近時政論考     第三期の政論

第六 帝政論派

自由論派は抽象的自由を信して之を我か国に拡張し遂に東洋の旧習を一
洗せんとするの大望を抱きたり、此の論派こそ実に世人の旧思想を警醒
し人類の平等を喚起したる奇特の論派なれ、吾輩は其の詭激急躁なるに
も拘らす此の点に於ては該論派の功績を認む。此の論派に次きて起りた
るは夫の改進論派なりと雖も、是れ自由論派に反対せしにはあらす寧ろ
政治の現状を攻撃する点に於ては殆んど其の朋友なりき、即ち立憲政体
建設の催促に於て全く同一の方面に立ちたり、之れに反して「立憲政体
建設期の弁護」を勉めたるは即ち第三に現れたる立憲帝政論派是れなり。
第一期の政論時代に於て政法上の急進主義を取りたる国権論派は実に
由論派
帝政論派との祖先なり、然れども第二期に至り自由論派の父と
も称すへき急激民権派に反対し「民選議院尚早論」を唱へたるものは
政論派
の父たる折衷民権派なりき。去れば帝政論派は議院尚早論を紹述
して当時に起り其の父祖の系統に於て親戚たるにも拘らす痛く自由論派
に反対し、並せて此点に付ての附和論派たる改進論派に反対したり、之
を要するに帝政論派なるものは政法の改革及ひ自由制度の設立に付き他
の二論派と相異なることなきも、唯た「改革及設立の期節」に於て全く
反対したるものなり。
帝政論派の代表者たるものは実に今の帝国憲法の起草者及註釈者たる所
伊藤伯を然りと為す、福地丸山の諸氏は当時表面の論者たりしと雖と
も其の本陣は全く当時の内閣に在りと謂ふへし、表面より虚心に之れを
評すれは当時の内閣は自由制度の反対者にあらす寧ろ其の味方として自
由制度の設立に進行する者なりき、去れば帝政論派を以て専制論派又は
守旧論派と為すことは猶ほ自由論派破壊論派又は共和論派と為せしか
如きのみ。然りと雖も大圜線の一断片を取り之を枉けて別に一小圜を作
るは論派の弊なり、自由論派か「主権在民」の理を唱道せしかば帝政論
も亦た自ら進んて空理の競争場に入り敢て「主権在君」の説を唱へ之
に反対したり、是に於て改進論派は其の中を執りて「主権在君民」の論
を立て一方に自由論派の急激を排し他の一方には帝政論派の守旧を撃ち
たり、而して帝政論派は此より民間風潮の逆流に置かれて一の守旧論派
と見做さるゝに至れり、盖し其の自ら取る所の過ちなりと謂はさるへか
らす。
帝政論派は大なる欠点を有せり彼れ其論旨を世人に知しめんとするより
は寧ろ他の論派に反対して之を防禦せんとしたり、言はゞ彼れ帝政論派
の熱心は進撃的に在らすして防守的に在り、而して防守の熱心は彼をし
藩閥政府に対する攻撃をも防禦せしめたり。彼れ既に十五年の聖詔に
従て立憲政体を是認したり、立憲政体の義に於ては取りも直さす責任内
を包含せり、而して藩閥内閣なるものゝ義に於ては如何に弁護の労を
取るも強者の権利又は戦勝者の権利若くは軍人政治の意を存せざるへか
らす、該論決の此れを弁護したるは実に其の賛成する所の立憲政体の義
に撞着せり。帝政論派は夫の改進論派と共に急激の改革を攻撃して秩序
的進歩を主張せり、其の藩閥内閣を弁護せしは盖し秩序的進歩を主張す
るが為めならんか、然れども是れ大なる過失なりき、秩序的進歩とは貧
富智愚の差を是認する自由的競争及ひ貴賤上下の別を保持するの匡済的
改革を云ふのみ、決して強者の権利戦勝者の権利又は軍人政治の類を
許容するものにはあらす。
帝政論派は藩閥内閣を弁護して「政権は口舌を以て争ふへからず実功を
以て争ふへし死力を出して幕府を仆したる者が其の功によりて政権を握
れり之を尊敬するは人民の礼徳なり」と迄に立言せり、是れ政権を一種
の財産
の如く見做したるの説なり、功を質するに官を以てすることを是
認したるなり、帝政論派の欠点実に是より甚しきものあらす。然れども
当時他の二論派が主張する所の議院内閣即ち一名政党内閣と云へるは如
何なる意義を有せし歟、世人一般は如何に之を解せし歟、是れ一の疑問
なり、帝政論派の主義によれば帝室内閣こそ至当の制なるか如し、彼れ
其の説の大要に曰く、政党内閣は党派政治と為り一変して偏頗の政治と
為り遂に言ふへからざるの弊害を生せん、帝室内閣は党派に偏せす所謂
る無偏無党王道蕩々の美政を維持するに足らん云々と。而して彼れ又た
以為らく、世の政党内閣を主張する者は輿論を代表する党派を以て政弊
を済ふの謂にあらす寧ろ党派の勢を仮りて政権を奪はんと欲するのみと、
果して此の言の如くならば政党内閣論は即ち、朋党争権論なり、帝政派
の之を攻撃するは至当なり、而れども之か為に藩閥内閣を弁護して戦功
者握権
を是認するに至りては即ち寸を直くする為に尺を曲くるの愚説と
云ふへし、帝政論派の唯た時の政府に容られて却て世の攻撃する所と為
りしは全く此の点に在りき。
然りと雖も帝政論派も亦た政界に功なしと謂ふへからざるなり、当時世
の風潮は民権自由の説に傾き所謂る末流の徒は公然言論を以て王室の尊
厳を犯すあるに至る、其の未た斯る粗暴に至らざる者と雖も世の風潮を
憚りて明に日本帝国の國體を言ふことを敢てせす、当時民間の政論家を
以て自任する者は日本の旧慣を弁護することを憚かり僅に英国の例を藉
りて以て西洋風の勤王論を口にするあるのみ、実に当時の政論家は國體
又は忠君論を禁物と為したる有様なり。此の時に当り断然起ちて万世
不易の國體
を説き王権論を説き欽定憲法論を説きたるものは独り帝政論
なり、吾輩は其の説の往々偏癖に流るゝものなるを知るも、世の潮流
に逆らひて民権熱に清涼剤を投したるの功を没すへからすと信するなり。
帝政論派は固より一の論派たる価値なきにあらす、然れども其の藩閥内
を弁護するに因りて勢力は他の二論派に及はさりき、遂に二派に先ち
て政論界より退きたり之を第三期の末に於ける政論の状態と為す。第三
期より第四期に移るの際に当り、二三の新論派は漸く萌芽を吐きたり、
経済論派法学論派の如きもの是れなり請ふ次回に於て其の大要を吟味
せん。