近時政論考     第三期の政論

第七 経済論派及ひ法学論派


泰西学問の漸く盛んならんとするや、東京に二三の強大なる私塾ありき
其の最も著しきものは今ま猶ほ存する所の慶應義塾是れなり、此の塾は
当時国富論派の代表なる福沢諭吉氏の創立にして、之に次き泰西の経済
説を教へたるは古洋学者の巨擘たる尺振八氏の家塾なりと云ふ、此二塾
より出てたる青年者は実に日本に於ける経済学の拡張者たり。第一期に
在りて重に経済財政の学を講したる学者は今の元老院議官神田孝平氏な
りと雖も、其の後政府に事へて実地の政務に当り学説を弘むるの事は全
く福沢尺の両氏に譲りたるものゝ如し、去れは第三期の終りに於いて改
進論派に従て経済論派の出てたるは此の二人の老学に誘起せられ、即ち
遠く国富論派の正系を継きたるものと云ふへし。且つ第一期の国権論派
中に著しき学者の一人、今の司法次官箕作麟祥氏は当時に在りて一の私
塾を開き、夫の慶應義塾などゝ相対立して法学の教授を為したり、既に
して国権論派に傾きたる当時の政府は高等教育の制度を設け、種々の変
革を経て東京大学と名け国権論派の巨擘たる今の加藤博士を其総理と為
せり。此の官立学校より出てたるものは重に法学者にして自然にも第一
期の国権論派の正統を承けたるに似たり、是に於て政論社会は漸く一変
し夫の帝政論派の如きは実に此の学派の力を仮りたるや疑ふへからす、
吾輩は之を称して法学論派と為すぺし。
当時の経済論派及ひ法学論派多くは英国の学風を祖述するものに過きす、
故に経済派の説は主としてマンチェスター派より来りて非干渉及自由貿
易に傾き、唯た法学派は官立学校に於て英革派の教授を受けたるに拘は
らす、幾分か仏国又は独逸の学風を帯ひ且つ其の先輩たる国権論派の主
義に感染する所あるを以て、政論上に於ては濫りに英国の風を学ばざる
の傾あり。二派の新論派は斯の如き差違ありき、去れは経済論派は一方
に於て自由論派の助勢と為り他方に於ては改進論派の有力なる味方と為
り、而して法学論派は別に帝政論を援けて他の自由改進の二論派に反対
したり、然れとも吾輩は此の新論派が著明なる形体を備へたることを見
す、唯た当時の実情を回想して暗々裏に其の跡を認めたるに過きざるな
り。如何なる人々が此の二学派の代表たりし歟、経済論派に付ては吾輩
今の「東京経済雑誌」を以て其の根拠と為し法学論派に付ては夫の帝政
論派と共に唯た「東京日々新聞」を其の目標とするに止る、今ま其の政
事上に係る論旨の大要を吟味して以て聊か之れが存在を明にすぺし。
経済論派は改進論派の如くに非干渉主義を取り又た自由論派の如くに
類顆平等主義
を取るものなるは明白なり。彼れ其の説に以為らく「政府の
民業に干渉し又は之を保護することは自由競争の大則に反して富の発達
を妨くるものなり、人既に各々利己の心あり利己の為には各々其の賦能
を用ひて進行す、優者は勝ちて劣者は敗る貧富転換して公衆の富始めて
進む、政府の干渉は適々以て之を妨くるのみ」。而して此の学派は日本
の実状に於て民業或は干渉を要するものあることを顧みす、今の日本を
直ちに十八世紀末の欧洲と同一視せんと欲したりき、然れども経済論派
は政府の干渉を以て民業に益なしとは為さす、唯た干渉に因りての発達
は自然の発達にあらすして、其の発達は適々他の自由営業に妨害を与ふ
と云ふのみ。要するに経済論派は政府の職掌を単に警保の一部に止め、
自由競争を認めて唯た其の不正の手段を禁止するに在りと為すものなり、
此の点に於ては殆んど夫の改進論派と同じ、貧富の懸隔を自然に任せ政
府即ち国家権力の干渉調停をば社会主義の臭味として痛く之を攻撃せり、
此の点に於ては夫の自由論派と稍々相反すと云ふぺし。
然れども経済論派は人類の平等を認めて深く貴族主義には反対せり、思
ふに人為の階級特権は自由競争の原則に反するを以てなり、此の点に於
ては自由論派と甚た相近くして一種のデモクラシツク派と云ふへき所あ
り。然れとも自然の階級即ち貧富の懸隔をば社会の常勢、寧ろ国富発達
の正当なる順序として之を是認し、反りて資本の分散を国富進歩の妨害
と迄に説きたり、此の点に於ては改進論派と近くして自由論派と遠かり
き自由論派は無上政法を以て国際的紛争を防かんと希望したるが如く、
経済論派自由貿易主義を以て世界の一致和合を謀らんと希望す、此の
理想は自由論派と稍々同しきの婆ありと雖も、経済論派の眼中には国権
の消長を置かすして、単に財富の増減を目的と為す、盖し自由論派は国
権を鞏固にせんか為に無上政法を主張するも、経済論派は寧ろ同様を以
て世界進歩の妨害と為し而して自由貿易を唱ふるものなり、是に至りて
自由論派と相反して改進論派の一種と相合し、且つ改進論派中保護貿易
派は相反するを見る。
法学論派に至りては即ち国権論派の胤流として、重もに国法の改良を目
的とし、且つ泰西に於ける近世法学の歴史的思想に感染する所の改革
論派なり、此の論派に著しき点は即ち此の歴史的思想にして其の結果と
しては他の自由改進の両派に反対し、寧ろ帝政論派と相近くして漸進主
義を取るものに似たり。然れども帝政論派の如くに現実的利害のみには
固着せす、権義に係る理想よりして国家の権力と個人の権利とを両なが
ら之を認め、夫の仏国の革命主義を攻撃しつゝ一方には国家権力の鞏固
を以て個人の権利を保護することを説くものなり。彼れ曾て法理の上よ
り主権在君論を主張し以て帝政論派の主義を賛助したるは当時に在りて
頗る著しきものあり、彼れ曾て法理の上より君主政体の正しきを説き共
和主義の臭味を排斥せんと試みたり、彼れ曾て天賦人権論を説きて世の
純理民権説に反対したり。然れども此の論派は経済論派に比すれば反て
熱心を欠き、未た世人に対して其の主義の全豹を示したることあらす、
思ふに英国風の法学者は全く政界と相隔離し、政論派としては経済学者
に比して大に譲る所あり、当時日本の法学論派は実に此の風に倣らひ、
法学を以て殆んど世外の事物と為し深く顧みざるの傾きあるが故ならん
か。