第三 自由改進帝政の三派
既にして快活民権派の泰斗今の板垣伯は自由党なるものを組織し、次ぎ
に反訳民権派は今の大隈伯を戴きて改進党を組織せり、而して二派共に
時の政府に向ひて其の論鋒を揃へたり。是に於て夫の折衷民権派たりし
福地氏は明に政府の弁護者と為り他の守旧論派と連合して以て帝政党を
作り、自由改進二派と正反対の位地に立ちて論戦を開くに至れり、此の
三派は実に我国政党の嚆矢なりと雖も、吾輩は矢張り論派として之を吟
味せん。第三期の政論派は当時政界の現状に対し明に保守と進歩との二
極を代表したり、其の進歩派と称すへきは即ち自由論派にして保守派と
見做すへきは夫の帝政論派なり、而して此の両極の間に立ちたるものは
改進論派と名くへき温和的進歩党なりき、吾輩は此の三派各個の論旨を
吟味するの前に、先つ此の諸論派が如何なる関係を以て立ちしやを一言
すへし。立憲政体設立の期を定めたる大詔の下りし年即ち明治十四年よ
り、条約改正論の騒しかりし明治廿年に至るまで、此の六年間は実に政
論史上の第三期に属す、此の期の政論が前期に此して大に進歩せしこと
は言を俟たすと雖も、若し其の裏面より之を考察せば亦た頗る厭ふへき
ものあらん、吾輩且つ専ら表面より之を見ん。
自由、改進、帝政、此の三論派は互に如何なる点を以て相分るゝや、吾
輩は亦た前期の沿革に連繋して之を論定せんのみ、何となれば何事も断
然滅するものなく又た突然生するものなけれはなり。自由論派と帝政論
派とは其の淵源を第一期の国権論派に有し、而して独り改進論は夫の国
富論派より来るや疑なし、若し第二期に向つて其の系統を求むれば、自
由論派は急激民権派より生じ、帝政論派は折衷民権派より来り、而して
改進論派は飜訳民権派の形たるに過きす。是の故に既往の沿革に対して
は自由帝政の二派は兄弟にして改進の一派とは路人の関係なり、現時の
政事に対しては改進自由の二派殆んど朋友にして帝政の一派とは仇敵の
関係を有す、然りと雖も沿革の関係は争ふへからざるものあり、自由派
と帝政派とは国権論に於て甚た相近かりき。自由派の代表者たる板垣氏
の著「無上政法論」に曰ふ、
民権は国権と関係を相為すものにして民権は国権ありて然後安く国権
鞏固ならざれば則ち民権も亦安きこと能はざるなり云々と
而して帝政派の宣言に曰く内は万世不易の國體を保守し公衆の康福権利
を鞏固ならしめ外は国権を拡張し各国に対して光栄を保たんことを冀ひ
云々と。去れば其二派は国権と民権とを併せ重んじ、二者を別にして其
の先後を立てざること殆んと同一なるを見るへし、然るに改進派之に反
し其の宣言に於ては一語の国権に及ふなく、其の綱領に於ては
内治の改良を主とし国権の拡張に及ぼすこと外国に対しては勉めて政
略上の交渉を薄くし通商の関係を厚くすること
と明言せり、自由帝政の二派は国権民権を併せ重んじ、特に自由派は寧
ろ国権を先にし無上政法を立つる為には政略上の交渉を深くするの傾き
あり、而して改進派は全く之に反対の意見を有せり。三派の大主義に於
ける異同は実に斯の如し、唯た帝政派は当時政府の弁護者と為り且つ旧
勤王論者と相合したる為め、主義上と云ふよりは寧ろ情実上に於て他の
二派に敵視せられたるが如し、而して現政府の反対たる自由改進の二派
が時としては互に反目激争の事ありしは思ふに他に理由あるへしと雖も、
一は国権論の上に甚しき異同を有するが為めにあらざる歟。