其翌日に至り同県内務部長書記官秋山恕卿
 は軍艦派遣詮議に及ひ難しと指令したりと。
嗟乎之を読みて人々果して如何の感かある、生霊五百海に入りて其存亡
生死を知らす、是れ豈人事の至変に非すや、而るに和歌山県庁は此報告
と請求とに会するも、以て遭難に非らすとする歟、否な之を遭難とする
も、以て保護するに足らすとなす、之をも保護するに足らすとせは其れ
何をか保護せんや、嗟乎紀の国七十余万 陛下の赤子は実に保護の府を
有せさるなり、思はさりき至仁至慈の聖天子御世を知ろし召す大八洲の
一隅に県庁を有せす、保護を被らさる七十余万の生産あらんとは。
抑々秋山恕卿何者そ、是れ一個属吏のみ、一個の属吏を以て安んそ胆大
独断「軍艦派遣詮議に及ひ難し」 の指令を発するを得んや、其の必らす
県知事に受くる所あるや疑ふ可からす、然れは則ち罪の帰する所、責の
由る所、自から其宗あらん、而して今日に至るまて中央政府は茫々乎と
して之を問ふ所あらす、果して何の心そや、伝ふる者は云ふ、中央政府
は或は秋山を問ふ所あらんと、嗟乎此妄断をして秋山一個の所為に止ま
らしめは、秋山一人を問ふも亦可なり、然れ共秋山なる者は元と是れ一
の属吏のみ、属吏安んそ是等重大の事変を独断することを得んや、且つ
其れ是等の大事を挙けて若し属吏の独断に一任するの県知事ならん歟、
是れ初めより県知事の官能あらさる者なり、県知事なる者は人権保護の
上に於て直接の責任を有す、而して自から其責任を抛却す、仮令ひ此指
令に与からすとするも、夫れ能く夫責を免かるゝを得んや。
往年英国の一巡査一少女を辱かしむ、而して内務大臣は則ち交迭す、夫
れ巡査は至卑賎の走吏のみ、而るも之か処分を怠れは尚ほ且つ彼れの如
し、人権は天下之より貴きは莫し、匹夫匹婦の故を以て之を忽如するを
得されはなり、而るを况や五百の生霊を委棄したる者に於てをや。
内務大臣は紀の大小県官を処するに公明正大天下の人心を満たしむるの
措置を以てす可し、万一否らす此跡を糊塗に附するあらは、吾輩は内閣
の前に諌皷を鳴らして内務大臣を弾劾するを憚らさる可し。

                      (明治二十六年二月十日「日本」)